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『旗本退屈男』映画無声オリジナル八巻断片版のみ現存白黒昭和五年(1930年)十月十七日封切製作国大日本帝国製作原語日本語製作市川右太衛門プロダクション配給松竹キネマ原作佐々木味津三脚色古海卓二撮影輿徳雄出演市川右太衛門(早乙女主水之介)大江美智子(霧島京弥)伊田兼美(百化十吉)武井龍三(杉浦権三兵衛)小柳文子(菊路)大島敬輔(赤谷伝九郎)源光之助(床屋)大家血晶(下僕七兵衛)三木巌(瓦版売)沢村金八(通行人甲)
女剣戟の浅香光代が亡くなった。享年93歳。戦後、第2次女剣戟ブームを牽引した。浅草で長年活躍できたんは、戦前から活躍した大江美智子、不二洋子、中野弘子より若かったのが大きかったな。それと諸事情(興行師との絡み)で大江美智子と中野弘子が浅草に出演できなかったのも大きい。大江美智子は別やが、不二洋子、中野弘子みたく男に対抗意識を燃やさず、女を売りにした剣戟をしてたのもおおきいみたいや。本人も言うてたが、エロスは必要やと。当時はストリップと白い目で見られたみたいやが(もちろん
昭和34年7月、女剣劇のレジェンド大江美智子(2代目)一座の新橋演舞場公演の新聞広告。大正8(1919)年に横浜市の南太田で生まれた大江は、15歳で宝塚花組出身の初代大江美智子に弟子入りし、女剣劇を修業。ところが昭和14年、20歳の時に初代が28歳で急死。急きょ、キャリア5年で2代目を襲名し、戦前、戦中、戦後の女剣劇界を牽引した。1回の舞台で何度となく、性別、年齢、職種を超えた早替わりを見せて人気となった。ある意味で変身ヒロインの元祖ともいえる。2005年7月に86歳で死去。その
僕の手元には、昭和12~19年にかけての女剣劇の不二洋子一座の浅草・松竹座での公演プログラムが80部以上あり、更に浅草・公園劇場での物も30部以上ある。現在のROXのところにあった浅草・松竹座は昭和12年に国際劇場が出来るまでは浅草で最も大きい劇場であった。昭和3年までは歌舞伎と新派の公演が中心で、昭和6、7年からターキーの居た松竹少女歌劇とエノケンのピエル・ブリアントの本拠地となっていたが、松竹少女歌劇は昭和12年から国際劇場に本拠を移し、エノケンは昭和13年に東宝に引き抜かれて浅草を去って
手元にある、昭和28年正月の浅草・花月劇場での〈鈴鳳劇〉大江美智子一座のパンフ。演目は、大江得意の早替わりのある「吉野長者」と「天保水滸伝の内繁蔵売出す」。幕間サービスは、吉本の特選演芸陣である。
女剣劇の本を3冊読んだ。大江美智子、不二洋子、中野弘子の本だ。中身的には中野弘子が一番よかった。聞き取りが事細かかったが、戦後まで聞いてなくなったので後半が少し端折り気味やったが。あとの二つは中身が薄かった。不二洋子の場合は記録物の伝記。大江美智子はほぼ新興宗教の話。本題やが、戦後浅香光代が飛び出した。第2期女剣劇黄金期。もろ肌脱いでのストリップ剣劇と揶揄された見たいやが、それが何がいけないのかと思う。まぁ、確かに女性の役でもろ肌脱ぐんは甚だおかしいとは思うが。戦前派の上記3人は見せなかっ
手元にある、昭和36年1月の浅草・常盤座での鈴鳳劇大江美智子一座の公演パンフ。「清水港は日本晴れ」「恋染め伝八」「舞踊春化粧」「初姿お菊捕物帖」の4本立だ。大江の娘姿と男衆姿を描いた表紙イラストが華やかで艶っぽいね。
昭和30年代の浅草・常盤座での鈴鳳劇大江美智子(二代目)一座の公演パンフ。表紙には、この時の出し物「大江戸人気男遠山の金さん」と「大江美智子の喧嘩鳶は組小町」の大江の役のイラストが描かれている。は組頭の娘のお静役の大江のイラストが可愛いな。
昭和32年公開の新東宝映画「続ひばりの三役競艶雪之丞変化」のポスター。美空ひばりは女剣劇の魅力を映画によって全国に知らしめた功労者と言えるだろう。「雪之丞変化」は初代と二代目の大江美智子が得意とした芝居で、早替わりが売り物だった。
手元にある、昭和32年9月の浅草・常盤座での鈴鳳劇大江美智子(二代目)一座の公演パンフ。表紙イラスト、色っぽいな。この時は4本の芝居のうちの目玉が「大江美智子の弁天小僧」で、大江は武家娘、若侍、旅僧、町人、菊之助の五役早替わりを見せている。
手元にある、昭和28年2月の浅草・花月劇場での鈴鳳劇大江美智子(二代目)一座の公演パンフ。この時期の東京吉本は浅草の花月劇場を剣劇や女剣劇の専門劇場として、金井修、梅沢昇、不二洋子、大江美智子らの一座らを出演させていたが、とりわけ大江、次いで不二の出演が多かった。昭和26年の夏頃から浅草六区では女剣劇ブームが起きていたのだ。
手元にある、昭和14年10月の大阪・浪花座での二代目大江美智子襲名披露興行鈴鳳劇剣戟大会の公演パンフ。宝塚歌劇の娘役や市川右太衛門の主演映画の相手役を経て女剣劇の座長となった初代の大江美智子が昭和14年1月に急性盲腸炎で28歳で死去し、初代の弟子の大川美恵子が19歳で二代目を襲名した時のものだ。二代目は昭和40年代まで女剣劇を代表するスターとして活躍した。
手元にある、昭和14年5月の大阪・浪花座での籠寅演芸部による「映画と漫才と伏見澄子一座」の公演パンフ。伏見は〝怪力女剣王〟との異名を取り、不二洋子、大江美智子と共に戦前の女剣劇三羽烏の一角を占めた人だ。
手元にある、昭和36年1月の浅草・常盤座での鈴鳳劇大江美智子(二代目)一座の公演パンフ。この表紙イラスト、好きだなあ。二代目大江美智子は先代同様、早替わりが売り物で、一時間半の芝居で78回の早替わりをしたこともあったとか。当時の舞台はテレビ中継され、僕の母親は独身時代に浅草に遊びに行くたびに常盤座の大江美智子と松竹演芸場のデン助のどちらを見ようかと迷ったそうだ。
戦前・戦後に初代と二代目の大江美智子や不二洋子を擁し、「女剣劇」というジャンルを武器に興行の世界に旋風を起こした籠寅興行部は、演芸のジャンルにも積極的に進出を計ろうとしていたフシがある。廣澤虎造の映画出演を巡って吉本興業との一悶着があったのは有名な話だが、漫才陣を集めて演芸部も立ち上げていたのは吉本や新興キネマ演芸部を意識してのことだったのだろう。僕の手元には、京都の南座での籠寅演芸部による時局まんざい大会のチラシがあり、捨丸・春代がトリをとっている。結論から言えば籠寅は演芸に関しては女剣