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壬申の乱(じんしんのらん)は、672年に天智天皇の死後、皇位を巡って天皇の息子である大友皇子(おおとものおうじ)と、天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)が争った古代史上最大の内乱です。本来の皇位継承の慣例(兄弟優先)に反して天智天皇が息子の大友皇子への継承を望んだことなどが背景にあり、大海人皇子が吉野で挙兵し、近江朝廷の大友皇子軍を破り、勝利した大海人皇子は天武天皇として即位し、律令国家体制の基礎を築きました。争いの経緯背景:天智天皇(中大兄皇子)は、弟の大海人皇子を皇太
読み終わりました。先日読み終わった(といってももう10月末でしたか、、、)「小説壬申の乱(星空の帝王)」:著樋口茂子が天智天皇の皇子、大友皇子を主人公に描いていたのが、女性である樋口茂子であったのに対してこの「額田女王(ぬかたのおおきみ)」:井上靖著では、井上靖という男性が女性の額田女王の目を通して描かれているのが面白い。作者は男性なのに、よく、妃たちの間にいる額田の気持ちの綾がわかってるなあ、、、と感心したり。この小説では、ほとんど真ん中くらいにやっと大
延喜式内社全国勝手神社総本社天武天皇と五人の天女画や天井画竣工式における、本殿の前田重忠絵師の大海人皇子や天女の画が素晴らしい本殿の天井一面に素晴らしい画#竣工式#絵師#勝手神社#天女#大海人皇子
天智天皇山科陵(御廟野古墳)2(京都市右京区)2024年7月24日天智天皇は窮状の打開を図って、669年11月13日(天智天皇8年10月15日)、長年の盟友である中臣鎌足が亡くなる前日に内大臣に任じ、藤原の姓を与えました。にもかかわらず671年10月(天智天皇10年9月)病に倒れ、なかなか快方に向かわず、10月には重態となったため、弟の大海人皇子に後の事を託そうとしたが、大海人皇子は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、吉野へ去った。672年1月7日(天智天皇10年12月3日)、
2025年11月11日に澤田瞳子「恋ふらむ鳥は」を読了しました私の知っている額田王、中大兄王子、中臣鎌足、大友王子、大海人王子、讃良王女とイメージが違いすぎてびっくり。壬申の乱も当然で、頭に浮かんだ絵はNHKのドラマ「大仏開眼」の藤原仲麻呂でした。百済の王子、亡命した将軍や学者、遺臣、難民も出てきますが、解説に難民問題とあるのを見て、確かに…と気付かされました。神話とか鬼とかが大好物な私にとって、大陸や半島の政情により、大量に人が流入していることは自明のこと。ですが、それを難民と捉えた
延喜式内社全国勝手神社総本社竣工式における、本殿の前田重忠絵師の大海人皇子や天女の画が素晴らしい本殿の天井一面に素晴らしい画
紹介してくれた母に感謝!まず、マイブームの飛鳥時代からの皇極斉明天皇のご家族のお話は実に興味深い。最近発掘された「牽牛子塚古墳」。斉明天皇はそこに、娘である間人皇女と合葬されたと『日本書紀』は伝えている。その陵墓の前には若くして没した孫娘・大田皇女の墓が造られた、というのは、この物語の主人公明日香の皇女かも??とさらに興奮です。この小説は現在、廃盤?となっているみたいで、入手が難しい様ですが。。。。あとがきを読んでみると、著者の言葉で>>>>>あとが
「日本書紀」の疑義を衝いた『「日本書紀」隠し事』これは「藤原一族」の懺悔録である『「日本書紀」隠し事』(著・鈴木啓介)「歴史は勝者によって書かれる」――そう聞いたことはありませんか?私たちが学校で学んだ日本の古代史、その中心にあるのが『古事記』や『日本書紀』です。なかでも『日本書紀』は、日本という国がどう始まり、どのように皇室が続いてきたのかを語る、いわば“国の正史”とされています。けれども、その歴史のなかに、「本当にそうだったの?」と疑いたくなるような、い
はい!奈央です。今回は、奈良市高畑の比賣神社に祀られている飛鳥時代の皇女・十市皇女(とおちのひめみこ)と、彼女へのひたむきな純愛を貫いた高市皇子(たけちのみこ)について紹介したいと思います。高市皇子と十市皇女は、天智天皇から大化の改新事業を引き継ぎ、律令国家としての日本を完成させた天武天皇の異母姉弟でした。JapaaanmagazineHPよりお借りしました。注:この像は、大海人皇子と額田王です。天皇の系図二人が築いた日本の礎天武・持統天皇とその時代HPより
大海人皇子は、美濃に入り、東国からの兵力を集めると、7月2日に軍勢を二手に分けて、大和と近江の二方面に送り出した。一方、近江朝廷の大友皇子は、672年6月26日には、蘇我赤兄・蘇我果安・巨勢人・紀大人の群臣の中の4人の重臣が、諸国に使節を派遣して、農民兵を徴兵したが、地方支配体制が、整っておらず、兵を動員できなかったのである。大友皇子は、東国及び、吉備、筑紫に対して、兵力動員を命じる、使者を派遣したが、東国の使者は、大海人皇子の兵に阻まれ、吉備と筑紫では、現地の総領を動かせなかった。
はい!奈央です。高市さん、各党との連立・連携協議で大変な状況ですね。でも頑張って!ところで、高市という名でまず思い出すのは、天武天皇(大海人皇子)の第一皇子高市皇子(たけちのみこ・たけちのおうじ)ですね。たのしい万葉集HPよりお借りしました。高市皇子は、大海人皇子の皇子(長男)として誕生し、大和国高市郡で育ったといわれています。高市皇子の系図西方浄土筑紫嶋高市皇子と高松塚古墳よりお借りしました。高市皇子は、天智天皇の子、大友皇子と戦った壬申の乱におい
661年8月24日、斉明天皇が崩御すると、中大兄皇子とは、百済復興を図って、663年、白村江の戦いを起こすが、敗戦した。斉明天皇の崩御後に、中大兄皇子は、皇太子のまま、7年間、称制=即位せずに、政務を行った。664年2月9日、大海人皇子は、中大兄皇子の命を受け、氏上を認定し、冠位二十六階制、部民制を定めることを群臣に宣言している。667年4月17日、中大兄皇子は、近江大津宮に遷都し、668年2月20日に即位した。天智天皇である、668年4月10日には、天智天皇は、同母弟の大海人
天武天皇、即ち、大海人皇子は、第34代の舒明天皇を父とし、第35代の皇極天皇を母に生まれた。実は、大海人皇子の生年については、記録がない。舒明天皇及び、皇極天皇の皇子であれば、天智天皇、即ち、中大兄皇子の同母弟に当たる。なお、父と母の双方を、「天皇」とする、天皇は、日本史上、天智天皇及び、天武天皇の兄弟のみである。天武天皇は、生年が、不明なため、在野の歴史研究者により、様々な説が、唱えられた。その最有力の説が、天武天皇は、天智天皇の同母弟ではなく、天智天皇より、年上であり、
第四十代天武天皇は、古代飛鳥時代の天皇です。天武天皇と鸕野讃良皇女(持統天皇)御父は舒明天皇、御母は斉明天皇(皇極)、また天智天皇は同母兄となります。そして天智天皇の皇女でもあった妃の鸕野讚良が次に即位することとなります(持統天皇)。舒明天皇三年(631年)生。ただし複数の説あり。御名は大海人皇子。和風諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。母は二度天皇(重祚)になり、兄は乙巳の変を起こし、妃も天皇になりました。この飛鳥時代の天皇の中で大海人
昨日のblogタイトル【私達の愛は引き裂かれた??・・w】はクサかったですかね?wwさて本題。私はNHK「歴史探偵」を毎週「ビデオ取り」してます。NHK「ブラタモリ」「知恵泉」もです。皆、歴史や地理についての番組です。年齢と共に「歴史」に興味が湧いて来てます☝️が、残念ながら「集中力欠乏」なんで毎週3本も鑑賞は全然無理です💦タイトル等からよって選別して鑑賞してます☝️で、以前の「歴史探偵」での「大化の改新」は是非鑑賞したかったのです☝️
▼著作権フリーの画像法弁の読経が続きました。大王(てんち)崩御と、大海人皇子へ連絡が届きました。大友皇子「叔父が兵を出して、吉野から襲ってくる」と言って、焦りました。連絡はハリマのもとへ届きました。猿田「きっと大赦があるにちがいまい」ハリマ「そんなに甘くない。この里の神々の災いはまだ続く」ハリマは磐座のところへいました。やがて、マリモが脇に来ました。「この国へ来た時を思い返していました。たった一つの影を思い求めている自分を・・・」2人は抱き合いました。蘇我果安たちが「犬
日本書紀によると、独裁政権を行った38代天智天皇は、息子の大友皇子を溺愛していて、当時の正当な後継者である弟の大海人皇子ではなく大友皇子を後継者にしようとしました。身の危険を感じた大海人皇子は、身を引いて出家して吉野宮に逃れました。そのため大友皇子が39代弘文天皇になりました。しかし、豪族たちが反乱を起こしてうまく統治できない様子を知り、大海人皇子が大友皇子に対して戦いを起こしました。これが672年に起こった壬申の乱です。関ヶ原町松尾に流れている藤古川を挟んで東側が大海人軍、西側が大友軍が
第三十九代弘文(こうぶん)天皇は飛鳥時代の天皇です。大化四年(648年)生。御父は天智天皇、御母は伊賀宅子娘。御名は伊賀皇子、または大友皇子。在位:天智天皇十年(671年)12月~天武天皇元年(672年)8月。大化の改新で有名な天智天皇は子供は多かったのですが、晩年までに成人していた男子は、大友皇子ただ一人でした。当時は十分に成人してないと天皇への即位はなかった時代であり、天智天皇の他の皇子はまだ幼く皇位継承の対象にはならなかったのです。その幼かった皇子の一人、志貴皇子の子である白壁王
⚔️672年・壬申の乱―日本最大の兄弟バトル!👑1.舞台は飛鳥時代。主役はこの2人!大友皇子(天智天皇の息子)…エリート王子、でも経験不足。大海人皇子(天智天皇の弟)…戦も政治も得意、カリスマ性MAX。天智天皇(=大化の改新の人!)は息子に皇位を継がせたい。でも弟は超有能。「この人、王位を取っちゃうのでは…?」と警戒。🏞️2.弟、吉野に「引退」宣言…のはずが大海人皇子は「私、争いません~」と出家して吉野へ。でも豪族たちは「いや、この人こそ次のトップでしょ」と支持。
伊勢参宮道歩きは「三渡川」に架かる「三渡橋(みわたりはし)」を渡ります。見たところ普通の川ですが、鴨長明が記したとされる『伊勢記(㊟)』には「潮合に応じ渡河地が三ヶ所に分かれ、それゆえに三渡なる地名が生じた…」などとあり、伊勢参宮道ならではの旅情の深い場所ではあります。別名「涙川」といいます。㊟『伊勢記』は原本が失われ、転記されたもののみ存在。『伊勢参宮名所圖會』描く「三渡川」です。鴨長明の故事が描かれています。「みわたりの磯はのうつ道(ぢ)なほ深し朝みつ志ほ
8月3日出来事672年(弘文天皇元年/天武天皇元年7月2日(旧暦))-壬申の乱:美濃に逃れた大海人皇子(後の天武天皇)が大友皇子(弘文天皇)に対し挙兵。1165年(永万元年6月25日(旧暦))-順仁親王が父の二条天皇から譲位され、第79代天皇・六条天皇として即位。1955年-少女漫画雑誌『りぼん』が創刊。記念日などハチミツの日「はち(8)みつ(3)」の語呂合わせ。全日本はちみつ協同組合と日本養蜂はちみつ協会が制定。ハサミの日美容家の山野愛子が「は(8)さみ(3
七月二十四日です。木曜日。【皇極天皇(斉明天皇)。】六六一年の今日、皇極天皇(斉明天皇)が崩御されました。歴史上に二人しかいない重祚したことのある女性天皇の一人ですね。五九四年に誕生。敏達天皇の曾孫、押坂彦人大兄皇子の孫。茅渟王と吉備姫王の子として誕生しました。舒明天皇の皇后となり、中大兄皇子、間人親王、大海人皇子を産みました。六四一年に舒明天皇が崩御されると、翌年に「皇極天皇」として即位しました。飛鳥板蓋宮に居ました。写真は、飛鳥板蓋宮。大化の改新が始まった頃より孝徳天皇へ譲位
若い頃から漠然と願ってきたことがあります。それは、奈良で一人暮らしをしたい!ということ。まず「一人暮らし」を一度もしたことがありません。小さなアパートかマンションで、こじんまりとした生活をする。憧れます。長年の暮らしの中で増えてしまった不要な物をすべて処理して、必要最低限の家財にする。掃除や片付けが苦手なので部屋はひとつで充分。花や草を育てる能力はないので庭は不要。では、どこに住んで、何をするか。奈良県の橿原市か桜井市か明日香村あたりに住んで、県内あちらこちら史跡を訪ね歩き
2025年6月15日から2泊3日の日程で西国三十三所法然上人二十五霊場閻魔大王ご開帳の場所など、かなり詰め込み賭け寸前の日程で6回目の西の巡礼に出掛けました行程計画でかなり苦慮しましたが、1番先に訪れたのは近鉄郡山駅からバスに乗り換え、紫陽花で有名な矢田寺へ…6月中は閻魔堂の扉が開扉され閻魔大王の拝観が出来るのと、6月の土日には臨時のバスが出るのでこのタイミングで行く事を決めましたJRのe5489企画乗車券を使い、矢田寺へなんと、降り際に本堂拝観100円割引券を配ってくれました😊
この歌を是非朝美さんに歌って欲しい。瀬央さんが中大兄皇子朝美さんが大海人皇子縣君が天比古きっとはばまいちゃんは魅力的な額田王を演じられることと思います。カラーコンタクトなどなさったらなお違和感がなくなり色白の艶やかな額田王に変身できるかな?役者が揃いました。是非公演して欲しいです。THESONGより朝美絢「紫に匂う花」を歌う♪-ニコニコ動画
2025年4月24~26日、丹後国の「元伊勢神社」と近江国の官幣大社を巡りました。元伊勢シリーズを終え、残るは近江国です。今回は標記の参拝記です。近江は、かつて天智天皇が都を開いた地でもあります。それに関連して、記事後半で「壬申の乱」について触れます。近江国の官幣大社(2)近江国一之宮建部大社たけべ当社は、瀬田川近くに鎮座。日本武尊を祀る近江国一之宮です。◇鎮座地:滋賀県大津市神領1◇最寄駅:唐橋前駅~850m(京阪電鉄/石山坂本線)◇バス便:神領建部大社前
どもはまるとんです✨今日は、飛鳥時代を語る上で外せない「天武天皇(てんむてんのう)」をご紹介します。ちょっとミステリアスで、大胆な改革者で、そして情熱的な王様…。そんな魅力たっぷりの天武天皇、意外と「えっ、そんなことしてたの⁉︎」って驚きのエピソードも多いんです。名前も立派!最初は「大海人皇子(おおあまのおうじ)」天武天皇は、もともと「大海人皇子」という名前でした。父はあの有名な「舒明天皇」、母は「皇極天皇(後の斉明天皇)」で、いわば皇族ど真ん中のプリンス✨でも…兄の「天智天皇」
壬申の乱は、西暦672年の出来事。古代最大の内乱である。その前にあったのが乙己の変。これは、中大兄皇子(後の天智天皇)と大海人皇子(後の天武天皇)の兄弟と中臣鎌足(藤原氏の始祖)が権力を横取りし傍若無人なふりまいをしていた蘇我入鹿を宮中で暗殺し、蘇我氏を滅亡させた事件があった。第37代斉明天皇の後、天智天皇が就任した。かなり強権政治だったようだ。壬申の乱は、自分の次の天皇は、弟の大海人皇子だと言っていたが、自分の子、大友皇子(自死・明治3年に弘文
こんにちは‥(^_-)-☆今の奈良は、27℃と昨日より大分暑く夏日になりましたね。最高気温も27℃と昨日より暑くなりそうですね・(^_-)-☆心持ち暑くなったと思うたのにまた寒い日が続き、体調不良になり散歩が停滞気味になっています・・(^_-)-☆クイズで頭の体操でリフレッシュしましょう!奈良まほろばソムリエ奈良通2級の12回目の問題です。6奈良県に関連する文学について、最も適当なものを選びなさい。(55)奈良市内にある万葉地名はおよそいく
今朝の予報は、曇り時々晴れで、降水確率は20%どこかで、にわか雨があるかも知れないけど、概ね、雨は降らないかも?と言う予報。今は、陽射しはありますが、曇り空がベースなんだろうな~室温25.9℃湿度52%昨日の72%よりは、蒸し暑さが無い感じです。🏍🏍🏍昨日の曇り空の中、昨年同様に、アジサイを愛でに大和郡山市「矢田寺」にバイクでお出かけ曇り空ですが、寒く無くて、気持良い~矢田寺の縁起と沿革のパンフを見ていて、大きな疑問を感じてます。矢田寺は、飛鳥時代の680