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天正伊賀の乱-信長を本気にさせた伊賀衆の意地(中公新書2645)Amazon(アマゾン)山に囲まれた小さな盆地の伊賀国は、古くから交通の要衝でした。室町時代は足利氏の庶流の仁木(につき)氏が守護を務めていましたが力は弱く、土着の国衆がそれぞれの領地を支配して分立していました。伊賀国として国衆たちが一致団結して行動していた訳ではなく、周辺の伊勢北畠氏や近江六角氏など有力大名の影響を受け、それぞれの国衆が実利で動いていました。伊賀といえば忍者ですが、当初は傭兵のような形で周
※こちらの記事は、令和2年8月12日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第25弾として、「天正伊賀の乱」について、ビジネス的視点で見直したいと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。第1回今山の合戦第2回耳川の合戦第3回沖田畷の合戦第4回小豆坂の合戦第5回長良川の合戦第6回桶狭間の合戦第7回稲葉山城の合戦第8回金ヶ崎城の合戦第9回姉川の合戦第10回二俣城の合戦第1
明智秀満(98)「信長公記」『明智日向西国出陣の事五月廿六日、惟任日向守、中国へ出陣のため、坂本をうち立ち、丹波亀山の居城に至り参着。次日、廿七日に、亀山より愛宕山へ仏詣。一宿参籠致し、惟任日向守心持ち御座侯や、神前へ参り、太郎坊の御前にて、二度三度まで鬮を取りたる由、申し侯。廿八日、西坊にて連歌興行、発句惟任日向守ときは今あめか下知る五月哉光秀水上まさる庭のまつ山西坊花落る流れの末を関とめて紹巴かよう
2023年9月8日(金)①「名張藤堂家」は織田信長重臣丹羽長秀の3男で藤堂家高虎の養子となった高吉から始まる。1636年2万石。現存する上級武士の住まいは貴重との事。②「無縁萬霊塔」天正7年「天正伊賀の乱」織田勢の攻略で相原は最後の防戦区で沢山の人が死んだ。「桔梗の丘」に建立されている。
明智秀満㊿信長一行は伊賀に入るとすぐ一宮に立ち寄り、国見山に登って柏原城の陣容を見た。大きな城ではないが、防御はしっかりとしている様だ。正直な話、伊賀国ごときで大切な兵を損失したくない。「五郎左の策で参る。3カ月を待たず落ちるであろう。」と言った。その瞬間、無念そうに信雄が俯いた。山を下りると御座所が設けられ、過剰なほどの接待が待っていたのである。信長は諸将の配慮に感謝しつつも、正直辟易していた。「安土に戻ろう。」伊賀の国ではあらゆるものが焼け落ち、あち
明智秀満㊽「信長公記」『伊賀国、三介殿に仰せ付けらるる事九月十日、伊賀国さなご嶺おろしへ諸手相働き、国中の伽藍、一宮の社頭を初めとして、ことごとく放火侯のところに、さなごより足軽を出だし侯。瀧川左近・堀久太郎両人見計いて、馬を乗り入れ、究竟の侍一余騎討ち捕り、その日は、陣所々の本陣へ打ち帰し、九月十一日、さなご攻め破るべきのところ、夜中に退散なり。さなごへ、三介信雄入れ置き申し、諸勢、奥郡へ相働き、諸口の軍兵入れ合い侯間、ここにて、郡々を請け取り、手前切りに
『どうする家康』での服部半蔵像。これまで、その名を聞くと、やはり忍者の認識が強かったけれど……『どうする家康』の中で、忍びではなく武士だ……という、服部半蔵。みんなが笑顔で写るインスタでも、服部半蔵は、役のまま眉間にシワを寄せている……(笑)www.instagram.comJunMatsumoto/松本潤onInstagram:"服部半蔵三河家臣団の一員。主に諜報活動など隠密行動をする。(本人は武士と言っているがわしは忍びだと思っておる)演じるのは山田孝之
冷たい雨の中の若者たち彼らの言うとおり人を殺す道具なんていらない外交で戦争にならないようにするための人材育成のためにお金を使うべき首相、あなたがドヤ顔でほくそ笑み乗ってる戦車は間違いなく人殺しのための道具ですから有事の際にはあなたとあなたの側近だけがそれに乗って戦ってください今日は伊賀市に向かいます。天正伊賀の乱人の世は戦とは切っても切れないのか人は過ちを繰り返す、いつも犠牲になるのは罪のない一般の方達当時伊賀市と名張市で9万人の人口のうちこの戦で命を落とした方が3万人。こ
伊賀流忍者店さんで購入できます2枚セットで600円です伊賀流忍者店(三重県伊賀市上野愛宕町1938)のスポット情報|攻城団(日本全国のお城情報サイト)「攻城団」はあなたが日本全国の城を巡った訪問記録を保存できるサービスです。もちろん全国各地のお城について、その見所やうんちくのほか、駐車場などのアクセスに関する情報も検索できますので、次に訪問するお城を探す際にもぜひご利用ください。collection.kojodan.jp
キャンピングカーの中でパソコン作業しているあつです!どーも、こんばんは!さて、今週末の3連休はいろいろありますよ~!8日(土)、9日(日)は津まつりです♪3年ぶりの開催ですね~!あつは二日とも、津まつりの会場にいますよ~!8日は、観音公園ステージで15時からライブします9日は、ZTVのリポーターとして会場内いろんなところから津まつりの様子をお届けします!ちなみに、観音公園はテーマが「アウトドア」ということであつのバンライフ(アー
100均にいくと、ついついキャンプ用品を買ってしまうあつです!今日は「キャンドゥ」であれこれ買ってしまいました♪明日は、勝手に作ったアウトドア部の部活の日です(笑)炎天下になりそうなので、しっかり水分補給しながら楽しんできますね!さて、今回はキャンプ動画公開のおしらせです♪この前ご紹介したアシェットの「ENJOY!OUTDOOR」の付属ツールを使って、キャンプ場でご飯を炊いてみました!今回、リスナーの「PAT馬券師」さんから頂いた
火災から3年本堂の再建進む名張・福成就寺|【伊賀タウン情報YOU】伊賀タウン情報YOU天正伊賀の乱で焼失後に再建され、江戸時代には名張四大寺の一つに数えられたと伝わる。2019年5月の火災では、木造平屋瓦ぶきの本堂や庫裏など計約350...花火に心揺さぶられ「光彩の軌跡」生きた証しに写真家・石原さん(82)が作品集伊賀-毎日新聞毎日新聞伊賀市上野忍町の写真家、石原健哉さん(82)が写真集「光彩の軌跡」を自費出版した。これまでに撮影した作品から「花火」を主に選
2021年までの中公新書において「乱」を表題にしたものは本書を除くと『壬申の乱』『応仁の乱』『観応の擾乱』『承久の乱』『中先代の乱』と、いずれも高校の日本史の教科書には載っており、『観応の擾乱』と『中先代の乱』以外は義務教育で履修します。それはいずれの「乱」も後世の日本の体制に非常に大きな影響を与えた事件であるためです。参考書名:乱カテゴリー:新書を含む書籍一覧(中央公論新社HPより)検索結果|中央公論新社www.chuko.co.jp(本書にも少し登場する天草・島原一揆を
(神奈川県横須賀市長沢)忘れずば佐夜の中山にて涼め松尾芭蕉(わすれずばさよのなかやまにてすずめ)松尾家の身分は「無足人」(むそくにん)であった。無足人とは、帰農した国衆(くにしゅう)のことである。「国衆」とは「地侍」(じざむらい)のことだ。伊賀では、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、関東の北条氏康などのような強大な「戦国大名」は生まれなかった。伊賀各地に小さな武家勢力が点在していたのである。その小さな武家勢力が「国衆」であり、松尾芭蕉の家
(神奈川県三浦市三浦海岸~鳶と鴉がなぜか一緒にいる)七夕のあはぬこころや雨中天松尾芭蕉(寛文6年23歳)※「有頂天」と「雨中天」をひっかけている。七夕の夜、年に一度の逢瀬をする彦星と織姫はきっと「有頂天」だったろうに、この雨の天ではそれもかなわない…という意味。和田裕弘著『天正伊賀の乱~信長を本気にさせた伊賀衆の意地』(中公新書)を少しずつ読んでいる。松尾芭蕉の生い立ちについていくつかの説はあるが、不明な点が多い。松尾家の背景というものが、芭蕉の
(新潟県弥彦弥彦神社)旅人の指を吸うたる泉かな誠司暑い…。横須賀が涼しかったのか、午後から気温が急激に上がったのか…、東京に着いたら30度越えだ。東京の最高気温(予想)は31度、三浦半島の最高気温は28度…。やはり三浦半島は涼しいのだ。半島というのは盆地や平野と違って風がいつも流れていて滞らないから、夏は涼しいし、冬は暖かいのだ、と横須賀に住み始めた頃、タクシーの運転手さんが言っていた。今は西荻窪にいるのだが、こう暑くては昼寝もできない。今日は東
家康の位牌新調、開眼法要「伊賀越え」で立ち寄った徳永寺中日新聞伊賀市柘植町の徳永寺が、ゆかりのある徳川家康の位牌(いはい)を作った。本能寺の変の後、家康が堺から地元・岡崎に逃れた「伊賀越え」の際に...●徳川家康[1]・[2]・[3]・[4]・[5]・[6]・[7]・[8]・[9]・[10]・[11]・[12]結びやすくほどけにくい靴ひも伸縮ありフィット伊賀組みひもの糸伍とボディーケア製品の...Yahoo!ニュース国の伝統工芸品に指定されている伊賀組みひもの技術をいかした
所在地三重県名張市赤目町柏原特徴伊賀十二人衆の一人滝野氏の城で、信長に抵抗した天正伊賀の乱では、伊賀衆が最後に立て籠もった。主郭は単郭だがかなり広く、石積みの立派な井戸が残る。主郭の周囲には二重の堀と土塁が巡る。感想土塁と堀はかなり大規模だが倒木などで荒れている。短時間で訪問できるし、井戸は一見の価値がある。
所在地三重県伊賀市柏野(公民館に駐車)特徴伊賀の在地土豪が立て籠り信長に抵抗した城で、公民館に案内板が設置されている。入山して少し登ると虎口で、単郭の周囲を土塁と空堀が巡っている。感想小規模で単純な縄張りだが、残存度合いは高く、短時間で訪問できる。できれば空堀の竹藪も間引いてほしい。
歴史関係の来月刊行予定の書籍を取り上げてみました。※詳細はリンク先note記事をご覧ください。*近刊書籍:歴史*(2021年5月)|reki4|note歴史関係の来月刊行予定の書籍を取り上げてみました。<INDEX>1.天正伊賀の乱信長を本気にさせた伊賀衆の意地2.〈武家の王〉足利氏戦国大名と足利的秩序3.南北朝の宮廷誌二条良基の仮名日記4.悲劇の世界遺産ダークツーリズムから見た世界5.近江の陣屋を訪ねて6.図説鎌倉幕府7.シルクロード流砂に消
今日は生憎の雨仕事もたまっていて色々やることはあるんだけどちょっとだけ気分転換ってことで佐那具近くの敢國神社にここ、伊賀國一之宮です。祭神の大彦命は交通安全と健康長寿にご利益ありとのこと信長が苦しんだ天正伊賀の乱においてもその神力とそれを信仰する伊賀忍者を封じる為に吉田卜部の神鎮めを行った舞台でもあります
【9月20日(日)】天正9年の第二次天正伊賀の乱における壬生野宮川の合戦の舞台となった伊賀国人衆の拠点のひとつです。土塁、土塁の石落とし、堀等の遺構が残ります。所在三重県伊賀市川東①壬生野城ーの標識②堀切に水が溜まったものと、何処かに書いてあった^_^;③土塁にくぼみを持たせた石落とし。④主郭⑤土塁の石落とし⑥土塁上が一部広くなって櫓台状になっています。⑦土塁⑧壬生野城遠望
史跡巡りの記事です。今回も伊賀国の松尾芭蕉の生誕地の候補地の一つ、福地氏城です。伊賀の城塞は、「氏」が付くのが特徴ですね。福地氏城(ふくちし)福地氏城は伊賀有数の豪族である福地氏によって築かれた城です。1581年(天正9)の「第二次天正伊賀の乱」の際には、当時の城主・福地宗隆は織田信長に味方し、侵攻軍の道案内をしています。現在城址には土塁や堀だけでなく、主郭虎口には石垣も残されています。また、松尾芭蕉はこの福地氏の一族であるとされており、芭蕉にちなんで城址は「芭蕉公園」と名付けられ整備されて
嫁は顔よりも性格大紀元古代の中国の子どもが習ったという「三字経」。その儒教の教えの中に、君臣の義(ぎ)、父子の親(しん)、夫婦の順(じゅん)という三網(さんこう)が出てきます。男性仕様の政治、でもあきらめないで三者三様の突破口朝日新聞古代ギリシャ・ローマの昔から政治は男性主導。男性向けに作られてきた政治の「型」が女性の参入を妨げていないか。男性仕様の政治を変えるには。3人の専門...メジェドが!アヌビスが!!ファラオが!!!ステーショナリーに!!!!ヴィレヴァンオンライ
爆撃機前が見づらいので機首だけ付け替えてみたB-24「リベレーター」顔はB-17の怪Yahoo!ニュース第2次世界大戦中には、驚くような手法でユーザーからの要望に応えようとした機体がありました。B-24「リベレーター」爆撃機にB-17「フライングフォートレス」の機...ひな祭りログインキャンペーン開催戦国IXA戦国IXA』では、下記の期間のひな祭り限定ログインキャンペーンで入手できる「姫チケット」で、「戦国くじ姫」を引くことができます♪≪期間:2020年3月1日(
信長に撫で切りにされた伊賀のゲリラ達。比叡山とか、長島や石山の一向一揆は大変に有名だけど、今ひとつマイナーな、第2次天正伊賀の乱も、ものすごい殲滅戦だった。伊勢と大和(吉野、奈良)と近江の間の狭い平地と山岳地帯。山の民と修験者の異界な、わけである。あの辺の山の中はねえ。ディープだわね。要するにまつろわぬ土地なのだ。信長は凄い。ネジの取れ方が違う。秀吉や家康などとは比べられない。それがいいやり方とは思わないけど、ひたすらに革命的だで、魅力的だ。でも、同じ時代に生きていたら、キツイ。
2017年公開の映画。(シネマトゥデイより拝借)「のぼうの城」の和田竜の原作で、主演は嵐の大野智(無門)大野くんは「怪物くん」に「死神くん」と漫画の実写ドラマのイメージ。「死神くん」は大好きな漫画です(ToT)舞台は織田と伊賀が戦った天正伊賀の乱。※以下ネタバレあり※無門は伊賀一の忍び(中央)後右の石原さとみは無門がさらって嫁にしようとする(お国)時代劇だと「義経」の静御前(義経の妾)去年公開の「決算!忠臣蔵」にも出てる(瑤泉院・浅野内匠頭の妻)これも面白そうなので観たい(
昨日は、なるせ女劇団の座長十代花蝶さんと伊賀に、伊賀忍者の羅威堂の代表有香ちゃん所の伊賀七福神商店街界隈に見せたくて、、手土産に信長のえびしょっぱい🦐を有香ちゃんに渡す。大胆不敵!伊賀忍者の代表に信長のえびしょっぱいを渡すなんて!なんて‼️無礼者!天正伊賀の乱430年前に信長は、伊賀を攻めた。有香ちゃん信長を食べ切って!下され!今回は、大好きな中華うどんを食べました。これが大好きです。前回食べたグラタンうどんも美味かったけど、、それからむらい萬茶