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西尾市資料館で開催された企画展・大給松平のお殿様と転封~西尾までの道のり~に行ってきました。これは西尾藩最後の藩主である大給松平家(おぎゅうまつだいらけ)の江戸時代における引っ越しのに関する展示です。これは普段語られない部分なので興味深かったです。>>西尾市資料館公式サイト11回の引っ越し江戸時代の大名は幕府から領地替えを命じられることがよくありました。これを転封(てんぽう)その理由は以下のように様々です。・失政などによる懲罰的なもの・幕府の役職就任のため・外
大河ドラマ「どうする家康」もいよいよ終盤を迎え、ここにきて「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」というテーマで、「家康」の歴史を8期間に分けて「家康」のでき事と併せて所縁ある「お城」を紹介しています。8期間については下記のプロローグをご参考ください。プロローグ↓『<”家康”のできごとと所縁ある”お城”を振り返ろう>プロローグ』もう来週は師走(12月)に突入ですね。1年間楽しませて貰ったNHK大河ドラマ「どうする家康」も、あと3回~4回くらいの放映で終了ですね~しばらくは
昨日より、「家康」の歴史を8期間に分けて「家康」のでき事と併せて所縁ある「お城」を紹介しています。8期間については下記のプロローグをご参考ください。プロローグ↓『<”家康”のできごとと所縁ある”お城”を振り返ろう>プロローグ』もう来週は師走(12月)に突入ですね。1年間楽しませて貰ったNHK大河ドラマ「どうする家康」も、あと3回~4回くらいの放映で終了ですね~しばらくは「家康ロ…ameblo.jpこのシリーズの名前は「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」で、第1期は
5月15日(月)☔☁15→21℃雨のち曇り五月も中旬、新しい一週間が始まりましたね、今朝は、↓新緑の「奥殿陣屋」へ、❺(最終回)をお届けします、…奥殿陣屋があったここ奥殿藩は、代々「松平宗家」の分家である「大給=おぎゅう松平家」が藩主を勤めてきました、↓「蓬莱の庭」の最上部を抜け敷地の外へ、…こちら、↓「村積山」へ向う森の歩道を奥に進めば、100mほど先に、…↓「大給松平家歴代御廟所」があります、…↓今年二月の投稿、冬の「奥殿陣屋」ですが、この時は行かなかったので、今回お参りして
前回紹介した臼田橋へ向かう途中、国道141号線から山の上にロケットが立っているのが見えました。なんかソソる見た目をしていたので急遽立ち寄ってみました。詳しい地図で見る実は前回の記事にもロケットの先っぽが写りこんでいた。ということで稲荷山公園に到着。すごくロケット。途中で見える遊具もスペース風味である。こういうの好き。到着。絵に描いたようなロケット型の展望台。何度か書いてるけど、個人的には街中の公園の展望台は単に高いところに登れるだけの実用本位なモノじゃなくて
雛人形巡りです徳川園の次に奥殿陣屋の雛人形を見に行きましたこちらは持統天皇の三河行幸の際にお手植えされたという枝垂れ桜の近くにありここら辺りは物部氏の関係深い地でもあります近くには物部守屋の子といわれる物部真福が建立したと言われる真福寺もありいろいろ気になる地でもありますこの地は大給松平家の始まりの地ですちなみに奥殿陣屋の駐車場横にある熊野神社の境内から村積山へ登れる道があります村積山の山頂には村積神社があり触ると祟られるといわれる石もまた村積山の別名【花
2月13日(月)☔☁7→13℃雨の朝新しい一週間が始まりました、…ここまで、家康公所縁の「松平東照宮」と「高月院」をお届けしましたが、今朝は、松平郷に距離的にも近い、岡崎市北部、旧奥殿藩の「奥殿陣屋」をお届けします、…廃藩置県で殆どの建物は解体されましたが、近くのお寺に保管されていた「書院」だけが、昭和60年に移築再建されています、…↓「書院」入口、…こちらも幾度となく紹介していますが、…現在は一般開放(無料)されていて、…書院では、↓日本庭園を眺めながら、お茶など召し上がるこ
12/27(火)に「青春18切符」を使って名古屋方面へ「お城巡り」に出掛けました。目的地は、「松平城・松平郷」(愛知県豊田市)と「大給(おぎゅう)城」(愛知県豊田市)で、「徳川家」のルーツを訪ねました。次の訪城地は「大給(おぎゅう)城」で、バス停「松平郷」から約5分弱で最寄りバス停「大内」に着きました。帰りのバス時間は2時間後の16時21分ですので丁度2時間あります。「大給城」へは、バス停から少し坂を下った所から舗装された道が枝分かれしていてそこには「案内表示」があります。国道からは
「足助七城」というものが今に伝わります。足助を本拠とする足助鈴木氏の支配領域に配されたお城の総称だったようですが、時代とともにその構成が変化していて、いつの時代にか足助七城に組み込まれることとなった大沼城も、足助鈴木氏との直接の関りはないようです。そうは言っても大沼城は現在の県道77号線(足助下山線)によって足助と結ばれています。この街道、かつてはもっと主要街道だったと思われ、街道を見下ろす大沼城は足助を押さえる上では(どちら側から見ても)重要な場所だったことでしょう。そんな大沼城を築いた
令和4年6月3日参拝松平郷を出て15分くらいだったか、奥殿陣屋ってなかなかいいとこらしい!前を通りがかったのが17時過ぎで見学できてないんですけどね〜。クルマを置いた奥殿陣屋東駐車場に奥殿藩の守護神だったという熊野神社がありました。奥殿藩とは松平4代親忠の二男乗元を城主として分割した大給松平氏の一族です。理解するまで苦労しました(๑⃙⃘’﹏’๑⃙⃘)この辺りは小さな富士山を思わせる山容が三河富士と称される村積山(標高258m)の麓で、奥殿藩主の廟所は登山道の途中にあるらしいんで
6月3日(金)☀☁17→30℃真夏日予報無理せず少し足を延ばして行って来ました、岡崎市奥殿町、↓初夏の「奥殿陣屋」、…岡崎の奥座敷と称される「奥殿陣屋」、…天気は生憎の曇り空、…↓書院入口、立派な門構えです、ここを潜り、…さぁ庭園へと向かいましょう、…幾度となく紹介していますが、…何度来ても心癒される、↓庭園の風景、…↓右「書院」、奥は食事処「金鳳亭」になります、…今回はゆっくりと赤い縁台に腰掛けて、…↓暫しこの風景を楽しみました、聞こえるのは、鳥のさえずりに水の流れと
三河大給城記事締めは大給松平家城主墓地へとんかつ山城印乗元公の武将印も作らなきゃね~この日全部で3城お邪魔してます三河山中城(紹介済)とこの大給城もう一城忘れたころに紹介しますたぶん・・・今宵の満月は見られそうにないのかな?↑はピンクムーン↓1年前の今日書いた記事『菩提山城1(不破郡垂井町)』城友様と垂井町の菩提山城へ大人
主郭へ多彩な遺構が満載な城址でしたお腹いっぱい御一緒頂いた城友さんに感謝!!↓最近相方のお気に入りらしいバニラがなーいと残念らしかったデス↓1年前の今日書いた記事『諏訪ヶ峯陣城(恵那市明智町)』この日は前田砦、明知城、仮称釜屋大洞城、と最後にここ鶴岡山砦と山城ドライブしてきました翌日MRIの検査が入ってるのに・・・(-_-;)今回はヤ
今回も「水ノ手曲輪」を主に・・・↓この画像お気に入りこの遺構が400~500年も残ってることに驚愕大給松平家(おぎゅうまつだいらけ)は、松平親忠の次男・乗元を祖とする松平氏の庶流。十八松平の一つ。三河国加茂郡大給(現在の愛知県豊田市)を領したことから大給松平家と称する。松平宗家(徳川氏)に仕え、甲陽軍鑑に「荻生の少目」として登場する松平親乗が有名であると新井白石「藩翰譜」にはある。当主
大給城の三回目↑カメラマークの画像でようやく此処の見どころ「水ノ手曲輪」方面へ向かいますいつもの私だと主郭が一番最後に・・・のパターンですが・・・ここは「水ノ手曲輪」をメイン最後に展望箇所への順でした↓この土橋・・・石で補強もとても優雅なイメージで・・・↓「水ノ手曲輪」の石垣ほぼ堰堤仕様水を貯め下段を切って落とせば水攻めにも・・・と・・・これで北側の守りは固い美濃の
三河大給城の二回目今回紹介するのは↓カメラマークの箇所大堀切を調査中の日向さん↓かなりの傾斜↑堀切を登る日向さんを見つめるシゲさんを見下ろす某↓こんな箇所に・・・積むのが大変そう・・・昨今石垣崩落なんてニュースを聞きますがしっかり残ってる土塁の下も石で補強大給松平家の初代である松平乗元が初代城主として伝わることもあるが、元々は地元の土豪長坂新左衛門が居館として築造したものを乗元の祖父、
今回紹介するのは三河の大給城大給松平家の初代松平乗元公が整備したと伝わるここの見所は「水ノ手曲輪」数回に分けて紹介します↓今回はSからカメラマークの箇所となります城址公園として整備され見やすくなってます↓?????竪堀が・・・三本??大きくは無いですが大堀切すぐ下段ならばこれで十分館跡も奇麗至る所に石積みが見られます整備されていますが・・・
3月10日(木)☀️-2→16℃日中は暖か予報春の奥殿陣屋❷、…今朝は現存する「書院」周りの風景をお届けします、毎度の事ながら、↓この門の前に立てば、俄に昔の生活や、ここで暮らした人々の息吹きを感じます、…さぁ中に入って、…庭園や池の周りの散策と参りましょう、↓門を潜って直ぐ右の庭、いつもながら玉砂利が綺麗に均されていました、…↓白壁や南天の木、…そして、↓何気に置かれた赤い縁台にも、お迎えする気持ちが伝わりますね、…古き良き日本庭園、暫し佇んで眺めれば、…静けさの中で何とも
●德川家康の家系図8③(松平広忠。戸田氏。吉良氏)武家家伝・戸田氏武家家伝・吉良氏●戸田氏(尾張国海部郡戸田荘。名古屋市中川区戸田。ヤフー地図)二連木城(にれんぎじょう)(三河国渥美郡二連木。愛知県豊橋市仁連木町)戸田政光戸田康光(宗光)(?~1547年)戸田宣光(のぶみつ)戸田忠重真喜姫(継室・松平広忠)市場姫(夫・荒川義広)戸田宣光(仁連木戸田家)戸田忠重戸田康長(孫六郎)(戸田松平家)(1562年~1633年1月
●德川家康の家系図8②(松平広忠)松平清康(次郎三郎。清孝)(偏諱者へんいしゃ、吉良持清)(1511年9月28日~1535年12月29日)正室・於波留(春姫)(父、大草・松平昌安)松平広忠(次郎三郎。岡崎三郎)(安城松平家)継室・華陽院(父・青木景貞。養父・大河内満成、大河内元綱)(青木氏)松平信康(源次郎)娘?松平広忠(1526年6月9日~1549年4月3日)側室・於久の方(妙淋)(父、大給・松平乗正)
●德川家康の家系図8①(松平広忠。松平忠政)●大給松平家(大給城おぎゅうじょう)(愛知県豊田市大内町大給。ヤフー地図)松平親忠松平親長(?~?)(岩津松平家)松平忠勝松平乗元松平乗正松平乗勝松平親乗於久(妙林)(側室・松平広忠)松平長親松平信定娘(夫・松平親乗)松平信忠松平
天正18年(1590年)に上野那波藩主松平家乗が祖父親乗と父真乗の菩提を弔うために雄山伝英和尚を招いて現伊勢崎に創建したのがはじまりとされる曹洞宗久昌山盛巌寺は家乗の岩村藩への転封と伴に移転している。その後明和元年(1764年)に乗祐が西尾藩主となった折りに大給松平氏の菩提寺として西尾にも建立されました。山門本堂ご本尊:聖観世音菩薩本堂には大給松平家の位牌が祀られています松平乗全之墓地入口松平乗全の墓[井伊直弼の側近](源恭院殿観徳謙翁大居士)乗全之妻の墓(光顔院殿明誉浄鏡貞
西尾藩主大給松平家の江戸深川屋敷の屋敷神として祀られていた福寿稲荷と西尾市内にあった個人宅の秋葉社を昭和28年に合祀した大給神社(西尾藩主大給松平家ゆかりの神社)鳥居社殿御祭神:宇迦之魂神・火之迦具土神
4月24日(土)☀️☁️11→19℃晴れ予報今朝は岡崎市の北部、↓奥殿町に残る陣屋の春の風景をお届けします、…徳川家の始祖「松平家」発祥の地にも近く、大給松平の流れをくむ「奥殿潘」の陣屋、…古歌に「花ぞの山」と詠まれた村積山=むらづみやまの麓に佇む書院と庭園の風景、…↓「春深む花ぞの山麓座して静」、思わずそんな気分になります、…↓右の書院は茶処として解放されており、…↓奥は食事処「金鳳亭」になります、…どうぞゆっくりとご覧下さい、…緑の中に佇めば静かな時間が流れ、そして
9月14日に西尾市に行きました。(書いたのは当時です。他の記事を優先している間に………)目的は、以前、9月16日のブログで説明したとおり、次の3つです。①西尾城下町散策。②西尾かき氷飲食。③古墳見学(帰路安城市内で)今回は、①西尾城下町散策で、取り敢えず城跡に関する話の前半です。「西尾城」があったということは、この西尾一帯を治める大名がかつていたということです。「西尾藩」の大名は転封が多く、たびたび替わったそうです。明和元年(1764年)に大給松平家(おぎゅうまつだいらけ)
【12月15日(日)】3週連続で運転手。ただし、今回は嫁だけです。朝早く出て、今回は名古屋まで。そして嫁を降ろした後、城攻めです。まず一つ目は、豊田市大内町の「大給(おきゅう)城」です。大給城は、足助街道と新城街道が交わり、巴川の水運と陸上輸送の中継地であった九久平(くきゅうたいら)を見下ろす標高204mの山上に築かれた山城です。元々は土豪長坂氏の居館でしたが、松平乗元(大給松平氏の祖)の祖父信光が攻め落とし、永正年間(1504-21)に乗元とその子乗正が城郭として整備したと伝わり
城を観る今回は...(撮影2018/09/28)大給城〜物見岩から望む〜こりゃすごい。。。ヽ(´o`;なんちてにほんブログ村アクティブライフ・シリーズ009クルマで行く山城さんぽ100(CARTOPMOOK)Amazon
城を観る今回は...(撮影2018/09/28)大給城〜石碑大給城址〜おぉっ上に。。。ヽ(´o`;なんちてにほんブログ村クルマで行く山城さんぽ100(CARTOPMOOK)1,500円Amazon
城を観る今回は...(撮影2018/09/28)大給城〜主郭跡〜おっついた。。。ヽ(´o`;なんちてにほんブログ村クルマで行く山城さんぽ100(CARTOPMOOK)1,500円Amazon
城を観る今回は...(撮影2018/09/28)大給城〜虎口〜こっちかな。。。ヽ(´o`;なんちてにほんブログ村アクティブライフ・シリーズ009クルマで行く山城さんぽ100(CARTOPMOOK)Amazon