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750形(元大阪市電)です。まだまだ朝ラッシュ時には活躍しています。
大阪市民の涙梅田の桜、今年も咲いた©️Michaelmarrye-louise2024第二次世界大戦の際、大阪・梅田界隈にたくさんの『焼夷弾』が落とされ、焼け野原になりました。大阪メトロ御堂筋線が『防空壕』であったことは、NHKの朝ドラ『ごちそうさん』で知られています。いまでも、御堂筋線の改修工事が続いています。また、大阪駅前にある現在、再開発により巨大ビル群が建設されている区域は、戦争被害に遭った大阪市民達の『仮・埋葬地』でした。再開発により掘り起こされた人々は深い眠りに
そろそろ目を覚ますときみなさん、おはようございます相撲の白鵬問題やっと浄化が始まりましたしっかりと最後まで詰めて欲しいですアリガトウ「3月13日」の國史です「後白河法皇、崩御」建久3年(1192年)後白河法皇は天皇の在位(77代)はわずか3年で第一皇子の二条天皇(78代)に譲位以後、30余年にわたり院政を行いました藤原氏、源氏、平氏との戦乱の中で強大な権力を築いたのです源頼朝は後白河法皇のことを「日本一の大天狗」と言ったほどの悪です頼朝
3月13日の出来事1758年フレンチ・インディアン戦争:かんじきの戦いでフランスが勝利。1781年ウィリアム・ハーシェルが天王星を発見。1809年第二次ロシア・スウェーデン戦争敗戦の責任を問われていたスウェーデン王グスタフ4世アドルフがグリプスホルム城に幽閉され、王位を剥奪される。1845年メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲がライプツィヒで初演。1881年(ユリウス暦3月1日)ロシア皇帝アレクサンドル2世が投げつけられた爆弾により暗殺さ
昭和20(1945)年3月、日本本土への空襲のねらいが、本格的に市民を対象とするものになりました。爆弾ではなく、焼夷弾を使用して市民の生活を焼き尽くすことで、戦争継続を断念させることをねらったのです。3月10日の東京大空襲、3月12日の名古屋大空襲、3月13日深夜の大阪大空襲、3月17日の神戸大空襲によって、大都市は次々と焼き払われていきました。それによって、多くの犠牲者が出るとともに、生活の場を失い地方の親せき等を頼って疎開する世帯が多数出ました。この結果、昭和20年4月以降
(旧)文月二十九日空襲の炎も消したという龍の今もとぐろを巻く高津宮雲端大阪市中央区。僕のふるさとの神社、高津宮。その本殿の北西側に神輿蔵はある。昭和20(1945)年の大阪大空襲において境内で唯一焼け残った建物。その入口の天井に写真の龍が鎮座する。水を司るとされる龍は、しばしば水神と呼ばれる。。。
太平洋戦争末期の学童集団疎開の歴史や体験を調べていくと、島根県での疎開生活の実際とともに、大阪大空襲の夜の体験に関する事実と出会うことが多くあります。第一次学童集団疎開(1944年8~9月実施)に参加した大阪西区の6年生たちは、卒業・進学のため、昭和20年2月28日に帰阪します。大阪市のほとんどの国民学校の卒業式は、3月14日に予定されていました。その前夜である3月13日23時57分から翌14日3時30分にかけて、274機のB29による大空襲の夜を迎えます。3月10日の東京大空襲、
わたしも語ろう戦争の話(2023年度-No.53)ブログ作成日:2023.8.14(月)****************明日15日は私たちの祖国・日本が第二次世界大戦で壊滅的な打撃を被りかつ世界唯一の被爆国となり戦争が終わった日しかし戦後78年経った今あの惨劇の記憶を語り伝える世代が国民の1パーセントを切ったと言われますこうした中でそれでもあの戦争の実相・体験を当時生まれていなくても父や母そして兄や姉から少しは聞いたことがある
おはようさんです4/26修行の記録レイヤードカットを始めて3日目。ほとんど進んでいない。左利きで苦労しています。ポジションも何もかも右利きの逆!左利き用のハサミがあるんだな。(二つとも左用)相方が用意してくれたハサミよくない!と先生。(相方は十分だと言っています…)指抜きのカープが有りか無しか。ほんでもって、ハサミが使えなく泣いています(;;)先生はハサミを変えろという。4万円チャリンせっかく京橋におるから、かめのこが見るもんについて書こうと思う。京橋の歴史はわりあ
昨日手塚治虫に関わるブログがアクセスが多くてなんでかなぁと思っていたけど昨日なんだよね。今日は朝日新聞に手塚治虫の記事が載っていました。それで今日もアクセス頑張れ俺伸びているのでしょうか?WBCの記事が1面になる盛り上がりの中密かにでも何となく存在感があって無視できない記事として手塚治虫の記事がありました。るみ子さんのツイで宣伝しているかもって思ったけどしてませんでした。あれっ?(´◔‸◔`)でもるみ子さんの言葉も載っていました。戦争は手塚治虫の漫画に大きな影響を与えたと言ってい
NHK第一AMラジオ。周波数は666kHz。午前5時20分過ぎのコーナー、3月14日の『今日は何の日』です。【記念日ほか】■国際結婚の日【歴史上の日】1873年(明治6年)外国人との結婚を許可する布告が出される西欧化を推し進めた明治政府は1873年(明治6年)3月14日、外国人との結婚を認める「内外人婚姻規則」を公布した。これにちなんで3月14日は「国際結婚の日」でもある。今は珍しくない国際結婚も当時は障害が多く偏見にも苦しんだ。英語教師だ
78年前の今日。1945年3月13日。大阪大空襲。13日23:57~14日3:25にかけてB―29274機襲来。死者3987名。行方不明678名。亡くなられた方の御冥福をお祈りします。
撮影日:2023年1月29日今年の正月以降はなんやかんやありまして撮影散歩に出掛ける余裕がありませんでした。トホホ・・・でも最近ようやく落ち着いてきましたので久しぶりにブラブラと出掛けてきましたよ!今回のコースは「JR京橋駅」から「OBP」をグルッと回って最終的には「JR放出駅」を目指しますので良かったら最後までご覧くださいませ〜!スタート地点「JR京橋駅」の南口を出ると・・・JR京橋駅すぐ横には「大阪大空襲京橋駅爆
2022年10月15日この日は、毎月恒例のFさん、Nさんとのお出かけデーだが、当初の予定から直前に大きくふたつ変更があったひとつは、Fさんがコロナウイルスの濃厚接触者となってしまい、自粛不参加になったことふたつめは、当初は三人で京都エリアのツアーを企画していたが、Nさんがファンのオリックスバファローズがクライマックスシリーズで日本シリーズ出場をかけて、福岡ソフトバンクホークスとの試合が京セラドーム大阪であり、チケットが手に入ったことで、10時にNさんと待ち合わせたのは阪神電車「姫島駅」だ
今や大阪を代表する観光スポットになってしまったUSJですが、先頃に植え込みから人骨が発見されたとの報道がありました。ただ、場所的に言いますと、一般客が入るところでは無い外周道路に沿った植え込みなのですが、気味悪い事件と言えばそうかも知れませんね?さて、そのUSJがある一帯は、平成の初め頃までは工場地帯でして、造船や金属などの重化学工場が林立していた場所でしたが、反面住んでいる人がほとんど居ない地域でもありました。ですから、それらに通う通勤客らはもっぱ
あっちっちの夏かと思えば、一転肌寒い雨になったり、変な季節の那須です。さて、今回はサヴァン症候群とは直接関係はないのかもしれませんが、一郎君の別の面である幻視に触れます。一郎君、時々異次元に行ってしまいます。臨死体験も異次元に行って帰って来たとも言えますが、そうではなく、ほとんどは、肉体は現世に居るのですが、見えているものが全く異次元だったり、異次元ではないものの過去の映像だったりしたのです。つまり、白昼夢の世界です。当然ながら、見えているものが現実と違うのですから、まともに動けません
身近なところに戦争の跡太極拳の練習に行くために毎週通るこの駅JR学研都市線(旧片町線)京橋駅四條畷方面行のホームドア越しに見える向かい側の何やらレトロな壁明らかに歴史を感じさせる佇まい『これなんだろ』って思って調べてみたら太平洋戦争の時に空襲を受けたガラス工場の建物跡の一部なんだそう。1945年8月14日終戦の前日のこの日に600人ほどがここで命を落としたそうだ最後の大阪大空襲あと1日終戦が早かったらこの人たちは死なずに済んだのかもしれない💦大きな砲撃を受
今週、九州国立博物館に行って来ました。沖縄復帰50年記念の特別展「琉球」を見に行ったのです。焼失する前に首里城を見に行けた事を主に感謝します。今、多くの方々の思いによって再建が進められている事も嬉しく思います。私の父方の祖父母は昭和3年に沖縄から大阪に移住しました。祖父三郎は、苦労して小学校の教頭となりましたが、昭和20年3月の大阪大空襲の時に焼死しました。天皇陛下の御真影を取りに戻っての事でした。臣民として名誉ある事として、大阪城にある教育塔に祭られています。移住前の沖縄の住所に行
終戦の日です。先の大戦中、私(坊守)の母は大阪で暮らしていました。1945年3月14日にはじまる大阪大空襲は、8月14日、8回目の空襲まででほとんど焼け野原になりました。母は,この8回にわたる空襲の6月1日の第2回空襲で,毎日何度も激しい空襲があり、防空壕と家とを往復し避難することが嫌になったそうです。空襲警報が鳴り響いて家族は大事なものを持ち急いで防空壕へ行こうとしました。母親(私の祖母)が、「トシちゃん何してるの、はよ逃げなあかん!」と防空壕への避難をすすめても「もう
本日は終戦記念日8月15日自分の祖父は戦争で負傷しました。祖母から昔戦争の悲惨な話をたくさん聞きました。大阪も大空襲を受け大阪も焼け野原だったそうです。食べ物も少なくB29が空を飛んで恐ろしかったと聞きました。戦争の悲惨さを風化させないためにも次代のこどもたちに語りつくことが大変重要なことであり、平和のために何ができるかを日々考えていかなくてはいけないと思います。この平和な日本はあたりえではなくて第2次世界大戦まではずっと戦争ばかりしていた日本。それを歴
近鉄電車の奈良線に乗ると生駒山の大阪側辺りの、石切駅〜額田駅〜枚岡駅で、車窓から大阪が一望できる。私の亡くなった伯父が6歳か7歳のとき、昭和20年の大阪大空襲を疎開先の石切から眺めていた。後から調べて知ったのですが、昭和20年の大阪大空襲は第1回大阪大空襲3月13・14日第2回大阪大空襲6月1日第3回大阪大空襲6月7日第4回大阪大空襲6月15日第5回大阪大空襲6月26日堺大空襲7月10日第7回大阪大空襲7月24日第8回大阪大空襲8月14日と8~9回行われました。ちなみに大
戦争を知らない子どもたちっていう歌がワタシの二十歳前後に流行ったのを覚えてるけどその頃は、戦争行った人らはバリバリ現役世代でした。大人の宴席では戦時中の話が多かったしどこを転戦したとか生死が紙一重で戦友は亡くなったとかまだこことここにタマ入っとるんやでとか教えてくれる人とかもいてたし原爆症の方や手帳持ってる方も何人か知ってる。親戚のおじちゃんは戦後、原爆で焼け野原になった広島を見ながら買い出しに山口まで行ったと話していたように覚えてる。なぜ山口にまで行ったのかはわからない
(旧)文月十四日浮世より抜け出し緑の苔纏う水掛不動は過去を語らず雲端浮世小路を抜けて、そこから続く法善寺横丁への、、、趣のある路地を進めば、かの水掛不動尊。先の大戦の空襲の際、焼け野原となったミナミ一帯。その中に、ポツンと立っていたというお不動さまである。
かなり前のことです。大阪環状線に乗っていたら、お年寄りのご婦人お二人の声が耳に入ってきました。あまり、喋る人はいないので、よく聞こえてきて、その会話の内容も聞いてしまいました。その内容は、大阪大空襲、、でした。平和であり続けるのは、とても困難な状態になったと痛感させられる毎日です。
こんばんは!はんまゆげです🤗今日もお疲れ様です🙇♀️やばい!すっかり忘れておりました。んなー遅くなってしまいました。今日は大阪の田尻町というとこに住んでらっしゃる方のところへ戦争証言を聞かせてもらいに行ってきました。吉田栄子さんというかたです。とっても優しい方でした。88歳で現役美容師✂︎朝日新聞の取材記事があります。見つけた家族の行方大阪大空襲の孤児、吉田栄子さん[戦後75年特集]:朝日新聞デジタル大阪府田尻町で「マリ美容室」を1人で切り盛りする吉田(旧姓・本間)栄
地区の集会所へ行くと、六畳の間に三体の泥人形があった。田植時で遺体は泥まみれになっていたのだ。顔も何もわからない。1人目、腹巻をしていない。義父はいつも腹巻をして、その中に実印と家の権利証を入れていた。2人目、女性であった。3人目、腹巻の中に実印と権利証が入っていた。義父であった。義父は家から500メートルのところに座敷机と一緒に飛ばされていた。鉄兜とリュックを身につけていたが、リュックは紐だけ残っていた。右手は吹き飛んで、なくなっていた。家は丸ごと吹き飛んで、跡地は池になっていた。
びしょ濡れのまま相談所に行き、着替えをして地下1階の救護所に行くと、負傷者が次々と運び込まれ、戦場さながらの光景だった。6歳ぐらいの男の子を連れた母が、早く助けてと白衣をつかんでくる。見ると、子どもはみぞおちを撃たれ、腸が出てしまっており、どうしようもなかった。包帯や三角巾も足りず、店の服地を裂いて包帯代わりにした。助かりそうな人に優先的に応急処置をして、中津の済生会病院へ搬送した。トラックに載せた患者に付き添って行ったが、病院もいっぱいで中に入れず、玄関前のロータリーに寝かせて救護所
昭和20年に入ると、戦況が悪化し、大阪も空襲に見舞われるようになった。阪急健康相談所は救護所となっていた。地下には旋盤の機械が置かれ、屋上には高射砲があった(注④)。勤務する看護婦は空襲警報が鳴ったら、出勤しなければならなかった。1945(昭和20)年6月7日、早朝に空襲警報が鳴り、8時30分ごろ家を出て三国駅から阪急電車に乗った。十三駅で止まってしまったので、やむを得ず歩いて淀川を渡り、梅田をめざした。橋の半ばで、B29が突然飛来し、機銃掃射を受けた。飛行士の顔まで見え、爆撃で上がっ
先週の話です。夜中、眠っている時に見た夢で、なぜか「いつ空襲があるかわからない」という恐怖感がありまして、「目を覚まさなきゃ」という意識に囚われそうになった時に、ふと冷静になりまして、「なんかおかしくない?」と思った瞬間に、また眠りが深くなったのですが、その後見た夢が、空襲の夢でした。沖縄戦で亡くなった前世の夢なのか?と思ったのですが、何となく沖縄じゃなくて東京かどっか、本土の都市のような感じがしました。気になって朝、目が覚めてから調べてみましたら、母校の生徒が勤労動員で軍需工場で働かされ
人に歴史あり母のプロフィール(前編)上の写真は母の葬儀の時、遺影として飾った写真です。母は昭和3年(1928年)10月に大阪市内で生まれました。家族は父親(私にとっての祖父通称ジィ)と母親(私にとっての祖母通称バァ)・兄(通称アニキ)・弟(通称オトウト)・妹(通称イモウト)そして母。兄弟姉妹4人の中で母は、2番目の長女として誕生しました。ジィは当時としてはインテリな人で、W大学文学部英文科を卒業して旧制中学校の英語の教