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今の大河ドラマの時代、天明の頃から始まったと言われる北陸から北関東・東北への移民「加賀の走り移民」の著者である池端大二先生と一緒に行った大阪万博(エキスポ70)から55年経って同じ大阪の地で万博が開かれていたことと、今年の大河ドラマ「べらぼう」を動機として、池端先生の遺された書を紹介しようとして始めたこのシリーズ。竹垣直温が越後の元名主・川上平十郎という人物に移民募集を依頼したのは寛政六(1794)年。その同じ年に加賀藩は「『欠落人』が出たら必ず探索せよ」という命令を出している。つま
今の大河ドラマの時代、天明の頃から始まったと言われる北陸から北関東・東北への移民「加賀の走り移民」の著者である池端大二先生と一緒に行った大阪万博(エキスポ70)から55年経って同じ大阪の地で万博が開かれていることと、今年の大河ドラマ「べらぼう」を動機として、池端先生の遺された書を紹介しようとして始めたこのシリーズ。「栃木県の歴史」(山川出版社)に、「(天明の飢饉後の)この時期に下野国の幕領支配の代官となった人物には、のちに名代官の名を残した人物が多い」(同書255ページ)として次
今の大河ドラマの時代、天明の頃から始まったと言われる北陸から北関東・東北への移民「加賀の走り移民」の著者である池端大二先生と一緒に行った大阪万博(エキスポ70)から55年経って同じ大阪の地で万博が開かれていることと、今年の大河ドラマ「べらぼう」を動機として、池端先生の遺された書を紹介しようとして始めたこのシリーズ。時代小説の登場人物には「旗本の次男坊・三男坊」というのが良く出てくる。徳川家の直接の家来を直参というのだが、旗本は、直参のうち将軍にお目通りが叶う身分。叶わない身分
一昨日・昨日の流れから、池端先生の「加賀の走り移民」の内容を整理し始めたい。いつ完了するかわからないが、こうして公開しておくことで自分にプレッシャーをかけておく。まず、言葉の整理。ここでいう「加賀」は「加賀藩」のことであり、現在の石川県南部を表す地名ではない。移住した人の出身地は加賀以外の人、つまり能登の人もあり、そして最も多かったのは越中、今の富山県の人だった。本当は違うので別途説明しますが、ここでの「加賀藩」とは現在の石川県と富山県全域と捉えていただいて結構です。そ
いつもお付き合いくださり、ありがとうございます。前回は悲しいお話でしたね。今までの「べらぼう」を支えてきた新之助夫妻の別れと絶望。深川の住民たちは完全に蔦重を敵視しています。貧富の格差があまりにも開き、金持ち蔦重は「敵」なのです。蔦重は新之助に一生懸命救いの手を差し伸べますが、新之助は、蔦重からの米を絶対に受け取ろうとしません。妻子が亡くなったのは、蔦重から貰った米が原因だともいえるのですから。新年の祝い酒を届けても、田沼の仲間は出て行けと言われるんだから。
光格天皇は、応仁の乱(1467~77年)以来途絶えていた神事(石清水八幡宮の臨時祭など)を復活させた際に、閑院宮家(かんいんのみやけ)出身という本来なら即位できない立場からの在位であると強調しています。したがって、この天皇はみずからを律し、「天下万民を先」とする姿勢を終生忘れませんでした。そのことは天明の飢饉がピーク苦に達した際(1787年)、幕府に窮民の救済を求めたことに象徴されています。結果、幕府から1500石分の救い米が京都市中に放出されたのです。天皇号と
大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺』の主役・蔦屋重三郎が活躍した吉原や日本橋をVRで旅する『上杉鷹山なせばなる-歴史探偵-NHK』のについて一度は失敗するも、再び立ち上がり改革に率先垂範の姿勢で取り組んだ上杉鷹山(『上杉鷹山なせばなる-歴史探偵-NHK』より)内容や感想について大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺』の時代に、藩政改革に取り組んだ名君として有名な上杉鷹山についてです。西軍での敗北などの米沢藩が窮乏してしまった事情上杉景勝の時代は、
ブログ主です。当ブログへのご訪問ありがとうございます。昨日、某ショッピングモールへスマホ関連の事で開店直後に行きました。で、用事の前にトイレに立ち寄り行為をした後トイレを出ようとした時、個室のドアが開いた状態のまま、高齢の男がトイレットペーパーホルダーをガチャガチャと音を立てて何かイジっている。ちょっと変な印象を持ったが、店舗での予約時間もあったのでその場を通り過ぎ手を洗ってトイレを出て用事を済ませに行ったのだが、後で思うと、あれはトイレットペーパーホルダーからトイレットペーパーを抜き
問題文(段落番号は便宜上付けたもの)次の文章を読んで、後の設問に答えよ。1詩作しようとする者にとっても、ある詩を味読しようとする者にとっても、当の作品の背後には、それ以前の無数の作品が控えている。それだけでも、すでに痕跡の過剰を語ることができるだろう。しかし単に、過去の作品数の多さだけが問題なのではない。過去のひとつの作品についても、あるいはその部分についても、それらは別様でありえたかもしれないという可能性を、それらの残されたありのままをはみ出る過剰として、漂わせている。引用とは、こ
2022年6月18日6月11日、阿佐ヶ谷神明宮のお詣りの後、路線バスにて環七通りを進み、堀之内バス停留所という停留所で下車です。降りると妙法寺入り口の信号があるのでわかりやすい。お寺の看板と大きい御題目塔があります。この左の道を進みます。商店街を徒歩で2分ほど進むと妙法寺が見えてまいります。たいへん大きいお寺です。お寺の敷地に入り、参道の先に山門(仁王門)が見えてまいりました。妙法寺(みょうほうじ)山号:日圓山院号:----寺号:妙法寺
こんばんは!ラキ田ラキ子です。変な時間にお邪魔しまーすまずは昨日の記事が何と!3位にランクインしていましたありがとうございますさて私には私が勝手にニュース番長とあだなをつけたぐらい素晴らしい記事を書かれるぽけぱんさんと言うブロ友さんがいるのですがぽけぱんさんが皆さんに是非読んでいただきたい記事を書かれていたのでリブログさせてもらいます(注)もちろん許可済み
2021年9月2日。浪江町大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊前回は天明6年(1786)の「間引き」禁止の法令を『相馬藩政史』下巻(相馬郷友会、1941年)284頁~285頁で見てみました。この「被仰渡候次第」という資料は後半の3ヶ条が妊娠・出産に関わるものであるので、今回はそこを見てみたいと思います。一、懐姙婦人五ヶ月以上着帯改候支配へ可申出候、其節母子安全之御守札可被成下、右御札は其郷之陣屋に相渡被差置候間、其頭より受取被相渡可申候、一
2021年9月1日。浪江町大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊前回は相馬藩の人口増減を追って、研究課題を提示してみました。人口の増減という点でいえば、民俗学のみならず、歴史人口学の分野においても東北地方の「間引き」についてはすでに検証されています(速水融「近世-明治期奥羽地方の人口趨勢-農村における「近世」と「近代」-」、同『歴史人口学研究』藤原書店、2009年)。「間引き」とは、出産した子どもを殺すことで、生活苦から逃れるための人口制限のことを指します。相馬中村藩の場合でも、
2021年8月31日。浪江町大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊前回は旧浪江町域の近世から近現代に至る戸数の変化を検討してみました。近代権現堂は人口爆発が顕著で、都市化が進行していたと思います。近代の都市化に伴う様々な問題点やインフラ整備など、今後の研究課題が浮き彫りになりました😄さて、近世権現堂村は「古昔百廿余戸有りと云ふ」と記されているように、天明の飢饉以前から人口減少は進んでいました。この動向について藩全体ではどうであったか、『相馬藩政史』上巻(相馬郷友会、1940年)
2021年7月16日。浪江町大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊以前このブログで浪江町谷津田の古文書から昭和30年の釣り具屋と釣りについて、3回にわたって検証してみました。調査日誌(勉強中)60日目-浪江町谷津田菊池家文書に見る昭和期の漁業と釣り具屋①-調査日誌(勉強中)61日目-浪江町谷津田菊池家文書に見る昭和期の漁業と釣り具屋②-調査日誌(勉強中)62日目-浪江町谷津田菊池家文書に見る昭和期の漁業と釣り具屋③-この古文書群については当ブログをご覧頂いていた方よ
2021年6月8日。さて、浪江町権現堂、大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊前回は『浪江町史』の記述から相馬藩領の天明の飢饉について検討してみました。相馬藩領の内陸部である山中郷の場合、かなり状況は悪かったことが自治体史でも確認できますし、中村城下町でも御救小屋の設置などが確認できましたが、権現堂村や高野宿(浪江宿)の状況は判然としません。但し、当該期の気候については中村城下町とほぼ同様であったものと思われるので、『相馬藩政史』(相馬郷友会、1941年)の記述から天明2年(17
2021年6月7日。さて、浪江町権現堂、大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊前回は古川古松軒『東遊雑記』に記載された高野宿=浪江宿付近の記載を確認しました。天明の飢饉からの復興がままならない状況を記した可能性を述べさせて頂きました。Facebookでもコメントをもらいましたが、このあたり問題が、のちの相馬藩の天保の検地などに結び付くのかもしれません。そこで今回は相馬藩と天明の飢饉について見てみたいと思います。天明の飢饉については『相馬藩政史』下巻(相馬郷友会、1941年)5
↓の記事で諏訪之瀬島・御岳(鹿児島県)のニュースが7.11のサインの可能性があることを紹介させてもらいました。Keijnpress@9WnWipLghKv9LOm9日午後7時11分、御岳で爆発https://t.co/x67vUOhhOJ2021年03月09日22:34この記事を書いているときに「諏訪之瀬島?諏訪・・すわってどこかで・・」と別のインスピレーションを感じました。気になったので調べてみると、2020.8月に銀河連合・シオニスト系ユダヤ勢が長野
・Clubhouse利用にあたり、使用上のガイドラインや各コミュニティの掟がありますので、私は内部の話をこちら(SNSなど)で公言することは控えます。が、思うことの一つに、現在は日本法人がないため、日本人やりたい放題な感じが否めません。▼ソース元:公式貼っときます。アンケート調査で必要なサンプル数とは?算出する際のポイントは?アンケートを実施するときに多くの人が悩むのがサンプル数の設定です。あまりにサンプル数が多いと調査にかかる時間や
渋柿を干すとなぜ甘くなるのかについて実験なども含めて科学的に分かりやすく解説しました。渋の正体タンニンと結合する〇〇〇〇〇〇〇〇が重要な役割を果たしていることや甘柿と渋柿の違いについても解説します。<関連動画>移民が伝えた郷土料理べんけいその3調理https://youtu.be/blPEwkKX_roNPO法人南相馬サイエンスラボ975-0002福島県南相馬市原町区東町2-50ホームページhttp://www.sciencelabo2011.co
令和2年11月13日(金)に太田生涯学習センターで行われた郷土料理べんけいの下ごしらえの様子を紹介します。中村藩は天明の飢饉後に多くの移民を受け入れました。べんけいは中村藩の歴史を理解するために大切なものです。<関連動画>移民が伝えた郷土料理べんけいその1大根の収穫https://youtu.be/XDyIlGCDNfQ報徳仕法ってなんだろう?第一幕「豊かな相馬地方」https://youtu.be/QID9PFc--84報徳仕法ってなんだろう?第二幕「天明の飢饉
前回の続き「岩手種市産直ふれあいセンター」の後、十和田湖を目指していて八戸の辺りを通ったのだが、この時は知らなく、後日NHKの新日本風土記を見ていると八戸の事が放送されていたのであった。たまたま青森に行ってきたばかりの頃だったので興味深く見ていたらコレラの事が放送されていたのである。それでその時に記事にしたのが上記のリブログした記事で、一度投稿した事があるので見られた方はスルーしてください。また内容は少し怖い記事になっていますが、これも悪しからずご勘弁ください。八戸からその内に六戸に着き
来年は、光格天皇以来200年ぶりの譲位が行われます。報道によると、天皇陛下はご譲位の意向を示された当時、「光格天皇の事例を調べるように」と宮内庁側に指示されたということです。どのような方だったのでしょうか。(前回の続き)3傍系から9歳の天皇が誕生光格天皇は今上陛下の直系のご先祖様です。1771年8月15日に生まれ、1840年11月19日に70歳で亡くなりました。天皇位につかれたのはわずか9歳。しかも閑院宮家という傍系からです。後桃園天皇の養子となって皇統を嗣ぎまし
北軽井沢の別荘地とは、群馬県吾妻(あがつま)郡長野原町の南の端と嬬恋村の東のそれぞれ標高の高い部分が合わさった地域全体を言います。長野原町は、作る作らないでモメたあげく結局予定通り作ることになった八ツ場(やんば)ダムで有名な所。湖底に沈む川原湯温泉街はすっかり高い所へ移転が済んだようです。高崎から出ているJR吾妻線の長野原草津口駅から北へ坂道を登っていけば草津温泉、南へ登って行くと北軽井沢になります。一方嬬恋村はよく静岡県の「つま恋(こい)」と間違えられますが、こちらは「つまごい」と濁りま
平成30年2月19日(月)曇り先日デコトラの事を記事にしたが、放送ではデコトラの他に飢饉とかコレラの事も触れていて、この飢饉、昔は東北の方では今ほど農業技術が発達していなく、冷害で良く飢饉になったと学校の授業で習ったが、中でも最大の飢饉は1782年(天明3年)に起きた天明の大飢饉で、この飢饉が日本近世史上では最大と言う、この時代、悪政で名高い田沼意次の時代で日本中が飢饉に襲われたのだが、特に東北地方はひどく南部藩の支藩である八戸藩では天明3年の収穫高は殆どなく、翌年の収穫高も例年の半分程度で何
第百十九代光格(こうかく)天皇は江戸時代の天皇です。また今現在、傍系から皇位を継いだ最後の天皇となります。御父は閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひと)、東山天皇の曾孫です。御母は岩室磐代(いわむろいわしろ/とめ)。御名は兼仁(ともひと)、祐宮(さちのみや)。一七七一年生。在位一七七九年から一八ー七年。第百十八代後桃園天皇は二十二歳の若さで崩御し、その年に生まれた皇女しかいませんでした。そのため急遽、閑院宮典仁親王の第六皇子祐宮(後に兼仁)が養子に迎えられて九歳で皇位を継ぎました。
*問題は、「200字論述新研究67(問題25)」で確認してください。問題25解説➊■天保年間■すでに「■ヒント」にも記したことだが、本問は天保年間の始期と終期についての知識を前提にした問題ではない。設問に、「1830年から始まった天保年間」「江戸幕府に改革をせまることになった『内憂外患』」とあり、この改革が天保の改革をさすとわかれば、1830年から1841年までの「内憂外患」の諸相に論点をしぼることができたはずである。論述問題と対峙するための鉄則の1つは、問題の要
2017.1.28に磯田道史「徳川がつくった先進国日本」を読了しました(´▽`)ノアンチ徳川とは言え、京都の寺社仏閣の復興に徳川家は切り離せませんし、大きな戦乱のない世の中が長く続いたのも事実なので、一応、読んでみようかなと。小説ではないですが、読みやすくて分かりやすく、面白かったです(^-^)鎖国、天明の飢饉、宝永地震、島原の乱という4つのターニングポイントから、それまでとそれ以降を解説するのですが、Eテレで放映された番組を書籍化しただけあって、日本史に詳しくなくても分かりやす