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お父さんの好きな作家の代表は司馬遼太郎さん。お亡くなりになって、すでに20年以上経ちますが、「いつもそばに置いておきたい本」がたくさんあります💛司馬さんは『坂の上の雲』『竜馬がゆく』などの歴史小説や随筆など膨大な書籍を執筆され、テレビドラマ化された作品は多くあります。このGW、すでに半分が過ぎようとしていますが、今、読もうとしている本に『21世紀に生きる君たちへ』『花神(上中下)』があります。➡いずれも再読です💛『21世紀』は、4~5回目『花神』は、2回目
5月3日は大村益次郎さんの誕生日文政7年5月3日大村益次郎さんは幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し勝利させたた立役者であり事実上の日本陸軍の創始者である!!
死ぬまでには必ず一度、来なければならないと思っていた。靖國神社。最大限の畏敬・鎮魂の念を込めて、柏手を打ちコウベを垂れる。もちろん、国民国家の支配装置の一つである事も理解している。どこかの坊さんが、警官と警備員に囲まれながら、ひたすら太鼓?を打ち南無法蓮華経を唱えていた。正確には知らなかったが、祭神は幕末からの大小様々な国内・国外戦における戦没者246万6千柱とのこと。だから、摂社末社の類は一つも無いし、戦没者の氏名の後に命(ミコト)が付く。A級戦犯は1978年に合祀されたが、戦犯に関
靖国神社に行って招魂社の意味を知る人も少なかろうが付録
吉田みつひろです。いつも皆様には大変お世話になっております。本当にありがとうございます。本日、山口市鋳銭司にある大村神社にて大村益次郎先生ご生誕二百年祭が厳粛な雰囲気の中で催行されました。(松村宮司様と)お祭りに先立ち、記念碑の除幕式が行われました。大村益次郎先生のご功績を偲び、また近代国家の礎を創る立役者のお一人として活躍されたことにふれながら神事が行われました。そして鋳銭司に長く守り伝えられている腰輪踊りに、鷹ノ子地域に伝わる代神楽が奉納され、地域の伝統と文化を伝
6年ぶりに来ました。靖国神社!鳥居がデカイ!大村益次郎像も変わらずあります。ん?(゜-゜)靖国神社にオシャレな店在ったっけ?お蕎麦はあってもガパオとか売ってなかったような...。まあ、新しくできたのでしょう。(-_・)本殿↓特に混まずに参拝。桜🌸↓キレイだったので撮りました。あとは遊就館で何か食べて帰ろう。以上
バス旅行の最終は靖国神社靖国神社・・・東京都千代田区九段北3-1-1明治以降の日本の戦争・内戦において政府・朝廷側で戦歿した軍人らを祀る神社第二鳥居第二鳥居神門東京管区気象台が指定した東京の桜の標本木があり、古くより桜の名所として知られます大勢が囲んでいる木が標本木桜の標本木下から出ている枝に5輪以上咲いています(3月28日)レポターの阿部さんがいました
昨日は、娘3号の入学式でした。夫と2人で出席予定でしたが、前日に、学生1人に保護者1人の規定がある事を知り、娘3号と私の2人で出掛けました。場所は武道館です。私は、武道館に入るのは2度目です。娘1号が小学1年生の時、少林寺拳法の発表会に参加しました。その応援に行った時以来です。お式が終わって、人の流れに沿って歩いたら、桜まつりでした。桜🌸が満開の東京です。千鳥ヶ淵の桜を、初めて見ました。桜は綺麗。人もいっぱい。でも、寒かった。慣れないパンプスの私と娘3号には、辛かったで
昨年秋、地元公民館の文化祭の時に併設の図書館でリサイクル本が頂けました歴史物にはあまり関心のない私が珍しく『西郷どん』と名前も知らない『大村益次郎』の伝記本を貰ってきましたここでもう、ブログタイトルの靖国神社の『銅像』と私の選んだ伝記本の話が繋がった人はスゴイです!これから整理して繋げていきますね(^_-)-☆西郷どんは、数年前に大河ドラマで見たので懐かしくて選びました大村益次郎は、知らないはずなのに何だか聞いたことのある名のような気がして手に取って表紙
私的靖国神社紹介part.24【大村益次郎像】さて、やっと外苑参道の中央まで進んで来ました。外苑参道のほぼ中央に聳え立つ大村益次郎像明治26年(1893年)2月に日本最初の西洋式銅像として竣工しました靖国神社の建造物、工作物としては本殿、青銅大燈籠、遊就館(今とは別の建物)、第二鳥居(青銅大鳥居)、に次いで古いものです。私的靖国神社紹介part.11【東京招魂社】で書きましたが大村益次郎は木戸孝允(桂小五郎)と共に靖国神社の創建に多く関わった人物であり、日本陸軍の創始者でもあ
幕末の志士であり、維新十傑の一人として名が残る大村益次郎。日本陸軍の創始者でもあります。医者の家に生まれ、幼少の頃より学問に秀で、天才と言われた人。医学と蘭学を学び、素養はあったにも関わらず、診察と治療が下手で「ヤブ医者」と言われていた。学問として学ぶのは得意だったけど、医学を実務として行うには向いていなかった。それは「コミュ障」だったから。人との対話が極度に苦手だったから、診察には不向きだったのです。大村益次郎|近代日本人の肖像国立国会図書館の「近代日本人の肖像」では、大村益
今日は、東京都のサクラの開花宣言の元になる標本木を見に靖国神社に行きました(^o^)大村益次郎の像はとバスで大勢やってくるんですネ(^_^;)下乗さあいよいよご対面です\(^o^)/byXperia1Ⅲ
令和6年3月4日16時30分靖国神社に行く。祖父が祀られています。大学受験の時も参拝しました。鳥居大村益次郎像外国人の方が多かったですが、きちんとマナーを守っていました。日本人の学生風の方…残念でした😢ソメイヨシノの標準木ではありません。17時までだったようで、お参りできてよかったです。
儒教の教えに『三従』(さんじゅう)という言葉があるようです調べてみると「幼にしては父兄に従い嫁しては夫に従い夫死しては(老いては)子に従う」が女性の婦徳だと書かれていました今の時代の考えだと文字通りに読んだら非難囂囂でしょう💦子どもは親の付属物ではないとか妻も自立しなければとか子どもを当てにするもんじゃないとか・・・でも、昭和の中でも古めな考えの私はこの考え方は基本、基本ですがいいのではないかと思っています基本、を強調する意味は100%従う気持
東京駅KITTE内インターメディアテク階段上部脇にあるモーセ像。これまであまり気に留めなかったけれど、先月訪れた際、裏側に文字が書かれていることに気付きました。説明札もちゃんとあって、制作者は大熊氏廣氏。靖国神社の大村益次郎像や、世田谷松陰神社の吉田松陰像などを手掛けた大物です。裏の文字というのがこちら:「明治十二年二月□□終ミツシエラン□□大熊氏廣」とあり、ミツシエラン□□=ミケランジェロという結論のよう。ミケランジェロ
<2023年4月22日>ライヴ参戦翌日の早朝散歩で訪れた「靖国神社」。境内をひと回りして、再び「神門」をくぐって戻って来ました。右手に「御由緒」があります。明治天皇の想いを「東京招魂社」という形にしたのが始まりで、明治維新から太平洋戦争までの戦没者246万余柱を祀っています。春と秋に例大祭を行っており、この日がちょうど春の例大祭当日でした。「大手水舎」です。「定」で禁止されているのは、「車馬の乗り入れ」「魚鳥の捕獲」「竹木の伐採」です。参道から右手へ向かうと売店が
京都で読み終えてました。これで十分なのに、上野まで幕末熱の勢いに任せて読み始めたのが、想像もしてなかったよい巡り合わせで終えられました。満を持して「花神」ここに完!下巻は長州藩は、各戦線において勝った。で始まる四境戦争の総括から。その後、上野戦争(彰義隊討伐)でもうひと盛り上がりと思っていたら、それは巻末の方で、その間最後(最期)に向けての西郷隆盛との関係、比較を中心とした解説風が延々と。物語としては面白くないけど、大村益次郎の最後(最期)、更には維新とは何だったのかが語ら
●大村益次郎にとっての学問●司馬遼太郎『花神』中巻日本に残されて育ったシーボルトの娘イネは大村益次郎を慕い、恋する。大村に、イネが学問をする理由は大村に新しく学んだ知識や感想を聴いてもらうのだけを励ましにしてきた、と語る。大村は答える。「あなたはご自分をいつわぅっている。学問は、したくてするというものではない。自己のためでもない。ただせざらんと欲してもしてしまという衝動が間断なく起こるという生まれつきの者がついに生涯学問をやり続けてゆくということであり、それ以外のなんの理屈もつけられま
地下鉄九段下駅を靖國神社方面へ上がると第一の鳥居が見えます。大きいですよ。桜の銅板。石畳の参道の右側に各県の銅板が飾られています。小路を歩いてお気に入りを探すも面白い。大村益次郎の銅像。参道の真ん中にあって高さが凄いです。本殿。政治家が参拝するといろいろ問題が起きますね。戦没者を奉ってあるからでしょうけど一般人には無関係。広くてきれい、ベンチやトイレや喫煙所もある公園みたいな場所です。カフェっぽいものやお土産屋みたいなものもあります。大きな社務所、御朱印は直書きも書き置きもあります
池田屋から御池通の反対側へ。直ぐに長州藩邸跡でした。桂小五郎像がありました。確かに池田屋からのこの距離、皆が集まるまでちょっと戻って待つか、という距離ですね。そして、ホテルオークラを回り込むように「その場所」へ。大村益次郎遭難の地!すごく立派な石碑でした(向かって左側)。このように高瀬川の対岸から見るようになってたんですね。そして、その5年前には佐久間象山が暗殺された地でもありました。碑が並んでました。今では高瀬川の流れが気持ち良いすごくいい場所。その日の朝
→モノの名前一覧チェック表(過去問)儒教孔子を始祖とする思考・信仰の体系。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に亘り強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から孔教・孔子教とも呼び、哲学・思想としては儒家思想という。一般に孔子が創始者と目されるが、古代から伝わる神話や制度や当時の習俗などの集合体である。孔子以後は経書の解釈を行う学問など、または、社会規範や習俗として行われた。儒教の経典は
●西郷隆盛にとっての戦争●司馬遼太郎『花神』下巻●花神とは中国での花咲爺さん。『花神』の主人公長州藩大村益次郎は、幕末維新後に活躍した全国に花と種を撒く役目をした新政府の討旧幕作戦司令官。大村は優秀な医者で、医学を学ぶためにオランダ語を学び、オランダ語の知識を買われ、オランダ語の兵書を読むことを頼まれ、軍事に詳しくなり、軍事の知識を買われ、作戦司令官にまでなってしまった。大村は毎晩豆腐をつまみに一人で酒を飲む。豆腐を愚劣する者はついには国家を滅ぼす。豆腐には身を養うに十分な栄養がある。そ
肥後人吉城からブーンと九州を北上縦断、豊後・大分県日田へ。江戸時代の私塾、広瀬淡窓が主宰した咸宜園へ。文化14年(1817)開塾から明治30(1897)年まで続き、その間、門弟5000人を数えたという。広く塾跡地が保存されていた。建物は、右手の淡窓ら歴代塾主が利用した居宅・秋風庵、左手の淡窓の書斎・遠思楼が残る。咸宜とは、「みなことごとく」という意味で、学歴・年齢・身分に関係なく誰もが塾生になれ、みな平等に学問を受けたという。しかし毎月!の試験はきびしかったらしい、ムムム。
上野駅から九段まで~・・・・・・♪いきなり古いナツメロ。何故かオヤジは2024年の初詣に靖国神社に参拝しました。🇯🇵これ(↑)が「九段の母」の九段坂です。「坂に沿って御用屋敷の長屋が九つの段に沿って建っていた。」とか「急坂であったため九つの段が築かれていたから」というのが名称の由来のようです。坂は東に向かって下がっておりその先は神田を始めとした‟下町”。つまり九段坂は東側から本郷台地に登る地形になっています。ちなみに上の画像の右側が日本武道館の建つ北
2016年3月17日=虎哲生後2821日=生後7歳9ヶ月の回顧記事の3です。その後都心に出て、靖国神社参拝です。ワンコはこの神門までです。ボクは車内で留守番でしゅ。大村益次郎公です。拝殿へ。鳥居に差し込む陽光。ここには第二次大戦中に支那で戦死した、パパの叔父(母の兄)も祀られているのです。参拝後、遊就館へ。泰緬鉄道で活躍していた蒸気機関車。
私は、語学習得が得意な人や語学の勉強が好きという人、また大学などで○○語科を卒業した、などという人を圧倒的に尊敬してしまう癖があります。私も、約20年近くスペイン語を話して日常を過ごしている身ではありながら、私の場合は言ってみれば、サバイバル・スペイン語!必要なものだけを何とか身につけ、あるものだけでやり過ごしてきたようなもの、サバイバル術と一緒なんですね。今でもスペイン語の教科書にでてくるような、ちゃんとした文書を作らずに適当にしゃべり、適当に聞き流し、適当に応答しています。つまり、
先日、自宅の本棚を整理してひょっこり出てきました。こちら、出版年月日は2004年8月31日となっています。つまり、20年前の本ですね今、司馬遼太郎の花神を読んでいるのですが吉田松陰の開いた松下村塾が排出した大村益次郎や桂小五郎、高杉晋作など志士が幕末と言う動乱の時代に活躍しました。高校生の頃ですが家族旅行で山口県に行き、湯田温泉や萩城下、そして下関にある赤間関(関門海峡と言えばわかりやすいでしょうか。)などに訪れ、松陰神社や赤間神宮に参拝しました。その時の写真もアルバムに残っています。
歩道橋の上から日本武道館を振り返ります。歩道橋を渡るとそこは靖國神社への参道です。参道の途中に立っているこの像は大村益次郎。日本陸軍の創設者です。頭と肩の上には平和の象徴のハトが。
おもしろきこともなき世をおもしろく住みなすものはこころなりけりええ、坂本龍馬のマンガをずーっと読んでいるのですが、高杉晋作が亡くなりました。良い辞世の詩ですね。たゆたえども沈まずと並んで、私の人生の標語にしようと思います。たぶん、現代のカウンセリングとかでも似たようなこといいますよね。つまらない世の中を楽しく生きることができるかどうかは自分の心の持ち方ひとつだって、よく聞く気がします。もしかしたら、楽しく生きるコツって、200年前から変わってないのかもしれませんね。高杉
私的靖国神社紹介part.11【東京招魂社】前回は私の子供時代の縁日の話でした。今回は靖国神社の生い立ちです。靖国神社は約10万㎡という広大な敷地です。都内の神社としては大正9年に創建された明治神宮の約70万㎡に次ぐ2番目の広さです。どの様にして現在地に創建されたのでしょうか。靖国神社の創建には木戸孝允(桂小五郎)と大村益次郎の二人が大きく関わっています。明治2年(1869年)戊辰戦争の戦没者の招魂場建設の構想を抱いていた木戸孝允は同士である大村益次郎に提案しました。旧三番町辺