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過去の最高閲覧記事、今回は2019年3月の「大崎義隆(大崎氏の最後の奥州探題??)の墓?古川長岡?それ・・・」を掲載しました。上記内容につきましては上記または下記リンク表から参照願います。過去の最高閲覧記事リストについても下記表の月間歴代トップリスト参照願います。徐々に知れ渡って100数十リストに何なんとしています。だいぶ多くなってきていましたので過去のリスト一覧表を作成しました。ご利用ください。大崎バックグランドメニュートップ行事歴史家庭菜園大崎検定自然
※2020年7月5日訪問※▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼城の北側に位置し、現在は浄泉院が建っている。東西110~138m、南北70~90mの不整方形の平場である。東や西、北側斜面には幅7~14mの大規模な堀跡や高さ2~3mの土塁跡か明瞭に認められる。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
※2020年7月5日訪問※名生城跡の案内板から北側にへ向かいます右手の林が大館の西側部分で、案内板の縄張り図によると、土塁が残されているとの事振り返って撮影してみましたが、何となく土塁のような物が見えますねご近所のワンちゃんに吠えられながら、道路を北に進んで行くと、右手に視界が開け平場が見えてきますこちらも大館跡の一部のようです道路を進んで行くと、道路の真ん中に鉄塔が建っていますが、この鉄塔の右側の林部分が【内館】の跡だと思われます▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼名生北
※2020年7月5日訪問※軍議評定所丸の土塁のすぐ側には、空き地のようなスペースが設けられており、この場所には名生城跡の【案内板】が建てられています案内板には、名生城の縄張図が描かれており、名生城散策の際にはこの絵図を参考にされると便利かもしれません▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼城跡の範囲の中央よりやや北東側、陸羽東線に面した地区が城の中心と考えられる。推定される規模は東西約150m・南北約200mであり、西側の想定される曲輪跡(ニノ構か)とは堀跡によって区画されると考えられ
※2020年7月5日訪問※名生城跡の中心部には、現在集落となっていて、数件のお宅が建ち並んでいますそんな、集落の真ん中に巨大な土の塊を発見案内板の絵図から推測するに、こちらは【軍議評定所丸の土塁】と推測されます城跡のほとんどが田畑に変貌した名生城では、はっきりと確認出来る遺構として、とても貴重な物ですね◆陸奥国・名生城大館跡/大崎市指定史跡◆に続く
※2020年7月5日訪問※JR陸羽東線の無人駅《東大崎駅》で下車踏切を渡って駅から北東に歩いて行きます一面の田んぼが広がっており、《米どころ大崎》を実感することが出来ます田んぼの中の畦道を進んで行きますこの辺りが名生城の【小舘】と呼ばれる曲輪の跡だと思われます下の写真は土塁と空堀の跡のようにも見えますが、詳細ははっきりせず集落が見えて来ましたが、この集落に向かう道路部分は、かつての【堀跡】だと推測されます◆陸奥国・名生城軍議評定所丸跡土塁/大崎市指定史跡◆に続く
※2020年7月5日訪問※宮城県大崎市の【名生城跡】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼宮城県大崎市(旧古川市)にあった南北朝時代から戦国時代の城。江合川西岸の段丘の上に築かれていた。大崎5郡を領地とした、戦国大名大崎氏の城で、南北朝時代の1351年(観応2/正平6)に、大崎家兼が築城したともいわれるが、はっきりしたことはわからない。1590年(天正18)、豊臣秀吉による奥州仕置で、秀吉家臣の木村吉清の属城となり、翌年の葛西大崎一揆で一揆側に奪われたが、蒲生氏郷によっ
旧古川市新田地区の水田に囲まれた集落に新井田城はありました現在は遺構はほとんど失われました内堀、外堀と二重堀が方形の主郭を囲んでいたと伝わります民家の脇に解説板が建つ程度の城跡としては地味な存在ですそれでもこの城で起きた事件を知ると訪れてみたくなる場所です天正14年(1584)新井田城の城主・新井田義景は主君である大崎義隆をこの城に軟禁しますこの事件をきっかけに大崎家中で騒乱が勃発し伊達氏の軍事介入を招きます大崎合戦の始まりは新井田城なんです↓新井田城跡電子国
【問題】豊臣家による奥州仕置によって、大崎義隆は次のうちどのような処遇となったか?【選択肢】陸奥国内で加増された越中国へ転封となった所領を没収された会津で処刑された【正解】所領を没収された【解説】大崎義隆は、秀吉による小田原攻めに参陣せず使者を送るのみであったことから、奥州仕置において所領の大崎5郡を没収された。
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小野小町の墓を後にしてそのまま東に進んで行き数分歩くと47号線に出る道路と直交したところを右折して近くの新豊寺に向かっていきます。ちょっと道路が入り組んでいますがちょっと奥まったところに新豊寺がありその近くの民家に前に新井田城跡の標識が立っています。この城は奥州探題などがよく通ったところとして知られています。特に大崎氏最後の当主大崎義隆は繁く通ったとか?義隆のかわいがっていた小姓がいたとか?そんなことで東大崎の名生城からこの新井田城までが大崎探題道と言われるゆえんとか大崎バックグランドなおア
大崎市の合併名の元となったのは室町時代奥州探題の大崎氏の本拠地が古川と中新田近郊にあったからと言われています。その大崎氏の最後の当主15代大崎義隆のはかといいつたえられていつのがありますがはたして??大崎義隆氏は没落後会津の蒲生氏の元にいたとか?よくわからないようです。大崎バックグランドなおアルバムや映像等は「大崎バックグランド」内の[大崎義隆の墓?古川長岡?それとも岩出山?]を参照願います。
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【問題】≪難問≫天正16年(1588)の大崎合戦で、伊達軍の背後を衝いて大崎義隆に勝利をもたらしたのは次のうち誰か?【選択肢】相馬義胤佐竹義重二本松義継黒川晴氏【正解】黒川晴氏【解説】天正16年(1588)、伊達政宗は浜田景隆、留守政景ら1万の軍勢を大崎領に侵攻させた。しかし、伊達軍は大崎義隆の属城を攻撃中に背後を黒川晴氏勢に衝かれて混乱し、大敗を喫した。