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前回はこちら城山展望台の後、城山バス停からカゴシマシティビューで薩摩義士碑前バス停まで乗り、歩いて鶴丸城跡・鹿児島県歴史資料センター黎明館に行きました。御楼門です。「薩摩は人をもって城となす」の説明板です。西南戦争の痕跡です。西南戦争の痕跡の説明板です。黎明館の入口です。黎明館をバックに、自撮りをしました。スマホでも、自撮りをしました。天璋院像です。鹿児島県歴史資料センター黎明館です。御楼門と排水溝の整備の説明板です。楷の木です。楷の木の由来の説明板です。七高
原作宮尾登美子『天璋院篤姫』脚本田渕久美子楽曲吉俣良レビュー一覧1~10回11~20回21~25回26~30回31~35回36~40回41~45回キャスト一覧『大河ドラマ「篤姫」キャスト一覧NHK2008年』大河ドラマ「篤姫」キャスト一覧ドラマ「篤姫」のための参考今和泉島津家於一(おかつ)→篤姫→天璋院宮﨑あおい家定の御台所島津忠剛(しまづただたけ)…ameblo.jp感想この再放送
己自身が進むべき「人生行路」の選択肢が狭まり悩みは減りました。「為さねばならぬ何事も」云々は彼の有名な上杉鷹山公の名言何を「為さねばなら」ないのか、何を「為」すべきなのか分からないまま、20年程、迷い続ける日々を送っていましたが平成20(2008)年に放映された「篤姫」にてお於(かつ)さんのお母様が発した今回記事の件名に記したセリフを聞いたことで「役が<ひと>を育てる」意味を悟りました。人生において<ひと>が置かれる立場
(50)一本の道初回放送2008年12月14日江戸城を出た天璋院(てんしょういん)は、徳川家を継いだ家達(いえさと)を教育しながら平穏な日々を送ります。薩摩から母や兄が訪れ、勝海舟や静寛院とも交流を図ります。明治初年、小松帯刀(たてわき)は大坂で病死します。家達の婚約祝いに大奥の面々が集まりました。大奥を出た後のそれぞれの人生を聞き、天璋院は満足そうにほほえみながら写真に収まります。その後、天璋院は薩摩には帰らず、生涯を東京で暮らしました。語り(語り手)奈良岡
(47)大奥の使者11月11日(月)午後6:00〜午後6:45天璋院(宮﨑あおい)と静寛院(堀北真希)は、将軍・慶喜(平岳大)の助命を朝廷に嘆願する手だてについて話し合う。江戸攻めに反対する帯刀(瑛太)は、西郷(小澤征悦)に会うために薩摩軍本陣へ向かうが、面会を拒絶されてしまう。そして、ついに慶喜討伐の軍が京を出立する。不安を募らせる天璋院であったが、そのとき、江戸城大奥に幾島(松坂慶子)が現れる。
原作宮尾登美子『天璋院篤姫』脚本田渕久美子楽曲吉俣良レビュー一覧1~10回11~20回21~25回26~30回31~35回36~40回46~最終回キャスト一覧『大河ドラマ「篤姫」キャスト一覧NHK2008年』大河ドラマ「篤姫」キャスト一覧ドラマ「篤姫」のための参考今和泉島津家於一(おかつ)→篤姫→天璋院宮﨑あおい家定の御台所島津忠剛(しまづただたけ)…ameblo.jp感想裏で
(44)龍馬死すとも10月21日(月)午後6:00〜午後6:45(45分)帯刀(瑛太)は、龍馬(玉木宏)から大政奉還の策を聞き、その実行を決意。諸侯の集まる会議の席で、政権を幕府から朝廷へと返す意義を熱弁する。慶喜(平岳大)が政権を返上するとの知らせが届いた大奥は動揺。天璋院(宮﨑あおい)すら、どうしたらよいのか分からない。天璋院は勝(北大路欣也)から大政奉還の意味と、それに命をかけた龍馬の存在を知る。そして、ある決意を大奥の皆の前で語り始める。
(42)「息子の死」10月7日(月)午後6:00〜午後6:45天璋院(宮﨑あおい)と和宮(堀北真希)は、大坂に出陣した家茂(松田翔太)の無事を一心に祈っていた。家茂は、江戸から勝(北大路欣也)を呼びよせて事態を打開しようとするが、間もなく病に倒れてしまう。家茂は、若くしてこの世を去る悔しさに身を震わせながら、勝に天璋院と和宮のことを託す。そして、ひっそりと息をひきとるのだった…。
原作宮尾登美子『天璋院篤姫』脚本田渕久美子楽曲吉俣良レビュー一覧1~10回11~20回21~25回26~30回31~35回41~45回キャスト一覧『大河ドラマ「篤姫」キャスト一覧NHK2008年』大河ドラマ「篤姫」キャスト一覧ドラマ「篤姫」のための参考今和泉島津家於一(おかつ)→篤姫→天璋院宮﨑あおい家定の御台所島津忠剛(しまづただたけ)…ameblo.jp感想
(39)薩摩燃ゆ9月16日(月)午後6:00〜午後6:45将軍・家茂(松田翔太)が上洛。だが、京では長州藩を中心とした過激な攘夷(じょうい)派が朝廷を席巻(せっけん)し、家茂は窮地に立たされる。ついに幕府は朝廷に対し、攘夷の決行を約束してしまう。家茂の上洛を後押ししたことを後悔する天璋院(宮﨑あおい)は和宮(堀北真希)に会い、孝明天皇(東儀秀樹)に頼んで家茂を江戸に帰還できるように計らってほしいと願い出る。しかし、和宮は、かたくなにそれを拒否する。
(38)「姑の心嫁の心」9月9日(月)午後6:00〜午後6:45(45分)将軍・家茂(松田翔太)のもとに、上洛と攘夷(じょうい)実行を求めて京から勅使が来る。家茂は天璋院(宮﨑あおい)に相談し、自ら帝(みかど)に攘夷が困難であることを伝える決心をする。和宮(堀北真希)は家茂の身を案じ、上洛に反対する。家茂上洛が迫った江戸城では、陸路を主張する天璋院と海路を主張する勝(北大路欣也)との間で対立が起こる。上洛に反対する和宮は、後押ししたのが天璋院だと知り、強い敵対心を抱く。
こんばんは😊ドタバタしてるHickeyです😊いや〜月はじめの月曜だからもうドタバタ💦昨日までサンサン🌀に振り回されて散々な一週間‼️今日は台風一過で太陽も残暑も一気に復活☀️先週は雨で外に全く出られなかったので皺寄せが😨せっかく広告を刷ったのに…9月5日までに残り6千枚はポスティングしないと広告が全くの無駄になってしまうんだよな💦サンサンの馬鹿😫💢ちなみにパンダみたいな名前の台風だったサンサン…次に発生した台風11号の名前…ヤギだって🐐今年の台風は動物園か🤣ヤギは日本に
(36)「薩摩か徳川か」8月26日(月)午後6:00〜午後6:45(45分)和宮(堀北真希)と家茂(松田翔太)の仲は日増しに深まり、天璋院(宮﨑あおい)は安堵(あんど)する。そんな折、島津久光(山口祐一郎)が数千の兵を率いて京へ上る。困惑する天璋院に対し、大奥では「天璋院が陰で糸を引いているのではないか?」と噂(うわさ)される。薩摩と徳川の間で思い悩むなか、家茂にまで疑いの言葉を投げかけられてしまった天璋院は…。
(35)「疑惑の懐剣」8月19日(月)午後6:00〜午後6:45(45分)家茂(松田翔太)と和宮(堀北真希)の婚儀は無事に執り行われたが、慣習の違いに端を発する江戸方と京方との確執は、いまだ消えぬままだった。天璋院(宮﨑あおい)は、家茂の初のお渡りの様子が気になる。しかし、和宮は家茂を拒み、さらには和宮が懐に刀を忍ばせていたとの疑惑が持ち上がる。無言をつらぬく和宮にしびれを切らした天璋院は、力ずくで疑惑を調べようと和宮につかみかかる。
(34)「公家と武家」7月29日(月)午後6:00〜午後6:45(45分)和宮(堀北真希)は、ついに江戸城に入り、将軍・家茂(松田翔太)と対面する。和宮は、家茂のやさしく凜(りん)とした様子に一目でひかれ始める。一方、天璋院(宮﨑あおい)との初対面において、敷物のない下座へ通された和宮たちは激怒。和宮からも「天璋院へ」と呼び捨てのあて名を添えた土産が届けられ、双方の対立は激化していく。
(33)「皇女和宮」7月22日(月)午後6:00〜午後6:45(45分)井伊の突然の死は、幕府を大きく揺るがしていた。失われた権威を取り戻すため、幕府では、孝明天皇(東儀秀樹)の妹・和宮(堀北真希)と将軍・家茂(松田翔太)との縁組みを進めていた。天璋院(宮﨑あおい)は、和宮に婚約者がいると聞いて強く反対するが、老中らには通じない。時を同じくして薩摩藩から天璋院のもとに「故郷・薩摩へ帰ってはどうか?」との書状が届く。
レビュー一覧1~10回11~20回21~25回31~35回36~40回41~45回原作宮尾登美子『天璋院篤姫』脚本田渕久美子楽曲吉俣良キャスト『大河ドラマ「篤姫」キャスト一覧NHK2008年』大河ドラマ「篤姫」キャスト一覧ドラマ「篤姫」のための参考今和泉島津家於一(おかつ)→篤姫→天璋院宮﨑あおい家定の御台所島津忠剛(しまづただたけ)…ameblo.jp感想斉彬と家定の板挟みで結局、慶喜
数あるブログの中から雲徳春栄のブログにお越しくださりありがとうございます。✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼2024年4月1日:東叡山寛永寺東叡山寛永寺には徳川の将軍が祀られています四代家綱公、五代綱吉公、八代吉宗公、十代家治公、十一代家成公、十三代家定公、そして家定公の横には、将軍と同じ大きさ、形の天璋院(篤姫)のお墓もあります私は以前から天璋院(篤姫)の生き様に感銘し一度は墓前に手を合わせ、天璋院を感じてみたいと思ってました
ほぼオールシーズン咲いてる我が家の10月桜🌸あたたかな陽ざしを浴びて一段と美しさを増してます昨日は上野,寛永寺徳川霊廟に行って参りました最初に徳川慶喜公謹慎の部屋「葵の間」で、ご住職さまよりお話しをいただきました当時の歴史、慶喜公の人物像、現在の上野公園ができるまでのお話しなど、たくさん学ばせていただきました霊廟は撮影禁止なので、皆様にお披露目できませんが、一歩足を踏み込むとそこは別次元のような、凛とした氣が漂ってました寛永寺に祀られている将軍は四代家綱公、五代綱吉公、
雨の水曜日。暖かだった昨日とはうって変わって寒くなりました。それでも暖かに感じるのは家が昨日の暖かさを少し残しているから。気温は昨日の日の入りからずっと下がり続けています。天気予報に由るとこのままずっと明後日の朝まで気温が下がり続けて、明後日には雪が降るとか降らないとか。まるで時計の針が逆回転しているようです。今日が雨で寒くなることが予想されていたので、少しだけZ650で走りました。簡易版冬装備では暑かったけれど、とても気持ちがよかった。さて、そんなわけで水曜日。週の半ばです
ドラマ大奥は、毎回素晴らしい展開でした。そして、最終回も見ごたえ満点で、目が離せませんでした。再放送もさることながら、瀧山と天璋院が、大奥を去った後や、アメリカへ渡航した後の物語も、とても見たいと思っています。ぜひ、オリジナルでドラマを制作して欲しいと思います。https://news.yahoo.co.jp/articles/3212a563434c365332506e1acb45563c1b8b28f1?page=3NHK『大奥』、見る者にもエールを送る物語の裏で、細部にまで美意
こんにちは!ぽんぽんです!今回は、とうとうやってきてしまいました。『NHK大奥シーズン2最終回』です。ネタバレ注意です。ネタバレしたくない人は、見ないでください!(どんなブログだ)というか是非に、最終回を見ていただきたいっもし見逃した方は、とにかく、再放送をみるか、NHKプラスに急いで登録してみるか、等々して、本当に最高のドラマなんで、見ていただきたいっそして感動を分かち合いたいでは、そろそろ、感想書きます☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
こんばんは、フナフです。大奥の最終回、めっちょよかったです✨ほぼ原作どおりの展開で、最後小さな梅ちゃん(のちの津田梅子)につなぐとこも希望に溢れてて最高でした。とってもよいドラマでした。堪能しましたまだまだ調子よくないけど、明日からまたがんばるよ~早くカレーも、もりもり食べれるようになりますように。ちなみに2回目おでんカレー。手洗い、うがい、ヤクルト♪♪♪
幕末、日米修好通商条約の調印をめぐって幕府と朝廷の関係が悪化してしまいました。これを修復しようと試みたのが「公武合体」政策で将軍・徳川家茂に皇妹・和宮親子内親王を降嫁させました。ドラマでは、「男子である和宮」が女子・家茂の嫁として京都から江戸へ降嫁するべきところ、本物の和宮の代わりに女子である「和宮の姉」が正体を隠して降嫁してきました。女子・偽和宮には、実の母と乳母と公家たちが同行。この「和宮一派」たちの、江戸での言動がとんでもない。江戸の徳川幕
よしながふみさんの漫画「大奥」が原作の、NHKドラマ10「大奥Season2」が医療編に続き今月から幕末編が始まりました。僕も毎週、楽しみに観させていただいていますが、幕末と言えば13代将軍・家定の正室である天璋院と14代将軍・家茂に降嫁した孝明天皇の妹・和宮の二人がいかに手を取りあって、江戸城を無血開城に導き、大奥の幕を引いたのか…そこがどう描かれるのかとても楽しみです。和宮で思い出した小説があります。文芸誌『群像』の昭和52年(1977年)1月号か昭和53年(197
名古屋のシンゾウです女房が風邪を引いたようです。健康だけが取り柄の彼女、鬼の霍乱でしょうか。「寝れば治ると」言い張っていますので、ほったらかしています。彼女は、家事の力仕事全般を、私に変わって担ってくれています。女房が寝込むと、それはそれは大変です。ご飯も、風呂も、洗濯も....私に出来ることが全くありません。彼女も鉄人ではなかったのだと、思い知らされました。本日は、お墓参りなのですが、彼女は留守番です。数珠、線香、仏花....準備が大変です。彼女にはゆっくりWBCでも観てもらいます。何も
1792日目苦しいこともあるだろう。言いたいこともあるだろう。不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくのが、男の修行である。(山本五十六)女の道は一本道。引き返すは恥にございます(天璋院老女菊本)人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知ら
おはようございます。今日は七夕ですね。『徳川将軍家十五代のカルテ』という本を買ってみました。徳川将軍家十五代のカルテ(新潮新書)Amazon(アマゾン)1〜4,200円今日の記事は13代目将軍の家定について将軍位牌の高さ149.9cm遺体の身長不明(将軍家は将軍の死後に身長と同じ高さの位牌を作っていました)死因脚気衝心(脳性まひ)(衝心というのは急性の心筋障害)享年35歳家定は12代将軍の家慶の四男兄たちが全員2歳前に早世。薩摩の天璋院篤姫を娶った将軍です
徳川泰子は16歳で、5年ぶりにイギリス留学から帰国した徳川宗家の16代当主・徳川家達に嫁いだ。徳川泰子とその後を詳しく見ていこう。徳川泰子は1867年慶応3年9月、近衛忠房の長女として京都に生まれたが、翌月には徳川慶喜が大政を奉還して徳川の世が終わっている。近衛家は五摂家の筆頭で人臣で最も天皇に近い地位にある家とされるが、泰子は京都で公家風に優雅に育てられる。後に首相となった近衛文麿は泰子の甥にあたる。一方の家達は慶喜が隠居すると4歳で徳川宗家の家督を継ぎ、養母でもある天璋院とともに徳川家
「どうかお返事を頂くまでの間、江戸への進軍をお控えくださいますよう、伏して伏してお願い申し上げます」。これは和宮が東山道先鋒総督の岩倉具視に宛てた手紙の一部である。和宮は江戸城総攻撃をなんとか阻止しようと嘆願書を各所へ送り続けた。和宮とその後を詳しく見ていこう。和宮は1846年、孝明天皇の異母妹として生まれた。長じた和宮には有栖川宮熾仁親王という許嫁がいたため、和宮は難色を示したが、朝廷と幕府の公武合体派は強引に第14代将軍徳川家茂に16歳の和宮を降嫁させた。江戸城の大奥には前の将軍の御台所