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今日はこちらの記事を書きました。天誅組の生き残りの末裔の方が健在で、空き家になっている古民家を使ってセミナーを行おうという内容です。【富田林市】天誅組の生き残りの末裔が現在も富田林に在住!初めてセミナーが行われる旧鳴川邸をご紹介(奥河内から情報発信)-エキスパート-Yahoo!ニュース幕末の南河内が一時的にクローズアップされたのが、天誅(忠)組の変と呼ばれるものです。甲田の水郡善之祐(にごりぜんのすけ)を中心とした河内勢と呼ばれる人たちが京都からきた天誅(忠)組の本隊と合流し、大和ne
令和6年4月13日友人と来ました。10年ぶりくらいに行きました。以前行けていなかった所をゆっくり見てまわりました。城下町も見ることができました。桜は先週が満開だったので今日は葉桜でした。写真もたくさん撮ったのでリニューアルアップします。平成25年11月3日いつもの相棒とぷらっと奈良までドライブに行ってきました。高市郡高取町といって、奈良市をずっと南下したところにあり、京奈和自動車道を通って2時間半くらいかかりました。麓のたかとり観光案内所「夢創館」で100名城スタンプをゲットして、城に関する資
天誅組とは?幕末の動乱期に幕府を倒し天皇中心の国家にしようと志した尊王攘夷派の集団です文久3年(1863)に天誅組は大和国(現在の奈良県)の五條代官所を襲撃しましたそして五條御政府という政治機関を設置し討幕の狼煙を上げましたしかし天誅組は逆賊として討伐されてしまい現在の奈良県東吉野村で天誅組は壊滅しましたこのあと起こる明治維新は1868年です天誅組の決起は明治維新の5年前になりますそれゆえに天誅組は明治維新の魁といわれておりますまた天誅組が襲
こんばんは‥(^_-)-☆今日の奈良は13℃と春らしい暖かさに。今日は20℃近くで昼は暖かうなりましたね。マリア猫は呼ぶと今朝も枕元に来ず隣りの部屋からでて来て?・・呼ぶと寄ってきて枕元に来て擦ると手を引っ掻かれ痛くて手を離すと2mほど離れて櫓こたつの上に・私が一階に降りると一緒に降りてきて、餌だけ食べてすぐに二階に上がりましたね。?・・今日は腰が痛くなり散歩が難しいです?・・奈良まほろばソムリエ奈良通2級の12回目の問題です。1奈良県の歴史
昨日の職場での会話(AM1時頃)明日の天気を調べていたら{明日は何時起きなんって聞かれたのでバスの本数が少ない場所に行く予定だから6時起きかなって答えたら{その原動力は一体どこから湧いてくるんや。って少しため息交じりに言われましたはいっ2時間程寝て、只今電車の中でブログを書いているおはようございます味醂です{原動力とか多分、ない(笑)さて、記事が更新されるのは今日か明日か〜おはようかこんばんわかも分かりませんがのんびりカキカキ今回は充電器忘れずに持ってきたから安心
2日めは午前中をならまちあたりで過ごしてから五條市へ行きました奈良の南の果て、少し足を延ばせば和歌山、と言う場所なので流石に今まで2回しか行ったことがありませんなぜ今回ここに行こうという思ったかと言えば、この記事が目に留まったのですあ、この店、行ったことある!!!学生のとき、奈良の主だったところは行き尽くしたさきに、奈良オタク友と行った五條市。そのときこの老舗の和菓子屋でおまんじゅうを買った記憶が蘇りました市内から1時間半くらいで五條市へそして(*゚▽゚*)可愛い店内はこれ
17:00紫翠にて。シャンパン呑んでます。呑みながらブログなうです。昨晩は0:30に寝て5:30起き。朝食は昨日、セブンイレブンで買っていたパン。あと岡山から持ってきたお菓子を食べた。今日のスケジュールを決断する。9:50チェックアウト。少し歩いてバスに乗り近鉄桜井駅に向かう。フェアフィールド近くのバス停から桜井駅まで約10kmですが、ぼんぼん古墳らしきものがある。あれ誰の古墳だろう、と思ってグーグルマップで調べたら卑弥呼の古墳(箸墓古墳)だった。マジか。日本
こんばんは風のマーサです😊シリーズ第1回目、2回目では西吉野町大日川〜(長坂)〜(鳩の首峠)〜西吉野町永谷〜(天辻峠)〜大塔町天辻までを紹介しました。一旦、星のくにバス停から五條市街地に戻りました。五條には伊勢南街道(紀州街道)が通っていて、また南には西熊野街道が分岐していました。つまり五條は西熊野街道の北側の起点になります。五條駅から歩き始めました。国道24号線、国道168号線、国道310号線が集まる交差点の南側には道標が立っていました(下写真)伊勢南街道(紀州
一昨日は「新選組史再考」の対面講座でした。ご参加の皆さま、ありがとうございました元治元年2月中旬頃の京都の情勢や新選組関連のことなど。オンラインは17日(土)と25日(日)です。ご興味ございます方は、末尾ご参照のうえ、ご連絡下さいませ。さて本題は、昨年11月の「関西旅」レポの続き初回はこちら『23年晩秋関西旅11日目のグルメ』如月ですね。今月の「新選組史再考」講座、対面は11日(日)オンラインは17日(土)と25日(日)です実は本日からのんびりレポをスタートする
アポロン主催のレースをクリアし、第7世界の大江戸へ。瓦屋根や石垣が時代劇を連想させます。お年寄りが見る勧善懲悪の時代劇に興味はなくとも、歴史的な建物が出てくるRPGは食いついてくるのが日本のゲーマーの不思議なところです。お侍の真似事をしたがるのは、日本男児だからですかね。大江戸に入り、江戸城🏯近くの街に入ると、橋の真ん中に天誅組が控えております。ここで言う江戸城は、現実にある皇居の旧名でなく、時代劇の世界の中心地です。こんな奴らに因縁をふっかけられたら、叩っ斬らなければ仕方ないです。
堺市役所展望ロビーの夕景に始まり、奈良県庁展望フロアに至る旅でした。道中の斑鳩の長閑で悠久の時を流れた景色、天誅組奮戦に尽力した北畠男爵の居館布穀薗、新大宮の穴子料理専門店【ならじろう】さん、素晴らしい出会いの連続でした。。。
倉敷に行って俄かに興味を持った訳ではなく、前々から行きたかった五條市へ。鶴橋駅から近鉄特急に乗る予定が、乗り継ぎがギリギリ過ぎて、券売機にお金投入した瞬間に「販売終了」に切り替わってもた。。スマホの乗換案内通りにいかない事も、時にはある。次の急行に乗るも、乗り換えも入りでチンタラチンタラ。結局五條駅に着いたのは12時近くになってしまったが、めげずにSTART↓芝桜まずは南へ歩き、国道24号線を西へ。京都と奈良を結ぶのが24号線と思い込んでたが、和歌山市まで続いてたとは。↓桜井戸
幕末に土佐脱藩浪士が中心となって天誅組を組織し、尊王攘夷を掲げて武装蜂起したが、直後に起きた京都の政変で逆賊となり、幕府軍の追討を受けて本隊は東吉野で玉砕した。一方で、河内勢を率いた水郡善之祐の隊は、本隊とは逆の紀州へ退却したが、小又川で投降しこの倉に幽閉された後、京都で斬首となった。和歌山県田辺市龍神村小又川にその倉が復元されている。
よく見ているというかこの前見つけたYoutubeの動画があります。それは河内長野の隣にある奈良県五條市のYoutubeチャンネルで、見ると天誅組の歌を歌っていたのです。五條Jr.バンド~奏~というグループのチャンネルで、天誅組決起160周年を記念したイベントが五條市内でも頻繁に行われていてそこで「維新の魁天誅組」という歌の演奏も行われたのです。その様子を動画に撮影したものがYoutubeに登場します。【ふるさと納税】堀うち農園美味しいあんぽ柿ギフトセット贈答品10パックセ
工藤剛太郎は四国徳島藩蜂須賀家の家老であった稲田家の家臣として、天保四年(1833)に生まれました。誕生日については三月二十四日、五月二十四日、あるいは八月生まれと諸説あります。父の名は武市、祖父の名は平左衛門とされ(『勤王殉国事蹟』)、代々稲田家に仕える家柄でしたが、禄高は三石八斗と微禄であり、武士の家柄といっても普段は農業で生計を立てていたようです。そんな中でも工藤剛太郎は少年時代から武芸、特に剣術に長じ、貫心流の達人であったと伝わります(『阿波名家墓所記』ほか)。稲田家の領地は主
2023年9月20日東吉野村萩原林道終点から尾根に続く「さきがけの道」を行きましたが、この看板の所で途中で戻りました。子安地蔵子安地蔵の近くに山の神横の道を下ります。
「天誅組」ありがとう浜村淳さんみなさん、おはようございます彼岸明けです季節の変化を感じてください新しい一日の始まりですさあ、今日「9月26日」の國史を学びましょう「天誅組、大和挙兵」文久3年(1863年)8月13日(新暦9月26日)孝明天皇は攘夷祈願のため大和行幸の詔を出します皇軍の御先鋒として中山忠光公卿吉本寅太郎たちの尊攘派志士は五条代官所を襲撃幕府による統治排除を宣言します明治維新の5年前であり五条市が明治維新発祥の地と言われる所
三重県熊野市紀和町丸山地区の斜面の棚田、日本の棚田百選にも選ばれている「丸山千枚田」で、昨日6月10日(日曜)、「虫送りの行事」が行われた。(新型コロナウイルスの影響で中止が続き、今回は4年ぶりの開催)「虫送り」とは、「田畑の害虫を駆除し、豊作を祈願する伝統行事」のことで、虫おくりの日は、夕方になると棚田ごとにキャンドルが灯され、人々が太鼓や松明(たいまつ)を持ち千枚田の畔(あぜ)を練り歩き、最後は北山砲が鳴り響く。「北山砲」って聞いたことないよね?戊辰戦争最初の内乱「鳥
雨だと思っていたのにいい天気お墓の掃除にでも行くか京奈和道を御所南ICで下り吉野口から車坂峠を越え下市町へ草を引いて墓石を水洗い小1時間の作業お腹がすいたのだライダーズカフェヴィンテージで一口食べてから写真に気づくアルアルですさぁてお腹もいっぱいになったところでちょっと気になっていた東吉野のヒーリングスポットへR169の中山トンネルを抜けると左斜め方向に坂を下ります吉野川を渡り国栖方面へ東吉野村は歴史と関わりが深いところ
本日発売の週刊大衆。日本史ミステリー捜査隊は、幕末の尊王攘夷派の志士天誅組の特集です。原作/跡部蛮挿絵/萩山明日香次回掲載は2月27日(月)です。日本史ミステリー捜査隊をよろしくお願いします。
続きです新町通りを散策です👣五新鉄道跡五條市と新宮市を結ぶ五新鉄道の計画があったのですが、太平洋戦争での資材不足により、幻の鉄道となったようです💦車に戻り国道24号線沿いへ五條市民俗資料館(旧五條代官所長屋門)天誅組など歴史の勉強をしましたではこれでバイチャ(^.^)/~~~
雪降る吉野の私設図書館。僕の夢を天誅組の最後の麓で活動している方がいらっしゃる。大好きな本に抱かれた人里離れた場所でひっそと。必要とされる人のために静かにただ住む場所を僕もいつか作りたいな。
2017年8月14日、奈良県北東部遊撃。この日のネタで記事にしているのは、魅惑のプライベート橋、戌亥橋、永代橋、作業道不動谷線の冠水橋。今宵ご紹介するのはこれらよりも前、朝イチに出会った物件。奈良県道16号吉野東吉野線を南下していて目に留まり、緊急停止。そこには、いかにも古色蒼然とした橋があった。場所はこちら。写真右側の見切れているところには、「天誅組終焉の地」の大きな石碑が立っている。幟もそうだし、手前のサビサビ看板もそうだが、この橋で渡った対岸に天誅組ゆかりの地があると
幕末に土佐の英雄は四人いた、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、そして吉村虎太郎だ。私は吉村虎太郎と「天誅組」のことをよく知らなかったのでこの本を探したが手に入れることが出来ず、図書館に依頼したら、「お願い。この本は大変貴重な資料です。破損しないよう十分気をつけて取り扱ってください。お返しの際は、この袋に入れてください。」とシールが貼ってあるビニール袋に入れて本を渡された。日焼けして少し汚れていたが、丁寧に、丁寧に1ページずつ読み進んだ。敗軍の
おはようございます、たけちです。令和4年11月26日土曜日、みなさん、いかがお過ごしになりますか?たけちは今日は丹波篠山へデイキャンプに行ってきます。今日のデイキャンプは、手ぶら、お金の力で解決するキャンプと言っても、ただ出された食材をBBQするだけでは能がないので、新兵器を試してみます。この報告は後ほどさて、今日は、100名城の一つ、高取城を紹介します。『西宮近郊発ご近所城址半日旅(高取城編)』おはようございます、たけちです。令和4年11月19日の土曜日、みなさん、
10年に亘って活動してきた幕末歴史同好会YSB(大和・桜井幕末維新を学ぶ会)も最後の企画「天誅組の足跡を辿るバスツア-」十津川編、西吉野・下市編、東吉野・桜井編と巡り、最終の4回目、五條編を以て去る10月29日(土)、無事終了することが出来ました。参加下さった皆様本当にお疲れさまでした。2012年6月の第一回YSB歴史講座からスタ-トし、年4回の歴史講座や史跡巡りなど総数100名を超える方の参加をいただきました事、厚く御礼申し上げます。YSBについてはまた日を改めて投稿させていただくつもり
越後寺泊出身の浪士本間精一郎は、文久二年(1862)閏八月二十日、木屋町通四条上がるの三十九番路地(別名瓢箪路地)において、土佐勤王党の武市半平太・岡田以蔵らに薩摩の田中新兵衛を加えた刺客団の襲撃を受け、暗殺されてしまいました。その本間精一郎の首は斬奸状と共に四条河原に晒され、市中は大騒ぎになりました。また、胴体は高瀬川に投げ捨てられていました。遺体はその後、法皇寺門前町の近江屋次郎兵衛なる人物が引き取り(『幕末雑抄』)、翌年天誅組総裁の一人となる松本奎堂によって神式で葬られました(『
写真の整理と見直しをしていたら、うっかり徹夜で、爆睡。存在とはひさびさに奥園流チャーハン。ごま油が特売だけど、一家に一本ということで、仕方ない。チャーハンやってると、ごま油ヘビーユーザーになってしまう。特売で増量の普段のお茶をきょうも買い増し。これで二ヶ月半くらいは、お茶は保つかなー、と。賞味期限のお漬物、半値以下だったので、ひさびさにお漬物を食う。お酒があればもっといいのだが、存在は、あした呑もうと言う。やっぱり奥園流チャーハンはよく出来ている。苦手なみじん切りの献立ではあるが。あすも多分
前回からの続き(10月9日のこと)です木屋町通りは以前は記事にもしてますが、見落としていたとこもあったので、そこにも訪れました七之舟入を後にして、木屋町通りを上がって行き、三条通りも越えて行きますすると右手に石碑が何本が見えるとこがあるのですが、その影に隠れるかのように石碑があり、前回は見逃していました😣こんな感じで店先?にあったので今回は早く行ったので見やすかったです吉村寅太郎寓居之跡住所・京都市中京区上大阪町530駒札天誅組「吉村寅太郎」寓居跡木屋町三条上ルは、幕末の勤