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後二条天皇陛下後二条天皇(ごにじょうてんのう)旧字体:後二條天皇1285年3月9日〈弘安8年2月2日〉生まれ、1308年9月10日〈徳治3年8月25日〉、23歳崩御。日本の第94代天皇。在位7年:1301年3月2日〈正安3年1月21日〉~1308年9月10日〈徳治3年8月25日〉大覚寺統であり、後宇多天皇の第一皇子。母:堀川基子(太政大臣堀川基具の養女(実は孫)。称号:西華門院)後醍醐天皇の異母兄にあたる。後宇多天皇は、置文として、後醍醐天皇は中継ぎにすぎ
★第九十五代花園天皇は鎌倉時代末期の天皇です。永仁五年(1297年)生。在位、延慶元年(1308年)~文保二年(1318年)。御名は、富仁(とみひと)、遍行。御父は伏見天皇、御母は洞院季子。花園天皇の時代は、両統送立で朝廷が二つに分かれ出したときでした。花園天皇の祖父である後深草上皇とその同母弟の亀山上皇の治天の君争い、つまり次の天皇が後深草上皇系(持明院統)になるか、亀山上皇系(大覚寺統)になるかの争いから始まったものです。両統送立とは、鎌倉幕府が間に立ち交互に両
第九十二代伏見天皇は鎌倉時代朝廷が二つに分かれた頃の持明院統の天皇です。御父、後深草天皇の第二皇子、御母は洞院愔子(いんし)。諱は煕仁(ひろひと)。文永二年(1265年)生。在位は弘安十年(1287年)から永仁六年(1298年)。後深草上皇は、後嵯峨上皇の崩御後治天の君になること(我が子が天皇になる)を願っていましたが叶わず、祈願や指の血による写経を行っていました。その為、治天の君となっていた大覚寺統の同母の弟である亀山上皇は円満な解決を幕府に求めました。鎌倉幕府執権の北条時宗は、亀
第九十四代後二条天皇は鎌倉時代の大覚寺統の天皇です。御父後宇多天皇の第一皇子、御母は源基子。祖父は大覚寺統の祖である亀山天皇。また異母弟は後醍醐天皇。諱は邦治(くにはる)。弘安八年(1285年)生。正安三年(1301年)から徳治三年(1308年)。朝廷が持明院統と大覚寺統に分裂していた当時、持明院統が二代続いた後に邦治親王が即位したので、亀山・後宇多両上皇はじめ大覚寺統の喜びは大きいものでした。これは亀山法王が持明院統の天皇が二代続いたため、後嵯峨上皇の遺詔に反すると鎌倉幕府に申し立て
第八十九代後深草(ごふかくさ)天皇は鎌倉時代の天皇で、持明院統の祖となります。朝廷が大覚寺統と二つに分かれ後の南北朝へと続く対立はここから始まります。御父は後嵯峨天皇、御母は西園寺姞子(きつこ)。後嵯峨天皇の第二皇子。また異母兄の宗尊親王は鎌倉幕府第六代征夷大将軍、亀山天皇は同母の弟。寛元元年(1243年)生。諱は久仁。在位、寛元四年(1246年)から正元元年(1259年)。寛元四年(1246年)父帝後嵯峨天皇の譲位により四歳で即位したが、十三年後十七歳の時にマラリアを患われ後嵯峨院の
北朝第一代光厳(こうごん)天皇は鎌倉幕府末期の天皇で、南北朝時代の北朝初代天皇です。御父は後伏見天皇、御母は西園寺寧子。光明天皇は同母弟。諱、量仁(かずひと)。正和二年(1313年)生。在位は元弘元年(1331年)から元弘三年(1333年)。朝廷が持明院統と大覚寺統に分裂していた鎌倉時代末期、両統から順番に天皇を出す両統送立(りょうとうてつりつ)が幕府主導で行われていました。その持明院統の後伏見天皇の第三皇子として量仁皇子は誕生します。元徳元年(1326年)七月、大覚寺統の後醍醐天皇
今日の長話。「後醍醐天皇とは、何だったのか」長男より末っ子のほうが可愛いから、そっちを跡継ぎにしたい、と言い出すワガママなヒトって歴史上いっぱいいますが、特に古代から中世の天皇家に多いですね。なんでですかね。要は「優秀な跡継ぎをちゃんと選ばないと家が没落する」という危機感を抱かなくてもすむ、日本で唯一のエライさんの家、だからでしょうかね。「保元の乱」もそうですよね。白河上皇が、長男の崇徳天皇が気に入らず、弟の近衛天皇に位を無理やり譲らせたのが戦争の発端ですからね。それで国ぢゅうが大乱にな
第九一代後宇多(ごうだ)天皇は、鎌倉時代、持明院統と大覚寺統に分かれた頃の大覚寺統の天皇です。日本史上未曾有の元冦が在位中二度も来た時代でした。文永四年(1267年)誕生。御父は亀山天皇、御母は洞院佶子。第一皇子は二条天皇、第二皇子は後醍醐天皇。御名は世仁(よひと)。在位は文永十一年(1274年)~弘安十年(1287年)。祖父である後嵯峨天皇は四歳で即位した後深草天皇よりその同母の弟の亀山天皇をかわいがり、後深草天皇が十七歳になった時には譲位を強いて亀山天皇を即位させました。しかも亀山
第九三代後伏見天皇は鎌倉時代末期、持明院統の天皇です。この当時、伏見天皇の父である後深草天皇とその同母の弟であった亀山天皇の時代に始まった皇位争いにより皇室は持明院統と大覚寺統に分かれていた時代です。御名は胤仁(たねひと)。御父、伏見天皇の第一皇子、御母、藤原経子。花園天皇は異母弟。弘安十一年三月三日(1288年4月5日)誕生。伏見天皇の譲位により永仁六年(1298年)十歳で即位、伏見上皇が院政を執りました。しかし、正安三年(1301年)大覚寺統との対立により、在位僅か三年で大覚寺系の後
政権担当能力を失っていた朝廷ですが公家の全てがダメだったわけではなく、後の三房と呼ばれた、北畠親房、万里小路宣房、吉田定房が、大覚寺統の後宇多上皇の院政を支える人材としていました。公家ですから武略の人ではなく、学識が評価されている人たちですが、後醍醐はこの人たちにも見限られます。北畠親房は、鎮守府将軍になった息子の顕家に付いて陸奥に行ってしまって後醍醐との距離を取り、万里小路宣房は後醍醐に諫言して聞き入れられないと姿を消してしまい、吉田定房は後醍醐の挙兵計画を鎌倉幕府に密告するというこ
朝廷は庶民の困窮も考えず、政治的な権謀術数に明け暮れている腐った組織でしたが、鎌倉時代の後半にはいよいよ酷い状況に陥ります。鎌倉幕府が作られる以前は、日本中の税金が京に集まりました、鎌倉幕府が成立すると税金の半ばは鎌倉に持って行かれるようになり、京都に集まる富は大きく減ります。朝廷にぶら下がって食っている者たち、平安時代は貴族、鎌倉以降は公家と呼ばれますが、その者たちの生活は苦しくなってきます。天皇家は、御嵯峨天皇の後に子の後深草天皇が即位して、そのあと弟の亀山天皇が即位します
第九三代後伏見天皇は鎌倉時代末期、持明院統の天皇です。この当時、伏見天皇の父である後深草天皇とその同母の弟であった亀山天皇の時代に始まった皇位争いにより皇室は持明院統と大覚寺統に分かれていました。御名は胤仁(たねひと)。御父、伏見天皇の第一皇子、御母、藤原経子。花園天皇は異母弟。弘安十一年三月三日(1288年4月5日)誕生。伏見天皇の譲位により永仁六年(1298年)十歳で即位、伏見上皇が院政を執りました。しかし、正安三年(1301年)大覚寺統との対立により、在位僅か三年で大覚寺系の後二条
【食育クイズ:Vol.1317】「京都府」の「嵐山、嵯峨野路」おさらいクイズ!「嵯峨野路」の「大覚寺」にある「観月の夕べ」で有名な池の名とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)2,016円Eco&Art太陽パネルの元で育った大豆のコーヒー(浅煎り,1
嵯峨の大きな戸建て住宅が並ぶ奥に弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派本山「旧嵯峨御所大本山大覚寺」はありましたもともとは嵯峨天皇と檀凛皇后の離宮嵯峨院嵯峨天皇と弘法大師空海は教王護国寺(東寺)を給預、高野山を下賜するなど信頼関係で結ばれていました大沢池から流れる小川をこえて表門へ貞観18年(876)嵯峨上皇の長女で淳和天皇皇后であった正子内親王が淳和天皇第2皇子の恒寂入道親王を開山として開創いけばな発祥の花の寺であり「いけば
室町時代初期は南北朝時代と言われますがそれはそもそもは鎌倉時代の天皇の跡継ぎをめぐる持明院統と大覚寺統の両統迭立から始まっているのであり持明院統から鎌倉将軍が出て鎌倉幕府と近かったゆえに後醍醐天皇の親政から南北朝の対立に至るわけでまあ難しいですわな持明院統と大覚寺統の始まりと鎌倉幕府を巻き込んだドロドロの抗争鎌倉・室町時代を理解するには、この時代に起こった「天皇家の分裂」を理解することが非常に重要と思われます。というのも、鎌倉幕府の滅
嵯峨天皇陵から北嵯峨を歩きます。野菜の自販機がありましたのどかな良いところですねぇ。京都市内ですよ〜こんなところで住みたいなぁ到着。京都市右京区北嵯峨朝原山町第91代後宇多天皇蓮華峯寺陵参道を進みます。在位1274年(文永11年)〜1287年(弘安10年)。諱は世仁。大覚寺統後醍醐天皇の父文永・弘安の両役がおき、2度、元の来襲をうける(元寇)。鎌倉中期の天皇。後嵯峨天皇の子には先々代後深草天皇と