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…境内に彼女の歌碑がある寺院は?大田垣蓮月は江戸後期の歌人で、本名は「誠(ノブ)」。幼少の頃から武芸諸道を習い、歌舞・剣術・茶の湯・生け花など人に教えられる芸が7つあったと云う。夫に死別後、33歳で仏門に入り「蓮月」と称した。陶器を作り、自作の歌と号を刻んだ茶碗や急須は「蓮月焼」として珍重された。その蓮月が晩年暮らしたのが「神光院(ジンコウイン)」である。ここには若い頃、蓮月に世話になったと云う富岡鉄斎ら文人が多く訪れた。蓮月
緩い坂道を登ると魚住住吉神社の森が見えて来ます北側の入り口にはクロガネモチの巨木切り株から葉っぱ🌱が…唸る根っこ藤棚の下の影緑が濃い藤棚とうかえでの御神木能舞台から楼門と鳥居⛩️曇り空の鳥居うつりゆくはじめもはても白雲のあやしき物はこころなりけり(蓮月歌集蓮月尼)蓮月尼とは大田垣蓮月(1791〜1875)幕末から明治初期の尼僧・陶芸家・歌人の事。手捏ねで作った焼き物蓮月焼きで有名。いろいろ面白い逸話があるので検索してみてください。西郷隆盛と会って江戸城攻撃を思い
高台寺に行こうと歩いていたら、たまたま、知恩院の真葛庵で大田垣蓮月の特別展があるというお知らせが貼ってあって、まずここに立ち寄ってみました。展覧会のお知らせ|浄土宗総本山知恩院今年2025年は、大田垣蓮月尼(寛政3年-明治8年(1791-1875))の没後150年にあたります。33歳で出家した後、父西心師とともに約10年を過ごした真葛庵とあわせて、知恩院所蔵の蓮月尼作品を公...www.chion-in.or.jpとてもよかったです。大田垣蓮月は磯田道史さんの「無私の日本人」
磯田道史「無私の日本人」(文春文庫、2015年)を読んだ。3編からなる。1、「穀田屋十三郎」(1720〜1777)舞台は陸奥国仙台藩の吉岡宿。さびれていく一方の吉岡宿を救おうと立ち上がった。その方策とは仙台藩62万石に千両を貸付して、毎年利息を百両もらうというもの。これは史実で「国恩記」という古文書が残されている。ここから苦労が始まる。9人の仲間を集め金を出しはじめた。なかでも浅野屋甚内は銭2千貫文を出した。他の者の4倍ほど出して自分は破産して家族が路頭に迷いかねないほどであった。その
森町の無庵さん12月から2月までの3ヶ月間に限って夜咄茶事をしてくださいます茶友と申込みまして各々が本にて勉強し当日を迎えました午前中お稽古がありまして生徒さんに無庵さんに行くことを話しますと「バレンタインデーだから無庵さんおちゃめにチョコレート出してくれるかなー?」とそうか!バレンタインデーか!チョコレートは?どうかな?私がお正客の勉強をさせていただきたいと申し上げて茶友と役割分担しました私が最初読んでいた本は
あなたの知らない京都旅心を整える旅この絵は西郷隆盛が江戸城を攻めるために東へ向かう姿。そこに大田垣蓮月が現れ、西郷隆盛に文を渡している絵。その文に書かれていたものは、敵も味方も同じ国の人間同士と思えば、勝とうが負けようが哀れなこと。それに対して西郷隆盛はと、言ったそうです。その後、西郷隆盛と勝海舟は会談し、江戸無血開城を実現したと言われています。それが本当なら凄い話です。勉強になります。↓押してくれたら嬉しいです↓にほんブログ村
2024年9月19日(木)〜21日(土)床短冊「埜月」和歌蓮月尼むさし野の尾花が末にかかれるは誰がひきすてし弓張の月むさし能(の)ゝ(の)尾花可(か)末朱(に)可ゝ(かか)れるハ武蔵野の尾花が末にかかれるはた可(か)ひきすてし弓者(は)りの月誰が引き捨てし弓張の月花(木)黄花コスモス白芙蓉えのころ草古里籠花屋さんにも薄が無くて猫じゃらしです。芙蓉は一日花です。(金土)
今朝、おばあちゃまのお友達からLINEが届きました退院の日が決まりましたという嬉しい内容でしたお家の中で尻もちをついてしまい調べたら、何ヶ所も圧迫骨折していたそうです退院されたら、色々なサポートに入っていただきながらお一人暮らしを続けていくとのこと長く茶道の先生をされていましたおばあちゃまが大好きな大田垣蓮月さんの歌が書かれた器で私にお茶をたててくださると約束もしていました❣️回復されたこと本当に嬉しいです☺️今日も皆さんにとって良い一日そして笑顔の一日とな
京都三弘法の一つに数えられる寺院は?「西賀茂の弘法さん」として親しまれる真言宗の寺・神光院(ジンコウイン)である。建保5年創建で、弘法さんの日である7/21と土用の丑の日に行われる「きゅうり封じ」の寺としても名高い。又、歌人であり、「蓮月焼」の陶芸家でもあった太田垣蓮月が幕末から維新にかけての10年間、境内に建つ茶所に隠棲し亡くなった。「屋越し蓮月」の異名があるほど屋移りを繰り返した蓮月尼の終の棲家となった。尚、京都三弘法は
幕末の女流歌人太田垣蓮月が晩年隠棲した事で知られる洛北の寺院は?「厄除け大師」として知られ、7/21と土用の丑の日に「きゅうり封じ」の加持が行われる西賀茂の神光院(ジンコウイン)は、「上の弘法さん」「西賀茂の弘法さん」の通称で親しまれている。建保5年の創建で本尊・弘法大師像は大師が42歳の時自ら刻んだ木像と云う。境内には太田垣蓮月尼の庵だった茶所が残る。
💜2023-03-26『風人*とみかぜ*拾参風』たんぽぽの花には花の風生うまれ中村汀女(『花影』より)たんぽぽの花のまわりにはほのぼのとした風がただよっているような気がしますたとえ冷たい風が吹いていてもた…ameblo.jp🩵✨2022-12-27『風人*とにかぜ*拾弐風』人生はまわり持ち誰からか受けた好意を私はいま別のかたちでお返ししているのかもしれません。高田敏子(『女の喜びと悲しみ』より)恩送り🌿という言葉があります恩返し…ameblo.jp💚20
西賀茂大将軍神社から数分。個人的には西賀茂の🍁名所の一つと思っています😊。放光山神光院紅葉の参道。ちょっと早かったですね🤔。撮影2023・11.12山門鎮守社周辺野🍁は見頃でした🤗。手水舎茶室・蓮月庵大田垣蓮月尼の歌碑、撰文富岡鉄斎蓮月舊栖之茶所碑本堂神光院北区西賀茂神光院町にある真言宗単立寺院。もと醍醐派。放光山と号す。本尊弘法大師像は大師の自刻と伝え
先日のお稽古の待合の書読みやすい仮名文字ですが半分読めるかなくらいです先生が白井さんが来られるからこれを掛けましたと仰ってくださいました大田垣蓮月ですよ!あ!!どこかで見たことがある書だと思いましたら!!わかりやすい仮名なので偽物がたくさん出回る大田垣蓮月ですが先生ちゃんとした筋より手に入れられたそうですから本物ですねもののふのやしまのうら能ゆふし本尓な可れもあへぬ弓者りの月もののふの屋島の浦のゆふしほになかれも
前回からの続き(4月1日のこと)になります山科神社を後にして、この日の本当の第1目的地へ向かいますそれは醍醐寺着いた時、8時少し前でしたが、醍醐寺の駐車場は開いていたので、そこの方が時間気にせずいられそうだったのでそちらに停めましたちなみに、付近の駐車場もこの時期は値段が上がっているみたいだったのと、もうほとんど停められてました😅で、車を停めて、まだどこも閉門していたので南側にある黒門の方へ行くと、出たとこに藁葺き屋根の家がありますなぜそんなとこへ行ったかと言うと、Googleマップ
本日、2023年初稽古!先生!皆さま!本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます掛け軸太田垣連月花卉弥生土器香合宮永東山年始早々体調を崩し、社中の皆さまのお助けをいただき何とかこのように素敵な初稽古を執り行うことが叶いました皆さまには心より御礼を申し上げます。今年もゆっくりではございますが、精進いたします今後ともご指導、お導きのほどどうぞ宜しくお願い致します
<神光院(じんこういん)>慶応元年(1865年)春75歳の蓮月尼は京都・西賀茂にある神光院(じんこういん真言宗)内の茶所に引っ越します。神光院・山門神光院・本堂神光院ご本尊は弘法大師像「厄除け大師」として篤く敬われています。それまで「屋越の蓮月」と謳われるほど引っ越しを繰り返した蓮月はこれ以降85歳で亡くなるまでこの地で暮らしました。西賀茂でも、質素なくらしぶりには変わりがなかった。終日、土ひねりや何やかやをして働き、夜は、灯をともして、光明真言を唱えた。のぞ
目次1.磯田道史「無私の日本人」2.大田垣蓮月関係地図3.京都・三本木(花街)に生まれる4.養父に引き取られ知恩院へ5.丹波亀山城で奉公→京都に戻る6.二度の結婚、夫・子どもと死に別れる7.屋越し蓮月、蓮月焼で有名に8.富岡鉄斎との出会い9.自他平等の修行10.終の棲家神光院へ1.磯田道史「無私の日本人」磯田道史(いそだみちふみ)さんの「無私の日本人」(2012年文芸春秋)にはAmazonhttps://www.amazon.c
大田垣蓮月(おおたがきれんげつ1791-1875)は京都で生まれ・生きた尼僧・歌人・陶芸家です。大田垣蓮月-Wikipediaja.wikipedia.org私がこの方を知ったのはOSHOトランスフォーメーションタロットからでした。OSHO(インドの瞑想・精神指導者1931-1990)の講話などをもとにした60枚のタロットで構成されています。(OSHO禅タロットとは別のタロットです)Tomokoさんが年明けに募集してらした「I(わたし)リーディング」
🔸猛暑お見舞い申し上げます今年は庭の蓮🪷に随分癒された華は一輪一りんゆったりと蕾は観音さまのお慈悲により開華するとも、、そして実華が終わり蜂の巣の如くの姿に熟れた実が飛び出して水中に落下蓮の実飛ぶ…ですね。大雨に打たれウルウル🥹7.20.これから飛ぶ⁉️五輪咲きました穴の数いろいろ、何とも色鮮やかにPhoto7.18はちすの露風雨の朝そして蓮葉にごっそりといだかれ眠る花弁たちは淡く
江戸時代の実話を小説化した歴史物語が3編。著者は、テレビでもおなじみの歴史学者・磯田道史さん。小学生のころから古文書を読んでいたという日本史オタクです。テレビの歴史番組をときどき見ますが、視点のユニークさにいつも感心させられます。文章も分かりやすくてうまい。この本の中には、「穀田屋十三郎」、「中根東里」、「大田垣蓮月」の3人の物語が紹介されています。そのうちの1編「穀田屋十三郎」は、映画「殿、利息でござる!」(2016年)の原作です。映画はちょっとコメディタッチでしたが、小説のほうは感動的
🌿山ふかみ春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水たまみず山深い場所なので春の訪れもわからないそんな庵の松の戸にとぎれとぎれに落ちかかる雪解けの雫であるよ〈山ふかみ〉山が深いので名詞+(を)+形容詞の語幹+み=「〜が・・・なので」と訳す「瀬をはやみ」「苫をあらみ」といった歌独特の表現〈松の戸〉松でできた粗末な戸〈雪の玉水〉雪解け水のしたたりを美しい玉にたとえた式子内親王*しょくしないしんのう『新古今和歌集』三鎌倉時代初期山里は松の声のみきき
あだみかた勝つもまくるもあはれなりおなじ国の民とおもへば大田垣蓮月(『女人和歌大系』より)あまりの美貌を悲しんで自ら釘抜きで歯を抜き醜くなろうとしたという伝説さえある大田垣蓮月彼女は出家した後幕末の京都で焼き物を焼きそれに和歌を書いて生活をしていたそうですその焼き物は蓮月焼れんげつやきとして知られ和歌と共に大変評判になりましたしかし彼女はたくわえができれば惜しげもなく貧しい人々に施しあくまで無欲で質素な暮らしをしていたそうです勤皇の志士とも交友があ
元田中田中神社田中神社クジャク心性寺跡小沢蘆庵墓北白川日本バプテスト病院内心性寺跡大田垣蓮月もここに居住していたことがある
大田垣蓮月(尼))です。もう、8年も前になるのですね。蓮月の展示会が、野村美術館で、行われました。何度も伺いました。宿かさぬひとのつらさを情けにて朧月夜の花の下ぶし西行の影響を受けたと思われる桜の歌です。陶器作りに夢中になっていた蓮月さんは、ふとお腹が空いているのに気がついて、お豆腐を買いに外に出ると外は桜の季節になっていた。吉野の桜を思い浮かべて山へと歩くと夜になってしまった。一泊の宿を借りようとすると金銭を持たず、泥だらけだったので誰も泊めて
「西賀茂の弘法」と呼ばれる神光院は、東寺・仁和寺と並ぶ京都三弘法の一つ。と言っても、境内は東寺・仁和寺には遠く及ばないが、空海がキュウリに疫病を封じて病気平癒を祈願した事に因み、毎年7月に厄病除けの「きゅうり封じ」が行われて活況を呈している。今年はコロナの影響で執り行われたかどうかは分からない。小さな境内だが山門前の参道には春は桜、秋は紅葉と道行く人の目を楽しましてくれるのだが、私は一度もその機会に遭遇できていない。年の瀬なので、勿論紅葉は期待していないが、池の畔に咲く白
京都で弘法大師とゆかりの深いお寺は京都三弘法の「東寺」「仁和寺」「神光院」ですね今日は天気も良くて体調も良かったので久しぶりにサクッと散策「神光院」じんこういんへ…「西賀茂の弘法さん」として親しまれているお寺です7月21日と土用の丑の日には諸病封じのきゅうり加持が行われます参道山門山門の前に建つ「厄除け弘法の碑」元々は上賀茂神社付近にあったそうです山門を入ってすぐ左には「蓮月尼…」と刻まれた碑と、その奥には…「蓮月庵」と呼ばれる茶室があります手水舎の奥に見えるのがそ
二日日、14日朝。曇お腹空いてなかったのでモーニングは無し。朝一に並んだのはここ「今西軒」さんおはぎの有名店いつも行列と聞いていたのに誰もいなくて通り過ぎてしまった。ゴミ出しの近所の方に聞いた(笑)9時半に雨戸?(私は重戸と呼んでいたが)を外して開店♪こしあん、つぶあん、きなこ、全種買いそれを車に積んで、駐車場は松原のへんに移動(24時間過ぎると30分刻みで200円も取られるので少しでも安いところへ)そこからテクテク五条大橋たもとの大田垣蓮月の歌碑児童公園の意味ありげな
神光院大田垣蓮月茶屋神光院西光寺大田垣蓮月墓北大路路山人墓正伝院正伝院庭園デビッドボウイゆかりの庭
神光院大将軍神社西光寺大田垣蓮月墓
今回も多くの方から解答をいただきました。皆さんありがとうございます。さて、今回の問題は大田垣蓮月と答える方がおられるのを予想して、まず上京区室町通一条下ルにある旧邸の画像をアップしました。富岡鉄斎邸跡正解は富岡鉄斎です。富岡鉄斎天保七年~大正十三年(1836~1924)文人画家。三条室町の法衣商十一屋伝兵衛の次男。名は猷輔、のち道節・百錬。鉄斎は号。十五歳頃から大田垣蓮月のもとに寄宿したという。大国隆正に国学、春日潜庵に儒学を学び古今の書に親し