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旧武田領を巡って北条氏と徳川氏が争った天正壬午の乱では、北条氏直が若神子城に本陣をおきました。この地は甲信国境として狼煙の中継点も重要な位置づけです。この地からは富士山も見え、見晴らしがよく、狼煙台跡があります。【若神子城】天正壬午の乱における北条氏直の本陣旧武田領を巡って北条氏と徳川氏が争った天正壬午の乱では、北条氏直が若神子城に本陣をおきました。この地は甲信国境として狼煙の中継点も重要な位置づけです。この地からは富士山も見え、見晴らしがよく、狼煙台跡があります。▼アクセス①韮崎駅から
読みは「ししくじょう」。武田氏一門の江草氏の居城として伝わっています。旧武田領を巡って北条氏と徳川氏が争った天正壬午の乱では、北条軍が占拠したが、服部半蔵が率いる伊賀組などの夜襲によって落城しました。岩が多くあり、道も整備され、テープの目印もあり、探索しやすいです。本丸からの見晴らしはよく、若神子城も見えました!【獅子吼城】新ルート発見・甲州戦国時代最後の合戦の地読みは「ししくじょう」。武田氏一門の江草氏の居城として伝わっています。旧武田領を巡って北条氏と徳川氏が争った天正壬午の乱では
・赤坂太輔氏の『フレームの外へ』を買った書店で購入する。・『戦国の忍び』、『図説武田信玄』と続けて平山優氏の著書を読む。・天正壬午の乱は、単なる旧武田領国(最末期の織田領国)をめぐる争乱という以上に、戦国争乱の終焉に向けた地域統合を基盤にした、新たな政治・軍事的潮流を生み出し、それを最後まで規定し続け、豊臣政権の東国進出に政治・軍事的正当性を付与する結果をもたらした画期的事件であったと評価できよう。本書349㌻12~15行を引用平山優著『天正壬午の乱本能寺の変と東国戦国史増補
『大河ドラマ「どうする家康」-NHK』で戦闘あっさりの大坂の陣で、激しく戦い華々しく散る真田信繁(幸村)を味わいたくて読んだ下巻天正壬午の乱で真田はどう生き残るのか?信玄の娘に淡い恋心を抱く幸村の想いは届くのか?真田幸村〈下〉(人物文庫)レビュー下巻は、本能寺の変で織田信長が亡くなり、その混乱から幕を開ける旧武田領の甲斐国・信濃国を巡る争い天正壬午の乱の始まりから終わりまでが描かれています。タイトルが真田幸村なので、大坂の陣で万に一つの確率もないくらいの逆転を掛
※河尻秀隆公の墓「河尻塚」案内板…前は草ぼうぼうで、信玄公火葬墓はきれいに整備されてるのにこの扱いは…ほんとに甲府市指定史跡なんですか?と聞きたくなる有様です河尻秀隆公の墓「河尻塚」戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)
昨日(8月23日)にNHK総合で午後10時から、良く参考にさせて貰っている番組「歴史探偵」と「どうする家康」コラボスペシャル前編が放送されました。前編では、今日書く「上田合戦」と秀吉と家康の「小牧長久手の戦い」そして、その後の、家康と秀吉の幻の武力対決前夜までが放送されています。因みに、後編は、8月30日、午後10時からの放送予定となっています。前半の「小牧長久手の戦い」の部分では、私が前回書いたブログの内容とほぼ一致した見方となっていましたが、後半の「上田合戦」については、この「上田
どうする家康新たなる覇者。本能寺で織田信長が、明智光秀の謀反により横死。風雲児織田信長死す織田信長を討った明智光秀は天下を取るため、四方の大名に味方に付くように書状を送る。羽柴秀吉は中国大返しを敢行、山崎で明智軍と激突し明智光秀を破る。明智光秀は、落ち武者狩りに遭い落命。*明智と婚姻関係にある細川が味方にならなかった明智光秀を討った、羽柴秀吉は織田信長の後継者に名乗りだす。織田信長の勢力は、畿内を中心に絶大な力を保持していた。*濃いオレンジ色が勢力織田信長亡き後、重臣達によ
8月6日の大河ドラマ『どうする家康』ではあっさり終わる家康の甲斐と信濃ゲットの”天正壬午の乱”の北条家との戦いを『家康家臣の戦と日常松平家忠日記をよむ(角川ソフィア文庫)』で見ていきます。新府城で北条の大軍と対峙する徳川家康(NHK大河ドラマ『どうする家康』新府城で北条と対峙(C)NHK)『#332第28回「本能寺の変」感想~大河ドラマ『どうする家康』』唯一の友、家康に討たれたかったかのような信長と討てなかった家康の別れが描かれた2023年7月23日の大河ドラマ『どうする家康』の『本
8月6日の大河ドラマ『どうする家康』ではあっさり終わる家康の甲斐と信濃ゲットの”天正壬午の乱”を『家康家臣の戦と日常松平家忠日記をよむ(角川ソフィア文庫)』で見ていきます。やらかしてしまった酒井忠次(NHK大河ドラマ『どうする家康』の酒井忠次(C)NHK)『#332第28回「本能寺の変」感想~大河ドラマ『どうする家康』』唯一の友、家康に討たれたかったかのような信長と討てなかった家康の別れが描かれた2023年7月23日の大河ドラマ『どうする家康』の『本能寺の変』について唯一の友…ame
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜見るのも感想も1週遅れたなってことで第30話の感想ぉ〜!『本能寺の変』の後、『山崎の戦い』で明智光秀を討った羽柴秀吉。家康は甲斐、信濃、上野を手に入れるべく、北条と合戦。確か『天正壬午の乱』だねここで家康は信濃の真田に恨みを買うことになり、これが後々面倒なことになりますね。一方、秀吉は織田家の跡目を決める『清洲会議』にて、信長の嫡孫、三法師を立て主導権を握りました。三法師くん、何かにつけ利用されまくっているよね秀吉に主導権を握
家康が甲斐と信濃をゲットした”天正壬午の乱”の収束について8月6日の大河ドラマ『どうする家康』ではあっさり終わる家康家臣の奮戦ぶりを大久保彦左衛門忠教(忠世の弟)の『現代語訳三河物語(ちくま学芸文庫)』からみていきます。甲斐・信濃は徳川に、上野は北条に(NHK大河ドラマ『どうする家康』で戦う本多正信の策を用いる徳川家康(C)NHK)大軍の北条をうまく追い払った家康若神子に陣する北条氏直の43,000もの大軍を新府城にて8,000程度で迎え撃つ徳川軍砦を築いて防備を固める間
今回のドラマの中で描かれた清須会議は、亡き信長の家臣のうち、当時、力を持っていた4人が清須城集まり、信長の後継者について、話し合いを行った会議と言われていますそのビッグ4は、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興です秀吉の名字と元となったのは、まさに柴田と丹羽であり、それぞれ、信長の後継者候補として、信長の子の織田信雄、信孝、そして、孫の三法師(信忠の子)を掲げます信雄と信孝は、あまり仲がよくなく、しかも信長や信忠と比較すると、人の上に立つには、器量がいまいちだったようです一方、三法師は
武田遺臣による甲州一揆について、8月6日の大河ドラマ『どうする家康』ではあっさり終わる家康の甲斐と信濃ゲットの”天正壬午の乱”を家康家臣の奮戦ぶりを大久保彦左衛門忠教(忠世の弟)の『現代語訳三河物語(ちくま学芸文庫)』から観ていきたいと思います。兄、大久保忠世甲斐で大活躍(NHK大河ドラマ『どうする家康』で主亡き旧武田領の甲斐・信濃・上野(C)NHK)甲州一揆(武田遺臣一揆)兄の大久保忠世、大活躍(NHK大河ドラマ『どうする家康』の大久保忠世(C)NHK)甲州征伐
織田信長亡き後、徳川家康は武田の遺領・甲斐・信濃・上野の反乱を鎮圧するため出陣(天正壬午の乱)。そして、小田原の北条氏直と戦うことに(若御子対陣)。家康は、武田勝頼が築いた新府城に布陣。戦いは7月から10月まで続いたが、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有することで和睦している。新府城跡の藤武神社は、藤井庄と武田庄を見下す所に鎮座することから藤武という名称なのだとか。藤武神社は、甲州征伐で焼失してしまっていたが、若御子対陣で新府城を本陣とした家康は、戦後、藤武神社を再
「どうする家康」第29話伊賀を越えろ!は、服部半蔵の勘違いや本多正信の再登場などがあり、1話が終わるのが、早く感じるほど面白い回となっていました。特に、伊賀の棟梁である百地丹波役に嶋田久作さんが、演じており、嶋田さんといえば、映画「帝都物語」(1988年)の魔人加藤保憲役の印象がいまだ鮮烈に残っています。今回も、伊賀忍者の棟梁という事ではまり役であると思います。見ていて非常に懐かしい気持ちにさせられました。「帝都物語」は、35年以上も前に制作されており、特殊効果もストッ
7月22日(土)は日本城郭史学会の2023年度第1回城郭史セミナーがありました。テーマは「新府城の最新の発掘調査から」です。今回は韮崎市教育委員会の閏間俊明氏を講師に招きました。新府城発掘調査と閏間俊明氏最初に新府城の概要について話しました。新府城は七里岩の台地上に築城されました。古代、七里岩の北西にある八ヶ岳が大規模な山崩れが起こり、土砂が南東に流れて七里岩の地形が形成されます。七里岩の台地の西側を釜無川、東側を塩川が流れていています。現在でも甲州街道(国道20号線)と中央本
*4月2日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは徳川家康です。本日は、天正壬午の騒乱のおはなし。🍟あんみつ「先生、本能寺の変からひと月後の天正十年(1582)七月、徳川家康は駿河大宮から甲斐府中に進軍すると、さらに諏訪まで出て武田遺臣を招降しました。信長は彼らを容赦なく捜索しては惨殺、召し抱えを厳禁しましたが、その信長はもういませんから。依田信蕃(よだ・のぶしげ)や曾
*3月26日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは徳川家康です。本日は、本能寺凶変と堺からの脱出のおはなし。あんみつ「先生、妻子を処刑した徳川家康は、武田勝頼との抗争を続行します。転機になったのは小田原北条氏との同盟と、遠江の要衝・高天神城の攻略。天正九年(1981)三月まで半年に渡って持ちこたえた高天神城に、武田勝頼はついに援軍を出すことが出来ず、武田に従う豪族の信
遠山利景⑩「甲斐国史解」四秀隆虐殺を働き国人に殺される『秀隆一に鎮吉(又重能に作る)といい、伊勢の人なり。先に任ぜらて肥前守たり。この時当国(河内領を除きて)を領し、古府に居て国事を執る。然れども常に信長の威を籍り、且つ自己の勇を恃み、暴虐至らざるなかりしかば、国人大に之を憎む。六月本能寺の変あり国人将に叛せんとするに及び、家康本多信俊を遣わし、秀隆を佐けてその郡邑を鎮撫す。後秀隆故ありて信俊を殺す。是に於いて国人一時に蜂起し、遂に之を古府の岩窪に攻殺す。實に六月十五
真田昌幸の生き方、戦略にみる日本の行く道強国に挟まれた真田家がいかに、戦い生き残ったか今こそ、日本は真田昌幸の戦略に学ぶべし真田昌幸の生き方、戦略にみる日本の行く道強国に挟まれた真田家がいかに、戦い生き残ったか今こそ、日本は真田昌幸の戦略に学ぶべし真田昌幸は真田幸村と真田信之の父https://www.amazon.co.jp/dp/B00OCF5XLU/物語は、真田昌幸の...www.nicovideo.jp真田昌幸は真田幸村と真田信之の父https://www
【問題】≪難問≫天正壬午の乱の際、上杉景勝が北信濃へ進出するにあたって擁立した人物とは、次のうち誰か?【選択肢】乙骨太郎左衛門大井雅楽助穴山勝千代小笠原洞雪斎【正解】小笠原洞雪斎【解説】天正壬午の乱において、景勝は混乱する信濃へ侵攻した。その際、かつての信濃守護・小笠原長時の弟である洞雪斎を擁立し、一時は深志城の占拠に成功している。
都道府県別索引へ旭山砦は国道141号で清里に登ってゆく途中、「道の駅南きよさと」の少し手前西側の尾根上、旭山なる山頂周囲に構えている。織田信長が本能寺の変に斃れた直後に北条氏直が甲斐に侵入し徳川家康の軍勢と争った「天正壬午の乱」にあたって北条氏直が築いた砦であったが、その前後の経歴は不明で、北条氏が修築する以前から武田氏の狼煙台があったともいわれる。南北2つの曲輪があって北はヤブの中、南は土塁や空堀がハッキリ残っているとのことで、前日とは打って変わって初夏の強烈な日差しが降り注ぐ中、
静岡古城研究会で御坂城の見学会(現地集合)が開催されるというので、東京から車を飛ばして駆け付けました。こういう機会でもなければこんな山(失礼!)にはなかなか登る気になれませんから(笑)。何しろ現地は標高1,500mを超える高地にあって、一説には日本で一番高いところにある山城とも(未確認ですが)。なんでこんなところにお城があるかと言うと、御坂城のある御坂峠は甲斐国内において甲府盆地と河口湖(郡内)地域とを最短距離で結ぶ「御坂みち(旧鎌倉往還)」と呼ばれる街道にあって、ここを塞いでしまえば乗り越える
能見城に存在する幻の「長塁」をいつかこの目で見てみたいと思っていましたが、ついにその機会を得ることができました。穴山駅に車を停めて、いざ能見城へ。と、その前に山麓に残存する土塁の残欠も忘れずに見学。道路際に、わずかながら長塁の一部が残されているのです。そうだと思って通らなければ、単なる庭の築山くらいにしか見えない土盛りですが、土塁だと思って見ればちょうど「折れ」の部分を良好に残す、紛れもない土塁です。能見城と新府城とを守るように、台地を横断する形で延々と築かれた長塁の一部が、山から離れ
とある源氏一族の事~津金氏のお話http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tugane_g.html武家家伝_津金衆■家紋、系図、戦国武将、武将、赤松円心、赤松満祐、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、北条早雲、島津義弘、島津義久、島津家久、毛利元就、毛利一族、島津一族、大友一族を紹介。尼子氏、大内氏、陶氏などの動向も探っていますwww2.harimaya.com山梨から愛知に移動した清和源氏の一族について、ご
真田十勇士と言えば、真田幸村に仕えた個性的な十人の武将たちです。猿飛佐助、霧隠才蔵など有名なキャラが居ますが、あくまでも十勇士自体はフィクションです。幸村が家康相手に奮戦するのを陰に陽にサポートする忍者や豪傑たちの物語は明治以降親しまれ、昭和の頃は映画で、近年でもアニメの題材になったりと人気のモチーフです。さて、そんな十勇士には「海野六郎」「望月六郎」「根津甚八」と比較的マイナーで、キャラとしても豪傑とは言い難い人物たちがいます。そ
夏休み最終日、世間は盆休み最初の日😁この猛暑に全く向いてない城跡巡り🤣甲斐源氏大好きな兄貴のガイドで天正壬午の乱を巡ってみる。談合坂SAで待ち合わせ。朝7時の時点で中央道は既に渋滞始まってる💦流石に連休開始なのでSAにはバイクがたくさん。キャンプ道具積んでるのもチラホラ。普段平日しか走らないので、こんな数のバイク見るのは久しぶりだ😅まずは、一つ目の目的地、白山城へと向かう。入り口が分からず周りをウロウロ💦白山神社というのもあるみたいだけれど繋がりそうな道は
<2017.12.6記>武田氏に代表される甲斐源氏として活躍した諸氏は代々オリジナルの居館を構えていて、しかも案外頻繁に引越しをしたようで、現在の山梨県内には「武田氏発祥の地」的な場所が沢山あることに気づきます。ここもそのひとつ。常陸国の武田郷から流されてきた源義清・義光父子がここに根付いて逸見氏を名乗り、甲斐国内に分散したのが甲斐源氏。武田信玄に連なる武田氏はその中の一家ということになりますが、谷戸城近辺にも武田氏と同じくらい強力な、逸見氏を名乗る一族が居住していたことがわかっています。逸見
北杜市の津金学校は明治・大正・昭和の各時代に建築された校舎(三代校舎)が残る、全国的に見ても珍しい学校です。校舎を新築する際によく旧校舎を取り壊さなかったなあとか、どうせなら平成・令和の校舎も欲しかったなあ、とか、ついつい余計なことを考えてしまいがちなのですが、廃校となった現在も校舎はきちんと保存活用されています。特に明治の校舎は素敵ですね。明治時代の学校校舎にはいわゆる擬洋風建築が多いのですが、現存するどこの校舎を見ても、「これからは教育だ!新しい時代を作るんだ!」というような意気込みに溢れて
天気のよい冬の日に若神子城に行って、初めて気付いたことがありました。若神子城から、どうやら新府城が見えるみたいですね。ちょうどいい感じに山の間から顔を覗かせています。当然、新府城からも若神子城が見えるのでしょう。天正壬午の乱(天正10(1582)年)の際、若神子に本陣を置いた北条氏直と新府城に本陣を置いた徳川家康は、お互いの陣が見渡せる場所で膠着状態に入っていたということになります。東海の覇者と関東の覇者とが武田氏亡きあとの甲州で直接対峙していることの歴史の妙。本能寺の変から羽柴秀吉