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「大塩平八郎他三篇」森鷗外【2】大塩平八郎(岩波文庫)前回のブログ記事は以下の通りです。「大塩平八郎他三篇」森鷗外(岩波文庫)【1】護持院原の敵討アメーバブログ記事より「大塩平八郎他三篇」森鷗外(岩波文庫)【1】護持院原の敵討アメーバブログ記事『「大塩平八郎他三篇」森鷗外(岩波文庫)【1】護持院原の敵討』「大塩平八郎他三篇」森鷗外【1】護持院原の敵討(岩波文庫)先日(3月27日)購入したばかりの岩波文庫を読み進めています。関連ブログ記事は
【天保の飢饉】飢えよりも深刻だったもの
街を燃やしたのに市民から愛された「爆発した役人」の正体#日本史#大塩平八郎@gobulin2012潜伏してる場所をバラす奴いなかったけど、反乱をバラした奴はいたんかーい!詳しく話を聞こうかai-ringoこの人旧法華講の方なんですよ大阪の昔々の人々は『どっかに大塩居らんのか?!』と言う言葉が有ります@関ヶ原-r6m江戸幕府つまり徳川の時代の終焉の始まりだったと思います。さて令和もいつ大塩平八郎のような人物が現れるか楽しみ。◆大塩平八郎檄文
きのは、また眠くて眠くて、一日中うつらうつらしてました疲れてましたここ、2,3日、庭仕事に精を出したからだと思われます。。。数年前から、疲れたら眠くなるというようになってきて、言わば大変健康的になったんです。以前は、疲れてることを気付けず、がんばって走り続ける人だったので。昼寝なんか、したことがなかったんですけどね。。。今は、勝手にオートマチックに昼寝してますただし、がっつりと布団に横になるわけじゃありません。いつも、椅子の上でうつらうつらです。寝るつもりもなく寝て
11/1富山マラソン前日今日から解体に入るとの事で早朝から2階の照明とカーテンを順に外したその後1回の奥の部屋から順に照明とカーテンを外すこれが照明類蛍光灯と電球をすべて外してねそれから畳を剥ぐっていった。20畳ほどかな夕方、大工さんが仏壇と床の間の材料をみてあーでないこうでないと思案。家は解体するけど使えるものは使ってほしいと要望した為それには仏壇を移動しないといけないとの事で5日に動かすことになった。じゃあ3日に仏壇の中の物出しときますという事で今
本日は周防国分寺③です!「ジャガイモ」はなんの略「ジャガイモ」はなんの略か知っていますか?実はジャガイモにはさまざまな呼び方があり、「馬鈴薯(ばれいしょ)」と呼ばれることもあります正解は「ジャガタライモ」を略した言葉でした!ジャガイモは、17世紀の初めにジャカルタを経由して日本へ伝わりましたそこから「ジャカルタから来たいも=じゃがたらいも」がなまって「じゃがいも」になったという説や、天保の大飢饉で多くの人の命を救った「御助芋(ごじょいも)」が転じた説など、
2025年10月9日。西村慎太郎です。本日も津島村の村長を長年務め、相双地域の歴史研究の先駆者である今野美壽が執筆した『吏務餘録』の翻刻。週に2回ずつ、だいたい1丁分を本ブログに掲載し、いずれは史料集としての刊行をしますので、お付き合いの程、宜しくお願い致します🤩全文常用漢字に改めて、句点は西村が付しました。【○オ】【○ウ】は「○丁目表」「○丁目裏」の略です。-------------------------------------------------【四オ】もの
最近、はまって観ているこちらのシリーズ。前の加来耕三先生のシリーズの方が楽しかったし、「敗北」というタイトルに無理矢理合わせていて違和感を感じる回もありますが、前シリーズで扱わなった歴史上の人物もあり、楽しいです。江戸時代後期、米不足に悩む大阪の庶民を救うために決起した大塩平八郎。百姓一揆や打壊しを除けば、実際に決起した乱としては、島原の乱以来の内戦と云えるのではないでしょうか。しかも、島原の乱や、事実上未遂で鎮圧された由井正雪の乱などと違い、彼らが自己の救済を
4代上の高祖父(玄祖父、父の母の父の父)は1836年生まれです。歴史にとても疎い私はその辺りの日本がどんなだったか、ぱっと分からないわけですわ。で調べてみたところ天保の大飢饉戸籍から作る命式付き家系図と日本の歴史4代上の高祖父(玄祖父、父の母の父の父)は1836年生まれです。歴史にとても疎い私はその辺りの日本がどんなだったか、ぱっと分からないわけですわ。で調べてみたところ天保の大飢饉kayo-ruhe.com
前記の紙芝居を、今日デイサービスで演じてきました。小学校低学年向けとはいえ18分くらいかかる長めのものですが、高齢者の皆様方はとても熱心に見てくださいました。はじめに、皆様へ茄子の話やその味について聞いてみました。「夏のナスと違って秋ナスはとても旨いぞ、違いが分かるぞ」と言うお返事の方が居ました。紙芝居は、二宮金次郎が初夏なのに茄子の味が夏のではなくて秋の味がすることに気がつくことから始まります。夏なのに、秋のナスの味がするので、暑い夏が来ないのではないかと気がつき、田植えを
紙芝居の紹介題名大飢饉から人々を救え!文横田和弘絵田沢梨枝子制作神奈川県場面数12小学校低学年向け二宮金次郎は、田植えが終わったばかりのある夏の日に、なすの味がおかしいことに気がつきました。江戸時代最大の5年間も続く「天保の大飢饉」の始まりに気づいたのでした。それから「助け合う人の道」を、多くの飢える人々へ説いて歩きました。やがて、小田原4万人の人々もこうして救われました。
大塩平八郎は昨日紹介した佐野政言と並ぶ私怨の人で、私怨で世の中の流れを変えた人でした。一般的には、大塩は窮民の救済で立ち上がったと言われていますが、大坂町奉行の跡部良弼と町奉行所与力の内山彦次郎への私怨が、決起に至る重大な要素のような気がします。大塩は町奉行所の敏腕与力として知られると同時に、陽明学者としても有名でした。町奉行所の与力はいわゆる地役人であり、江戸から赴任してくる大坂城代や大坂町奉行とは違い、先祖代々大坂町奉行所に勤務している身なので、地元の事情に精通していて、商
石御堂@豊田市天保の大飢饉による農民生活の極度の困窮で発生天保の改革の原因にもなった、先駆的な一揆二人でおすまし「メイともな」かわいい
今日は朝から雨の1日となった。雨で青空は見れなかったので…撮り貯めた空を…昨日の段階では雪の予報だったが雪にはならなかった。ただ、今日は昨日よりも気温が低くて真冬の寒さになっているな😣☔️東京大仏を見ながら周囲にある像を見ていく事に…文殊菩薩。諸仏の智慧をつかさどる菩薩で釈迦如来の脇侍として左に侍し、普賢菩薩とともに三尊を形成する。※三人寄れば文殊の知恵の文殊は文殊菩薩の略。文殊菩薩は時に獅子に乗る形をとるようなので下にいるのは獅子のようだ。また奪衣婆が…💧※葬頭河婆(そう
東武東上線の下赤塚駅で下車。目的は、板橋区立美術館で開催中の『エド・イン・ブラック黒からみる江戸絵画』展。駅から歩いて、約24分(美術館のホームページによると、です。)のところにある美術館。その途中で、桜に、引き寄せられて。松月院。中に入っていくと、なぜ、人は、桜に魅了されるのか?『万葉集』では、花といえば『梅』。それが、『古今和歌集』になると、『桜』。中国文化の影響ともかかわって。日本人の『心性』ともかかわって?お花見に、ふだんは花なぞに無関心、無感動であっても、出かけ
第十四話外に鬼はいない(9)「アクシデント……か。夫婦のどちらかが病気で倒れた、とかか?」牟田さんの推測はあっさり否定された。「いいや、人の生き死にに直結する事態は村八分の疎外対象から外れる。まともな親なら内心村八分に納得していないから、事態を座視しないよ」「ううむ」「逆にね、親が若夫婦を助けたくても助けられないケースを考えてみればいい」「あ……」敬士さんが青くなった。「ま、まさか。大きな災害があったとか」「そう。地震や水害の可能性もあるけど、わたしは天保の大飢饉だった
伊豆の国市韮山にある、江川邸に行きました。企画展「江川英龍代官就任190年・没後170年」が、1月9日〜2月18日まで開催中です。企画展前期の内容天保の飢饉、大塩平八郎の乱などに対応した史料を展示。大塩後素建議書大坂で一揆を起こした大塩平八郎。江戸の林大学宛に建議書を送るも、箱根西麓にある塚原新田で盗賊に奪われる。金品が無く捨てられ、名主から韮山代官所に届けられた。*塚原新田は、三島市にあります。国道1号線バイパス塚原IC、フルーツパークの北側に旧東海道があり塚原集落があり
旧東海道歩きは「品川宿(北)」をめぐります。法善寺の門前に「品川小學校發祥之地」碑があります。明治6年(1873)都築幾三郎という人が近くの善福寺で算術中心の寺小屋を始め、まもなくここ法善寺に移り門弟60数名を教えていたという。地元の戸長が公立学校にすることを東京府に願い出て認められたのが明治7年(1874)のことで、品川区最初の小学校でした。その後生徒数が増加したことにより他所に移転しています。門塀が煉瓦造り。浄土宗のお寺「法善寺」は、至徳元年(1384㊟)言誉上
ご無沙汰しております(^_^;)こんばんは。身辺で、色々とあり対応に追われる日々を送っておりました。活動の1つを少々…2022.8、舞台「ミス・サイゴン」から舞台「レ・ミゼラブル」迄共時性(シンクロニシティ・偶然の一致)を捉えながら、観劇してきました。※氣になる方は、以前のブログを参照してくださいね。それなのに…大変残念なことに...レ・ミゼラブルのチケット戦…全敗致しました。あ”~、帝国劇場で、見届けられないことが悲しいです(涙)・・・。という
2023年12月15日の僕のブログの再掲です。最近、この記事のアクセスが40アクセスと上位に上がって来たので、再掲します。去年の記事なのですが、、、一応、説明の足りないところに、加筆しました。(再掲開始)天保の大飢饉(1833年〜1839年)の後、幕府が改革(天保の改革、1841年〜1843年)を打ち出しましたが、諸藩でも藩政改革が、行われてました。
先日、大須の三輪神社に参拝してきました。名古屋の矢場町という繁華街の近くに位置し、その矢場町の名前の由来である、尾張徳川家の矢場跡がこちらの神社に残されています。後ほど調べて分かった事なのですが、この神社には大きな破魔矢が刺さっている縁結びの木があるそうです。全然、自分気づかなかった〜😭名古屋地方の中では、結構有名な縁結びのスポットらしいので、興味ある方は是非とも訪れてみてはいかがでしょうか。三輪神社の成り立ち三輪神社は当時名古屋地区に実在した小林城の城主であった牧長清が大和国の三輪
瑞泉寺の超巨大ネットワーク真宗大谷派井波別院瑞泉寺というのが正式な名称。本願寺第五代綽如により1390年に建立。浄土真宗の開祖の親鸞は有名だけど、第五代綽如の知名度はもう一つ。それまでは、関東地方でしか勢力のなかった浄土真宗の勢力を、一気に近畿から北陸方面に広げたのが、第五代綽如。朝廷を動かすほどの博覧強記で、しかも行動力があり、さらにはどんな僻地へでも自らが赴くという情熱があって、特にこの井波地方では、カリスマ的な存在となったらしい。44歳で突然の死去。伝説では「南朝方の凶刃に倒
井波町は彫刻の町井波町は人口8000人。2004年に井波町を含めた8自治体が合併して南砺市が誕生。中世の時代に、北陸の浄土真宗の拠点として栄え、それは門前町というレベルではなく、巨大宗教王国で、上杉謙信や織田信長に対抗するレベル。1581年には、信長配下の武将佐々成政によって3000軒が全焼し壊滅1594年ごろから、前田家の保護で、大工のまちとして復興し、さらに前田家の文化政策で、彫刻の町として発展したという。井波彫刻は全国的に有名で、2018年には日本遺産に認定。父方のルーツは
10月3日(火)~6日(金)に四日市近郊の日永の追分から伊勢神宮まで続く伊勢参宮道を歩いた旅の模様、三日目の旅のその9をお送りします。この日の歩行ルートは↓。当初まばらでしたが、記事で触れているところについては大体街道遺構などのポイントも記載できています。この日は松阪の中心街から、伊勢神宮の外宮(げくう)の門前町、伊勢市駅前まで歩き、寄り道含めてざっと23~24㎞ほどの行程です。その8では、北畠氏の田丸城から移築された轉輪寺の門をざっと見た後、魅力的なうさぎの乗り物のある公園で休
1806,07年の露寇事件以来、外圧と内政に苦しむ徳川幕府。そこらへんの知識があまりない・・・なぜ朱子学と蘭学が交わらなかったのか?これが一番の疑問。岩波新書:辻本雅史著:「江戸の学びと思想家たち」も読み始めた。荻生徂徠の徂徠学とは?なんぞやって。この20ページほど読んでも、講釈でなく自習が基本と言うことと、四書五経でも「大学・中庸」などいらず、「論語」と五経が重要だと。歴史の為政者が歩んだ道を見れば、今どうすべきかヒントになるのかな??まだ分からない・・・頼山陽の
急に寒くなりましたねー⤴︎⤴︎数日前までは、猛暑だったのに、最近の気候はぜんぜんよめないですね⤴︎⤴︎(//∇//)先日お隣の畑の方が、ここ数年気候が変わって、野菜を育てるのが難しくなったって言われてました。本当にそうだと思います。こんな話を聞くと、二宮尊徳の「天保の大飢饉」の話を思い出しますが、これからは特に、自然を感じながら、先を見越して作物を作っていくことが大切なんだと思います小さいながらも畑をやってみて、作物を作る大変さがわかるので、農家さんは本当にすごと思います昨日
こんにちは、ノンノです母との海散歩の後に体調を崩してヨチヨチ歩きになってからは、用事で外出しなくてはいけない時以外は極力大人しく休んでいました。だいぶ足に力が戻ってきたので、帰国前にチョロっと近場をブラブラ散策してきました。旧鉄砲道と今の鉄砲道の分かれ目にある石碑。天保の大飢饉の時に、民を救った英雄のもの。幕府には罪人扱いにされてしまったけど、とってもとっても尊敬する人の石碑です。茅ヶ崎の煌き(佐々木卯之助)|茅ヶ崎観光情報サイト「ちがさきナビ」茅ヶ崎市観光協会茅ヶ崎の煌き(佐々木卯
太田備中守資始(すけもと)がどんな殿様だったのかを示すエピソードが、同時代の儒学者山田三川の『想古録』に紹介されています。曰く書を読み、「忠臣、君を怒らす」と言える処に至りて深く感嘆し、我を怒らすものは忠臣なりとて、侍臣の諌争を奨励されたり。つまり自分を怒らせるぐらいでなければダメだと、家臣の直言・諫言を奨励したというのです。説明するまでもなく、当時は殿様を怒らせてしまったら、最悪の場合、家名断絶や切腹も十分あり得た時代です。そんな中で、逆に俺を怒らすぐらいに、どんどん意見し
小田原城天守から坂道を下り豆汽車が有名なこども遊園地の横を抜け、小峰曲輪にある報徳二宮神社へやってきた手水舎報徳二宮神社は神奈川県小田原市城内にある神社小田原を生誕地とする二宮尊徳(金次郎)を祀っています明治27年(1894年)に小田原城二の丸小峰曲輪に建てられ現在も小田原城址内に境内が整備されています拝殿礎石は天保の大飢饉の際、藩主の命により二宮尊徳が小田原城内の米蔵を開き、米が人々の手にわたったことにより小田原11万石の領内から一人も餓死者も出さずにすんだそう