ブログ記事993件
どのような人の一言も決して無駄にするな。一つ一つ噛みしめ、すべてを魂の糧として、すべてを人生の教訓にせよ。そして、その言葉一つ一つによって、他人に映る自己像を確認せよ。他人の中の自分をもっともっと研究せよ。天川貴之(JDR総合研究所・代表)
輝ける銀の華が夜に降る時代のうねりの中に今もなお生きている夢の現実は眠りゆく街に永遠の炎を掲げつづけるミネルバのふくろうがハドリアヌスの建築の絵のほとりを歩く時今もなお生きている精神の内奥世界を知るだろう巡り合う日を楽しみにして今という季節は旅人を待つ君が巡りゆくその後の行方を知っている者が二人として居ようか唯一人居るのだ君を待つ人が
運命というものは、前世の業が現象化したものもあるが、さらに、今世における思念の業、行いの業が現象化して、成功や失敗となって現われるものもあるのである。故に、成功してゆく思念の業を創り、失敗してゆく思念の業をよくよく反省して、除いてゆくべきである。さらに、浄化して、光に変えてゆくべきである。真に成功してゆくための基は、利他の実践にあるのである。人々のために、世の中のために、愛と慈悲の心を持ちつづけ、利他の心を持ちつづけ、それを実践してゆけば、自然に成功と繁栄と健康と幸福が得られるのである
では、自分自身の指導理性というものは、現象世界の自己と、どういう関係にあるのであろうか。これは、現象世界の法則とは違う世界の法則的真理なのである。カントの云うように、現象世界の因果律とは違う世界の叡智的実在なのである。しかしながら、かかる叡智的実在は、現象的自己に語りかけ、働きかけるのである。それは、カントの云う所の「定言的命法」の主体であり、道徳的立法をする主体でもあるものである。故に、アウレリウスの云うとおり、吾々は、常に吾々の内なる指導理性の声、導きを定言的命法と
頭では「すべきこと」「高い理念」が分かっているのにもかかわらず、自分の言動がそれと一致しないことを反省する時程、自分自身の無力さを痛感する時はない。天川貴之(JDR総合研究所・代表)
春の風は透明であの人のことを思い出させるきっと聴いていたに違いない思い出の音楽は永遠の故郷に言霊する春の風は穏やかで春の陽ざしは明るくて花を揺らしては微笑んでいるあなたの側を通りすぎるとさらに陽気な歌が流れるこの川の流れのように歌いたいねと云っていたねあなたの側を通りすぎると風はさらに明るくなって多くの思い出を語りかける孤独なんかではないよいつも側に君達が居るから
元京セラ名誉会長の稲盛和夫氏が述べられていたように、夢を実現するにあたっては、利他の心を持つことが大切である。人のため、世の中のためを念って、善き願望を持つことである。そのために、よくよく自らの願望の質を点検し、反省することである。何故なら、愛と利他の念いのある願望は、より素晴らしい成功をもたらし、それを持続させてゆくからである。その上で、その願望の実現に向けて、誰にも負けない努力を積み重ねてゆくことである。様々な周囲の情報に流されるのではなく、また、快楽に流されるのでもなく、弛みなき
いかなるものであっても、思索の対象とならないものは本来ないのである。いかなる世界であっても、思索をしつづける限り、真理を無限に創造し、真理界を無限無数に創造してゆけると言えるのである。また、思索する以前に、真理を学ぶということであっても、真理の世界を現象界に創造することになるのである。古今東西の哲人達の真理を学べば、現在にあって現在を超越してゆく。永遠無限の世界に楽しんでゆくことが出来るのである。さらに、自らの思索を練って、思索を深めてゆけば、思索すること自体が、現象界を超越するこ
私は今まで、「冗談でも言ってほしくないこと」をどれだけ言い放ってきたことであろう。その冗談が、どれだけ他人を傷つけ、自分自身をも傷つけてきたことであろう。天川貴之(JDR総合研究所・代表)
君はどんな時にも魂の煌めきを忘れないだけど君は悲しみから本当に遠い世界に住んでいるのかいいつも側に居て君を笑わせるよと僕は謳うけれども君はロマンティックに微笑んで魂の言葉を届けるようこそ兄弟よ魂のかすかな記憶をたどって天空に飛び立とう君が魂の花を咲かせると誰もが心を取り戻す君が魂から笑っていると色々なことに道がついてゆく天川貴之(JDR総合
様々なものすべてに意味があり、その意味の奥に、本質的真理があるのである。そのような本質的真理というものを発見してゆくのが哲学的営みである。故に、この地上のありとしあらゆるものは、哲学という営みによって意味を発見され、さらに、本質的真理へと高められてゆくものであると言えるのである。このように、人生にどんな意味があるのかということを発見することが哲学的営みである。こうした哲学がなければ、人生とは、あたかも無意味なものであるかの如く認識されるかもしれない。実際にそういう方もおられるであろう。
今日思索したものは、今日の生命を生きている。今日の生命を生かされているのである。しかしながら、哲学に生きる者の生命は、真理を観じ、真理と一体となって真理を現わす所にこそあるので、今日という日を超越して、永遠無限なる日へとつながってゆく。永遠無限なる法身、永遠無限なる真理と一体となってゆくのである。宇宙の真理は、本来、永遠無限である。永遠無限の相をもって、今日ある人生を観ずれば、その本質的生命が、本来、永遠無限の生命を宿していることが分かるのである。このような永遠無限の生命であっ
今、与えられた「やるべきこと」から逃げてはならない。これに積極的に取り組んでゆけ。まず、それから片付けてゆけ。「やるべきこと」を決して後まわしにしてはならない。「やるべきこと」が心にひっかかっていながら、他のことに流れたとしても、そこでは何か後ろめたさが感じられて、真の幸福感は味わえないものだ。まず、何よりも、「やるべきこと」をやれ。それがあなたの適性に合うとか合わないとかいうことを言い訳にしてはならない。それに勇敢に立ち向かってゆかなければ、決して他の道は開けない。決して
側においでよ水の精が歌っている水の精の歌が聴こえたらここへおいでよ花の精が踊っている陽気な笑い声を出して全てのものに祝福の讃歌を贈ろう心の花束があるならば側においでよ白鳥が空の青さに美しく舞っているあなたのことが知りたいから心の花束をもって側においでよ天の華が降り注ぐという君の優しい声を聴かせてよ鳥達も謳い集うよ(天川貴之)
人間学誌「致知」のような雑誌から学ぶことも大切である。「致知」の中において、安岡正篤や森信三や中村天風などの哲人達の東洋哲学や人間学、また、儒教や老荘思想等に触れて、これを活学して、様々な徳を積んでゆくことも大切なのである。こうした「致知」において説かれている東洋哲学と、さらに、西洋哲学の両方が、バランスを取って融合されているような哲人であるということは、特に、新時代においては大切であろう。かの福澤諭吉の思想の中にも、西洋哲学・西洋思想のみではなくて、そこには東洋哲学や日本哲学もその根
このセネカによって、快楽に負けず、快楽に左右されずに、むしろ使いこなして、不動の徳の輝きを保ちつづけることの大切さを改めて教わるのであるが、確かに、快楽に打ち克てないようでは、人生で様々に出会う困難を超克してゆくことは難しいのかもしれない。今だに生老病死の四苦八苦に対して、時に弱音を吐く私自身も、セネカの不撓不屈の精神力に改めて激励される気持ちである。このような不滅の精神力を鍛えるために、時に、試練のような運命が与えられることもあるのかもしれない。しかし、それこそが、偉人を偉人
◎理性なき所に感情の幸福なし。感情の幸福は、理性によってこそよりよく確保されるものである。理性なく感性の奔放さだけに従って生きる人間は、ハンドルとブレーキをなくした爆走バイクに乗っているようなものである。◎理性とは、我々を、感情の泥沼や断崖から守る垣根のようなものである。理性は、感情を殺してしまうことを意味してはいない。理性的であることによって、我々は感情による不幸から守られ、感情による幸福をよりよく享受することができるのである。
チューリップが咲いている赤い色やピンク色紫色に虹色に淡く咲いて濃く咲いて太陽の光に讃歌を歌い月光のメロディーに歌詞をつけるあなたの夢は近くに咲いているあなたの華は近くに咲いている悲しい時にもあなたの側に居るから悲しい時にも喜びの歌をあなたに贈るから永遠の昔からの約束を憶い出してねあなたが地上に居るだけで全てのものが麗しいあなたがそこに居るだけで永遠の詩が咲いている
小説家が綴った一冊のエッセイであっても、自らの人生経験の中において、その作家が文学で培った智慧が結晶しているものである。文学を味わうということは、幅の広い人生の奥行きを味わうということでもある。それはまた、楽しみでもある。多くの作家の方の人生の作品に出会うということは、人生の楽しみを増やすということでもあるのである。またそれは、人生訓としても、一人一人の作家の実人生で培った哲学であり、実人生の告白であり、実人生の文学である。このように、小説やエッセイを通して、一人一人の人生を味わってゆ
このような古典的真理の智慧の眼を培うということは、実は、決してたやすいことではなく、大抵の場合、我々は、ともすれば、現代に流行している浅薄な思想に幻惑されてしまい、本来の定点を見失ってしまって、不安になることも多いからである。そして、何度も云うように、人間の眼というものは、現代という時代を真の意味で達観することは容易ではないからである。今までも、誰もが同時代にあるものの価値を見誤ってきた歴史があり、それは、歴史上の偉人の価値であっても例外ではない。そのような場合であって
心の暗い時や感情が不安定な時には、迷うことと悩むことをやめる方がよい。こういう時には、bestな選択と計画ができにくいからだ。もし、そうした積極的な進路決定を為しえない状態にあるならば、悩みや迷いは、ただ不調和な想念を生み出すだけで、「百害あって一利なし」だからである。こういう時には、すべてを天に任せて、何か実践的なものを、コツコツと努力してゆく方がよい。天川貴之(JDR総合研究所・代表)
あなたの面影を花の中に探していると蜜蜂達が楽しそうに菜の花に揺れている君の魂は様々なものの中に宿っている春の訪れを感じさせる冬の中に抱いた想いは春の中にも想いを注ぐ君の瞳が輝く時期がやってきたんだね久しぶりに巡り合う魂達は何度も夢を観る手をつないで海を渡ればそこには様々な世界がある魂の手をとり合って出会いを楽しもうね
文学作品の一つ一つは、その時代の世情というものを結晶化するものである。時代の流行というものを封印するものである。テレビも、音楽も、小説も、文化の様々なものが時代を創っている。その一つ一つの作品の中で、我々の魂が活かされているのである。確かに、「時代精神」となるような本はごくわずかであるが、文化的流行となる本は多くある。その一つ一つを読んで、様々な文化を味わうことも、人生の糧となり、人生の味わいの幅を広げてゆくことになるのである。一人の作家が一冊の本を書くのには、一年ぐらいかけて、お
真理には様々な側面があるものであり、古典的真理というものは、大海のようにして、様々な生命を養っているように思う。今までも広く多くの人々に愛され、魂を磨きつづけてきた精神は、これより後も、多くの人々に愛され、魂を磨きつづけてゆくことであろうが、改めて再読して、深く心を打つという真理があれば、それは、その真理が既に確かに自らの心の内に根付いていて、その自己の内なる同様の真理が共鳴しているということでもあろう。古典的良書の面白い所は、再読して飽きがこないばかりか、少し時間を置いて、様々な
私は人々からの奉仕の中で生きている。私は人々からの奉仕によって豊かな生命を享受できるのだ。皆が頑張っている姿を見たら、何も仕事をしないでいる自分が恥ずかしく思えてくる。私も何か人の役に立つことをしたいという心のうずきが、ふつふつとこみ上げてくる。天川貴之(JDR総合研究所・代表)
外は雪だというけれども陽気な人々はいこうよ花の園を創りつづける空の空気の澄んだ音色は君のことを忘れずにいてねという身体の外にある実体めいたものでさえ全てが霞になってゆくのだねいつまでも探しつづける姿はあるどこまでも追いつづける姿はある君は白馬を見つけたと云うが君こそが白馬にふさわしいと云う人々も居る探そうとすれば遠いけれども見つけようとすれば近いものもある夕空の中でも輝く魂達は一瞬一瞬の中に永遠の今を刻印しつづけてゆく
真に学問を修めるということは、一人一人の内なる理性を磨いて、これを育むということである。この理性とは、また、神性、仏性ということでもある。カントの云う所の「実践理性」とは、内なる神性、仏性、良心のことでもあるのである。学問を修めることによって、己が智徳を育み伸ばしてゆくことこそが、哲学者、及び、学者の天命である。一人一人の学生の中には理性が宿っており、この理性が磨かれることによって、理念が結実し、イデア界に、生きながらにして住むことが出来るのである。この永遠普遍のイデア界、理念
プラトンにおいても、カントにおいても、「イデア」や「物自体」に対する現象世界というものは、それは、プラトンでは、感覚によって誘発された臆見によって、カントでは、時間空間や因果関係によって生ずる世界であり、生々流転しているものであるが故に、「イデア」や「物自体」に対しては、本来、空無の存在である。これは、谷口雅春が、「現象本来なし」「実相のみ実在」「実相は実相覚によって悟られる」とした唯神実相哲学とも似ている所が面白い。このように、プラトンの「イデア」やカントの「物自体」を「実相
何事も引き際が肝腎である。八分の心地良さに達したと思った時に、名残り惜しい余韻を残しながら席を立ちなさい。それが調和の中に生きる道です。もしも、その引き際が悪ければ、夢心地気分も束の間、泥沼にいつかしら入り込んで、後悔している自分を見出すことであろう。天川貴之(JDR総合研究所・代表)
君に宛てた手紙も幾つもの表情があり空色に透けゆく心も幾つもの色がありいつものように君が空気と一つになる時その場所を歩いていたのは私だったいつからだろうか君が歩き出したのは私達は生まれる以前から知り合っていた愛し合っていた結ばれていたでも生まれ落ちた時からそのことを忘れはてて今に到るしかし出会いの時期はあるのだねお互いに想い出す時期はもう一つの魂に君がなりもう一つの魂に私がなるさらなる機会が巡ってくればお互いの運