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源為朝朝比奈義秀大塩平八郎西郷隆盛彼らはみな敗者である。敗れて非業の死を遂げた。しかし、彼らはみな生き延びて、そして、違う人物となって蘇っている。ひとはそれを不死伝説とよぶ。冒頭の彼らに共通しているもの、それは民衆から愛されていることであり、惜しまれていることである。生きていてほしいという強い思いが、彼は生きているという伝説となるのだろう。◉源為朝源為朝は鎮西八郎の名で知られている。2メートルを越す大男であり、強弓の使い手であり、前に出して弓を支える左腕が後で弦を引く右腕
これは、前回の自身のブログhttps://ameblo.jp/kunma-tenryu-photos/の続編で、ロシア革命の話の続き。周知のとおり、ロシア(=旧・ソ連)に関する情報は、以前はベールに隠されていた。今回の記事は、ソ連の崩壊(1988〜1991年)後に、書物やインターネットで明らかにされた内容である。ーーーーーーーー1)最後のロシア皇帝一家について(写真はナショナルジオグラフィックから引用)1918年7月:ロシア皇帝ニコライ2世とその家族(妻と子供4人)は銃殺
年が明けて早くも1か月。能登地震からも一か月です。地震の一種の興奮状態から、気分が落ち込む時期だそうです。被災者の皆様、ご自愛ください。おついたちでちょっと北野天満宮です。思ったより早咲きの梅が咲いていました。境内社がたくさんありますが、こちらは社殿が朱塗りこちらは素木。何か違いがあるんでしょうか。以前ここに腰を掛けていたアジア系旅行者がいて、参拝に来たおじさんに一喝されていました。さて大津に戻ります。こういう本を読んでました。ニコライ遭難(新潮
「急がば回れ」の"回れ"の唐橋を渡って大津へ。ホテルにチェックイン。夕方お出掛け~「滋賀県庁舎」かっけー!風情ある街並み。この道も実は旧東海道。「此附近露国皇太子遭難之地(大津事件)」碑は、1891年(明治24年)、来日中のロシア皇太子ニコライ2世に、警備にあたっていた滋賀県警察部守山警察署巡査の津田三蔵がサーベルで斬りつけ、重傷を負わせた「大津事件」が起きた場所。京津線が通過~こんなに長~い車両が道路(併用軌道)を走るのは、全国でもここだけ!天
ロシア史キエフ大公国からウクライナ侵攻地政学×歴史で理由がわかる[祝田秀全]楽天市場キンキンキラキラの宝飾品などから、日本よりも豊かな国、進んだ国と思っていたロシア。ですが近代まではわりと野蛮で本能的な抗争をしていたことに驚いたのは池田理代子さんの「エカテリーナ2世」を読んだ時。名前だけは知っている「イワン雷帝」「ピョートル大帝」。とにかく日本よりゴージャスな歴史を持っているイメージがありました。広大すぎる国土、さまざまな民族、冬に閉ざされる地理的不利。そうい
7月25日(火)、紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAで、劇団東京ヴォードヴィルショー第74回公演の『その場しのぎの男たち』を、見ました。7月30日(日)までの上演。三谷幸喜の作。鵜山仁の演出。東京ヴォードヴィルショーによる、『その場しのぎの男たち』の初演は、1992年。以来、創立30周年、40周年の記念公演で上演し。そして、今回は、50周年記念。舞台は、1891(明治24)年。5月11日に起きた『大津事件』。日本訪問中のロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィッ
津田氏は藤堂氏に藩医として仕えた家柄で、家禄は130石であった。父は津田長庵、母はきの。三蔵は次男で、兄の養順は家出をして行方不明、弟の千代吉は憲兵を経て三吉電気工場の職工となる。妹が一人おり、町田義純へと嫁いだ。津田家は江戸下谷柳原(現在の東京都台東区)に居住していたが、三蔵が7~8歳の頃(文久年間)に長庵が刃傷沙汰を起こし、減封処分の上で伊賀上野へ転居、長庵は生涯蟄居の身となった[1]。明治3年(1870年)に上京、東京鎮台に入営。明治5年(1872年)3月、陸軍名古屋鎮台に転じた。翌18
皆さまと想いをともにしたいお話を「今日は何の日」にちなんで今日、明日、明後日と、皆さまに繰り返しお届けしたいトピックスをお届けします。昨年と繰り返しになりますが、どうか最後までお付き合いください。明治2年(皇紀2529・西暦1869)の「5月13日」に、公選法設置の勅書が下ります。行政官の輔相・議定・参与等を登庸するため、適任者を投票によって選びました。「輔相」とは「諸大臣の上位にあって、天子を助けて政治を行なうこと」を意味する古語で、また、その任務にあたる人のことも指しています。「宰
5月11日は、グレゴリオ暦で年始から131日目(閏年では132日目)にあたり、年末まではあと234日ある。====5月11日の記念日===【鵜飼開き】岐阜県長良川の鵜飼は5月11日から10月15日まで行われる。『鵜飼』とは、かがり火をたいて鮎などを寄せ、飼い馴らした鵜を使ってとる漁。鵜飼を業とする人。鵜匠。あっ!旨そうな鮎と思い鵜がせっかく飲み込んだ鮎を吐き出させ、人間様が有難く横取りする伝統漁ってこと、食べ損なった鵜の食い物の恨みと、2度も食われる鮎怨念が聞こえてきそうな・・・、で
NHK第一AMラジオ。周波数は666kHz。午前5時20分過ぎのコーナー、5月11日の『今日は何の日』です。【歴史上の日】1874年(明治7年)官設鉄道・大阪~神戸が仮開業し1日8往復の運転を開始1891年(明治24年)大津事件滋賀県大津で、来日中のロシアのニコライ皇太子が沿道警備の津田三蔵巡査に斬りつけられる1891年の今日、滋賀県の大津市を訪れたロシアのニコライ皇太子が警備中の巡査にサーベルで斬りつけられ大怪我を負いました。日露関係の悪化を恐
【長良川の鵜飼い開きの日】この日から岐阜県の長良川で、今シーズンの鵜(う)飼いが始まる。【朔太郎忌萩原朔太郎の命日】『月に吠える』『青猫』などの作品で日本詩壇に確固たる足跡を残した。戦時下の1942年(昭和17年)没。享年56。主を失った書斎の引出しは、晩年の趣味であった手品の小道具で満たされていた。【大津事件記念日】1891年(明治24年)、滋賀県大津市で来日中のロシアのニコライ皇太子が、沿道警備中の巡査津田三蔵に切りつけられる「大津事件」が発生。政府は、日露関係悪化を恐れ「大逆罪
国会に声だけデカいババアはいらねー。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E5%8B%87%E5%AD%90畠山勇子-Wikipediaja.wikipedia.orgこーゆー人が政治家になるべきだったんでねえのか?
前回、伊達氏と宇和島とロイズの関係について知ることができた。今回は城へ行く。宇和島といえば宇和島城だ。宇和島城登山口城巡りは基本登山。松山城のように、また登っていかなければならない。ところでスタート地点の門の近くに、なにやら銅像がある。服装を見るに、城主という感じでもなさそうだが……?児島惟謙(こじまこれかた)先生この銅像は児島惟謙(こじまこれかた)先生というらしい。城に関係するのかと思いきや、どうやら法律的なことに関わった人のようだ。最終
本来は『露国皇太子遭難地』と記すところですが、歴史の勉強でも登場する「大津事件」を表題にしました。事は知りつつ場所まで知らずご存知の通り、今年は2月より“ロシア”という国が大きく取り扱われています。一刻も早くウクライナとの間の戦争状態が解消され、ウクライナに平和な暮らしが戻ることを祈ります。今から遡ること131年前の明治24年(1891年)、そんな大国ロシアより訪日した皇太子ニコラスが、警備を担当していた津田三蔵に切りつけられた「大津事件」。学校で習うものの、大津のどこかという
〇昭和17年刊、編者は原田熊雄。男爵、西園寺公望の晩年の個人秘書。「西園寺公とその政局」を編集し東京裁判の対策を立てたということで名を残しています。〇わたしは30代に東京の古書市で原田熊雄が山下亀三郎に宛てた手紙を買いました。悪ふざけしたような内容でおかしな手紙でした。原田は冗談ばかりいう愉快な人であったようです。以来原田と西園寺の関連本を読むようになりました。〇この本は戦後復刻されていますが文庫化はされていないようです。〇西園寺公望1849-1940陶庵は号。明治39年と4
「倶利伽羅峠」等を訪問した縁から「義仲寺」を再訪しようと思いましたが、義仲寺は「東海道」沿いにある為、どうせならと京街道の終点「山科の追分」から、旧東海道を歩きました。東海道は公式には、江戸・大坂間の「57次」です。「山科追分」を出発すると、すぐに滋賀県です。県(国)境は、峠か川が多いのですが、ここは普通の道でした。何か理由がありそうですが・・。この先で「国道1号線」に合流し「逢坂峠」を登って行きます。暫く歩くと右手に「浮世絵にも描かれた」名物の「走井餅」を売る茶店跡に建つ
1900年(明治33)3月―北京に駐在する日本の公使は薩摩出身の西徳二郎である。駐露公使、外務大臣と歴任し、前年11月に着任していた。露での外交官生活は10数年になり、留学を含めると20年近くになる。わが国屈指のロシア通で露・仏語に堪能だったといわれていた。戊辰戦争では薩摩軍参謀黒田清隆の下で長岡軍と戦っている。だが幼少より病気がちであったため、早くに軍人をあきらめて文官を目指したのだった。1932年(昭和7)のロサンゼルス・オリンピック大会馬術競技で優勝し、「バロン・ニシ」と呼ばれた
「講大津百町」は「里山十帖」「箱根本箱」に続いて"自遊人"岩佐十良氏がプロデュースしたライフスタイルホテル。古い町家の保存活用が進む大津百町に、築100年を超える町家7棟をリノベーションした「商店街HOTEL講大津百町」が2018年にオープンしました。明治24年に日本訪問中のロシア帝国皇太子ニコライが沿道警備の津田三蔵巡査に襲撃される「大津事件」がありました。露国皇太子遭難之地からそう遠くない東海道沿いに「講大津百町」があります。電線が地中化され街並みが修景された石畳の東海道、
1891年大津事件大津事件起こした人に焼き印推すべきか否か人=1焼き印=891イケメン君に絶望的な片思いのあみ姉(あみあね)さん、今日も諦めず過激な求愛を続けます。「夜曲」編の始まりです。
【かわうその祭り】/出久根達郎<あらすじ>バブルの波が押し寄せる昭和。世の中の価値観に逆らうように古紙に魅入られた収集家たちは、幻の映画フィルムを手に入れた!旧満洲帝国映画のフィルムに導かれ、彼らは旧日本軍の機密情報と資金源の謎へと踏み込んでゆく―。貴重文化紙くず商の綿貫、脱サラ切手商の小柳、映画の東京を記録する会の五郎など、個性豊かな面々の推理が昭和史の闇を照らしだす!歴史に翻弄された人々の悲喜が織りなす、長編娯楽小説の傑作。あるコレクターが残した「幻の映画フィルム」の謎を追いかけていくと
【長良川の鵜飼い開きの日】この日から岐阜県の長良川で、今シーズンの鵜(う)飼いが始まる。【朔太郎忌萩原朔太郎の命日享年56】戦時下の1942年(昭和17年)5月11日亡くなる。『月に吠える』『青猫』などの作品で日本詩壇に確固たる足跡を残した。主を失った書斎の引出しは、晩年の趣味であった手品の小道具で満たされていた。【大津事件記念日】1891年(明治24年)、滋賀県大津市で来日中のロシアのニコライ皇太子が、沿道警備中の巡査津田三蔵に切りつけられる「大津事件」が発生した。政府は、日露関
はじめに昨年10月29日の日記「第二次世界大戦のミステリー、ロシア、ツァールスコエ・セロー『琥珀の間』の膨大な琥珀はどこへ消えた?」)で、最後のロシア皇帝ニコライ二世と家族の皆殺しについてちょっと触れた。ニコライ二世は、日本には縁が深い。皇太子時代、訪日し、歴史上名高い「大津事件」で受難した(19年5月11日付日記:「帝政ロシアのニコライ皇太子訪日と大津事件(全2回=下);1人の巡査の発作的犯行が青年皇太子の日本観を逆転させ日露戦争へ」、及び19年5月10日付日記:「帝政ロシアのニコライ
英雄たちの選択「大津事件」を見ました。1891年5月11日、大津警察官:津田三蔵が、外遊で日本に来ていたロシア皇太子を襲撃して負傷させた事件だそう。1889年に大日本帝国憲法が発布されたばかりで、殺人でなければ津田三蔵を死刑にできない。天皇皇后など皇族に対してなら大逆罪を適用できるが、ロシア皇太子は日本の皇族ではない。そして、司法の独立を守るため憲法通り無期懲役か、外国の皇族にも適用して死刑にするが対立した。ここで自分は疑問を感じた。治外法権は適用されないの?まだ治外法
ニコライ盗撮/風野真知雄【3000円以上送料無料】楽天市場792円あの大津事件にまつわるお話です。写真が残っていないと言われる西郷隆盛の写真が存在した。そんなところから謎は始まります。来日するロシア皇太子を撮影するために出かけた主人公。明治維新から24年。まだまだ外国人に馴染みがなく、反発心をもつ市民もいたことでしょう。そんなときに起こった大津事件。日本が注文して納品時に失われた戦艦と、西南戦争で亡くなったはずの西郷隆盛の生存説。最後にサラッと團十郎が出て
こんばんわ、きよし弁護士です(弁護士細川潔、東京弁護士会、登録番号37962)。今回は、私が副代表を務める学校安全ネットのZOOM学習会のお知らせです。12月11日(土)14:00~17:00「被害者家族に寄り添う第三者調査委員会を求めて」テーマは「大津いじめ自死事件の実践から第三者調査委員会のあり方を問う」です。大津いじめ事件の遺族代理人の石田達也弁護士と第三者委員の渡部吉泰弁護士が講師となります。いじめ問題や第三者調査委員会について興味ある方はぜひご参加くだ
10月26日(火)より3日間、JR四国の企画切符「JR四国くるりきっぷ」を使用して四国8名城巡りをしてきました。プロローグで触れましたように、訪城したお城を順番に、今回自分で設定した見所ポイントを中心に投稿していきたいと思います。早起きして、ホテルで自転車をお借りし、「宇和島城」(愛媛県宇和島市)へいざ出陣!前日はあまりにも暑かったので上着を置いて走りましたが快適でした。やはり自転車だと「お城下」までは早く、「上り立ち門」からのルートと「井戸丸」からのルートの間位に自転車
第一次松方正義内閣の時の、1891年に、大津事件が起こります。それは、日本に遊びに来ていたロシア皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)が、警備にあたっていた津田三蔵に斬りつけられるという事件ですね。この時、外務大臣の青木周蔵と、内務大臣の西郷従道が責任を取って辞任するんですね。ワンポイントリリーフの後継には榎本武揚が就任します。犯人の津田三蔵に対しては、日本政府元老たちは死刑を要求しました。しかし、それに対して大審院長の児島惟謙(いけん)は、人を傷つけただけで死刑にする法律はないとつ
🍀✨重要事項を含むジュディノートかんろさん2021-06-11newハコガメのブログアメブロ『重要事項を含むジュデイノートかんろさん』6/10付けのジュデイノートをかんろさんNOTEリンクします。今回は、カバルの歴史のみならず、メラニアさんがロシアのロマノフ末裔であることが明かされています。…ameblo.jp🌹✨カラー写真で見るロマノフ家2016年5月23日クセニア・イサエワ・ロシアNOWROSSIABEYONDカラー写真で見るロマノフ家ロシア人ア
令和3年(2021)5月11日に事件発生から130年を迎えた大津事件。この資料が6月6日まで展示されているとのことでしたので、大津市歴史博物館に行ってきました。ここは、以前からニンテンドーDSを使った常設展示ガイドがあるので面白いのですが、今回DSを持って行くのを忘れてしまいました(大津事件は特別展なのでDSガイドはないです)。ちょっと残念、また行かねば。さて、大津事件については以前に書いているので、そちらを参照してもらうとして、今回は展示についてです。『歴史なお話(明治)・大津事件』明治