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2005年邦画をアマプラ398作目となります。ご存じ三島由紀夫の遺作「豊穣の海」全4巻の初作大部の映画化となります。正直イメージが頭の中に固着してますから、誰がやるのだろうと興味津々でしたが、松枝清顕を妻夫木聡、綾倉聡子を竹内結子と予告で絵面と共に公開されて、イメージが固着されました。しかしそれでも配役名前とともに既に頭の中に強固に出来上がってますから、どう見ても映画はそれとは別にあるように思えて、登場人物名の方が染みついてついているのが、他の映画作品と違う所です。内容は大河長編
「文豪ストレイドッグスvol.2×カラオケの鉄人」にじさんじに夢中になり過ぎて、他が疎かになっています(笑)ギリギリ、終了間近に行けましたメニューは、こちら⬇️「猟犬」こちらは、私が頼みました本当は、武装探偵社が良かったけどミルクティーが苦手なので、コーラにしました「天人五衰」こちらは、友達がオーダー⬇️一緒に撮影「チェキ風カード」オリジナルコースターか、チェキ風カードを選べましたがイラストが可愛かったので、私達はチェキ風カードにしました♥「カードフョードル・D」
私のブログにようこそ!!なんと去年に読んだ本です!!でも忘備録につけてるのでまあいいや●三島由紀夫「天人五衰」「豊穣の海」の第四部完結編。8か月ぐらい掛けて読みました清顕、勇、月光姫と転生し二十歳に夭折する三人その三人の伴走人の本多は年を取り老残を隠せない本多は慶子を伴い清水港で転生の印となるみっつの黒子をもつ透を養子にし教育を始め。この教育がいかに平凡な青年になるかで皮肉でした輪廻転生に取り憑かれた本多は透の鋭利な悪意に曝らされる事にまります。あなたは月光
たそかれと名を問ふ君そあくがれて茜の澪に身、踊らさん進恋の歌も、なんとか、どうやら。しかし、我ながら!キショい!!紫式部・吉高由里子日記那国王の教室・志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ・講演歴史遠足予定那国王の教室・志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ・講演歴史遠足ご報告
夕風よいたくな吹きそあかね雲に天女は影を今し留めつ進天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ古今和歌集僧正遍昭紫式部・吉高由里子日記那国王の教室・志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ・講演歴史遠足予定那国王の教室・志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ・講演歴史遠足ご報告
1967年に、三島由紀夫が42歳を目前に(1925年1月14日生まれ)、読売新聞正月版に『年頭の迷い』というエッセイを書いている。【三島由紀夫は剣道5段錬士であり居合道も2段だ】”私も40になったら、せめて地球に爪痕を残すだけの仕事をしたいと思って、一昨年から四巻物の大長編に取り掛かったが<中略>この長編の完成は早く共5年後の筈であるが、その時は私も47歳になっており、此れを完成した後は最早華々し
三島由紀夫に「嫌い」と言われ、太宰治が「笑った」訳太宰治が『走れメロス』と相反するような人間性であったことを前記事では解説した。だがむしろ当時の文豪でもっとも『走れメロス』的な作家とは誰だったのだろう?そう考えてみると、1人の文豪の名前が思い浮かぶ…toyokeizai.net東洋経済がアホということはわかる。なぜなら、太宰ともっとも仲が悪いのは中也だからだ。【文豪三大クズ】中原中也エピソード太宰治と不仲?おすすめ全集紹介若くしてこの世を去った天才詩人である中原中也。彼の破天荒ぶりは
木の五衰安岡正篤一日一言「木の五衰」ということがある。「木の五衰」の一つは「懐(ふところ)の蒸(む)れ」。枝葉が茂ることだ。枝葉が茂ると風通しが悪くなる。そうすると、そのために木が弱る。弱るから、どうしても根が「裾上がり」つまり根が浅くなってくる。根が上がってくる。そうすると生長が止まる、伸びなくなる。頭(梢)から枯れてくる。これを「末(うら)枯れ」という。末(うら)というのは梢(木末)という意味だ。梢が枯れてくると「末止まり」生長が止まる。その頃から、
三島由紀夫は静岡県下田をサンクチュアリ(聖地)と呼んで、毎年夏には家族と共に夏休を楽しむ事にしていた、そして下田市内の東急ホテルを定宿としていた。『この夏下田へ来て下さった時は、実にうれしく思ひました。小生にとっての最後の夏でもあり、心の中でお別れを告げつつ、楽しい時を過ごしました』と、自決の昭和45年11月、三島由紀夫は、深交のあるドナルド・キーン氏(DonaldKeene令和3年96歳没)宛に、正に遺書とも言うべき手紙を書いていた、しかも文中に”最後の夏
このように終止するのかあ。そうかあ。そうかあ。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。(しばし呆然と)ということで、一巻『春の雪』、二巻『奔馬』、三巻『暁の寺』、そして四巻『天人五衰』と、『豊饒の海』読了しました!👏👏👏1~4巻まで通読するのははじめてだったから、うん、満足したし、ちゃんと読めてよかった!私はたいてい併読するタイプなんですが、『暁の寺』からは他の本との併読ができなくなり、夢中になって駆け抜けた感じです。おかげで、今月読もうと思っていた村
三島由紀夫は、最近知ったと言ったら極端かもしれない。肌が合う、と言う言い方がある。この言い回しならば、ピンとこない作家だったようで、「仮面の告白」「金閣寺」「午後の曳行」「憂国」「英霊の聲」「春の雪」「天人五衰」は読んでいたものの、、、、、。梅原猛の「日本冒険」での、豊穣の海をめぐるくだりはやたら、スリリングではあった。「サド侯爵夫人」「近代能楽集」を、゛読んでみると゛違和感。面白い。「弱法師」をたまたま見て感激したり。猪瀬直樹の「ペルソナ」には、敗者としての三島由紀夫が現れ、筒井康隆の
清水エスパルスvs東京ヴェルディ皆様4月8日日本平へ。東京ヴェルディの応援に行きましょう。それは三島由紀夫。豊饒の海。東京都民の矜持です。
三島由紀夫が自決した昭和45年11月25日の前日24日深夜に擱筆の「豊饒の海」は、「春の雪」「奔馬」「暁の寺」そして「天人五衰」の輪廻転生の四部作だが、この豊饒の海という題名は実は三島が大学生の時に考えた自身の二番煎じの題名なのだ。【2005年映画化された”春の雪”松枝清顕役の妻夫木聡と綾倉聡子役の竹内結子】以前もこのブログでは触れたが、昭和21年、三島が21歳の時に詩集出版の企画が持上り、『この詩集には荒涼たる月世界の水無き海の名、幻耀の外面と暗黒の実体、
☆〜〜〜〜〜☆〜〜〜〜〜☆〜〜〜〜〜☆☆私の本棚☆読んだ本について思うところを書いています。あくまでも個人の感想です。☆〜〜〜〜〜☆〜〜〜〜〜☆〜〜〜〜〜☆今回ご紹介するのはこちら三島由紀夫著『豊饒の海4天人五衰』思えば、私が「唯識」や「阿頼耶識」という言葉を知ったのは、35年ほど前の学生時代に三島由紀夫の4部作『豊饒の海』を読んだときだったろう。その時は、何やら哲学的でよく分からない、ん?仏教用語なの?よく分からない、とスルーして本編のストーリーを追うだけの読書だった。そ
三島由紀夫が自決した昭和45年11月25日の前日深夜に擱筆の「豊饒の海四部作」は、手弱女ぶりの「春の雪」、益荒男振りの「奔馬」、奇魂の「暁の寺」そして幸魂の「天人五衰」の輪廻転生の物語、正に遺作。この豊饒の海という題名は、月にある海の一つ、ラテン名MareFoecunditatisの邦訳と云われいる。処がこの題名は三島が大学生の時に考えた自身の二番煎じなのだ。昭和21年、三島が21歳の時に詩集出版の企画が持上り、こ
ある方が、ある方の投稿した咲く花々の写真を見てこの咲き誇っている花々が徐々に枯れていく姿を思い「天人五衰」を思い浮かべると、コメントされていましたので「天人五衰」の何たるかを知らないわたくしなので早速、Wikipediaで検索~栄耀栄華を極めた天人でさえも「死」を前にして恐れを抱くものらしい・・・それも何と地獄に落ちた餓鬼の16倍の苦しみであるらしいではありませんか常ならぬこの身を今咲き誇る花の枯れ
三島由紀夫が自刃する8ヶ月前の1970年3月に、川端康成宛に書いた未発表の書簡の存在が今月早々明らかになった。そして今月7日新潮社から発売の月刊誌『新潮5月号』にその内容が掲載された。【新潮5月号】【NHKDVD三島由紀夫特集】当時、三島が”楯の会”会員30名を引き連れて体験入隊していた富士御殿場陸上自衛隊滝ヶ原分屯地の宿舎(1970年3月1~28日)で、便箋2枚に書いて川端宛に送
天人五衰とは天人の衰えを示すもので,これが現れたもう最期であるということです。もしこの世に生れつき別格で,特別に美しかったり,特別に悪だったり,そういうことがあれば,自然が見のがしにしておきません。そんな存在は根絶やしにして,人間にとっての手きびしい教訓にし,誰一人人間は『選ばれて』なんかこの世に生れて来はしない,ということを人間の頭に叩きこんでくれる筈ですわ。今にして本多は,生きることは老いることであり,老いることこそ生きることだった,と思い当った。この同義語がお互いにたえず相手を謗って来
三島由紀夫の作品が好きだ。同時代の作家は誰しもそうだが、とにかく文章が美しい。中学生の頃から太宰は好きではなく、三島は好きだった。『人間失格』の「かまってちゃん」っぷりは嫌だったが、『仮面の告白』は気に入っていた。さて今日は憂国忌、そう、三島由紀夫の命日である。最後の作品『豊饒の海』四部作の最後『天人五衰』を編集者に渡したのもこの日であった。『豊饒の海』は評価の分かれている作品だが、私は好きだ。特に最初の二つの物語が好きである。このずっと夢の中にいるかのような不思議
優れた小説には宝物がたくさんあり、読む度に宝を見つけることができる。しかもその宝は、あたかも自分だけが見つけることができたと思わせるように配置されているらしい。しかし今回再読した私は、読者全てに差し出されていた宝を、目の前にあってありありと見ることができたその宝の山を、全く見ておらず、全く気づかず通り過ぎていたのだと、本気で愕然とした。これはやはりすごい作品である。くどくどとした宗教の説明や本多が見たことを情景描写として説明するくだりが妙に続く『暁の寺』に比べ、この巻はエンタ
シグマの元ネタ・予想まだ異能名が公開されておらず、元ネタが不明のシグマ。今ある情報から予想してみたのですが、個人的にはフランスの哲学者であり、小説家のジャン=ポール・サルトル又は、日本の小説家であり「天人五衰」の生みの親でもある三島由紀夫を候補に挙げています。三島由紀夫の可能性が一番高いのでは無いかとは思いますが、ネタにしずらい部分や賛否両論を考えれば、ん~.....。なんとも言い難いところですよね。個人的には朝霧カフカ先生に時を超えて新たに三島由紀夫を生かして欲しいです。プロフィ
小説中に冒頭から挿入される、旧字体の小説がイイ出典は何だろうと思ったら京極作だった。素晴らしい自粛延長期間中はなるべく分厚いものをと思って、京極夏彦百鬼夜行シリーズを選択。豆腐小僧やらどすこいやら、テンポよくふざけ散らかすギャグものしか読んでなかったので、少々気合いの入ったイキッタものを。だからデビュー作。民俗学、オカルト、宗教、倫理etc.…初期作品でミッチリ言い尽くしたので、後の作品はエンジョイおふざけになったのかなあというのが第一印象だった。しばしば目にしていた「非科学的なものは
なんか、怠いし、微熱気味。あれ?ついにCovid_19コロナウイルスに感染したか?と思いましたが、この頭がぼわーっとする感覚、毎年訪れるあれ、花粉症のようです。両目の奥辺りから額の両側にかけての、弱いけど確実な「頭痛」。とかなんとか思っているうちに目が痒くなってきて・・・。今朝、コンビニまで新聞を買いに「散歩」したから、どこかで花粉拾ったようです。今年はコロナ事態の中で、初めて花粉症が発症する人もいるわけで、その人たちは、きっと驚くというか、不安になるはずです。私は30年以上前の2
三島由紀夫は皆さまご存じのように,1970年11月25日に市ヶ谷の自衛隊駐屯地の総監室で切腹して亡くなりました.僕もそれをリアルタイムで体験した世代の1人として,彼の死については繰り返して考えてきました.昨年は彼の死後50年を記念して何冊かの本が出版されましたが,その中の1冊佐藤秀明著「三島由紀夫・悲劇への欲動」岩波新書を読みながら,そもそも彼の死は統計として自殺に計上されているのだろうかと妙な疑問が湧きました.もちろん切腹だから自殺でしょ,と言ってしまえば簡単なのですが,彼は切腹の伝統に
3年前、56歳で脳出血を発症して、右脳の細胞を損壊しました。ちょうど身体能力の老化が顕著になる時期と重なったためか、以来五感の衰えが生活レベルで実感されます。まずは視覚。私は元々重度近視なところに、左眼は糖尿病網膜症で手術をしておりましたが、脳出血発症直後から見え方が悪くなった感じがしたので、半年間の脳外科入院中に、病棟の看護師付き添いのもと、目の手術をしてくれた先生の眼科を受診、検査しました。しかし、視力は何も低下しておらず、翌年の免許証更新でも無事にパスしました。視力は落ちては
三島由紀夫をどう思うかと誰かに聞かれたら、人としては嫌いだ、と私は答えるだろう。けばけばしい軍服もどきの制服を着、屈強の青年たちを従えて軍隊ごっこをした彼は嫌いだ。彼をさらに嫌いにさせるエピソードもある。作家・阿部譲二は三島を慕い、彼と付き合っていた時期があった。ある時、三島が阿部にボクシングジムを紹介してほしいと依頼したので阿部は知り合いの経営するジムを紹介した。ところが、三島がボクシングを始めた理由が強くなりたいからではなくて自分の肉体をかっこよくしたかったからだ、と知って阿部
1970年11月25日、三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で自決してから、あすで50年になります。雑誌や新聞でよく特集を見かけます。きょうは、三島作品と奈良のかかわりについて書いてみたいと思います。45年という短い人生の中で三島は奈良に何度か足を運びました。特に、晩年の作である「豊饒の海」4部作において、奈良は重要な舞台になっています。1966年8月には、ドナルドキーン氏と三輪に3日間参籠し、山中の「三光の滝」にも打たれています。大神神社を訪れた三島とキーン氏(朝日新聞奈良版から)
三島由紀夫『豊穣の海』全4巻を読んだ。『豊穣の海』シリーズは、『春の雪』『奔馬』までしか読んだことがなかったので、もう一度、1巻から読んでみることにした。初めて読んだ時にも『春の雪』がいいなぁと思ったけども、やっぱり『春の雪』が一番好きかもしれない。前半の清顕の言葉や態度にイライラはするけれど…後半にかけての画が儚くて美しい。『奔馬』は熱くて潔くて清い。実際こうした人たちがいて時代を担ってきたのだろう。こちらもラストシーンが美しくて、印象的。『暁の寺』は、んー、一番印象が薄い。そして正直
磯田光一さんの「戦後史の空間」を読んでいたら、太宰治が終戦時、大人であった事に触れていました。終戦、敗戦時に成人していた、と言う事。後の世代、三島由紀夫であり、大江健三郎ともなると、太平洋戦争、終戦の流れ、アメリカ軍の占領、と言う流れがあり、天皇の位置付けが変わり、所謂人間宣言から、時は流れ60年代を迎えると、蘇り、意識に上るその存在をどうにかしなくなり、それが大きな仕事を作る。年長で、クラスが違い、党派性的に真逆の松本清張ともなると、或いは、司馬遼太郎ともなると太平洋戦争は、「行っていた」の
尖閣諸島周辺海域でのシナ公船による挑発行為と、我が国船舶が「領海侵犯した」、我が国航空機が「領空侵犯した」などと妄言を振りまく中共への抗議文を、駐阪シナ領事館前で読み上げて投函しました。午後からは一日会。今回の講演は黒田秀高先生(元伏見稲荷大社正禰宜)が「三島烈士」の文武両道の演題で、◎「楯の会事件」以前は、三島の文武のうち「武」には興味が薄かったが「文」には魅力を感じた。「奔馬」を読んで國學院大學に進学した。◎三島の遺作となった「日本文学小史」の読み解き。「文化意志」について。◎