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※こちらの記事は、令和2年8月8日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は断続的に続いている「鎌倉(かまくら)旅行シリーズ」の第7弾で、「鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)」についての第3弾となります!※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【鎌倉シリーズのこれまでの記事】・鎌倉ですごい神社を見つけた!(甘縄神明神社)・平成28年の小町通り(1)―光輝くシラス丼と極上のクレープ・平成28年の小町通り(2)―垂涎の腸詰と宝石のようなマカロン・平成28年の小町通
室生寺は、大庭御厨の懐嶋郷を本拠地とした大庭景能(景義)の持仏とされる阿弥陀三尊像を安置する寺。善光寺式の阿弥陀三尊像で1195年(建久6年)の造立といわれています(国の重要文化財)。1195年といえば・・・源頼朝が東大寺大仏殿の落慶供養に参列するため上洛した年。頼朝は鎌倉に帰ると信濃善光寺への参詣を計画しています。その計画は「間もなく寒くなるから」という理由で翌春に延期されたようです・・・そして・・・大庭景能ですが・・・曽我兄弟の仇討事件の後の1193年(建久4年)8月24日、
鎌倉殿のゆかりの地巡りの続きです史跡天然記念物旧相模川橋脚の次は茅ヶ崎市西久保の宝生寺へ〜山門お地蔵様と後ろには阿弥陀三尊の案内板こちらにもお地蔵様本堂高野山真言宗寺院の宝生寺は懐嶋山金照院宝生寺と号します創建は建仁3年(1203年)開基は、大庭景義御本尊大日如来扁額ちょっと覗かせて頂きました🙏阿弥陀堂阿弥陀堂に安置されている阿弥陀三尊は善光寺本尊の模像で、建久6年(1195年)の造立と言われ、大庭景義の持仏でないかと言われている像で国重文茅ヶ崎市文化財の
茅ヶ崎円蔵の神明大神宮の続きです鶴嶺八幡宮景能祭之碑慰霊碑山王権現社懐嶋館址懐嶋平権守景能公像🗿顕彰碑と層塔五輪塔9月4日鎌倉殿の13人ゆかりの地巡り2日目湯河原五所神社→城願寺→真鶴貴船神社→鵐の窟→謡坂→頼朝船出の浜→大磯六所神社→茅ヶ崎鶴嶺八幡宮→円蔵神明大神宮と9ヵ所巡りました18.4キロ29691歩歩いた歩いた~鶴嶺八幡宮の参道があんなに長いとは知らずに、汗ダラダラ💦で詣でて、円蔵神明大神宮で迷子になり、いや〜キツかったあっ!真鶴の貴船神社から
9月4日鎌倉殿の13人ゆかりの地巡り…湯河原五所神社→城願寺→真鶴貴船神社→鵐の窟→謡坂→頼朝船出の浜→大磯六所神社→茅ヶ崎御霊神社→鶴嶺八幡宮と巡って来ましたもう歩けない…なんて思いながら、最後の1カ所😅鶴嶺八幡宮からどうやって移動したかは覚えてないんだけど、同じ茅ヶ崎の円蔵にある神明大神宮へ〜🏃🏃🏃しかし、降りるバス停🚏間違えて、円蔵地区で迷子になりました神明大神宮に辿り着けなくて心折れました😭もう帰ろう…と思った所に鳥居が見えました😅社号標と鳥居狛ちゃん境内案内図
源頼朝は、義経を匿ったことを理由に奥州平泉の藤原泰衡討伐について朝廷に伺いをたてていましたが・・・なかなか許可が下りません。御家人を招集してしまった頼朝は、1189年(文治5年)6月30日、大庭景義を呼び出します。すると、景義は頼朝にこう語ります。「軍中では、将軍の命令を聞くのであって、天子の命令を待つ必要はありません。奥州藤原氏は代々源氏の家人です。綸旨が下されなくとも、部下に罰を与えるのに何か問題がありますでしょうか。参集している軍隊に日を費やさせることは、良い事ではありません
茅ヶ崎市円蔵地区にある神明宮とその西側に大庭景義の居館と伝わる懐島館がありました大庭氏は鎌倉氏に一族で大庭庄を所領としていました源家の家人でありました景義は保元の乱において源為朝の強弓に足を射られ歩行が不自由となりますそのことを理由に大庭惣領を弟・景親に譲りました大庭景親は源頼朝挙兵の際に平氏方として頼朝に敵対します後に頼朝に捕えられ斬られます頼朝に臣従し宿老的な地位を得た兄・景義が大庭惣領になりました懐島館は農耕地帯の微高地に築かれた館で7000坪の敷地の大きな館であっ
『鎌倉殿の13人』~後追いコラムその46第10回根拠なき自信大庭景親(國村隼)の最期について1180(治承四)年10月23日、富士川の勝利に沸く頼朝軍は相模国府に到着し、論功行賞が行われた。そこに囚人大庭景親が連行され、処分が決定するまで上総介広常(佐藤浩市)に預けられた(『鏡』同日条)。景親は、10月18日、千騎の手勢を引き連れて平家の軍勢に加わろうとしたが、頼朝が二十万に及ぶ大軍を従えて、足柄山を越えたのを知り、「前途を失い」河村山(神奈川県山北町)に逃げてい
注意●ネタバレあり◎大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第8回予習『吾妻鏡』を読み進めます○治承4年(1180)源頼朝〈大泉洋〉○10月2日武衛(頼朝)は千葉常胤上総介広常の舟に乗り太井川(江戸川)と隅田川を渡りました精兵は三万余騎におよび武蔵国に赴きます豊島清元と葛西清重が最初に参上しました足立遠元は命じてあるので迎えに来るとのこと頼朝の乳母で故八田宗綱の娘(小山政光の後妻で寒河尼と号す)が最愛の末息子を連れて隅田宿にやって来ましたすぐに御前に呼んで思い出話をしたと
こんにちは陽が差して気持ちの良い一日になりそうですね本日も藤沢・茅ヶ崎・湘南エリアのリフォーム店「スズキホーム」宜しくお願い致しますさて昨日、広報ちがさきをご紹介しましたが・・・その広報ちがさき2月号に、こんな記事が今話題のNKH大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場する大庭景親のお兄さん!大庭景義そうです!当社スズキホーム藤沢店のある藤沢市「大庭」地名としても、しっかり根付いています大庭城址公園
大庭景義像(茅ヶ崎市・神明大神宮)『吾妻鏡』によると・・・1191年(建久2年)8月1日、新築の御所では、大庭景義が酒肴を献上し、宴会が催されます。同席者は、足利義兼、千葉常胤、小山朝政、三浦義澄、畠山重忠、八田知家、工藤景光、土屋宗遠、梶原景時、梶原朝景、比企能員、岡崎義実、佐々木盛綱ら。宴会の席で景義は、頼朝の命により、保元の乱での逸話を語ります。「勇士が用意すべきものは武具である。中でも、弓の長さは重要である。鎮西八郎為朝(源為朝)は、わが国で並ぶ者のいない弓の名人だったが
『相模国一之宮』寒川神社を訪れた帰り道。もう一社、神社を訪れてきました。JR相模線にて、北茅ヶ崎駅へ。目的の神社があるのは、北茅ヶ崎駅と、その隣駅の香川駅のちょうど中間あたり。北茅ヶ崎の方が少しだけ近い気がしたので、こちらから歩いていきます。駅から15分ほど歩き、住宅街の一角に見えてきたのが、神明大神宮。伊勢神宮を総本社とする神明神社は日本各地にありますが、ここもその一つ。源義朝・源頼朝の父子に仕え、頼朝による鎌倉幕府の誕生を支
1188年(文治4年)10月、大庭景義が鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の辺りに警備のための小屋を建てた。庭には多くの木が植えられ、紅葉は盛りの時だった。10月20日、源頼朝がその建物に赴き、鶴岡八幡宮別当の円暁も参加して紅葉狩りの宴会が催され、酒宴の間には、稚児たちが延年の舞を踊った。11月1日、鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の木が風もないのに倒れてしまう。大庭景義の報告を受けて様子を見に行った頼朝は、馬や供物を奉げ、お祓いをしたのだという。11月18日早朝、大庭景義邸の庭で狐が死んでいた。怪異な事
先週末も愛馬の出走はありませんでした。今回も「比較的」アーカイブスネタで参ります。登城は11月21日(土)です。前回の更新の衣笠城の次に登城して参りました。それは神奈川県藤沢市の大庭城跡です。今は市民の憩いの場として公園化されており、当日もなかなか外出できない小さなお子さんを連れた子供連れがいっぱい(三密にならない程度に)遊びに来ておりました。衣笠城のところで触れましたが、この大庭城を活用していたかは別として、ここは源頼朝を石橋山で破った大庭景親(?~1180)の拠点が周囲にありま
大庭氏は、鎌倉権五郎景政を祖とし、景政が開発した大庭御厨の経営を行っていた豪族。保元の乱では源義朝に仕え、特に大庭景義は、源為朝の矢を足に受け重傷を負っています。必中必殺の為朝の矢を受けて生き残ったのは景義一人ともいわれています。源頼朝が挙兵したとき、大庭氏は兄弟が敵味方に分かれました。長男景義は頼朝につき、弟景親と景久は平氏方につきました。景義の所領は、懐嶋郷(茅ヶ崎市)。神明大神宮の裏側辺り一帯が景義の懐嶋館だったといいます。神明大神宮(茅ヶ崎市)神明大神宮は、大庭景義が館
奥州征伐について、朝廷に伺いをたてていた源頼朝ですが、なかなか朝廷の許可が下りません。御家人を招集してしまった頼朝は、1189年(文治5年)6月30日、大庭景義を呼び出します。景義は頼朝にこう言います。「軍中では、将軍の命令を聞くのであって、天子の命令を待つ必要はありません。奥州藤原氏は代々源氏の家人です。綸旨が下されなくとも、部下に罰を与えるのに何か問題がありますでしょうか。参集している軍隊に日を費やさせることは、良い事ではありません。早く出陣すべきです」景義の言い分に、頼朝は
鎌倉党の紹介も第5弾。今回はタイトル通り、鎌倉党の終焉についての話です鎌倉党の中心的存在であった大庭景親亡き後、大庭景義や梶原景時といった人物たちが頼朝の勢力の許で活躍していましたが、やがて彼らも歴史の表舞台から姿を消し、鎌倉党も終焉の時を迎えます。下記リンクよりどうぞ前回はこちらから。【鎌倉党vol.5】鎌倉党の終焉|およまる大庭景義と梶原景時大庭景親亡きあとの鎌倉党は武士団としての結束力はほぼ喪失していたと思われますが、勢力はまだ温存されていました。そして、その
鎌倉党の紹介も第4弾となります。今回は大庭御厨乱入事件後の鎌倉党についての話です大庭景親を中心に鎌倉党の最盛期を迎えましたが、それは同時に分裂のきっかけとなった時期でもありました。下記リンクよりどうぞ前回はこちらから。【鎌倉党vol.4】鎌倉党の勢力拡大と分裂|およまる大庭御厨の分割相続下総国の相馬御厨の騒動に介入したり、大庭御厨の乱入事件を引き起こしたりした源義朝(頼朝の父)。彼はやがて都へ戻って鳥羽上皇(法皇)の信任を得、都の武士としての地位を高めていきました。そして
千佳今日は疲れた・・・長戸元気が取り柄の千佳がどうした?千佳バイト先の店長の方針が変わって、それで何人か辞めたの。長戸労働強化になった訳か。大変だな。でもここでは明るくいこうぜ。荀攸まあ、無理はしないようにね。荀攸1193年8月24日、【長老】大庭景義と【老荘】岡崎義実が出家している。『吾妻鏡』には特に理由はないって書いてあるけど、わざわざそう書いてあるのがあやしいね。千佳そうですね。荀攸後日のネタバレになるけど、1195年に【長老】景義が【落馬】源頼朝に赦免を
ショートフィルム(短編映画)『鎌倉四兄弟-最後の晩餐-』のナレーション収録です。7月から行ってきたこの企画、ようやくナレーションの収録も終わりました(^-^)---------------------------------------------------鎌倉もののふ隊は、平成23年(2011年)に旗上げした任意団体です。趣旨は、子どもたちに埋もれてしまった歴史や忘れ去られてしまった先人たちを伝え残すこと。ひいては先祖供養につながり、地域振興にも寄与するというもの
治承・寿永の乱第44弾ですこれまでの話はこちらから。武蔵国をも制圧下に置いた頼朝勢はいよいよ鎌倉へ向けて進軍を開始しました。先陣は畠山重忠(はたけやま-しげただ)、後陣は千葉常胤(ちば-つねたね)という陣容で、道筋は武蔵国府(東京都府中市)からそのまま南下して多摩丘陵を抜けるルート(のちの鎌倉街道上道もしくは中道)を取ったと考えられます。また、これに先立って頼朝は秩父党の江戸重長(えど-しげなが)に武蔵国の取り仕切りを命じました。これは江戸重長のここまでの功績を認めたとい
ショートフィルム(短編映画)『鎌倉四兄弟-最後の晩餐-』のシーン1の撮影です。シーン1の撮影を行いました。---------------------------------------------------鎌倉もののふ隊は、平成23年(2011年)に旗上げした任意団体です。趣旨は、子どもたちに埋もれてしまった歴史や忘れ去られてしまった先人たちを伝え残すこと。ひいては先祖供養につながり、地域振興にも寄与するというものです。以下は活動の主な内容になります。
ショートフィルム(短編映画)『鎌倉四兄弟-最後の晩餐-』のシーン1の稽古です。シーン1の稽古を行いました。---------------------------------------------------鎌倉もののふ隊は、平成23年(2011年)に旗上げした任意団体です。趣旨は、子どもたちに埋もれてしまった歴史や忘れ去られてしまった先人たちを伝え残すこと。ひいては先祖供養につながり、地域振興にも寄与するというものです。以下は活動の主な内容になります。■鎌
ショートフィルム(短編映画)『鎌倉四兄弟-最後の晩餐-』のシーン3の撮影です。シーン3の撮影を行いました。---------------------------------------------------鎌倉もののふ隊は、平成23年(2011年)に旗上げした任意団体です。趣旨は、子どもたちに埋もれてしまった歴史や忘れ去られてしまった先人たちを伝え残すこと。ひいては先祖供養につながり、地域振興にも寄与するというものです。以下は活動の主な内容になり
ショートフィルム(短編映画)『鎌倉四兄弟-最後の晩餐-』のシーン3.5の撮影です。シーン3.5の撮影を行いました。---------------------------------------------------鎌倉もののふ隊は、平成23年(2011年)に旗上げした任意団体です。趣旨は、子どもたちに埋もれてしまった歴史や忘れ去られてしまった先人たちを伝え残すこと。ひいては先祖供養につながり、地域振興にも寄与するというものです。以下は活動の主な内容になります。
ショートフィルム(短編映画)『鎌倉四兄弟-最後の晩餐-』のシーン2の撮影です。シーン2の撮影を行いました。このメンツが揃うのももうこれで最後となります。---------------------------------------------------鎌倉もののふ隊は、平成23年(2011年)に旗上げした任意団体です。趣旨は、子どもたちに埋もれてしまった歴史や忘れ去られてしまった先人たちを伝え残すこと。ひいては先祖供養につながり、地域振興にも寄与するという
ショートフィルム(短編映画)『鎌倉四兄弟-最後の晩餐-』のシーン2の練習初日です。いよいよシーン2の練習がはじまりました。本番は8月15日(水)です。---------------------------------------------------鎌倉もののふ隊は、平成23年(2011年)に旗上げした任意団体です。趣旨は、子どもたちに埋もれてしまった歴史や忘れ去られてしまった先人たちを伝え残すこと。ひいては先祖供養につながり、地域振興にも寄与するというものです。
7月22日(日)、ショートフィルム(短編映画)『鎌倉四兄弟-最後の晩餐-』の撮影がはじまりました。源頼朝が鎌倉に攻め込んでくるもっと前の時代に、鎌倉を切り拓き、長く治めてきた一族たちがいました。しかし、彼らのことを語り継ぐ者はいままでほとんどいませんでした。敗者は歴史を語ることができないのです。生まれ育ったこの鎌倉の足の下には、埋もれた歴史があり、忘れさられてしまった人たちがいます。不甲斐なさや先祖への申し訳なさを感じてきて、どうにか鎌倉で暮らす子どもたちに伝え残していくことはできな
ショートフィルム(短編映画)『鎌倉四兄弟-最後の晩餐-』の練習6日目です。いよいよ練習も6日目。次回は7月22日(日)本番です。---------------------------------------------------鎌倉もののふ隊は、平成23年(2011年)に旗上げした任意団体です。趣旨は、子どもたちに埋もれてしまった歴史や忘れ去られてしまった先人たちを伝え残すこと。ひいては先祖供養につながり、地域振興にも寄与するというものです。以下は活動の