ブログ記事15件
石動(いするぎ)駅の南口からメルヘン公共建築めぐりを再開する。まず、駅に近い小矢部市武道館へ。この大きな建屋の中は、大部分が体育館施設の巨大なホールという。小矢部市武道館は石動駅の東にあり、この後ゴシック様式の宮島公民館を見たくて今石動の市街地を抜けて宮島峡方面へ延びる県道74号小矢部津幡線を走って行った。🚗そして山影から突如姿を現した宮島公民館の壮観には驚いた。😲観光案内所でもらったパンフレットには「農林漁業体験実習館」とあるが、公民館機能は停止したのだろうか
前回、天守最上階からの眺望を楽しんだ。天守から降り、豊公園に出て琵琶湖湖畔へと向かう。↓天守跡へ↓豊臣秀吉公像何か、不気味な物体がこちらを見てるな~。豊臣秀吉公像。昭和46年建立。関白時の姿を表現した。長浜時代は関白ちごたんやけどなー。↓豊臣秀吉公像_拡大目ん玉が影になってるから不気味に見えるのだろうか↓長浜城天守跡碑秀吉像のすぐ横にある、長浜城天守跡碑。ここが本来天守の建っていた場所で、現在ある歴史博物館は嘘っぱちという事になる。↑こら!言い方!↓長浜城構造推定復元
ゴンゴーで越前海岸越前スイセンを堪能この高低差の迫力も越前海岸の魅力この国道から外れた山側の道は狭いのでクルマよりバイクの方が楽しめるでしょう国道に降りて越前岬遊歩道を歩いてみるこの辺の地形は堆積岩でも粒の大きい礫岩河川の中流域、扇状地だった場所が波の浸食で削らて越前岬に若狭湾の地形この辺りの日本列島はくびれている地形が特徴歴史的な一例ですが天正地震(てんしょうじしん)は、安土桃山時代の天正13年11月29日(1586年1月18日
1586年(天正十三年)11月29日、日本列島中央部を「天正大地震」が襲った。被害は、甚大であり、中部、東海・北陸の広範囲に及んだ。地震発生の際、豊臣秀吉は、近江国坂の本城にいたが、即座に大坂城に帰還した。天正大地震によって、豊臣秀吉は、徳川家康の武力討伐を諦めざるを得なくなり、徳川家康は、救われたと言える。前述の通り、徳川家康は、小牧・長久手の戦いで、局地戦において、勝利を治めたが、その後、羽柴秀吉は、秀吉包囲網を瓦解させ、家康との軍事力に大きな差がついていた。戦争に突入
漂う死体、忍び寄るサメ、辺り一面は真っ赤な血が…米軍の新型潜水艦に狙われた沖縄の子供たち...文春オンライン対馬丸が学童疎開船として使われていることを知らなかったのはボーフィンの乗組員だけでなく、じつは護衛艦に乗っていた日本軍兵士の大半も同様...「本土に行ったら雪が見られる」はしゃぐ沖縄の子供800人が犠牲…疎開船を襲った“真珠湾の復讐...文春オンライン「対馬丸事件」もその一つだが、この事件が特殊なのは、乗っていた疎開民の大半が子供たちだったことである。昭和19(194
自然を甘く見てはいけない40年超がいくらお宝でも自然は容赦なく襲い掛かる福島で実証済みが全く生かされていない1586年天正大地震M7.8~8.13つのセグメントでほぼ同時にM8クラスの地震が発生若狭湾では・・・・※※※再びつづく
京都画像クイズNo.59は難易度低めということで、解答を寄せられた皆さん正解でした。ちょっと難問だったようですが・・・特に2枚の目の画像は悩ませてしまったようですね。大ヒントと思ったのですが・・・2枚目の画像は、御土居になります。場所は廬山寺に遺る御土居京都改造の一環として、天正十九年(1591)京都の周囲に築かれた土塁になります。個人的には1枚目と3枚目で、秀吉かな~?、あっ!御土居か~!秀吉で間違いないという意味でヒントになると思いました
歴史小説を読んでいると、当時の地震のことが書かれていることがある。つづきの続きのつづき静岡市・駿府城のお堀宏観異常現象を軽んじてはいけない!!敵(地震)を知り、防災を
再びつづく
はい!奈央です。今回はね、世界標準のものさしについてお話します。それは、奇跡の湖水月湖(福井)の年縞(ねんこう)です。水月湖というのは、福井県にある有名な三方五湖の一つです。平成17年11月8日、国際的に重要な湿地として、ラムサール条約に基づく登録湿地になりました。三方五湖の水月湖福井県みどりのデータバンクHPよりお借りしました。1991年、ここで別の目的で湖底のボーリング調査が行われました。その時、取り出された湖底の地層には、過去7万年分の堆積物が縞模様
早朝からの京都散策の続きです。七条通りからこの巨大な石塁が続く大和大路を久々に歩いてみました。これらはかつての方広寺大仏殿の石塁です。京都には大仏殿があったのですよその伽藍は巨大な石塁で囲まれ、伽藍規模は南北に約260m、東西に約210mだったと推定されています。石塁の側には「大仏殿石垣」という石柱が建てられています。京都の大仏は天正14年(1586年)に豊臣秀吉が奈良・東大寺の大仏に代わって新たに大仏を造立することを発願したことが始まりでした。
天正大地震【Ⅱ】之中津波伊勢湾若狭湾富山湾三陸沿…岸噴火地震後1586年の天正大地震後、近い時期に大地震が複数起こっている。1596年9月1日(文禄5年閏7月9日)慶長伊予地震(慶長伊予国地震)-M7.0。1596年9月4日(文禄5年閏7月12日)慶長豊後地震(大分地震)-M7.0〜7.8。1596年9月5日(文禄5年閏7月13日)慶長伏見地震(慶長伏見大地震)-M7.0〜7.1。1605年2月3日(慶長9年12月16日)慶長地震(東海・
さて、前回帰雲山から発生した山津波が麓の帰雲城およびその周辺の町を呑みこんだことを記しました。実はこの帰雲城およびその城主内ヶ嶋(うちがしま)氏にはちょっとややこしいんです。一言でいうと、謎、なんです。まず、帰雲城。実は、現在でも帰雲城はどこにあるのかはっきりしていないんです。「えっ、帰雲山の麓じゃないの?」と思われますが、半分正解で半分ハズレ。天正大地震による山津波は町や城を呑みこんだことで遺構が一切ないんです。ですから現在でも、帰雲城の場所は麓にある庄川の左岸側なのか右岸
さて、以前僕がこの「帰雲城の研究」で最後あたりにこう記しました。その城は、たった一夜で消えてしまった。いったいどういう意味か分かりますか?日本中には多くの城、砦があります。目的はその地の武士がその地を治めるため。防衛施設ですね。室町時代や安土桃山時代では日本全国にありました。しかし、その城や砦のほとんどは跡地になっています。合戦の最中焼失したり、解体されたり、使われなくなって自然消滅したり。僕の近所、目と鼻の先で砦の跡があり、堀や土塁があります。これはまだ運がいいほう。そのすぐ近く
講和のけっか、信雄は伊勢半国と伊賀を失うことに。。秀吉は蒲生氏郷に伊勢半国、脇坂安冶に伊賀を与えた。また、岐阜城には信長四男・羽柴秀勝(秀吉の養子)を入城させた。。*****小牧・長久手の戦いが決着して、困り果てたのは越中の佐々成政だった。。すでに秀吉方の前田利家領に侵攻するという反秀吉活動を起こし(末森城の戦い)敗北。背後にも秀吉方の大名、越後・上杉景勝が控えた中での苦しい陣だった。。それでも事を起こしたのは、昔から秀吉が大っ嫌いだからだったが・・・天正12年12月中旬、厳