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撮影日2013/01/20所在地は大阪府大阪市港区海岸通倉庫間を大阪臨港線が走っていた『大阪環状線貨物支線(大阪港線)』探索日2013/01/20いわゆる大阪臨港線のうちの一つこれは、大阪環状線との接続点、境川信号場から浪速駅を経て大阪港駅に至る区間整理の都合上、「大阪港線…ameblo.jp住友倉庫が建設倉庫脇にも臨港線が引き込まれていた
万博鉄道まつりで買ってきたもの。白紙の行路表です。これって時間が入ってるからこそ価値があるので、白紙ってなんだかなーって感じです。JR貨物吹田機関区のもので、敦賀から梅田貨物駅までのEF81の時代のものですね。近江塩津~永原の間に交直切換がありますが今は敦賀まで直流区間です。駅名も当時のもので、雄琴⇒現)おごと温泉西大津⇒現)大津京神足⇒現)長岡京吹二、吹七は信号場ですね。そして、今は亡き梅田貨物駅が終着となります。末期の梅田貨物駅の様子。現在は旅客駅
初めて手にしたデジタル一眼レフで今も変わらず愛用している、ペンタックスK-70このカメラでデビュー撮りしたのが2017年の正月場所は港区の廃線になった貨物列車の線路敷でした。F4.51/80ISO8000.0ところがここ最近で線路の面影が急速に消滅してきているのを知って今年の正月にまた、この記念すべき初撮りの場所でカメラ構えてきたんです。⬇︎みなとの1本線路https://ameblo.jp/mtjmankt7310/entry-123179061
2000年8月から9月にかけて大阪環状線の沿線めぐりをしたときの記録です。今回は第3回の天王寺~弁天町編です。大阪環状線内では唯一の踏切として残っていた天王寺区茶臼山町の一ツ家踏切です。(2002年11月撮影)この踏切は2012年7月1日に閉鎖され、それと同時に大阪環状線内の踏切が全廃されました。踏切閉鎖後の一ツ家踏切跡から見た天王寺駅方面です。(2016年7月)JR新今宮駅に着いたところです。新今宮駅は大阪環状線と南海電鉄の乗換駅です。電車の後方の建物は、まだ営業中だったフ
少しだけ古い写真が出てきましたので貼り付けておきます。大阪臨港線休止1年前の浪速駅です。写真は、平成15年7月27日に撮影しました。
昭和62年廃線の羽幌線跡に残る橋台。風雪に耐えて30数年草木の中にたたずむ。こちらは平成18年廃線の大阪臨港線跡に残る橋台。これもそう。自然の中もいいけれど街中の痕跡もなかなか。
平成18年廃線の大阪臨港線跡。痕跡というよりも全くの跡地。いつまで残せるのか。残っているのか。
昨日。ここ最近ずっとしたかった廃旅、やっとこ行ってきました!!(ˆoˆ)✨いやぁね、大阪臨港線跡が消える!みたいな話を最近聞きまして、こっれは早急に行かねば!!!となったわけです🛤住宅地の中に突如現れる線路!!!その線路の脇ではなんとおっちゃんおばちゃんがせっせと働き家庭農園!!?花咲く廃線!!!🌸だと!!?…と、かなりの衝撃を受けわけです。あの感動をもう一度…そう思いまして早急に行ってまいりました🏃💨軽く2時間くらい散策した٩(ᐛ)و多分普通に辿ったらそんな
大阪環状線は、現在の〇型ではなくて、「の」の字であった。大阪環状線は、戦後復興の熱きシンボルとして大阪市民からの熱望により昭和31年から昭和36年の間に建設されている。しかし、あくまでも「の」の字運転であったので効率が悪かったようだ。それから遡ること約30年前の昭和3年に、関西本線の今宮駅から浪速駅を経由して大阪港駅へとつながる貨物路線が完成している。その名は、通称「大阪臨港線」と呼ばれていた。平成18年に廃止されるまでの、78年間も大阪の経済を支えてきた路線である。今回は、大阪市
大阪臨港線の廃線跡を歩くの最終回です。海岸通から大阪港駅跡(天保山)までの区間です。住友倉庫を示す住友井桁(いげた)マークが残っていますが、今は港湾事業などを行っている「間口グループ」が使っているようでした。港区海岸通の大阪臨港線廃線跡です。レール跡の筋が見えているようなところもありました。突き当たりの白い建物が大阪税関の通関部です。廃線跡の両側に輸入物品の保税倉庫群が並んでいます。その廃線跡付近の踏切の跡と思われる部分にレールが残っていました。護輪軌条も残っています。
大阪臨港線の廃線跡を歩くの第4回目です。北臨港緑地(第一突堤・第二突堤の区画)から大阪築港の赤レンガ倉庫(元・住友倉庫)まで歩きます。港大橋の下をくぐり抜けます。鶴町四丁目行の大阪シティバスです。並木の下の舗道におびただしい数のドングリが落ちていました。天保山運河の西端の近くにある難波津橋を渡ります。ここを渡ると港区の築港と海岸通です。大阪港(天保山)の中心地区になります。大阪臨港線の橋台が東側だけ残っていました。ここも昇開式可動橋があったところです。手前の西側の
大阪臨港線の廃線跡を歩くの第3回は三十間堀川橋梁跡から天保山運河の日和橋付近までです。思い出の三十間堀川の橋梁跡です。今はもう両岸の防潮堤扉は閉鎖されたままになっていました。1975年の大阪臨港線付近の地図です。今回の三十間堀川橋梁は地図の右端の中央(上下方向の中央)付近の三十間堀川の東端です。三十間堀川を渡る在りし日の大阪臨港線です。(2004年)思い出のDD51です。(2004年)2018年現在の三十間堀川橋梁(跡)です。(2022年1月追記:現在は、この橋梁跡も撤
大阪臨港線の廃線跡を歩くの第2回は境川信号場跡から福崎付近までです。港区南市岡の大阪臨港線の高架線跡です。南市岡の大阪臨港線廃線跡から大阪環状線を見たところです。2000年当時の大阪環状線103系です。2000年に撮影した大阪臨港線の画像です。天王寺方面に去って行くDD51です。国道43号線と大阪臨港線が踏切で平面交差していた部分です。上の高架橋は阪神高速17号西大阪線です。(2000年撮影)現在の国道43号線の東側です。大阪臨港線廃線跡が駐車場になっていました。
大阪臨港線跡に残る橋梁。街中に存在感アリアリ。しばらくパソコンの背景にしていたお気に入りの橋梁。
今回のプチ廃線跡探訪コーナーは、大阪港(天保山地区)へ向かっていた貨物線である大阪臨港線のうち、大阪環状線との分岐点だった境川信号場跡について超簡単に紹介いたします。大阪臨港線は関西本線の貨物支線として1928年に今宮~大阪港が開通しました。戦後、今宮方の一部区間が改良の上で大阪環状線に転用され、大阪環状線と大阪臨港線の分岐点には立体交差の堺川信号場が設置されました。その後、貨物輸送の衰退で1986年に途中の浪速駅~大阪港駅・大阪東港駅が完全に廃止され、2006年には残る区間も
1928年(昭和3年)12月1日開業昭和半ばの全盛期には港区内のいたるところまで貨物列車の線路が張り巡らされてたそうなんですが2004年(平成16年)11月9日に運行が休止されてその後2006年(平成18年)4月1日で正式に廃止になった大阪環状線の貨物支線、国鉄大阪臨港線。雑多に密集した沿岸部の下町の裏手から隠れるようにひっそりと延びていたそんな寂れた、都会の1本線路が好きでした。15
探索日2013/01/20いわゆるひとつの大阪臨港線のうち、浪速駅から大阪東港駅までの区間便宜上「大阪東港線」としておく廃止は1984年2月1日1986年11月1日側線使用停止※1975年時点での路線図写真左奥が浪速駅跡大阪東港線は道路をななめに横断し、ここへのびてきていた踏切跡を浪速駅方から見てみる臨港線はトラックのとこへのびていく臨港線は右へカーブしながら緑地帯の位置を通過ワインレッドの車が停まっているとこが臨港線用地左の建物の角がななめにカット
探索日2013/01/20いわゆる大阪臨港線のうちの一つこれは、大阪環状線との接続点、境川信号場から浪速駅を経て大阪港駅に至る区間整理の都合上、「大阪港線」としておく浪速駅~大阪港駅は1984年2月1日廃止、1986年11月1日側線使用停止境川信号場~浪速駅は2006年4月1日廃止※1975年時点での路線図大阪環状線内回り、外回り線に挟まれた大阪臨港線跡架道橋の橋台が残るこの先が境川信号場環状線内回り線と並走する路盤跡市岡元町第二架道橋市岡元町第一架道橋