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連休の中日(2月24日)、東京・巣鴨の闘道館にて、私が司会を務めたトークイベント「プロレス同期60年門馬忠雄×高千穂明久(ザ・グレートカブキ)は語る日本プロレス盛衰史東京スポーツ『東スポ賞』秘話!」が無事に終了しました。場内には60人近くものお客さんが詰めかけてくださり、門馬さん(御年85歳)、カブキさん(御年75歳)のトークも熱を帯び、選手(日本プロレス)、マスコミ(東京スポーツ)と立場は違うものの昭和39(1964)年から、ともに時代を歩んできたプロレス界の秘話を語っていただ
2月22日木曜日〜その34時半にグー。6時25分、目が開く。ねじめびわ茶、キリンのやわらか天然水、のむヨーグルトで喉を潤す。流智美著『猪木戦記超マニアックな視点でたどるアントニオ猪木物語第2巻燃える闘魂編』を読む。P150、ストロング小林選手、大木金太郎選手との激戦の末、S50年に突入。私は大相撲、新日本プロレスの『ワールドプロレスリング』の中継に熱中していた時代。流さんの著書は、ベースボールマガジン社の出版なので、使っている写真が抜群に良い。そして、リアルタイムでテレビや試合会場で
タイガー戸口(キム・ドク)さんタイガー戸口(タイガーとぐち)本名:表正徳リングネーム:タイガー戸口キム・ドクタイガー・チャン・リーヤマト青鬼戸口正徳ニックネーム:野性の虎1948年2月7日生まれ、76歳。東京都葛飾区出身の在日韓国人2世の元プロレスラー(1968年デビュー~2022年5月31日引退)。ジャンボ鶴田のライバル。1967年月、大木金太郎の誘いにより日本プロレスに入門。1968年8月30日、後楽園ホールでの柴田勝久戦で正式に
今朝ほど、007ファンでウルトラセブンファンでプロレスファンの川崎チャーさんが大木金太郎ファンだったという女性にお会いしたというブログを書いておられました。それを読んで私が思い出したのが、自身が脳卒中を発症して脳外科に入院してわずか1ヶ月後に看護助手の女性と交わしたプロレス談義でした。『耳削ぎ事件』先日、ブッチャーのフォーク事件で盛り上がったベテランナースのhさん、私より一つ下の昭和35年ぅまれだとか。ということは馬場猪木のBI砲の全盛期を知っていますね…ameblo.jp発症からまだひと
前回のブログにて映画の女性プロデューサーが昔、プロレス団体『UWFインターナショナル』で広報を務めていた事をチラッと書いた。今回は平成に誕生したUインターよりも古い、元・昭和のプロレスファンの女性と話す機会があった。とは言っても、あくまでも仕事上での世間話レベルだけどね。その女性は、あきらかにオレよりは年配者だ。ひょんな事からその女性が、「私、昔はプロレスファンでした。」と言った。「へぇ、昔と言うといつ頃ですか?」「実は昭和の頃は好きで観てましたね。」一体、誰のファンだったのだろう
昭和50(1975)年10月の夕刊の下のほう。夕刊名物、細かい文字のみの映画広告の中に、唐突に紛れ込む「ジャイアント馬場vs大木金太郎」(10月30日、蔵前国技館)の広告。写真などない文字だけ広告のため、映画のほうは大作映画(ゴッドファーザーPARTⅡ)からパニック映画(タワーリング・インフェルノ)、恐怖映画(エクソシスト)、そして18禁のポルノ映画までがゴッタ煮で掲載されているのが楽しい。それはともかく、こうした日常の中に突如として、「宿命の対決」として放り込まれたプロレ
昭和49年の月刊プロレス。猪木対大木の特集。実際当時リアルで観てました。試合前に猪木が大木に右ストレート見舞ってましたね。結局13分あまりで猪木がバックドロップからフォール。その後馬場に挑戦した大木は6分あまりで敗れ、世間は猪木が13分かかったのに馬場は半分の時間で倒したと言わしめました。
今朝の散歩🐶は不動の滝へ行きました↓上から、ジャイアント馬場〜アントニオ猪木〜大木金太郎(^o^)不動の滝の上の空間、プラス120リョウブ↓リョウブの葉っぱ↓
日本プロレスの末期、つまりジャイアント馬場が抜けた後の真のエースは誰だったのか?坂口征二という声が圧倒的ですが、少数ながら大木金太郎という意見もあります。また坂口と大木の二枚看板だったと言われることもあります。本当は誰だったのか?これは昭和48年正月の東京スポーツです。表紙は前世界チャンピオンジンキニスキーと戦う坂口。2枚目は広告で日本プロレスの新年の記念撮影。前列に注目。左に吉村右に大木を従えて坂口が真ん中じゃないですか!これで坂口征二が大エースだとハッキリしました。前年のワールドリ
自分がリアルタイムで見たジャイアント馬場さんのタッグパートナー、まずは…ジャンボ鶴田長くタッグを組んでいたよね1972年、ジャンボが全日本プロレスに入団。馬場さんは1年後の全日本プロレス旗上げ1周年の蔵前国技館で凱旋帰国したばかりのジャンボをタッグパートナーに指名。相手はドリーとテリーのザ・ファンクス。この時、ファンクスはインタータッグのチャンピオンなんだよね3本勝負のこの試合、1ー1の後、時間切れ引き分けになりましたが、馬場さんはジャンボをタッグパートナーとして確信した試合でし
誕生日ケビン・サリバン(1949/73歳)TAKAみちのく(1973/49歳)CMパンク(1978/44歳)本田アユム(1988/34歳)BIGBOSS清水(1992/30歳)野村直矢(1993/29歳)野村卓矢(1993/29歳)後藤智香(1994/28歳)忌日大木金太郎(2006/77歳)オロ(1993/21歳)出来事2012洞口義浩がデビュー<後楽園ホール(WNC)>新日本<後楽園ホール>NJPW
最近、先日亡くなったアントニオ猪木さんの映像ばかり見てまして。今は全く見なくなったんですが、子どもの頃はプロレスが大好きでね。最初に見た時はまだ、ジャイアント馬場とアントニオ猪木が一緒でした。当時の日本プロレスのスター選手。前列右から大木金太郎、馬場、猪木、吉村道明の〝日本プロレス四天王〟後列は右からミツ・ヒライ、グレート小鹿、坂口征二、上田馬之助、そして、私が大好きだった星野勘太郎と山本小鉄のヤマハブラザース。レスラーとして小柄だった山本小鉄さんがコッソリ背伸びしてるのを見逃しま
10月3日月曜日〜その1原稿を送信。マスカットオブアレキサンドリアを摘まむ。1時半、オンセンス・パインバスを使っての入浴。水分補給に、オロナミンCドリンク。(写真)アントニオ猪木さんを追悼して、DVDブック『燃えろ!新日本プロレスVol.4大物好敵手たちとの猪木"血闘録”!』〜「国際プロレスのエースとプライド勝負!!アントニオ猪木VSストロング小林」「執念の頭突き連発も両者感涙の大抱擁!!アントニオ猪木VS大木金太郎」(H23年12月8日号/11月24日発売集英社)の2試合をみ
残念です。アントニオ猪木さんまた1つの時代が終わりましたね。猪木と馬場9月30日は“馬場正平&猪木完至デビュー”の日!【週刊プロレス】(BBMSports)-Yahoo!ニュース1960年9月30日、日本プロレス台東体育館大会で馬場正平(のちのジャイアント馬場)と猪木完至(のちの猪木寛至、アントニオ猪木)がデビューした。news.yahoo.co.jp天国で馬場さんと対戦してください。アントニオ猪木『今日の1冊【完1976年のアントニオ猪木】』お疲れ様です。1
2022.6.19の朝日新聞にサッカーのヘディングについての記事が出ていました。記事によるとイギリスのヘディングの名手のサッカー選手の死亡原因が、ボクシングによる頭部への損傷だったそうです。そこがきっかけになりヘディングの危険性が謳われるようになり、子どものヘディングに対する制限などが始まったみたいです。この記事を読んで思い出したのが昭和の名レスラー大木金太郎さんです。大木金太郎さんは頭突きを得意技としていましたが、その後遺症で脳にダメージがあったといわれています。多分何度も繰り返すこ
自称妖怪のやまちゃんこの前の水曜日、グランドに行ったら黒土汚れの後がついたぶかぶかのズボンまた明らかに中学生の兄ちゃんの履いて来てる靴下も左のだけアキレス腱のとこボコってなっとるし片一方だけ兄ちゃんのやなそのやまちゃんと大関がお休みになって戦力ダウンになった今日(土曜日)は大分市でTOS(地元のテレビ局)県大会がありました県大会と言えば試合前のお約束またまたカメラマンが2,3人やってきてあーじゃこーじゃと指示受けなが
キラーバディーオースチンハンスシュミットVS吉村道明キムイル(大木金太郎)。レフリーユセフトルコ。日テレジータスというCSテレビでやっていました。この映像は昭和42年ぐらいのもの。吉村が引退した昭和48年までは毎週金曜日に見ることができましたが、それ以来。感動しました。それにしても大木金太郎、この頃滅茶苦茶でかいですね。
グレート草津のルーテーズ4回連続挑戦を諦めたTBSプロレスは2回目の挑戦者にサンダー杉山を選びました。杉山さんは草津さんと違い、アメリカでもキッチリ試合をやっていたんだよ大分で行われた3本勝負、結果はテーズが2-1で勝ちましたが、杉山は1本取ったのです。テーズは杉山を「基礎のできたグッドレスラー」と評価しました。だからこそテーズは杉山相手には1本許したのでしょう。草津さんには1本取られることを許さなかったんだよね3回目は仙台で豊登が挑戦する予定になりました。TBSプロレスは看板レスラ
大木金太郎さんの似顔絵です。2022年199枚目の似顔絵です。2022年7月18日(月)作成
表紙は馬場、坂口、吉村、猪木。大木金太郎を入れて最強の日本陣営ですね。今回入手したプロレス&ボクシングは坂口征二凱旋帰国記念号といっていいぐらい、坂口征二一色です。馬場、猪木を越える日本の大スター誕生という扱いです。
猪木さんと大木金太郎さんアジアタッグの時ですかね
昨年の大晦日に亡くなり、訃報が松の内に伝えられたストロング小林さん。アントニオ猪木と最初に対戦した試合が一番の名勝負となっている。48年前の本日3月19日に対戦し、これまでは大物日本人対決がタブーとされてたところ、殺気だった熱戦となり、これを契機に新日本、全日本とも、春のシングルリーグ戦では団体内にいる日本人同士の対戦が実現。猪木対坂口、馬場対鶴田は、優勝争いのターニングポイントとなる試合となった。その後は、日本プロレスに最後までいた選手が日本人対決の中心となり、大木金太郎、上田馬之助は悪
3月6日。新日本プロレスが旗上げして、50年になりました。新日本プロレスが生まれたきっかけは、馬場、猪木人気で日本プロレスが馬場戦やワールド大リーグ戦等特定の試合を放送しないことを条件にNET=テレビ朝日にも放送を認可したこと。必然的に猪木中心の中継になり、だんだん二頭並び立たない状況になり、猪木は追い出されて、新日本を設立した。猪木がいなくなり、禁断の馬場を中継し出したNETに激怒した馬場は退団。日本テレビも中継から撤退し、10月には全日本プロレス設立。馬場、猪木のいない日本プロレスは人
昭和42年11月、日本プロレスが放つ豪壮冬の陣!ウインターシリーズ戦開幕(後楽園ホール)の新聞広告。豪壮(※勢いが強く、盛んな様子)って、最近はあまり目にしない言葉になっているな。それはともかく、エースのジャイアント馬場が米ロス遠征中のため、この時代にしては珍しい、いわゆる馬場抜きシリーズとなっている。アントニオ猪木、吉村道明、大木金太郎が中心となり、「無法者揃いの暴れ放題!」な外国人レスラーを迎え撃つという展開。6年後にはNWA世界王者となるジャック・ブリスコはこのシ
1973年4月20日の群馬県吉井町体育館の興行を最後に日本プロレスは興行を停止しました。事実上の崩壊だね日本プロレス社長の芳の里は崩壊を見考して残っている選手を力道山家を通して全日本プロレスで預かってもらおうと動いていたのだ。そして力道山家や日本テレビ等々の仲介で全日本プロレスへの合流が決まった。日本プロレス残党の受け入れはジャイアント馬場さんとしては迷惑な話しかなかった。しかし、日本テレビや力道山家のバックアップを受けている立場として渋々受け入れた。馬場さん、全然笑ってないね馬場
1973年4月14日、東京は池上本門寺。ここには力道山の墓地があります。レスラーさんがここで写真撮ってるね池上本門寺に日本プロレスのレスラー9人と芳ノ里、九州山、そして力道山の未亡人の百田敬子さんが集まり記者会見が行われました。選手会長でありエースの大木金太郎。「力道山先生の残した日本プロレスの灯を守るために精一杯努力を重ねてきましたが、残念ながら力及ばす、これ以上続けていけない状況に陥りました。日本プロレスの灯は宗家である百田家にお返しして私達レスラーは百田家に預かって頂くことになり
1973年3月30日の日本プロレスのダイナミックシリーズ最終戦の放送を最後にNET(現在のテレビ朝日)はテレビ放送を打ち切りました。最後の放送は高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ)さんがUNチャンピオンになった試合だったねこれにより、日本プロレスはテレビ放映権料を失い、さらには馬場さん、猪木さん、坂口征二、吉村道明等々の選手も失ったことで観客動員数が激減し入場料の激収で会社経営が立ち行かなくなりました。日本プロレス社長の芳の里は次期シリーズのアイアンクローシリーズを前に興行活動を断念する
1973年3月9日、前日に日本プロレスのダイナミックシリーズ最終戦が終わり、日本プロレスの事務所では大木金太郎が記者会見を緊急で開きました。巷では坂口征二が退団し、日本プロレスはもう駄目だろうと声が出ていました。坂口さんが新日本プロレスとの合併を提案したのに大木さんが猛反対して、坂口さんは日本プロレスを辞めちゃったんだよねしかし、大木は「一致団結して日本プロレスを必ず守っていきます。」と世間の声に反論する宣言をしました。一方で、予定通り新日本プロレスと合流した坂口はアントニオ猪木さんと共
1973年3月8日、日本プロレスのダイナミックシリーズは最終戦、栃木県佐野市民体育館の興行を迎えました。外人レスラーのエースはジョニーバレンタインだねこの興行で坂口征二と坂口派の小沢正志、木村聖裔、大城勤らが日本プロレス最後の出場でした。坂口らは、残留派とは行動を共にせず、佐野大会では坂口が押さえたビジネスホテルで着替えて自家用車で会場入りをしました。そして控室は使わず、人目のつく会場の隅で控えていました。異様だね、しかし残留派が襲ってくるのを回避するためにこうしたんだよね第一試合で