ブログ記事17件
松原照子氏の月刊SHO4月号「地震特集」について、ちょっと気になった事。秀吉の時代を思い起こす地震が起きやすくなって来ている気もするのです。と書かれていましたので、ググったら↓が出てきました。秀吉を襲った大地震-平凡社秀吉を襲った大地震詳細をご覧いただけます。www.heibonsha.co.jp↑の内容で・・・豊臣秀吉と私たちの時代は、「活断層が活発で、内陸地震が起きやすい」という点で共通している。ちょっと読んでみたいかも。。。天正地震が出てきました
早いものでもう4か月目に入っています仮設住宅に入居された方も一部いらっしゃいますが復興は簡単ではないです半壊・全壊された方たちにとって住み慣れたわが家にもう住めないという事実公費で解体も余儀なくされ言葉に言い表せない事実これも自然が招いたことゆえ怒りの矛先が皆無ですボランティアの皆さんいつもありがとうございますm(__)m【1534】助けるのは無理だぜ!エーンそんな冷たいこと言わないで~~
大河ドラマ『どうする家康』での石川数正の出奔と天正大地震について『家康家臣の戦と日常松平家忠日記をよむ(角川ソフィア文庫)』で見ていきます。和戦両様の徳川家中で大事件石川数正出奔と天正大地震(NHK大河ドラマ『どうする家康』の天正大地震(C)NHK)防備体制を高める中での大事件重臣の石川数正の出奔11月13日、重臣の石川数正が女房衆と共に、秀吉の許に出奔。同日深夜(亥刻)には松平家忠の耳にも入り、即座に岡崎城へいち早く出仕して、日記にもそのことを自画自賛している。11
令和5年9月16日ランオフ。火曜日〜金曜と走って走行距離は83kmを超えた。仕事で慣れない所へ行き疲れたので、今日はランオフ。あっためげえし。「あっためげえし」父は再放送をそう呼ぶ。弁当をレンジで「温め直す」とは言っても、「温め返し」とは使わない。茨城だけのオリジナルので言葉、方言。土曜日の朝。1週間分の名シーンを繋ぎ合わせた再放送(=総集編)は、あっためげえしのあっためげし。昼の再放送は、あっためげえしのあっためげしのあっためげえし。放送で知った言葉
大河『どうする家康』で小牧・長久手の後も続く徳川家康と羽柴秀吉の対決『家康VS.秀吉どうする家康コラボスペシャル(後編)-歴史探偵-NHK』の感想秀吉に臣従するも学び、天下を取る家康(『家康VS.秀吉どうする家康コラボスペシャル(後編)-歴史探偵-NHK』(C)NHK)小牧・長久手の後も続く戦い1584(天正12)年3~11月まで続いた小牧・長久手の戦いは、織田・徳川連合の盟主、織田信雄の羽柴秀吉との単独講和により、家康と秀吉も一時的な和議となります。一
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜数正さん、出奔してちゃって大変だぁ…ってことで第34話の感想ぉ!家康の元を出奔し、秀吉に仕えることになった石川数正。これでは家康は秀吉に勝ち目が薄くなってしまいました。秀吉も家康との戦の準備を始めた矢先…※画像はお借りしました。大地震が発生!!これが天正地震。被害は家康の領地より秀吉の領地が大きかったのです。これにより、秀吉は戦はできず…戦どころじゃないなしかし、家康の上洛を諦めない秀吉は、妹の旭姫を家康の正室にしてしま
明らかになった石川数正出奔の真意そして家康は秀吉に降る決意前回に続き、ほぼ1週遅れでようやく見ました、「どうする家康」の第34回「豊臣の花嫁」。1586年(天正14年)、家康は満43歳になる年のお話です。ここからはネタバレになりますので、まだ見ていない方はご注意ください。番組紹介|大河ドラマ「どうする家康」-NHKなお、私は歴史ドラマは「ドラマとして面白ければいい」と考えています。歴史にあまり興味がない人が興味を持つきっかけになることが一つの重要な効果だと思いま
「天使の囀り」怖かった怖いというよりか・・気持ちが悪い夜、寝る前に読み終わって・・・大量の線虫が夢に出なくて良かった関東大震災100年先週放送された「どうする家康」で描かれた天正地震。丁度いいタイミングで借りた本「秀吉を襲った大地震」寒川旭秀吉は天正地震・伏見地震と二つの大地震を体験しています。。どちらも関西地区が震源地です。被害の模様や人々の行動など、興味があります。面白い本だと思いました。今朝は肌寒く朝食は久しぶりに豆腐雑炊を作りました。台風、上
小牧・長久手の戦いのあとも緊張の続く中での秀吉の妹が家康の正室となる大河ドラマ『どうする家康』の第34回「豊臣の嫁」について瀬名と信康の誓いから解放される家康(NHK大河ドラマ『どうする家康』の第34回オープニング(C)NHK)小牧・長久手の戦いで長久手においては勝利するも、その後の織田信雄が秀吉と単独講和により戦う理由を失い、一時的な和議を結んだが緊張関係が続く、徳川と豊臣の対立。前回の33話では、徳川の二代重臣の一人である石川数正が出奔ただ、石川数正は秀吉に出奔しましたが、屋
家康の腹心として仕えていた石川数正が、秀吉のもとに仕えた。家康は秀吉に従うことへ抵抗があったため、数正の行為は寝返り・裏切りと取れるもの秀吉との戦を考える井伊直政らに対し、和睦を結び秀吉の支配下に入ることを主張していた数正が徳川家中で浮いてしまったための出奔でした秀吉との戦に障害が無くなったことで、秀吉との全面対決・・・になるところで関西を襲った天正地震。これを受けて信雄は家康に豊臣との戦を止めるように進言します。家康は秀吉が和睦ではなく戦を選ぶとし、妹との婚姻を条件に出しました。秀
9月3日。どうする家康は、大軍を発して家康を滅亡に追いやろうとする秀吉の勢力圏を中心に勃発した「天正地震」の話。天正地震は、予震が白川郷のあたりであった後、根尾谷の断層あたりで起きたとする史書が多い。今夜は、その、大垣の北、池田町の地酒を呑もう(池田と言っても、道東のワイン城の池田でもなく、徳島の、さわやかイレブン・蔦監督の阿波池田、でもない)。まずは、タコと完熟プチトマのサラダで呑み始め、次に、焼き鯵の赤だし甘味噌掛けをアテに呑もう。初霜、60%純米のお酒。濃厚でやや辛口は、日本酒度+4、酸
「どうする家康」第34話「豊臣の花嫁」を見ました。1586年天正地震が起き、関西はかなり大きな被害を受けた。ここで豊臣秀吉は家康討伐を中止する。そして朝日姫を家康の正室にして上洛を促す。上洛=臣従の儀だから、家康はためらう。ドラマのような瀬名と信康の思いを巡らせたかは定かでない。だが、秀吉はこの頃、紀州の雑賀衆を傘下に置き、さらに毛利を傘下に置き四国平定し、越中の佐々成政も降伏している。戦力差は歴然。なぜ主戦論の家康は上洛を決意したかも謎である。臣従の儀は屈辱的
地震描写、震災思い出すからしんどい。
天正地震が起きたのは天正12年11月29日(1586年1月18日)の夜中のこと。27日にも巨大地震が発生しており、後者は天正越中地震と呼ばれています。天正地震については、天正大地震、あるいは各地の被害によって長浜大地震、白山大地震、木舟大地震、天酉地震とも呼ばれています。その長浜大地震と呼ばれるほど被害の大きかった長浜では、長浜城が城下町ごと崩壊しました。この時、長浜城主になっていたのは山内一豊でしたが、豊臣秀次の家老であったため京都にいて留守をしており、妻と娘のおよねが家老とともに留守を
三重県南東沖深発地震で異常震域(11/13)11月14日午後5時9分・茨城県震度4(M6.1)震源の深さは350kmと深く、揺れが観測された地域と震源は離れていて、異常震域と呼ばれる揺れでした。能登地方で群発地震(11/14)11月14日午後10時28分・能登で震度4(M4.2・10km)また、昨夜遅くには能登地方で震度4が発生しています。今回の震源地は深さ10kmでしたが、2021年9月29日には、日本海中部(M6.1・深さ400km)の深発地震が発生
442年ぶりの天体ショー442年前と言えば1580年日本は戦国時代の真っただ中。三木合戦で織田家の武将羽柴秀吉が勝利しますが2年後の1582年本能寺の変があり、織田信長は自害します。6年後の1586年1月18日に過去最大の内陸地震、「天正地震」が起こりました。この地震では、養老・桑名・四日市断層帯や阿寺断層帯、庄川断層帯などの複数の活断層が連続して動いたようです。その後1596年は日本では災害の多い年でした日本の関東などで洪水が発生。荒川で
最近、色々な『メディア』で、地震関連のニュースなどが流れていますが『大地震』が切迫しているのでしょうか?現在『日本列島』では、地震が多く発生していますが・・・『福島沖・茨城沖及び茨城内陸型地震・石川県能登半島群発地震・京都の群発地震・日向灘の群発地震』など各地で活発化していますので、今後は『日本全国』が『要注意』だと思います!今、各地から色々な情報が入って来ているのですが、中でも・・・『関西で、地鳴りがしていて心配!』だとか『今、関西で小さな揺れが感じられていますが、大丈夫な
クローバーTVショップ津島北テラス店です。9月1日というと皆様何を想像しますか学生の方々は、夏休みも終わり9月1日始業式を迎えますねその日は、始業式と同時に一斉下校や避難訓練を行っている小学校もあるのではないでしょうか1923年9月1日は、関東大震災が発生した日です。9月1日が防災の日として制定されたきっかけの災害です。日本国内において、明治以降の地震では最大規模の損害を被った地震です。この海部津島地域が大きな被害を負った地震として
本日は買い物のついでに富山県にある、木舟城跡に足を運びました石碑の裏かつては上杉氏や前田氏の居城となったお城だそうですが天正の大地震で崩壊してしまったそうです案内板①案内板②遺構としては、本丸の一部と、神社のある曲輪が残っている感じみたいです。案内看板からみて右手(本丸の西北部分?)案内看板からみて奥の方向(本丸東北部分?)奥に少し高くなってる所がありますので、登ってみましたがたぶん櫓台があったところかなと思います案内看板から左手に、神社。こちらにも行ってみました。貴
明けましておめでとうございます。皆様のブログにはオジャマして観覧させていただいておりますが、新年のご挨拶はこの場でと代えさせていただきます。悪しからずご了承ください。新型コロナ野郎のおかげで、キビシイ世ではありますが、令和3年(2021年)も私流の城ブログを続けさせていただこうかと思います(辞める理由も特にないので)また、お立寄り頂ければ災い、ではなく、幸いです。ほな、去年の飛騨遠征の続きになります。実は、この城の存在を知った時から最も訪れてみたかった城のうち
昨日の記事で戦国武将が登場しましたが…今日も登場します(^^)地震の話の続きなのですが。。。時代も話の内容的にもシンクロしてます。「本能寺の変」以降の天正後期〜徳川幕府が成立した慶長年間、日本は多くの地震に見舞われました。結局、いつの時代も多いということですね天下統一目前だった豊臣秀吉も地震に振り回されています。『天正地震』天正地震は天正13年11月(1586)に発生した直下型大地震で、近畿から東海〜北陸にかけての広い範囲に被害をもたらしました。マグニチュードは推定M8.0(震度
Shaudowの『日本人と自然災害13』1502年1月28日~1586年1月18日2019.06.20H・A・笑童人間は生まれてきてはいけなかったのだろうか神は悲しみを与えるために私たちを創造したのだろうか‥‥その答えは自然と接する日本人の生き方にあったそして、やはり日本人は昔から日本人そのものであった日本人は、多くの自然災害を経験し学習することによって、自然と共生することを学んだ。そしてその経験から得たものを後世に残している。しかし、現代を生き
2019年5月19日(日曜日)福井県三方上中郡若狭町の福井県年縞博物館に行ってきました。年縞(ねんこう)とは…プランクトンや鉄分など季節によって異なるものが湖の底に毎年積もることで縞(シマ)模様になった泥の地層のこと。この近くにある三方五湖のひとつ水月湖(すいげつこ)の年縞は世界一らしく7万年間w毎年途切れることなく積もり続けているとのこと。なんと本日は…無料~よい響き~♡↑コレが年縞写真撮影OK拡散希望とのこと。年縞1年分は厚さ0.7
⚫HappySt.WhiteDay!⚫↓♪こちらからどうぞ♪↓豊富な品揃え!!ショッピングモール☆FREEDOM☆入口★2月のおすすめ商品★【こたつ掛け布団長方形】『ブラウン小紋柄』【こたつ掛け布団長方形】『ブラウン小紋柄』¥6,590【アメリカ陸軍ジープキャップ】『帽子ウール100%』【アメリカ陸軍ジープキャップ】『帽子ウール100%』¥1,999【さらふわシャギーラグマット】『ホットカーペット対応ブラック』【さらふわシャギーラグマッ
豊臣秀吉が最初に築城した伏見城である指月城の遺構が平成27年6月に発見され大きな話題となった。指月城は慶長伏見地震で倒壊し、その姿を後世に残さなかったために幻の城ともされていたが今回の発見で歴史の一ページが真実であったことを証明したのだ。指月城は地震で「天守上の二重ゆりおとし」と記録されるように天守が落ちて秀吉すら逃げ惑う事態となった。しかし、秀吉は築城時に前田玄以に対し「ふしみのふしんなまつ大事にて候」(伏見の普請鯰大事にて候)と地震を鯰に重ねて築城に地震対策が大切なことを説いた。そして