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明治維新時に東北諸藩が結成した「奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟」藩のお城紹介をするシリーズです。当同盟は、「薩摩藩」「長州藩」を中心とした明治新政府が、幕末に「京」や「江戸」で受けた取締りの報復もあって、「会津藩」と「庄内藩」を“朝敵”にしました。新政府に“朝敵”の赦免嘆願するべく東北諸藩が一丸となって結成されたのがこの「同盟」でしたが、それを拒否されたことから「同盟」が軍事化していきました。本日は、「天童陣屋」(山形県天童市)をお届けします。天童陣屋絵図この陣屋は
「織田信長」の息子である「信雄(のぶかつ)」系統の中には、「信良(のぶよし)」系統と「高長(たかなが)」系統があることは、前回のブログで記載しました。本日は、この両系統の家が幕末まで継承されて統治した領地の中心居城について、見ていきたいと思います。「高長」は、大和宇陀松山藩主でありましたが、その系統の「信休(のぶやす)」が丹波柏原に移封となり「柏原(かいばら)陣屋」(兵庫県丹波市柏原町)の御殿を築きます。現在の御殿は、1818年に焼失した後に再築されて幕末を迎えましたが、その後破却さ
昨日は、「織田長益(有楽斎)」の息子達の家が、幕末まで続いた居城(陣屋ですが)をお話しました。ここで、「織田信長」周辺の織田家の人達と、その統治の中心の居城について纏めてみました。(「江戸日本を創った藩祖総覧」(武光誠著)を参照系図して下記系図を作成)「信長」の兄弟は主に5人いましたが、弟の「信包(のぶかね)」と「長益(ながます)=有楽斎」は、江戸時代になっても大名として領地が与えられました。しかし、「信包」の系統は、「信重」と「信則」で絶えています。一方の「長益」の系統は、昨日記
どーも※2017/1/3のお話です。新庄から南下してやってきたのは天童。温泉と将棋の町として有名ですね。そんな天童、実は超有名人の子孫が藩主を務める藩もあったりしました。その超有名人とは…織田信長天童藩は織田氏が藩主を務めた藩なのです。てなわけで天童陣屋があった場所に行ってみましょう。天童陣屋は喜太郎稲荷神社辺りにあったんだとか。ほうほう…これか。(`・ω・´)(なるほど。眺めも申し分ないな…