ブログ記事54件
旧日本プロレスの時代です。下からユセフトルコ吉村道明大木金太郎ジャイアント馬場アントニオ猪木
力道山時代より活躍し、日本プロレスでのそれぞれの時代のタッグのパートナーを光らせた名バイプレーヤーである吉村道明が引退した。吉村さんは火の玉小僧って呼ばれたんだよね吉村の最後のタッグは坂口征二でした。吉村は坂口と大木金太郎の団体存続の対立では中立と保っていましたが、社長の芳ノ里は「泥舟から途中で降りるのか⁉︎」と思ったそうです。日本プロレスは末期状態だったからね吉村は近畿大学記念館でルーベン・ファレスを相手に引退試合を行い、吉村の代名詞とも言える回転エビ固めで勝利しました。さて、坂口
大木金太郎VSボボ・ブラジル頭突きで有名でしたね
1973年2月にアントニオ猪木さんと坂口征二が発表した日本プロレスと新日本プロレスの合併案を発表から1週間後に大反対した者がいました。え〜、両団体にとって、いいことばかりなのに反対するってなんで〜?反対したのは大木金太郎。2月16日に後楽園ホールで記者会見を開き、「詳しい話を聞いて驚いた。坂口が離脱して猪木と組むのは自由だが、力道山先生の築き上げた日本プロレスを守るのが筋だ。」大木としては馬場さん、猪木さんが日本プロレスを離脱し、ようやくエースとなれたものを新日本プロレスと合併すると猪
1973年2月6日、日本プロレスの坂口征二と新日本プロレスのアントニオ猪木さんの記者会見は両団体の合併でした。2人とも、いい笑顔だこの話は日本プロレスの中継放送をしていたNET(現在のテレビ朝日)が坂口に猪木さんとの合併、それができなければ放送を打ち切ると通告してきたのです。坂口は日本プロレス社長の芳ノ里に相談し、全権を任されていました。坂口はグレート小鹿にも相談し日本プロレス選手会も合併に賛成したのです。日本プロレスとしてはテレビ放送の視聴率が下がり、さらには観客動員数まで下がってお
1972年10月16日、赤坂ヒルトンホテルでジャイアント馬場さんが全日本プロレス旗揚げ記者会見。その席にいたのが、馬場さんに全日本プロレスに参戦する日本人レスラーメンバーにジョー樋口さん…左の女の人は…亡き力道山の未亡人、百田敬子さんがいました。全日本プロレスに力道山家(百田家)が全面協力することになり、レスラーである次男、百田光雄の参戦、そして長男の百田義浩がリングアナウンサーとして契約したのです。旗揚げ時の日本人レスラーにレフェリーにリングアナウンサーだね力道山家の協力を得たのは
原爆頭突き大木金太郎
アントニオ猪木VS大木金太郎試合後はお互い感極まり涙を流していました。
旧日本プロレスの時です猪木さんと大木金太郎さん。
今週の「空手バカ一代」再放送に遂に登場秘技三角跳び(蹴り)ハワイで力道山を倒した元ボクサーのプロレスラー”赤サソリ”タム・ライスを追って、サンフランシスコへ向かった飛鳥拳・・・・(飛鳥拳のモデルは、言わずと知れた若き日の大山倍達館長)ピンチに追い込まれるも、三角跳びでノックアウト三角跳び(蹴り)とは、相手とは違く方向に一度跳び、そこで方向を変えて攻撃するもの。相手にしてみれば、消えたと思った刹那、違う方向からの攻撃をくらう事になります。知らんけど・・・・そして、
前回でジャイアント馬場さんが上田馬之助を問い詰め、アントニオ猪木さん派の日本プロレス乗っ取り計画を知ったわけですが、その前に上田は社長である芳の里に密告していた話もあります。上田さんが密告したって説が多いよね1971年12月3日、馬場さんは山形大会で猪木さん抜きの選手会を開いた。そこで上田とともに猪木派の計画を暴露し、先に選手会で出した連判状を無効にしたのです。そして馬場さん自らは選手会長の辞任を申し出ました。この翌日の12月4日の仙台大会で猪木さんはディックマードックを相手にUN選手
1967年5月に日本プロレスに復帰したアントニオ猪木さん。当時、日本プロレスはジャイアント馬場さんがエース。猪木さんは復帰してナンバー2の立場になりました。BI砲の誕生だぁ〜さらに柔道界から坂口征二がプロレスに転向しました。坂口さん若い〜猪木さん復帰に面白くないのが…大木金太郎と思われます。猪木さん復帰で馬場さんに次ぐ地位から外されたんだ大木金太郎は馬場さん、猪木さんと力道山道場三羽烏と言われていました。馬場さん猪木さんより1年先輩の大木でしたが、2人に対するライバル意識は高
昨日の午前中…車で走っていたら、、、フロントガラスにポツポツと雨が(๑¯ㅁ¯๑)そのうちザーザー降り!!(๑ºロº๑)!!しかし少し走ったら……雨が全然降ってなくて、、、道路も濡れてなくて(・́∀・̀)ヘヘヘ車中、、、〝ワイドナショー〟を聴いていたのですが、、、M浦R麗…話が長くて、、、噛み合わない上、、、水⁉️こぼすわ(~ ̄▽ ̄)~松本が言うように…〝酔っぱらって〟いたのか⁉️呼ばれなくなるぞ、そのウチ。。。かねちの方がマトモな意見‼️(๑•̀ㅁ•́๑)✧‼️
1974年10月10日、蔵前国技館でNWF世界ヘビー級選手権試合。時間無制限1本勝負が行われた。王者・アントニオ猪木と挑戦者・大木金太郎の調印式は、殺し合いをしてしまうのではないかと心配するほど殺気に満ちたものだった。あの緊迫感。あの殺伐とした空気は出そうと思って出せるものではない。猪木のデビュー戦の相手は大木金太郎で、大木が得意の頭突きで勝っている。この両雄はまさに日本プロレス時代からの因縁の対決だ。レフェリーは豊登。サブレフェリーはミスター高橋。猪木はガウンを脱い
ネットニュースによるとヘディングが脳に悪影響の恐れとか翼くんの「ボールは、ともだちこわくないよ!!」も石崎くんの「顔面ブロック」も令和の現代はアウト何ですな!きっとプロレスごっこで頭突きを決められても親や先生が観てたら飛んできて止められそう子供の頃ウケたくて頭から積極的に飛び込んだ結果今の体たらく!パンチドランカー状態!沖田虎丸です!昨日、コンビニで昔、一緒に働いていた巨漢の知人そっくりの男が乳首スケスケのTシャツを着てモンダミン
お疲れ様です。みんなの回答を見るレモンを買ったと思ったら、グレープフルーツでした.....どうでもいいけどね〜しかし、かわり映えしてませんね〜(笑)今日の、1冊!たぶん、前にも載せたと思いますが、また読んでます(笑)内容紹介かつてアメリカに、イチローよりマツイより有名なアスリートがいた。その名はショーヘイ・ババ。巨人軍に入団するほどの高い身体能力を持っていた馬場は、プロレスの本場・アメリカでその才能を大きく開花させる。そして1964年2月、NWA、WWWF、WW
かつて力道山道場の三羽烏と言われたのが、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、そして…大木金太郎でした。韓国の猛虎って言われたんだよね大木さんの試合で対猪木さんの試合は名勝負ですが、もうひとつ印象に残っているのが、1975年12月に日本武道館で行われた力道山13回忌追悼興行での対アブドーラ・ザ・ブッチャー戦。大木さんと言えば、頭突きが得意技。一本足を上げて頭突きするのは原爆頭突きって言ってたね対ブッチャー戦では、(上記の画像はチャンピオンカーニバルでのブッチャー戦)頭突き、頭突き
プロレス見に行ったことある?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう会場に見に行った事は無いがオレ達昭和30年台生まれの男子はプロレスが大好きだったはずだ又子供だけではなくて明治生まれの祖母なども日頃は無口で大人しいお婆ちゃんなのにプロレスが始まるとテレビの前でいけ〜とか負けるな〜やったれ〜と下品な声援を送っていたのを良く覚えている家族全員力道山ファンで力道山の得意技空手チョップに興奮したものだその力道山がオレが小学2
忘れもしない1978年10月19日。全日本プロレスで恐怖のシングルマッチが行われた。大木金太郎対Bブラジルだ。この二人は日本プロレス時代も「頭突き世界一決定戦」と銘打ち、対戦したこともあり、タッグマッチでも何度か頭突き合戦で会場を湧かせた。私がテレビで観戦したのは、78年のシングルマッチだ。最初から最後までヘッドバット合戦は見応え十分だ。両雄とも一歩も引かない。頭突きは流れを変えるための一発に使用されることが多いが、大木金太郎とBブラジルは、ヘッドバット一発でフォー
きょうは終戦記念日。終戦から75年です。1995年の夏、終戦記念日の前後に日本テレビの深夜に放送された「終戦50年特別企画金曜の夜日本は燃えた」。大変貴重なプロレス・ドキュメンタリーです。力道山時代から当時の現行のプロレスを映像で辿っています。フレッド・ブラッシー、ザ・デストロイヤー、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎のインタビュー。現役時代さながらに凄むブラッシーがいいな~。力道山のお墓がある池上本門寺を訪れる鉄人ルー・テーズ。Uインター関連で来日し
この間玉転がししてたら、鹿がいました全然逃げないんで近寄りました。近寄り過ぎて逃げられました
きょうから連休です。遅ればせながら小泉悦次さんの著書「史論力道山道場三羽烏」を購入しました。馬場、猪木、大木のそれぞれのGスピリッツの連載、楽しみに読んでました。連載がこうして一冊にまとめられ、しかも加筆までされている。読み応えあり!三人ともプロレスの歴史で絶対的な存在ですが、それぞれの歩む道がはっきりと色分けされているのが興味深いです。連休中じっくりと読もうと思います。横浜文化体育館が9月6日をもって閉館されます。文体は解体され同地に2024年夏横浜ユナイテッドアリー
昭和50年(1975年)前後ですが…馬場さんは髪を伸ばしていました。馬場さんの髪型ってこれだよね⬇️しかし一時、髪を伸ばしていたのです。これ⬇️あらっ!?伸ばした理由が当時の全日本プロレスには頭突きを得意とするレスラーが参加していて、ダメージを減らすため?らしいです。頭突きを得意とするレスラーで馬場さんとよく対戦したのが、ボボブラジル痛っ!!1975年といえば、大木金太郎が参加した頃でした。馬場さんとシングルで対戦。頭突きを要注意していた馬場さんでしたが…伸ばした髪を掴
(ーAー)はい、という事で…今回は、こちらのプロレス関連書籍を読み終わりましたので、ざっくりとですが紹介しますね。■'20.7/30読了『史論―力道山道場三羽烏』小泉悦次著('20.6/1初版第1刷発行)(ーAー)◎史論‐力道山道場三羽烏(GSPIRITSBOOK)Amazon(アマゾン)2,090〜4,180円“日本プロレス界の父”力道山が産み落とした“三羽烏”と称される代表的な3人、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎のアメリカ武者修
プロレス、生でみたことある?近所の神社でやっていたのを見たことあります見たことも聞いたこともないプロレスラーが数人リングを設営神社の境内の狭いところにリングを作りへ~~こんな風につくるんだすごい鉄骨!!仲よさそうだけど試合が始まると迫力満点でした私が小さい頃テレビで毎週プロレス中継やってた金曜8時だったと思う?父は毎週欠かさず見ていた家にはテレビが1台しかないチャンネル主導権は当然父なのだある日大木金太郎が相手選
今テレビを点けたら、1969年(笑)ジャイアント馬場、大木金太郎VSボボ・ブラジル、クリス・マルコフという懐かしい試合を流してました。ブラジルと大木は頭突き合戦。テレビ観戦に限れば、猪木さんが初めて卍固めをかけた相手がマルコフ。馬場さんもまだ若い!プロレスを見出して最初のサプライズは、巨体の馬場さんがドロップキックをやったことだな。(32文ロケット砲)
密航者と言うプロフィールが完全に消されてるんだがw【韓国】元レスラーの故・金一さん(大木金太郎)国家貢献者として国立墓地に納骨へ1名前:シャチ★2020/05/21(木)14:14:48.38ID:CAP_USER5/21(木)14:06配信聯合ニュースhttp://news.yahoo.co.jp/articles/c3a693a90fca275705c37c4ddf3ee0ef5c3dac3f【ソウル聯合ニュース】大木金太郎のリングネームで日本のプロレス界で活躍
恐怖の記憶小1の秋冬の夜に拉致未遂に遭った。母にホルモン焼き大衆食堂に連れて行かれた。そこはお酒の匂いが強くて入店に抵抗。わたしは店の外で一人にされた。そこに男が現われた。お店のお客ではない。前橋市の城東町。犯人は20代から40代くらいの男。わたしを肩に担いで走り出した。驚いて大声で泣き喚いた。「わああああああああああああああああ!!!」ありったけの声を張り上げた。お客さんや母も外に飛び出してきた。それで諦めたか慌てて逃げて暗闇に消えた。泣き止んだあとお店に。そこのテ
昭和48(1973)年2月23日(金曜日)夜のテレビ欄より。この日の東京12チャンネル名物金曜スペシャル(21時~)は「死刑・十三階段への道」なる恐怖を煽るタイトルとともに「恐怖の絞首刑執」「悲惨!ナチ強制収容所」「ユダヤ人大量虐殺の全貌」など、一見して社会派ドキュメンタリーに見せかけた、恐怖&グロ路線を突っ走る。なにかとエロ路線ばかりが語り継がれる金スぺだが、実はこうした不穏な恐怖&グロ路線や、終戦記念日のあたりには本当の本当に真面目に戦争を振り返る硬派な企画も多かった。不穏といえ
ここからポスター編たくさんの数展示されてましたが僕の独断の好みで厳選しました(笑)後半は関東以外の主要都市ポスターを集めました大阪・京都・名古屋・札幌・福岡・鹿児島ザ・ファンクスが人気爆発のきっかけとなった世界オープンタッグ選手権大会開幕戦ポスターラッシャー木村&グレート草津国際プロレスのトップコンビも参戦しました力道山13回忌追善興行日本武道館力道山家の主催で全日本と国際が参戦しました。同日同時刻に新日本が蔵前国技館でアントニオ猪木vsビル・ロビンソンが行われ