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禅の悟りである所の「純粋経験即空である」ということは、さらに、小説というものを一つの意識現象として味わうということでもある。小説の中の一つ一つの事柄や人物の言動というものは、意識に映し出された所の作者の心である。そして、それを読む読者の感想というものも、また、意識現象である。小説家の創造力というものは、一つの小説のみならず、一つの人生そのものをも創るものである。一つの世界を一つの世界観をもって人物を配剤し、育むのである。小説の中の言葉の一つ一つはロゴスであり、また、その一行一行は詩
では、不死なる魂を真に養うために、吾々は一体何をすればよいのであろうか。それは、肉体的快楽に流されすぎずに、叡智的幸福を追究してゆくことであろう。たとえ一歩一歩でもよいから、魂を叡智的に高めてゆくことによって、吾々は天上の神々を目標にしてゆけるということである。このような叡智的幸福というものは、確かに肉体から派生するものではなくて、魂の本質から来るものであろうと思う。人類は、数々の叡智的蓄積を持っているが、その一つ一つを丁寧に学び、それを基にして思索してゆけば、確実に魂
恥ずかしいという気持ちも、プライドも、すべて捨てよ。勇気をもって自らが良いと思う道に向けて自己を変革してゆけ!本当に自分自身が良き人間へと変わらなければ、本当に人々を幸せにすることなど出来ないのだ。本当に人々を幸せにしたいのなら、恥ずかしさやプライドなど、こういう自己保身の気持ちを捨てて、「かくあるべき自分」が為すべきことを勇気をもって断行してゆけ!そういう気概がないと、本当に自分自身を幸せにすることは出来ないのだ。本当に自分自身を変えることは出来ないのだ。「自
あの時シャングリラに居た君は静かに考えていたどこにもない国のことをどこにもない人々のことをそしてどこかに旅立とうとすることをさらに旅立とうとして旅立ちきれない思いそのものをどこかへ行きたいと君は本当に思うのかい私は本当に思うのかい本当の天国はドコにある本当の天国のドアはココにある?夢は現実となりビジョンは舞台となる愛はより愛らしく理念はより柔らかに夏の日を彩る
西田幾多郎の云う所の「純粋経験」というものは、主客合一した「空」の境地である。この「純粋経験」の意識現象を唯一の実在として、『善の研究』の認識論は成立している。超越的イデアというものも、意識現象の中に現われる実在精神なのである。神仏というものも、意識現象の中に発見見性されるものである。般若心経に説かれる「色即是空」の「色」とは現象であり、「空」とは実在である。この「空相」は、不生不滅、不垢不浄、不増不減である。龍樹に「八不中道」という哲学があるが、それは、「不」によって否定してゆく
哲学的知見というものも、様々に学びを積み重ねてゆくと、一定の実力がついてゆくものである。哲学的教養の蓄積は、自己の様々な思索の基となるものでもあろう。プラトンの「パイドン」にみられるような魂の不死性の証明は、哲学において永遠の課題であろう。そもそも、哲学は本来、宗教性を有しているし、それは明らかに、哲学の始原とも言えるプラトン哲学においては有していると言えよう。そこにおいては、簡単な証明法がとられてはいるものの、魂の不死性というものは、思索する者にとって、或る種の前提とも言
人間が、本来、幸せで健全で円満な存在であるならば、人間を不幸にし、悲しめ、苦しめ、悩ませているのは、誤った人間の作為であるはずです。ですから、これを取り除けば、すなわち、本当の意味で無為自然になることが出来れば、人間は、本来の姿を取り戻し合い、幸せで健全で円満な存在になることが出来るのです。天川貴之(JDR総合研究所・代表)
今日はこんなに遅いからと君は笑いながら言う夜を見上げながら照れくさそうに言う学生気分が抜けきれなくてもいいですね永遠に真理の前に我々は学生だ君の永遠の若さを願う私達の心のそしてその志の永遠の若き血を祈る遅いからとうれしそうに言うのならそのまま星をみながら語ろう二人で語りつづけよう月を友として語り合おう(天川貴之)
確かに、単なる理論だけでは駄目だけれども、そこに確かな自己の経験則が加われば、その理論もまた、活きてゆくのである。その意味で、常に現場に立ち返り、よく現場を見て、現場から数多くの経験を積んでゆくということが大切なのである。何が必要で、何が不必要かということも、現場を通じた経験則から学ぶことが多いのである。こうした経験則から、真なる智慧というものが生まれてゆくのである。そして、長年の経験則から生まれた実績のある成功者の智慧をよくよく尊重してゆくことである。こうした実績のある成功者の智
哲学の祖であるソクラテスが説いたように、自分自身に立ち帰ることが哲学であり、自分自身が何者であるかを知ることも哲学であり、流転してゆく精神の軌跡の中で、変わらない魂の息吹きを遺し、感ずることも哲学の営みであろう。私は今まで数多くの書をつづってきたし、今後もつづってゆくことであろう。このような思索の道は果てしがない道であるが、それは限られた人生の内における有限の道でもある。魂が肉体から解放されるまで、魂の本来の欲求に耳を傾け、そこから流れ出る泉水のような哲理を紡ぎつづけてゆかなけ
変革を成す時には、厳しさと圧倒的な信念の強さが必要なのである。節目節目には、必ずこの剛さが不可欠なのである。あなたも自己変革の節目節目には、厳しき思想、圧倒的に信念強き思想を以って臨め。そして、その節目の壁を乗り超えた後は、心に安らぎを保ちながら、静かに倦まず弛まず実績を積んでゆけばよいのである。天川貴之(JDR総合研究所・代表)
夢は創るもの夢は実現するもの夢は秘するものそれとも夢は語るもの月は謳う星は彩る人は眠り私は詩をつづる側に猫が遊ぶ側に犬が起きている夜は二時夢をつづる時期(とき)《光明祈念句》月の夢雲なかりせば永く観ゆ(貴)(天川貴之)
「自省録」というものは、様々な分野の本を読んで感化を受けたものの中から、それらに対して自ら主体的に思索して、真理を育んでゆくという営みである。まずは、「心のノート」として、自らの心の軌跡をつづってゆくことである。己が心の想念を客観化してゆくことである。そのようにして文章に起こすことによって、自己の問題意識を探究してゆくことである。そして、理性の言語となしてゆくことである。日々、自らの理性の声を言葉にして、それを自分自身で確認してゆくことである。思索における主体性を持って、己が理性の
或る面において、様々なことを思索しながら生きている私達の魂は、日々、輪廻転生しているとも言えるであろう。一定の思索を起点として、少しずつ魂の教養を蓄積してゆきながら、我々はどのようなことにも対処出来る不動心を築いてゆくとも言えるのである。このような堅忍不抜の精神は、たえず求めつづける哲学の心によってこそ培われるとも言える。哲学者として生きることは、いつの時代どこの地域にもある普遍的な生き方の一つであり、考えることを中心にしてライフスタイルを創ってゆくことは、どのような歴
何ものにも決して心がとらわれず、常に安らぎに満ちていながら、それでいて着実に進歩向上し、公のために、人々のために時間を使ってゆけたならば、無私で純粋なそうした透明感のある時間がひたすら流れたのならば、どんなに素晴らしいことだろう。それこそ、最高の幸福の日々であると言えるのではないだろうか。天川貴之(JDR総合研究所・代表)
君はいつも側にいた側にいることが幸せだと言っていた側に必ずいつづけるいつもそう約束していたしかし君が離れる時もある確かにいろいろな事情が二人の間を隔てるそして今独りで月を観ている月も私を観ている一〇〇%なんていうものはない?一〇〇%というものはあるやさしき独立者であれそう自戒していた二十の頃人生は旅のようだと思っていた(天川貴之)
謙虚さ、素直さというものは、成功哲学、繁栄哲学の中に確かにあるものである。かの松下幸之助にしても、稲盛和夫にしても、「謙のみ福を受く」ということを信条としておられたのである。素直な心を持つということは、よく反省が出来るということでもある。松下幸之助は、「素直さ」の初段になることをすすめている。素直な心を持って、道理に則り、衆知を集めて、人を活かすことを旨としているのである。謙虚であるからこそ、感謝の心が出てくるのであり、また、無限に学びが出来るのである。このように、「謙のみ福を受く
精神は日々思索をなし、思索された真理は蓄積され、深い叡智的教養の貯蓄を創ってゆく。今日発見した新鮮と想える真理は、実は、かつて何度も発見したことがある真理なのかもしれない。それを想起しているだけなのかもしれない。しかし、こうした自己同一性の認識を得た上で、さらに思索を展開し、思索のために言葉を費やしてゆくことは、そこにさらなる価値を創造してゆくことになるであろう。プラトンの対話篇の「パイドン」の中で、ソクラテスは、哲学者は、肉体から離れることによって、より純粋に知を働かせる
真に学ぶためには、謙虚さと、真剣さと、感謝が不可欠である。この三者がなければ、十分の一も学ぶことが出来ないであろう。天川貴之(JDR総合研究所・代表)
白い月は微笑んでいる五月の風が夜の闇を吹き抜けてゆく二人の古えの記憶を憶いださせる月の眼差し君はあの時誰だったのか私はあの時誰だったのか二人はあの時何であったのか若い心には何が映っていたのか全てが映っていたお互いに何でも知っていた瞳で語り合えたのだから《光明祈念句》目で語る二人は常に五月風
まず何よりも、自らの心の波を平静にしてゆくことである。意図的に平静心を保ってゆくことである。心の波を平らかにしてゆくことである。己が心を鏡のようにして、人生の全てを映してゆくことである。これを「正定」と云う。すなわち、禅定である。日々、瞑想を行い、「心のノート」をつづり、思索録、自省録をつけつづけてゆくことである。さすれば、自然にインスピレーションが湧いてきて、理性的気付きもあり、真理の発見も、真理の観照もあるはずである。様々な分野の真理を日々学ぶことを通して、自らの心を耕しつづけ
J・J・ルソーとショーペンハウアーという二人の哲人は、私が大学生の時に目標にし、人生の指標にしていた二大哲人でもあり、その本質的な部分は今も変わっていない所がある。私自身も哲学者として様々なことを思索し、本をつづり、年輪を経てきたことも事実であり、その過程で、大学生の頃と比べれば思索的成長が観られるのではないかとも思えるが、こうした歴史と国境を超えた本物の哲学的偉人達は、遠いようで近いような、近いようで遠いような気持ちがするものの、実際は、永遠の目標である実在精神なのであろうと思う
悩むな、迷うな。ただ、ひたすらに勉強せよ。ただ、ひたすらに実績を積め。今、この試練の時に、いかなる蓄えをしたかによって、お前の人格の大きさが決まるのだ。今、この雌伏の時に、いかなる努力をしたかによって、お前が雄飛する高さと広さが決まるのだ。この試練の時に、この雌伏の時にこそ、最高に自分を磨け。最高に自分を試せよ。最高に自分の内を変革してゆけ。決して、この場所から逃げてはいけない。この抵抗から逃げて、安きを求め
巡り合うべき魂達はその時には未だ知らない季節を送るシュールレアリズムの香りが一つの詩に薫る時夢の後先に花が咲くうつつの中に観た光は千の光となり千の音となる一つ一つの言葉の中に込められた意味は深く心を動かす記憶の中に入れた心は届いているものもあり届かぬものもあるが心に遺りつづけてゆく夢の後先に君が居る君が未だ会ったことがない人々の名を憶えているかなつかしい話のつづきを夢の後にも続けてゆ
智徳を日々修めてゆけば、学徳によって、その功徳が心外に顕われてゆくのである。天地宇宙の真理を学び、魂の糧として己が心の内に蓄えてゆけば、徳の光が生命の輝きとなってゆくのである。徳を修めるということは、道を究めてゆくということでもある。道とは、万物を貫いている所の真理(法則)であり、この真理に則ることが、真なる智徳の要なのである。学問に光があるということが、真の学問の誉れである。学問を学ぶことを通して、人生が豊かになり、人生が大道に則るということが大切なのである。あくまでも、天地宇宙
朝、モーツァルトの交響曲やベートーベンの交響曲を改めて聴いていて、この格調高さは一体どこから来るものであろうかと考えを巡らせていたが、この格調高さの味わいは、本に例えるならば、セネカやショーペンハウアー等の、古典として遺っている洗練された文体と崇高な思想の力に近いものがあるのではないかと思えたのである。このような格調高さという徳目は、全ての哲学者が修養し、目標とすべき永遠のテーマではないかと思うし、これこそが、古典に遺るものと遺らないもの、永遠の価値を持つものと持たないものを分ける
無私の内に幸福を見出せ。謙虚さの内に幸福を見出せ。誠実さの内に幸福を見出せ。やさしさの内に幸福を見出せ。努力の内に幸福を見出せ。真理の道に幸福を見出せ。天川貴之(JDR総合研究所・代表)
幾つもの星々が輝いている中に人の生命は煌めきながら叫びつづける永遠に変わらないものの中に消えてゆく流された光明は流転してゆく生命の流れをすべての祈りと共に刻印する幻の中に観えた永遠は人々の生命を結ぶ光であり掲げられた彼方の愛が此方にある地の国の声と共に祈りに親しい声を響かせ言霊の光明を一筋の光として歩むことを教えつづける光と一体となった生命は永遠の輪廻の中においてなつかしい記憶をたどり
自己の運命を「立命」してゆくということは、即ち、善業を積んでゆくということである。善業を積んでゆくということは、人々のため、世の中のためを念って、利他の心を持って、努力精進してゆくことである。己が考え方において、善き哲学を、善きフィロソフィーを持つことである。その上で、熱意を持って、情熱を持って、日々、努力精進してゆくことである。「因果応報の法則」は、100%、実人生の中で実現してゆく。自分自身の思念の業が、現在の自分自身の人生を創っているのである。また、未来の自分を創ってゆくので
時空を超えて遺っている魂の輝き、精神の声というものの本質とは、一体何なのであろうか。例えば、歌というものであっても、その対象となった恋愛関係が無くなってしまったのにもかかわらず、その歌は遺りつづけ、時を経て復活し、歌われ、愛されるということがある。そして、その歌の対象の限定を超えて、多くの人々に愛されてゆくということがあるのである。このように、「言の葉」というものには、本源的に永遠普遍のロゴスのようなものがあって、不死性や普遍性をもともと持っているのではないかと思われる。ま