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※この記事は、令和元年11月10日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は歴史小説の大家津本陽氏の名作『名臣伝(めいしんでん)』のご紹介です。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。津本陽氏の著作についての記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:津本陽『椿と花水木』外国人が流入してきて日本人のアイデンティティが問われ始めて久しい今日この頃。そのアイデンティティの一要素として「武士道」が叫ばれてこれまた久しいですが、とかく「武士道」というものは尾ひれが
昨年の11月29日から大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを始めましたが、途中約1ケ月の中断をしてしまい2024年に突入してしまいましたが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。<「家康」の出来事>「家康」にとって「遠江」一国の支配を回復する為に絶対に必要だった「高天神城」を、1574年に「武田勝頼」によって攻められ、「家康」は援軍を送
三河の城巡りに入ってからここまで、ろくな遺構のない城跡ばかり(失礼!)を巡ってきましたので、野場西城に辿り着いた時には「おお」という声が出ました。曲線を描くどっしりした土塁が残る野場西城は、「野場城」の石碑と「野場西城」の案内看板とを備えた、堂々たる(当日他城比^^;)お城でした。冷静に考えれば20mにも満たない土塁の残欠でしかないのですが、それでも残っているだけ有難く。久々に「城分」の吸収といきましょう。ちゅー・・・(城仲間の間ではお城に暫く行かずにいると「城分が足りない」となり
ロシア、「軍国主義日本に対する勝利の日」制定へ…日本のウクライナ支援へ報復か読売新聞オンライン【読売新聞】ロシア下院は20日の本会議で、9月3日を「軍国主義日本に対する勝利と第2次大戦終結の日」にする法案を可決した。上院の審議を経て、...浴衣が似合うキャラといえば?アンケート〆切は6月28日アニメ!アニメ!日本ゆかた連合会が制定した記念日です。なお8月4日も「ゆかたの日」ですが、こちらは兵庫県城崎町の城崎温泉観光協会が城崎ふるさと祭りにちなんで制定しま...五代将軍
鎌倉殿の13人:鈴木京香「プレッシャーを感じていたのは私」政子に“圧”を与え続けた丹後局迫力...MANTANWEB(まんたんウェブ)俳優の小栗旬さん主演のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(総合、日曜午後8時ほか)第24回「変わらぬ人」が6月19日に放送され、鈴木京香さん扮(ふん)する...最近購入した本3冊|向田邦子さんのエッセイと、小説2作|LEELEEちなみに…半年遅れ(!)のご紹介ですが2021年、一番面白かった本は吉田修一さんの「国宝」。任侠と歌舞伎の世
昔から訪れてみたいと思っていた城なんです名前が気になっていて馬伏塚(まむしづか)なんて一度聴いたら忘れない名前ですから頭に残る響きでなんです前置きはこのくらいにしておいて訪城の感想です浅名地区の岡山、田圃に囲まれた小丘に構えられていました現在は民家が立ち並び遺構は薄いです正直言って自身の勝手な思い入れが無ければ楽しめなかったかもしれませんww南北に長い丘に築かれた城で中心部は南端、つまり先端部に置かれていたようです土塁や堀跡が見られますがテンションがあがりません城の南側には
史跡めぐりの記事です。今回は、静岡県の掛川市にある横須賀城です。玉石積みの丸石が珍しい平山城です。横須賀城(よこすか)天正6年(1578)徳川家康は、家臣の大須賀康高(初代城主)に命じて高天神城攻略の拠点として横須賀城を築かせました。天正9年(1581)高天神城は落城と共に廃城となり、代わりに横須賀城が遠州南部の拠点として位置づけられました。以後、大須賀氏2代の後、豊臣系の大名、渡瀬氏、有馬氏が2代入り、その後、譜代の松平(大須賀)氏、松平(能見)氏、井上氏、本多氏、西尾氏が2万5千石か
今年初となるお城廻りは、「青春18きっぷ」による静岡県内の4城(横須賀城、掛川城、高天神城、諏訪原城)巡りとなりました。当初は、「青春18きっぷ」5回の内、2回は孫くんと「岐阜城」を麓から歩いて登城する予定でしたが、年末年始の大雪の為断念、その後二人の予定が合わなかったので結局私が急遽2回分を使用することになりました。本来なら、出かけるまでジックリと予習しながらエア訪城を楽しむのが「私の流儀」ですが、今回は珍しく前日にお城雑誌やらネット投稿から情報収集を付焼刃的に入手して臨みました。ただ、
今日から大学入試センター試験・・・じゃなくて、大学入試共通テストですね。このご時勢の中で試験勉強も大変だったと思いますが、日頃の成果を十分に発揮してほしいですね。さて今回は、現在の静岡県掛川市(旧小笠郡大須賀町)にあった城、横須賀城です。横須賀城と聞いて神奈川県横須賀市にあるのかと思いましたが、違いました。茅ヶ崎城も茅ヶ崎市じゃなくて横浜市だし、ややこしいです。横須賀城跡へは、袋井駅南口から秋葉バスに乗り、七軒町バス停で下車すると徒歩7分ほどで行くことができます。袋井駅南口。JR東
こんにちは。本日3本目の更新となります。静岡県の旅の第五弾は、掛川市にある武田方の高天神城に対する拠点の城、徳川家臣大須賀康高が築城した横須賀城址を訪れました。河原の石を利用しての石垣は美しく見えます。前回の馬伏塚城跡からは約20分ほどでの到着となりましたが、すでに陽が傾き始めている時間帯になっていました。駐車場は西の丸下の米倉のある場所と、本丸楼門跡下が本丸へは近く、オイラは本丸楼門跡下の駐車しました。駐車場から見た本丸楼門下の石垣。ちなみに下の画像の縄張り図は、西の丸下の米倉
こんにちは。本日2本目の更新となります。さて、静岡県の旅の第四段は袋井市にある馬伏塚(まむしづか)城跡の話になります。前回の久野城址からは約10分くらいでの到着となりました…が、到着後、車を駐める場所が無くて、田んぼの農道に置いて徒歩で向かいました。到着後、農道から徒歩で向かいました。元々は今川家の小笠原氏が城主だったが、今川家が没落すると、小笠原氏は徳川の家臣となり、近くの高天神城の城主も兼ねた…その後、武田勝頼により高天神城が落されると、高天神城奪還のために改修され大須賀康高を城主
横須賀城址は、最近SNSで知って行って見たかった所掛川城ついでに行けるとわ!嬉しい~掛川から二つ目の袋井駅ここからバスで20分ぐらい袋井駅南口3番乗り場秋葉中遠線★「七軒町」下車徒歩7分Suica使えませーん470円コンビニもない~土日は1時間に1本ぐらいです広い埋め立てられた外堀を歩いて7分何もなくてちょっと不安になったわ東西に650m!宝永の地震(1707年)まで入江があったけど地震の後、地盤隆起で無くなったらしい地震の49日後に富士山も大噴火したので
三方ヶ原古戦場の石碑いよいよ今週金曜日に迫った合戦イベント「三方ヶ原の戦い」。今日が最後の予告になろうかと思います。言い忘れがないよう気を引き締めて参りましょう。まずは、お待たせしました、三方ヶ原の戦いの大手柄武将の発表です(*゚ロ゚)!▼武田軍の大手柄武将武田信豊(たけだのぶとよ)穴山信君(あなやまのぶただ)依田信蕃(よだのぶしげ)岡部正綱(おかべまさつな)天野景貫(あまのかげつら)▼徳川軍の大手柄武将鳥居元忠(とりいもとただ)本
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amazonでオンデマンド出版(復刻)されていたので購入しました。大須賀康高は、徳川四天王にも劣らない功労者ですが、関ヶ原前に亡くなったこと、子孫に恵まれず、榊原家とごっちゃになったことからマイナーです、という執筆理由からして全くその通りな本でした。・・・・結果として知っている話が多いのは、まあやむを得ないところです。横須賀衆については、渥美源五郎勝吉、久世三四郎、坂部三十郎のエピソードをカバーしています。久世と坂部が遠州に帰ってこなかった話を期待していたのですが、そこは簡単に書かれるのみで
静岡県掛川市にある、横須賀城に行ってきました!横須賀城は武田氏の高天神城を攻略するために徳川家康が大須賀康高に命じて築かせた城です。江戸時代も存続し西尾氏が城主の時、明治維新を迎えます。この横須賀城は個性的な城で、次の3つの大きな特徴があるんです。・石垣の石が河原石だけ・大手門が2つある・宝永地震(1707)まで城内に船着き場があったなど。石垣に使われている石は丸い河原石で、たぶん近くの川で採れた石なのでしょう。だから石垣を見ると丸石だらけの石垣なのです(一部補修アリ)次に2つ
3月4日家康は再度掛川城を攻めるべく出兵した。鴨江寺の僧侶・見付中泉その他池田郡荘園の人士が参陣した天野・高力・本多の三奉行は乱妨略奪の禁止を各軍に通達した。掛川への途中の寒大寺川(原野谷川と逆川)は塩買洲で渡っていたが、この時は川が増水し渡るのに難儀した。松平家忠(14歳で参陣)・松平忠次が南町口を破り、搦手口から水野忠重が西宿の町口を破り、松尾の池を隔てて鉄砲を打ち合った。この時遠州の国衆が氏真の依頼に応じて掛川城の救援をするとの話があり、酒井忠次、石川数正、本多廣孝、植村家正
八幡平の城で、気力、そして体力を使い切った感じがしましたが、この日はもう一か所、行く予定の城があるのです。その城は、高い山にある訳ではないのが救いですが、少し気持ちが乗りきれていません。でも、やはり静岡まで来ているし、宿もあまり遠くない場所に取っているので、向かう事にしました。当たり前ですが…。そんな、城の名は横須賀城です。----------------------------------------現存物(移築含む)はブルー、再現物(模擬含む)はパープ
久世三四郎廣宣は、高天神城を徳川方が武田方から奪還したときに大須賀康高の配下で活躍した横須賀七人衆の一人です。普段だと横須賀七人衆は「高天神衆」にひっくるめて書いているのですが、久世三四郎は武田方が高天神城を落とす前に高天神城にいたかどうかが不明なため、いちおう一歩引いた表現にしています。(高天神城記には名前がでていない)もっとも、徳川家康に拝謁したのが天正4年で直後に大須賀康高配下になっているので、本当は西退組だった可能性もないわけではないとは思います。さて、寛政重修諸家譜によると(直参