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吉祥寺にある武蔵野八幡宮さんにやって来ました。時刻は夕方近くですがこの日の長い旅の終わりの夕暮れまで一人散策をつづけます。吉祥寺なので何か美味しいものでも食べればいいのですがそれはデートの時にでもしようかななんて思います。武蔵野八幡は延暦8年に創建されたそうで当時の軍神といわれる坂上田村麻呂氏が宇佐神宮の分霊を現在の東京都水道橋駅付近に勘定したのが始まりといわれておりますが
これは19日のお話しです(__)小春日和な日曜日ボスを連れて上信越道をGoGo碓井軽井沢インターで降り、国道146線を進む前日に雪が降ったようで道路はビッシャビシャ嬬恋村に入り雄大な浅間山を眺めるそして!ずっと来たかった場所に着そこは嬬恋村の鎌原(カンバラ)観音堂ここ鎌原は中山道や北国街道の脇道である信州街道の宿場町として大いに栄えていた場所そんな賑やかだった宿場町を一変させた出来事が起こった!時は
大日坊で即身仏と対面湯殿山神社から37キロの場所にあるのが、「徳川将軍家祈祷寺湯殿山総本寺瀧水寺大日坊」正式名は「湯殿山総本寺瀧水寺金剛院大網大日坊」神仏混交時代の出羽三山の名門の寺で、春日局や徳川家光らから篤い信仰を受けたものの、明治の廃仏毀釈の政策で衰退し、昭和11年には大規模な地滑り災害があって、さらに規模が縮小されたという。ただ、この寺には「即身仏」が安置されていて、対面も許されているというので行ってみることに。名前は真如海上人。1783年96歳で入定されたという。天
これは心配ですアイスランドで火山噴火の恐れ。アイスランド国民保護局は、過去24時間に1000回以上の地震を感知したアイスランド南西部、グリンダヴィーク市、及びスヴァルスエインギ地熱発電所に対して避難命令を発令。地下にはおよそ15㎞のマグマトンネルがあると推測されています。pic.twitter.com/OwEQ8a3cqG—瀧波一誠|地歴・教養と珈琲(@mokosamurai777)2023年11月11日そうなんですよね。噴火の規模によっては広範囲に影響が出かねない。ア
天明7年(1787)天明の大飢饉により米価が高騰し深刻な米不足が起こった際北町奉行曲淵影漸は町民からのお救い米の要求に応じず「以前の飢饉では猫一匹が三匁した今回はそれ程でもない」「犬を食え」「猫を食え」と放言したとか「町人は米を食うものではない米が無ければ何でも食うがよい」と叱りつけたとされたただしお救い願いに対して実際に曲淵がどの様な発言をしたのかは伝わっておらず困窮した江戸町民の訴えに耳を貸そうとしない町奉行に対して広まった風説とされている5月頃から江戸では天明の打ち壊し
本日は旧暦6月7日ですが、天明七年六月七日(1787年)、236年前の本日、京都御所に大勢の人が集まり千回廻って祈ったという御所千度参りが発生しました。この時の天皇は光格天皇。まだ九歳(満年齢八歳)の幼さで傍系の閑院宮家から即位されてから八年後のことです。この八年前、後桃園天皇が若くして崩御され、皇子女は欣子内親王しか残されませんでしたので、閑院宮家の師仁親王が急遽践祚されて即位しました(光格天皇)。光格天皇が幼かったため後桃園天皇の後見をされていた後桜町上皇(御桃園天皇の伯母
天明の大飢饉と青木昆陽1青木昆陽は伊能忠敬さんと同時代で、サツマイモを日本に広めた人です。その人をまつった神社に行ってきました。応援のクリックお願いします。【HAPPYリマのメニュー】・セルフ前世個人レッスン・個人セッション(数秘術・前世鑑定付)・無料遠隔ヒーリングすべて対面・遠隔可能メニュー・料金・お問い合わせHP公式LINEに友達登録してね。最新情報が届きます。お問い合わせ、お申し込みにも便利です
イギリスとグリーンランドの間にある、北海道と四国を合わせたほどの大きさの島国といえば?・・・そう、アイスランドですネ。2008年に金融危機で、そして2010・11年には火山の噴火で日本でも話題になった国です。当時は広がった噴煙で飛行機が飛べず、各方面に被害が出たことをご記憶の方もいらっしゃるはず。しかしこんなのは、まだかわいい(?)規模・・・日本同様、火山大国であるアイスランドでは、過去に凄まじい噴火を起こした実績があるのです。その火山とは、ラキ(Laki)火山
本日からゴールデンウィーク・ワクワク特集をお届けします!!✨✨ということでその第一弾は最近問題になっている「たべもの」の話題になります選曲:言海六羽江戸時代東北(奥羽)地方で何十万もの餓死者をだし人肉まで喰らった天明の大飢饉では冷害や火山噴火の灰による日照不足はあったにせよ米価高騰で米の投機売りに走った藩や農民の責任に帰せられる部分が少なくありません人間の心が浄化さ
山口県岩国市江戸時代の中期の天明の大飢饉や疫病の流行を鎮めるため、南岩国の兄弟が京都に行って出家しました。そして岩国に帰って観音様を安置して祈りつづけたのが平岩観音の始まりです。四国八十八ヵ所めぐりは明治の初めに平岩観音に地元の人々がつくったものです。
江戸時代に商品作物を誰か奨励したか?ということを調べていた。が、出て来ない・・・ここから推測だが、1754年、公事方御定書が確定し、正式に殺人罪ができた。庶民がこの定書を知ることは出来ないが、代官が裁かれることで殺人罪を知ることになると思う。そこで農民が定免法から有毛検見法に変わって、年貢をかなり取られたら不満に思う。だから農民は定書を盾に、代官に集団で詰め寄った。年貢は納めるから、副業として商品作物を作ることを許してくれと。農民発で興った商品作物ではないかと。もう一つ、幕
【日米首脳会談】バイデン大統領「日米同盟の責務果たす」アメリカを訪問中の岸田総理大臣はバイデン大統領と会談しました。岸田総理は日本の防衛力強化を直接説明し、バイデン大統領は、「日米同盟の責務を果たす」と応じて、称賛しました。★バイデン大統領「日本の歴史的な防衛費の増額や、新たな国家安全保障戦略を通じて、我々は軍事同盟の近代化を図っている」「アメリカは日米同盟に完全に徹底的に責務を果たします。日本の防衛にも責務を果たします」★岸田首相「反撃能力を含む防衛力の抜
前回から多少日数が経ってしまった。前回のきじにて、2000年代以後急激に減った北日本の冷夏、冷害による凶作。⬇︎『大飢饉とハイパーインフレ②』前回の記事で、80年周期説から幕末の約80年前には天明の大飢饉があったこと、その時期には米価の暴騰によるハイパーインフレが発生していたことをかいた。⬇︎前回の…ameblo.jp30〜50年に一度は冷害が群発する凶作群がやってきたこと、昭和初期以前は飢餓も、江戸時代には4大飢饉と言われるような大飢饉も発生。中でも1782〜87年の天明の大飢饉は、最
前回の記事で、80年周期説から幕末の約80年前には天明の大飢饉があったこと、その時期には米価の暴騰によるハイパーインフレが発生していたことをかいた。⬇︎前回の記事。『大飢饉とハイパーインフレ①』こちらは80年周期説の図の一部。⬇︎私がブログにて何度も指摘した図、法則である。ハイパーインフレだが、定義は年13000%以上のインフレ(毎月50%毎にインフ…ameblo.jp今回は…、・大凶作の原因となった冷害は30〜50年に一度、群発して発生するクセがあり、凶作群と呼ばれている。過去の飢饉や
こちらは80年周期説の図の一部。⬇︎私がブログにて何度も指摘した図、法則である。ハイパーインフレだが、定義は年13000%以上のインフレ(毎月50%毎にインフレが進行した場合)を指しているが、年数100%程度でも国民生活は完全に破壊される。そっちに定義変更した方がいいと思っている。(国民生活が破壊され、貨幣経済が成り立たなくなる状態になること)私はジエンド以降「MMTや反緊縮、統合政府を狂信した愚かな人が沢山いた」と、後世に残すつもりだ。私は2020年代前半にはハイパーインフレが来ると、
鯖大師の黄色い札「もうはまだなりまだはもうなり」どっちなんだろう、、まだは、、もうなり続く。からです。ブログは5/26日のものを書いています。鳥坂峠を越え、日天月天様に参り、下りの道に入っています。土の道は柔らかい(#^.^#)舗装路に入ります。土の道が良かったな、、、木に白い布が巻かれています。遍路道を示してくださっている場合もある。布に、遍路に関する記入があれば、、遍路道消えていることも、何も書いてないこともある。四国のみちの道標後ろのポールには赤い矢印
「かりん」8月号の歌「かりん」8月号が届きました。この号に掲載した私の歌を、ここに紹介します。タイトルは「大噴火」です。いつもブログを訪れてくださり、ありがとうございます。
本日は旧暦6月7日ですが、天明七年六月七日(1787年)、235年前の今日、京都御所に大勢の人が集まり千回廻って祈ったという御所千度参りが発生しました。この時の天皇は光格天皇。まだ九歳(満年齢八歳)の幼さで傍系の閑院宮家から即位されてから八年後のことです。この八年前、後桃園天皇が若くして崩御され、皇子女は欣子内親王しか残されませんでしたので、閑院宮家の師仁親王が急遽践祚されて即位しました(光格天皇)。光格天皇が幼かったため後桃園天皇の後見をされていた後桜町上皇(御桃園天皇の伯母
超久々の鬼押し出し園。前回訪れたのは20年以上前です。最近、地質に興味を持ち始めているので今見るとどんな印象なのか?鬼押し出しは1783年の浅間山大噴火の際に溶岩によって形成された岩石園です。ゴツゴツした火山岩で覆われています。特徴的な溶岩ですね。(↑)ここには富士山の青木ヶ原で見られる溶岩の流動性を表す“皺”を描く岩石が少ない。浅間山が噴出したのは安山岩で富士山の玄武岩よりも粘度が高い事から固まるとゴツゴツした感じになるのでしょう。ちなみに上の
一週間ほど前のことになるが、仕事の必要から天明の大飢饉のことを調べていて、東北諸藩でも被害のもっとも甚大だった弘前藩のことが印象にのこった。それから二三日して、めったに連絡を取らぬひとに連絡してみたところ、弘前(青森県)にいるとわかった。墓参りを兼ねて来ているという。都心に暮らす彼の父祖の地が弘前だということさえ知らなかった。「東北の新緑は美しいです」と、旅先からくれたメールに書かれてあった。じつは天明の大飢饉のことを調べるとともに弘前のことを考えていたと伝えると、「津軽弁で飢饉のこと
丹南天満宮河内国丹比郡大阪府松原市丹南3-6-648(社前は広く参拝のための短時間なら停め置きできそう)■旧社格村社■祭神菅原道真天照大神天児屋根命松原市の南端、「丹南」の住宅密集地内に鎮座する社。江戸時代には丹南藩の高木氏の陣屋が近くに置かれ、菩提寺である来迎寺があり、かつては中心地であったもよう。古代より「丹比野」の中心地として開け、「丹南」「丹北」「八上」の三郡に分かれた後も郡名と同じで栄えたようです。当社の創建由緒等については伝わっていないようです。高木氏からの崇敬
田沼意次という男は、ワイロ好きだ。しかし、その一点に目をつぶれば、歴代の江戸幕府の政策責任者としては三指に入るきわめて有能なひとりだったのではないか。それは、彼の政策が伝統的な緊縮財政策を捨て、それまで見られなかった商業資本の利用など積極的な政策を取ったとされているからだ。しかし、同時にもっとも不運なひとりでもある。元禄バブルの時代が終わり、右肩さがりになってきた財政を、米将軍・吉宗が享保の改革で立て直そうとしたが結局、増税により農民の負担は増えてしまった。元禄バブルは、江戸市民を
2021年11月20日。浪江町大字権現堂について研究中の西村慎太郎です😊前回は『奥相志』(『相馬市史4資料編1』相馬市、1969年)の記述から高瀬村の村高などを確認してみました。もともとは近代の連合戸長役場設置の際、何故権現堂村と高瀬村とが一緒になったか、という疑問から端を発した課題でしたが、結局よく分からず。今後の課題としておきたいと思います。これをきっかけに『奥相志』の権現堂村の記述を確認していたところ、天保の大検地の際の土地の様相について、これまでちゃんと見ていなかったな
サツマイモ(薩摩芋、甘薯)と言えば、日本史で覚えた青木昆陽(1698〜1769)を思い出します。昆陽は、江戸の魚問屋の一人息子に生まれ、学問を志し、京都の私塾「古義堂」で儒学者・伊藤仁斎の長子東涯に師事します。儒学だけでなく、蘭学も学びました。江戸に戻った昆陽は、南町奉行大岡忠相に登用され、幕府の役人になりました。享保の大飢饉(1732年)の時、伊予松山藩はサツマイモで飢饉を乗り切りました。これを知った八代将軍徳川吉宗は、次の飢饉に備えて関東でサツマイモを栽培、奨励することを昆陽に命じ
多摩川に向かって、羽村街道を歩いています。稲荷神社に立ち寄ります。本殿は羽村市の有形文化財に指定されています。こんな立派な神社なのに、特に名前は付いていないようです。八雲神社が合祀されており、境内には本殿と同じく文化財となっている山車もあります。高台にある稲荷神社を下りると禅林寺です。境内に入ると最初に目を引くのが中里介山の墓碑(1944年没)。お墓は本殿裏山にあります。介山は羽村生まれの作家です。代表作は大衆小説の先駆けと言われた「大菩薩峠」。菜食中心のストイックな生活をし
本日は旧暦6月7日ですが、天明七年六月七日(1787年)、234年前の今日、京都御所に大勢の人が集まり千回廻って祈ったという御所千度参りが発生しました。この時の天皇は光格天皇。まだ九歳(満年齢八歳)の幼さで傍系の閑院宮家から即位されてから八年後のことです。この八年前、後桃園天皇が若くして崩御され、皇子女は欣子内親王しか残されませんでしたので、閑院宮家の師仁親王が急遽践祚されて即位しました(光格天皇)。光格天皇が幼かったため後桃園天皇の後見をされていた後桜町上皇(御桃園天皇の伯母
カルチャーショックでした...。時に女性的な造形の観音様に出会う事もあるのですが、ここまではっきりと女性として表現された観音様は見た事がありませんでした...。西国巡礼でも、中山寺の観音様などは女性的ですし、泉涌寺の楊貴妃観音も男性と言うよりは女性に見えます。ですが...赤子に授乳する観音様など見た事が無かった。衝撃的でしたね。.........秩父三十四箇所第四番札所高谷山(こうこくさん)金昌寺(きんしょうじ)です。仁王門に掛けられた巨大な大草鞋で有
歴史上最大の災害天明の大飢饉は6年間にも及んだ?面白い雑学
主人公の高山彦九郎は江戸時代の儒学者で、その勤皇の思想ゆえ戦前、戦中には偉人として子供の教科書で取り上げられていたという人。恥ずかしながら俺は知らない人だったのだが、吉村さんの江戸時代を題材とした小説なら読まずにいられない。かなりの量のしっかりした日記を残していたとのことで、その日記をもとに彦九郎の足跡をたどる。津軽半島北端の三厩から鹿児島まで、歩く歩く。そこで書名に納得。俺個人的に地理に明るい青森はもちろん、各地の足跡を地図を横において見比べながら俺も歩いた気になって読み進めた。名も
2021年6月8日。さて、浪江町権現堂、大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊前回は『浪江町史』の記述から相馬藩領の天明の飢饉について検討してみました。相馬藩領の内陸部である山中郷の場合、かなり状況は悪かったことが自治体史でも確認できますし、中村城下町でも御救小屋の設置などが確認できましたが、権現堂村や高野宿(浪江宿)の状況は判然としません。但し、当該期の気候については中村城下町とほぼ同様であったものと思われるので、『相馬藩政史』(相馬郷友会、1941年)の記述から天明2年(17