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福井県敦賀市敦賀城御城印敦賀城切り絵御城印戦国ゆかりの地連携御城印シリーズ✨第1弾の北陸新幹線開業記念E7/W7系モデルの好評を受けて発売されました🚅金色の台紙付き‼️台紙はB5サイズ。前田土佐守資料館蔵の「四戦場之図屏風」を元にした敦賀城の切り絵が施されてきて左上に大谷吉継、右側に「敦賀城」の題字が銀箔押しで描かれていますとても豪華でカッコイイ御城印💕敦賀城は、大谷吉継が居城としたことで有名。敦賀城跡地の一角に建てられた真願寺境内に敦賀城の基礎石があります敦
岐阜県関ケ原町にある松尾山は慶長5年(1600)に起こった関ケ原の戦いではじめ西軍、のちに東軍に寝返った小早川秀秋が陣を置いた山として有名ですが、実はその前かられっきとした山城だったことはあまり知られていません。松尾山城は、応永年間(1394~1428)美濃国守護土岐氏の家臣富島氏が築いたと言われています。富島氏は、土岐氏が滅ぶと斎藤道三に、永禄12年(1569)斎藤竜興が織田信長によって追放されると、信長に従います。元亀元年(1570)信長と妹婿である北近江の小谷城主・浅井長政が敵対する
こんにちは、ミミんです。まだ続きます。ただ、自己満の為の備忘録なのでさっと読み流して頂ければと思います。暑い毎日が続いていますが、特に岐阜って暑いです。日本一の最高気温を出しますのでね。関ヶ原は四方を山に囲まれた盆地なので、暑いことを見越して、首からかけるファンと冷却スプレーとポカリスエット、あとは虫除けとムヒも持っていきました。基本山を登ることになるので、虫除けは必須です。朝起きたら雨が降っていて、大降りになったら嫌だなと思いつつ、かんかん照りよりは良いかなと思っていました。幸
こんばんは、ミミんです。今朝の記事にも書いたかと思いますが、今日はガイドさん付き添いで関ヶ原の史跡巡りをしました。ちなみにガイド料は2時間で1,000円です。10人くらいで巡る事もあるそうですが、今日は私とガイドさんの2人だけで史跡巡りをしました。まずは、決算地へ。次は石田三成が布陣した笹尾山へ。結構山を登ったので汗だくになりました。次は、私の好きな大谷吉継の布陣した場所とお墓へ。敢えてお墓の写真は載せていませんが、お参りしました。賽銭が置かれていたので、私も置きました。少し
おはようございます、ミミんです。昨日は紹介された大きな病院に行ってきました。受付をし、身長体重を測って、血圧を測ってから乳腺外科へ。まず初めにマンモグラフィーをし、次はエコー検査でした。エコーで見る限り、やはり左側に怪しい箇所があり、すぐに先生が看護師さんに「CNB(針生検)の用意して!」と言い、なんだか緊迫してきました。この日の乳腺外来は医師2人で診察していて、もう1人の先生も受診室に来ました。(帰宅してから調べたら、その先生は乳腺外科部長でした)その先生も含めて、インドネシアに住
妙顕寺から歩く事…5分永賞寺へその前にかつては東京とパリを結ぶ「欧亜国際連絡列車」が敦賀港駅を経由して走り、敦賀は「日本でも有数の鉄道と港の町」でした1999年に敦賀港開港100周年を記念して、市のイメージである「科学都市」「港」「駅」と敦賀市の将来像を重ね合わせて、「宇宙戦艦ヤマト」のブロンズ像12体、「銀河鉄道999」のブロンズ像18体の計28体のモニュメントを敦賀駅から気比神宮までのシンボルロードに設置したんやってごく一部を・・・少年星野哲郎未来の地球では機械人間が生身の
天海(222)「十五日、尾州ニテ家康方ト上方衆ト合戦度々、尽々上方衆得理ヲ処ニ、至手前羽柴金吾殿ウラカヘリ、ウシロヨリ一万五千余ニテ切テ懸ル間、無了簡廃軍了、大谷刑部少輔、石田治部少輔以下過半謝死了、即時ニ家康入京了、此金吾殿者幼少ヨリ太閤秀吉為御養子出頭之仁也、今度之仕合、武勇ノ上ト云、旧孝ト云、比興之所行世間之嘲嘍也。」(「中臣祐範記」)中臣祐範は春日神社の社家であるという。彼は関ケ原合戦について下記の如く日記に書いている。恐らく伝聞と思われるが、この場合、伝聞
期間:2024/07/05〜07/12天井:100倍率:2倍初回:半額覇)大谷吉継:金蘭の契り覇)真田幸村:永劫無極の誉覇)磯野員昌:浅井四翼の要覇)松平清康:天下取りの大器星3覇)黒川晴氏:機耐性・参©コーエーテクモゲームス
期間:2024/07/02〜07/09天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額呪)真田幸隆:世渡りの深謀呪)まつ:百万石の母呪)真田昌幸:犬伏の画策流戦)大谷吉継:だめ至誠無息の克戦)宇喜多直家:悪辣の風雲児武)前田利家:赤母衣筆頭星2武)岡利勝:技巧家射)長連龍:堅気の心組©コーエーテクモゲームス
天に挑む大谷刑部伝Amazon(アマゾン)「百万の軍勢を率いさせてみたいのお」と、秀吉に軍才は豊臣家中随一と喧伝された大谷刑部。太閤亡き後、内府排除を目論む石田三成を諫め、刑部は伏見に残ります。「殿下は内府を認めておられる。次の天下を担えるのは内府だ。・・・天下は天下のための天下。一家がしめるものではない。人を束ね、世に安寧をもたらす力を持つ者が天下を治めるのだ」内府縁組騒動、七将事件でいくさの回避に力を尽くした刑部は家康から、諸侯との取次を任されます。「なにより刑
岐阜県関ヶ原町大谷吉継武将印このちょうちょがアサギマダラに見えます♡4月29日(月)から関ヶ原古戦場記念館別館ショップで吉継の日を記念して大谷吉継武将印を限定300枚販売♪虹色の下紙と切り絵をかさねると初夏をイメージした切り絵武将印です🌈4月29日は大谷吉継の日!よしつぐ➡️4429ですって!笑
期間:2024/06/14〜06/21天井:100倍率:2倍初回:半額戦)黒田如水:豊州の名賢戦)大谷吉継:至誠無息の克戦)津軽為信:北地の美髯公戦)蘆名盛氏:炬眼の俊髦星3戦)島津忠恒:心眼・参©コーエーテクモゲームス
※こちら記事は、平成21年7月8日に書かれたものです。さてさて、「近況コーナー」なんですが、ここ数日はブログに書くようなことはしていなくて、何を書こうか困ってしまいました(笑なので、ここ1、2年の「歴女ブーム」に乗っかって、「歴女にクローズアップしてほしい武将」を5人くらい挙げてみようかと思います。僕が「男の中の男」と思う武将たちです(笑【立花道雪(たちばなどうせつ)】九州豊後(きゅうしゅう・ぶんご)の大友(おおとも)家臣ですね。「立花」というのが通り名ですが、実際は生涯「戸次(べっ
【岐阜県関ヶ原市】大谷吉継のお墓⚔️🏯史跡や陣跡を巡って集める【関ケ原御朱印】全15種類4年ほど前に巡って集めたのですが、3箇所ほど行っていない史跡があり、やっと行くことができました。以前から行きたかった小早川秀秋の裏切りで戦いに敗れ自害した『大谷吉継』の『陣跡』と『お墓』駐車場に車を停めて、前にある若宮八幡神社へ⛩️階段を登り、JRの線路を渡ります。神社の右手に細い道があり階段がずっと続きます熊が出たらどうしよう?😢と、思いながらテクテク🐾駐
今日は相棒のなるちゃんとの浄化旅ですまずは滋賀県米原市にある『蓮華寺』です615年(推古23年)聖徳太子によって建立されたと伝えられ、当初は『法隆寺』と言いました勅使門歴代天皇の信仰も厚く、花園天皇(在位1308~18年)から寺紋として菊花紋を賜わりました1333年(元弘3年/正慶2年)後醍醐天皇の綸旨を受けた足利尊氏らに攻められた六波羅探題北方の大将北条仲時は、持明院統の光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇を伴い東国へ落ち伸びようとしましたその途中、行く手を佐々木導誉が
天海(188)松尾山の小早川隊は困惑していた。鬨の声が上がり、鉄砲の音は鳴り響いていたが、福島隊の位置が当初の打ち合わせと違っていたのである。山麓は霧が深く、これでは敵味方の区別が全くつかない。すると家康本陣から奥平貞治が訪れ、参陣を強く促したのであった。やがて山麓も霧が晴れ、青空が見えた。小早川隊は満を持して松尾山を下りたのである。今か今かと、待ち構えていた脇坂隊らも、一斉に大谷隊に向かって、突撃したのであった。「脇坂もようやく動いたか。心配させやがる。これであい
天海(187)「内府公者赤坂不暁に立せられ野加みと関か原之間に御旗本之御人数被備御馬廻魚鱗鶴翼之陣取其朝霧深く降て雨もそぼ降物之色目も見えわかず漸巳刻計に空も晴けに見え渡る時に沢井左衛門尉、祖父江法斎、森勘解由、奥平藤兵衛物見に罷出御敵も出合寄相かしらに相戦心はせ之高名有。」(「内府公軍記」太田和泉守著)太田和泉守とは「信長公記」の著者太田牛一のことである。牛一によると、霧が晴れて沢井、祖父江、森、奥平の4人が物見に出たところ、敵と遭遇し出合い頭に戦闘になった、と書
動画はフレデリック・ショパンが1841年に作曲。ポロネーズ第5番(ポロネーズだいごばん)嬰ヘ短調作品44です。同年出版された。次作の『英雄ポロネーズ』と同様に雄渾な曲想と、中間部にマズルカを取り入れた新しい形になっている。『英雄ポロネーズ』とは対照的な悲劇的な作品で、演奏時間も10分以上を要する大作。中間部にマズルカをはさむことにより、ショパンはポロネーズとマズルカというポーランドの伝統的なリズムを一つの曲で表現することに成功した。日本以外では"Tragic(悲劇的)"というタイトルで呼ばれる
天海(185)「敵は今日に至り、赤坂何之行もこれなく、延々と居陣、ものを待つ様にしかとこれある軆に候。不審なりと各申候事。」(「増田長盛宛石田三成書状」9月12日)どうやら三成たちは家康の西上を知らなかったようである。赤坂在陣の諸将が一向に攻めようとせず、何かを待っているかのようで不審である、と書いている。家康が3万の兵を引き連れて、赤坂に現れた時の驚きは、如何ほどであったことだろう。家康は大垣城を捨て置き、このまま上洛するのではないかという疑念が西軍にはあった
天海(184)下図は有名な関ケ原の布陣図である。これを見ると東軍が魚鱗の陣(縦隊)、西軍が鶴翼の陣(横隊)であることが良く分かる。戦形を見ると高台に陣を布いた西軍が有利というのも理解できるのだ。しかし、実際の戦闘では、右翼の小早川隊は、既に東軍に内応していることが露見していて、三成らは、敵であると認識していた。そうすると戦いの経緯は自ずと異なるものになる。さて、大垣城にいた西軍は約3万人、南宮山に2万5千人といわれている。これに対して赤坂に布陣している東軍は7万
5月2日にお出かけした関ケ原旅行記の続き(なかかなか更新できてませんがこれでラストです)お花は決戦地近くに咲いていたアザミまず、ここでお知らせとお詫びを…先日ブログに頂いたコメントを誤って削除をしてしまうという不手際がございましたまた別の方にはリコメが遅れていたしまったという大失態コメント下さった方々には大変申し訳ございませんでした。コメントは承認制をとっています。ですがほぼ100%承認してます。そしてコメントに必ずお返事をい
天海(171)「慶長五年八月一日、是ヨリ先、西軍ノ大谷吉継・京極高次・脇坂安治等、越前ニ入リ、是日、宇喜多秀家・毛利輝元、東軍ノ加賀金沢ノ前田利長ノ、同国小松ニ出陣スルニ依リ、高濱ノ木下利房及ビ其兄若狭小濱ノ木下勝俊ヲシテ、越前北庄ニ赴援セシム。是ヨリ先、淡路洲本ノ脇坂安治、越前ニ出陣ノ途次、大坂ニ帰リ、子同安元ヲシテ、関東ニ出征セシム、安元、近江ヨリ大坂ニ帰ル、是日、徳川家康、安治ニ答ヘ、将ニ西上センコトヲ告グ。」(「史料綜覧」)脇坂安治は大坂に留まり、嫡男
【福井】3月16日より北陸新幹線敦賀駅開業を記念して『戦国ゆかりの地連携御城印敦賀城』が限定販売。【敦賀城切り絵御城印】四戦場之図屏風に描かれる敦賀城とW7系新幹線を切り絵で表現したステキな【御城印】【敦賀城切り絵御城印】敦賀駅オルパーク内観光案内所で入手出来ます【敦賀駅】駅構内は大勢の人たちで賑わっていました【プラレール】【敦賀城跡】【城
天海(159)佐和山で三成と吉継が挙兵することを決したのが、7月11日である。その翌日には大坂にいる奉行・増田長盛が家康(家臣・永井直勝宛)に書状を出している。吉継が垂井で罹病し、三成が出陣の準備をしていると報じているのだ。色々と雑説があるので、追ってまた報告すると言っている。「一筆申入候、今度於樽井、大刑少日相煩逗留、石治部出陣事申分候而、爰許雑説申、猶追々可申入候、恐煌謹言、七月十二日増田右衛門尉長盛永井右近大夫殿」つまりこの時点で
2016年4月28日(8年前)☆☆☆☆Internet時代は、驚かせられることが起きますね!!☆☆☆☆皆さん、おはようございます。今朝の上田は、予報通り雨が降っています。また、昨日のBlogアクセス解析で分かったのですが、2014年10月にアップしたこのページに1100人以上のアクセス者があり、Totalで2500ほどのアクセスがありました。通常、水曜日が一番アクセスが少ないはずですが、これもNHK大河ドラマ「真田丸」効果、影響ですかね!!また、この機会に、下記の湯浅五助に付いてのスト
天海(158)「慶長五年七月一日美濃岐阜ノ織田信秀、東国ニ出陣セントス、尋デ、石田三成ノ勧ニ依リ、近江佐和山ニ至ル。」「七月五日、備前岡山ノ宇喜多秀家、山城豊国社ニ詣ヅ。」「七月十一日、近江佐和山ノ石田三成、家臣樫原彦左衛門ヲシテ、越前敦賀ノ大谷吉継ノ東下ヲ美濃垂井ニ要シテ、佐和山ニ迎ヘ、徳川家康ヲ討タンコトヲ議ル。」(「史料綜覧」)岐阜城主・織田信秀は7月1日に、会津に向けて出陣する手筈であった。ところが、出陣の準備に手間取っているうちに、三成の勧誘を受け
戦国無双4大谷吉継さまの浴衣を作りました実際の祭りや花火大会に着て行けそうですコスプレ衣装オーダーメイドプリズムキャンディスターズhttp://prismcandystars.info/
おはようございます🌹昨晩は独演会の御礼も兼ねた皿数えLIVEありがとうございました!その時ボロボロ嬉し泣きしつつ言うてましたが実は今、アレルギーか蕁麻疹か、顔中が赤く腫れ上がり膿が出て別人でして😂そしたら朝イチで次男が「おかーさん、いつもとちゃうやん可愛い!」と大谷吉継と石田三成の茶会を体感してしまった朝です🫢⇩⇩⇩YouTubeLIVEアーカイブ⇩⇩⇩【皿数えLIVE198夜】【日曜23時の定期生配信】コロナ禍にclubhouseで始まった皿数え配信!週に一度のSunda
天海(150)「慶長五年五月三日、徳川家康、陸奥会津ノ上杉景勝ノ老臣直江兼続ノ答書ヲ見テ怒リ、諸大名ニ出征ノ令ヲ下ス。」(「史料綜覧」)家康の弾劾状に対して兼続は返書を送った。これが有名な直江状である。但し、この直江状には真贋論争があることには留意が必要だ。何であれ、兼続の返書が家康を怒らせたことは確かである。(以下意訳)「お手紙13日に届きました。内府様の御不審は残念です。京都・伏見でさえ色々雑説が流布するのですから、遠国で若輩の景勝に雑説が流れるの
天海(148)「陸奥会津ノ上杉景勝ノ将藤田信吉、景勝ノ石田三成ニ応ズルノ非ナルヲ説キ、老臣直江兼続ト合ハズ、兼続、景勝ニ勧メテ之ヲ誅セントスルニ依リ、信吉、会津ヲ去リ、江戸ヲ経テ入京ス。」(「史料綜覧」)「景勝の将・藤田信吉」とは、元は上野国の豪族で北条家の家臣であった。しかし天正8年に武田家の将・真田昌幸の調略を受けて、武田氏に沼田城を引き渡したという。その武田家では5700貫の所領を得たというので、厚遇されていたようである。天正10年(1582年)武田氏が滅