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人生というものを分析してゆくということが大切である。様々な人生を分析してゆく中で、そこから、一つでも多くの真実・真理を発見してゆかなくてはならない。人生の美学を多くの文学作品から学び、また、自己の実人生の中から抽出して、芸術へと昇華してゆかなくてはならない。人は、芸術を通して、小説や戯曲を通して、神仏に到ることも出来るのである。このように、仏典や聖書だけではなくて、文学作品には芸術的昇華力があるのである。芸術的観点から人生を観た場合に、無駄なものは何もないのである。人々が反省・廻心
現象的世界というものが、変転してゆくものであり、自性なく、依他起性のものであることは、仏教哲学においても様々に言われている通りである。それはまさしく、無常であり、無我であり、それ故に、空無の存在である。故に、そのような現象に執われない境地に到達出来たとすれば、それは即ち、涅槃寂静の境地となるのである。そして、この涅槃寂静の境地とは、ショーペンハウアー流にいえば、盲目的「意志」なき純粋主観、純粋認識に相当すると思われる。この盲目的「意志」(煩悩)を滅却するということこそが
図書館へ行って30分ほど絵を鑑賞した後、何か一つクラシック音楽を60分ほど聞き、帰りは、色々なことを瞑想しながら大学のトラックを30分ほど散歩して帰る…。なんとすばらしい気分転換であろうか。なんと至福の時間であろうか。その間、私の魂は大いに飛翔し、天来の輝きに満たされる。そして、世俗の喧騒の中に、懐かしい魂の優雅さをとり戻すのである。そして、帰り道、本屋に寄って、面白そうな文学書や思想書を見つけ、それを食事の時に読み、また、その後の喫茶の時間に読む。家には10時ごろに帰り,11
永遠について君が語るのを聴きたいな海の雫となって音楽を奏でる夕日は昨日よりも今日の方が淡い金色の海辺の貝に君はささやく無限の言の葉ですら探すことはできないほんの一瞬の間に全てが変ったけれども変らない君の声君の面影君の微笑み全てはもとのままだから君を愛した海が積みあげられ一つ一つの座標の示す方向へもう一つずつ歩いてゆこうか君の名前は既に知っているけれども君の微笑みを知らない人々も居るのだから君の微笑みを伝えたいな
自らの心を磨くことは、王道である。真理を学び、精進して、心を修めてゆくことこそが、真なる学問の本道なのである。かのマルクス・アウレリウスの「自省録」のように、哲学を修めて、日々綴る日記の省察の中に己が魂を磨いてゆくこと、そして、人々に感化を与えつづけることは、大道である。故に、「心の哲学」をもっと探究してゆかなくてはならない。かのモンテーニュやエマソンなど、様々な「心の哲学」をこそ学び、探究してゆかなくてはならない。かの福澤諭吉の「福翁百話」の基本も、「心の哲学」であるといっても過
現象世界というものは、変転きわまりない世界である。そして、この現象世界に現われているものとは、プラトンによれば、「イデア」の影であり、カントによれば、「物自体」の投影である。我々人間は、この現象世界の中に生きている訳であるが、現象世界に居ながらにして、現象世界を超えた発想をしなくてはならない。それが、哲学の主要命題である。このように、現象界に居ながらにして現象界を相対化して観、現象界を超えた「真実在」に対して想いを馳せることは、それは、いわば哲学的解脱をしてゆくようなものであるので
自分の一番いい顔で、自分の一番いい心で、自分の一番いい言葉で他人に接しなさい。そして、自分自身にも接しなさい。それが、最も他人を愛し、自分自身をも愛することにつながるのです。いくら気心が知れてきたからといって、また、自分一人でいるからといって、自分の嫌な顔や、嫌な心や、嫌な言葉を見せてはなりません。すべての人に対して、初対面であるが如く、礼を失わない態度で接しなさい。長い眼でみれば、その方がすべての人にとってプラスになることでしょう。あなたの最大の理想像を決して自ら崩す
二人で歩いた距離の中に花が咲く微笑みの国は遠くになく近くにあり万人を誘っているやがては海へとつづく空は雨音の中に一人一人の魂を宿す一人一人のためにつづられた手紙は桜の花の咲く頃になるといつまで経っても変らない色を示しながらいつとはなしに消えゆく雪の結晶に見入っている二人の永遠を記す一人の魂が一人の人生を変え一人の行動が一人の人生を変え一人の文字が一人の人生を変える永遠であってほしいと願うものはもとから永遠の旋律を奏で
人生というものには、様々な輝きがあるものである。そのような、自分の人生における、真なる光に満ちた幸福の瞬間をつないでゆくことが大切である。人生という一大光明劇の中で、光の場面を想い出し、それをつないでゆくことが大切である。そこに、愛を発見し、光を発見し、幸福を発見し、希望を発見してゆくことである。このような光の瞑想をなし、幸福の瞑想をなしてゆくことが、さらに、自己実現の瞑想をなし、希望の瞑想をなしてゆくことにつながってゆくのである。小説とは、自分の人生を振り返るためにあるのである。
仏教においても、「人生は苦である」とされ、様々な人生の苦悩がありのままに分析されている。それは、人生や世界の本質、人生哲学の本質を考える上で、とても必要な考え方ではないだろうか。結局のところ、最終的には、それらの苦悩を、悟りの力と不撓不屈の精神で切り抜けてゆくのである。そして、そのような中でこそ鍛えられ、磨かれて、さらに深く、さらに剛くなって、さらに人生の本質を洞察してゆくのである。「艱難、汝を玉にす」という。また、「難儀は節や、節から芽が出る」(中山みき)とも云う。こ
本当に自分を改善したいのならば、本当に自分の悪しき傾向性を改善したいのならば、決して易きに流れてはならない。決して克己心を失ってはならない。なぜなら、あなたの過去行ったことには必ず反作用があり、それには慣性の法則が働いているので、その作用反作用の慣性の振り子を止めるためには、それなりの抵抗を乗りきってゆかなくてはならないからである。天川貴之(JDR総合研究所・代表)
その微笑みを追って虹を追いかけてゆくどこまでも視界が広がって君の色の雨が降り野に出でるそして二人が並んで歩いた道をさらに走ってゆく並べゆく肩微笑みの雲二人は虹をつくろうと合図を送ると雪が二人の肩に降る白い姿の中に海が広がり浜辺までの距離は君と歩いてゆく距離雨の時も雪の時も波の時も嵐の時も共に生きてゆこうと誓った日々は永遠の時の流れの中でさらに神話となる
人生の本質というものは、美の発見と表現にこそある。その表現形式が、コラムにおいても、随想においても、短歌においても、人生の美と芸術を創造してゆくということは、芸術家の天命なのである。かの芥川龍之介の小説には、霊的世界観をもその中に数多く出てくるが、それは、真なる人生観、世界観を構築してゆく上で大切である。天上世界から地獄世界まで、仏界から魔界まで、全ての世界を描くということは、芸術家・小説家の大いなる使命でもあるのである。人生とは、芸術表現の舞台でもある。人生における一つの芸術の舞
やがて、本来の自分が回復すれば、哲学思想や芸術の高みを目差すようになってくるのであるが、しかしながら、この人生における悲哀の時の体験の意義というものも、確かに実在すると思われる。ベートーベンの悲哀が心に汲みる時や、切実に人生の悲哀が感じられる時や、或いは、流行歌手の歌声にさえも人なつかしさを感ずるような時等、このような時にも、神は臨在されているのであろう。このように、悲哀の体験は我々の人生を深化させ、人を深く鍛えるものであるが故に、それは、我々人間を、天上の理念へと、人格神
体の調子ほど、心の状態を左右するものはない。我々は、この肉体の土台を決して軽んじてはならない。心を整えようと思えば、まず、肉体面の調子を整えるべきだ。これが揺れている時に、心を整えるのは非常に困難である。天川貴之(JDR総合研究所・代表)
あなたは瞳の内にあらゆることを映して人々に語り継いでゆく空の人々は何を語っているのか天の人々は何を願っているのか私に天が望まれたことを私もなしてゆきたい空が語る言葉は多く無限の輝きとなり神話をつくっているあなたの姿が人生に在ってよかったあなたがさらに幸せに多くの人々をしてゆかれますように(天川貴之)
「祈り」の中身というものは大切である。そのためには、自らの心の軌跡をしっかりと見つめ直すことである。因果の理法の下に、因縁の法則の下に、心の思いがどのような道筋をたどってきたのかを一つ一つ反省してゆき、真理の観点から、または、客観的な第三者の観点から見つめ直すということが大切である。一つ一つの反省の積み重ねによって、心が浄化され、全ての想念の記録が黄金色に記録されてゆくのである。故に、過去から現在にまで続く己が人生の様々な場面をよく省みて、内観してゆくことである。人生には、偶然では
様々な逆境を経験することも、その中でそうした面からしか観えない人生の真理、人生の真実の側面も観ることが出来たならば、それもまた幸いである。悲しみや苦しみの底から人生の真実を把み、そこで魂を磨き得たことも、永い眼でみれば、魂の輝きとなることもあるのである。菩薩行の中には、あえて悲しみや苦しみの人生修行の過程を通り抜けて輝いてくる、魂の試練の時というものも与えられているようである。涙でぬれたパンを味わった者こそが人生の真実を知るというが、そのような深い悲しみの中で様々な人生の
◎「悩みを行動に切り換えよ」悩む時間があれば、それを行動の時間とせよ。自分が今「悩んでいるな」、「取り越し苦労しているな」、「持ち越し苦労しているな」と思ったら、即、それを有益な行動に切り換えよ。◎「秩序と幸福」計画、秩序のない生活は、かえって苦痛である。我々は、秩序ある生活の中でこそ、心の安らぎが得られ、適度な進歩が得られるのである。天川貴之(JDR総合研究所・代表)
あなたの空はもっと広いのだろうあなたの地はもっと深いのだろうあなたの心はさらに近く遠いのだろう愛を語るあなたのように私も愛を語りたい夢をささやくあなたのように私も星々の花の一つとなりたいけれどあなたの歌声と眼差しは世界に語る心安らかに眠る赤子の如く眠れ眠れと(天川貴之)
さらには、アリストテレスによると、唯物論的な原子論を説いたデモクリトスさえも魂の不滅論を推論していたと述べられている。そもそも、魂の本質を何と観るかは、様々な分析があるけれども、魂は、その本質において、不滅の理性、不滅の道を有しているということが出来るであろう。このような不滅の理性、不滅の道が刻印されているからこそ、古典というものが永遠に遺ってきたと言えるし、今なお、その息づかいを味わえるとも言えるのである。このように、不滅の理性(ヌース)というものの存在を前提にしないと、人類の
リーダーというものは、周りに合わせて流されてゆけばよいというものではない。常に意識を高く持って、「かくあるべき」姿に対して近づきつづけ、その本来の姿を実現してゆかなければならない。サッカーの元日本代表の本田圭佑は、神様は本当にいると言う。自分が苦しんでいる時、自分が頑張っている時に、ご褒美をくれると言う。それは、体験上の真実でもあろう。かの松下幸之助は、「君は運がいいか」と聞いて、「運がいい」と答えた人をこそ採用して、登用していったという。このように、「持っている」運というものはあ
「自己イメージを理想の自己像に創りかえなさい。そのためには、内なる「かくあるべき自分」が、自ずから語ることでしょう。自分にとって理想の言葉と思いを反復的に潜在意識にたたき込みなさい。そして、その理想像に反するものは、極力遠ざけなさい。天川貴之(JDR総合研究所・代表)
どこまでも道は続いてゆく二人の道は半分は地上にあり半分は天上にある半分は心の中から半分は心の外から創造され生み落とされた言葉達は新しい故郷を創ってゆくよ私達二人の世界には共通の言葉があるそれは何だろう何を追いかけて君は君になっていったのだろう何を追いかけて私は私となってゆくのだろう何かを追いかけずにはいられない二人が出会った中から何かが生まれてゆく
自己の人生の中に散りばめられた宝石を一つ一つ発見して、自伝小説にすると、それはルソーの「告白」の如き小説になる。真なる告白小説というものは、万人の心に響く人生讃歌であり、多くの人々の人生の糧となるものである。それは、平凡な人から、偉人・天才に到るまで、真なる告白は、真なる芸術ともなりうるものであるのである。また、日々の日記の連続は、「自省録」として、自伝文学となりうるものである。一行一行の日々の魂の記録は、哲学的小説でもあり、さらには、一大芸術作品ともなりうるものなのである。こ
このように、言葉というものは、形を通して精神を伝えるものである。言霊を通して霊的実在を伝えるものである。例えば、老子の言霊によって感化を受ける存在があるとするならば、その老子の言霊の内奥にあるものが形而上学的実在の生命である以上、それは、人間の内なる形而上学的実在の生命が、その言霊の内実を受けとっているためであるからだと言えよう。老子は、「孔徳の容(カタチ)は、ただ道にこれ従う」というが、このように道という形而上学的実在と一体となることによって初めて道徳的人格が生じるというので
◎あなたは不要な言葉が多すぎます。もっと確実なことだけを口にしなさい。自分自身が疑問に思っていることを断定的に述べるのはやめなさい。もしもそこに疑問があるのならば、是非半々として考えなさい。◎多すぎる言葉はその人の人格を下げます。もっと量より質で勝負しなさい。そのためには、思い浮かんだことをすべて口にするのではなくて、一旦、自分の心の中でその内容を吟味してから発しなさい。◎①人を傷つける言葉②悪口③自分を偉しとする言葉④自慢これらを避けるだけで、あなたの言葉の四分の一
あなたは忘れたりしませんね心のどこかで覚えていますよねきっと私より鮮明にお互いに何かを忘れていて何かを見出すそして新しい感情を加えてゆくそうして歴史を紡いでゆきましょうねせっかくの絆なのだから同時代同地域の地球に生まれ合わせたのだから偶然には居ないよねそこに生きる意味が込められていますよね言葉を確かめるようにして共に空間を創ってゆく祈りは永遠の花園を創る
人間は、現在という時間を創造しながら生きている。過去、積み上げられてきたものは、現在へと集積してゆき、そして、その現在の内には未来が宿っている。現在ある自己というものは、それは、不滅の自己の一端でありながら、流転してゆく自己の一局面でもあるものである。また、霊的存在(魂)というものも、心というものが流転し、想念が流転してゆくように、それは、流転してゆく実存の一局面が現われているにすぎないとも言える。しかしながら、また、一刻一刻の内に、不滅の「永遠の今」が顕現されていると観る
日本国の仏教の流れの中で、様々な宗派の開祖がいるが、その一人一人の精神を尊重してゆくことも大切である。栄西や、親鸞や、道元や、日蓮や、白隠や、一遍や、良寛や、空海や、円珍などの業績を一つ一つ学んで継いでゆくことも大切である。源信や、法然や、唯円などもそうである。また、現代の西田幾多郎や、鈴木大拙や、宮沢賢治などを再認識してゆくことも大切である。このように、釈迦の精神を、この日本の国において体現している開祖は多くいるのである。その一人一人の語録に珠玉の如き精神哲学があり、また、詩歌が