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※2022年6月10日訪問※中新田所(中新田城)跡には【八幡宮】という神社が建てられていますこの八幡宮周辺は、広場の用な小さなスペースが整備されており、この場所には、中新田城を築いたとされる《斯波家兼》の銅像も建てられていましたそして、【町史跡中新田城跡】と彫られた石碑も建てられていますね以上が中新田所(中新田城)散策の記録となります現在ではすっかりと市街地と化してしまった中新田所(中新田城)ですが、実際に現地を歩いてみて、城の規模や構造について想像してみるのも面白いかもしれませんね
※2022年6月10日訪問※【主郭西側堀跡】も現在は道路になっているようです主郭西側の堀跡は途中で《長興寺》さんの境内にぶつかっているようですこの境内入口部分には【町指定史跡中新田城】と書かれた標柱が建てられていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼斯波家兼が奥州探題になり、大崎と改名して築いた城といわれる。大崎家の居城として十二代続いたが天正十六年(一五八八年)落城した。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲城跡のほとんどが市街地と化してしまった中新田所(中新田城)です
※2022年6月10日訪問※中新田所(中新田城)跡の航空写真を見てみると、主郭の南側の堀跡が道路として使用されているように見受けられます下の写真は、城跡を南北に貫く国道457号線と主郭南側の堀跡の交差する地点から東側を向いた写真です同じくこちらは西側を向いた写真です主郭南側の堀跡を西側に歩いて行くと、道路がコーナーを描くように、北側に向かって曲がっている事がお分かり頂けるかと思いますちなみにこのコーナー部分の土地には様々な石碑が建てられていました◆陸奥国・中新田所(中新田城)主郭西
※2022年6月10日訪問※中新田所(中新田城)で、わずかに残る遺構として、主郭東側の【土塁】が残されているとの事その土塁は《多川稲荷大明神》の裏手に残されているとの事なので、神社の裏手に回ってみると…神社の裏手に見られるこの土の高まりが、中新田所(中新田城)の主郭東側の土塁の一部と思われます土塁の下部には、石垣のような石積みが見られましたが、市街地整備や神社造営時に改変された部分かもしれませんねすっかり市街地と化してしまった中新田所(中新田城)で、唯一と言っても良い貴重な遺構ですね
※2022年6月10日訪問※【主郭東側の堀跡】もすっかり市街地となっており、わずかな空き地に堀跡の痕跡を推測するしかありませんね◆陸奥国・中新田所(中新田城)主郭東側土塁/加美町指定史跡◆に続く
※2022年6月10日訪問※外郭の堀跡から城内に入り、少し進むとすぐに【主郭北側堀跡】にぶつかりますはっきりとした遺構は見て取れませんが、この辺りがかつての堀跡と推測されます◆陸奥国・中新田所(中新田城)主郭東側堀跡/加美町指定史跡◆に続く
※2022年6月10日訪問※では、早速中新田所(中新田城)を訪れてみましょう今回は城跡の北側からアプローチして行きますちなみに、平城の中新田所(中新田城)は、現在では市街地に埋没しており、その遺構を伺い知るのは非常に難しくなっていますその中で城跡の北側を東西に流れるこの水路はかつての外郭北側部分の【堀跡】と推測されます城として機能していた当時はもっと広い堀幅だったのでしょうが、現在では細い水路として残されているようです◆陸奥国・中新田所(中新田城)主郭北側堀跡/加美町指定史跡◆に続
※2022年6月10日訪問※宮城県加美町中新田の【中新田所(中新田城)】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼大崎氏の始祖、斯波家兼公は足利氏の一門である。1354年(文和3年)、新田義貞討伐の軍功により奥州管領に任命され、奥州に下向。余年前に奥州深題に任命されます。当地の伝承では、中新田城は家兼が奥州入りして間もなく築かれたとされていますが、最近の研究では15世紀初めの応永年間以降に築かれたと推定されています。本城は、東西約320m、南北約250mの大きさで、
宮城県加美町中新田の中新田城跡にある【斯波家兼の銅像】です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼斯波氏は足利の姓を公称する御家人で、足利尾張家とも号する名門であった。徳治3年(1308年)斯波宗氏の子として生を受ける。父は早世したらしく、早くから3歳年長の兄・斯波高経が公式の場で公務を務めている。やがて鎌倉幕府が倒れ、建武の新政に叛旗を翻した足利尊氏が延元元年6月(1336年)九州から京都に戻ると、7月若狭守護に任じられる。北陸へ赴くと南朝・新田勢と争い、越前守護の兄と協力して南朝
※2022年1月14日訪問※宮沢要害(宮沢城)跡の北東部分の【水堀跡】です現在では畑の中の水路として機能しているようですねこの北東部分の水堀跡から、北側に進んで行くと、道路沿いに【宮沢城】の看板が建てられていますこちらの案内板には、宮沢要害(宮沢城)の絵図が描かれていますので、まずこちらの案内板を訪れてから、城跡を散策してみるのも良いかもしれませんねということで、宮沢要害(宮沢城)散策はこれにて終了です宮沢要害(宮沢城)跡は、その多くが住宅地や畑になっており、明確な遺構を見つけるのは
※2022年1月14日訪問※下の写真は、本丸跡から南西方向を撮影した物ですかつては本丸を取り囲むように、水堀が巡らされていましたが、現在は埋め立てられ畑になっています写真では一面の銀世界になっていますね(笑)◆陸奥国・宮沢要害(宮沢城・鵜ヶ城)北東部水堀跡◆に続く
※2022年1月14日訪問※宮沢要害(宮沢城)の本丸跡に建てられている鹿嶋神社ですが、この鹿嶋神社の建てられている高台は、かつての【土塁】の跡と伝えられています神社の境内から土塁に登ってみます訪問時は吹雪だった為、土塁も雪をかぶってしまい、わかりにくくなってしまっていますねほとんどの遺構が失われてしまった宮沢要害(宮沢城)跡ですが、唯一と言っていい遺構がこの本丸跡の土塁なんですね◆陸奥国・宮沢要害(宮沢城・鵜ヶ城)本丸南西水堀跡◆に続く
※2022年1月14日訪問※宮沢要害(宮沢城)の【本丸跡】を散策して行きます本丸跡には【鹿嶋神社】のお社が建てられていました宮沢要害(宮沢城)跡を訪れる際は、この鹿嶋神社を目印に訪問されるとわかりやすいですね◆陸奥国・宮沢要害(宮沢城・鵜ヶ城)本丸土塁◆に続く
※2022年1月14日訪問※宮沢要害(宮沢城)跡の二ノ丸付近は、住宅地や畑、道路などになっており、城跡の遺構を探す事は難しくなっています『城内』と書かれたバス停が、この場所に城が有った事を伝えてくれていますね◆陸奥国・宮沢要害(宮沢城・鵜ヶ城)本丸跡◆に続く
※2022年1月14日訪問※宮沢要害(宮沢城)跡を訪れると、道路沿いに水路が流れていますが、この水路はかつての水堀の跡と推測されます◆陸奥国・宮沢要害(宮沢城・鵜ヶ城)二ノ丸跡◆に続く
※2022年1月14日訪問※二ノ丸の南側には【南屋敷】と呼ばれる曲輪が設けられていたようです現在、バス会社さんの敷地となっている辺りが、かつての南屋敷跡ではないかと思われます◆陸奥国・宮沢要害(宮沢城・鵜ヶ城)二ノ丸南東部水堀跡跡◆
※2022年1月14日訪問※宮沢要害(宮沢城)の南側に広がっていた城下町の【馬場丁・裏馬田丁家中屋敷跡】から散策して行きます訪問時は雪が吹き荒ぶあいにくの天候でしたが、通りの雰囲気がかつての武家屋敷を連想させてくれますね一面の銀世界となっているこちらの平場も、絵図によるとかつては武家屋敷だったようですね◆陸奥国・宮沢要害(宮沢城・鵜ヶ城)南屋敷跡◆に続く
※2022年1月14日訪問※宮城県大崎市古川の【宮沢要害(宮沢城・鵜ヶ城)】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼平安時代、藤原秀郷が拠った所と云われ、その頃から要害として堡が築かれたと云われている。平安時代末期には長岡郡の郡司平資幹の居城となり、その後大崎氏の家臣葛岡太郎左衛門が拠り、その後、宮沢遠江あるいは岩崎讃岐義久が居城にしたと云われる。天正十八年(1590年)大崎一揆の際には大崎方の拠点となり、周辺の河川を堰き止めて城の周囲に水を引き入れ、伊達軍の攻撃
※2022年1月14日訪問※《高清水城外濠公園》となっている二ノ丸北側の外堀跡ですが、公園の更に東側にも外堀は伸びていたようです現在こちらの堀は埋められており、更地や住宅地となっていました長々とご紹介して来ましたが、これにて高清水要害(高清水城)の散策は終了です他の方の訪城記によると、本丸跡の南側には土塁が残されているとの事でしたが、個人のお宅などが立ち並んでいたのと、一面の雪景色の影響で見つける事が出来ませんでしたお城としての遺構はあまり残っていない高清水要害(高清水城)跡ですが、か
※2022年1月14日訪問※高清水要害(高清水城)の二ノ丸北側部分の堀跡に整備されたのが【高清水城外濠公園】という公園です公園内には《外濠公園竣工記念碑》が建てられています▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼外濠公園は、天文年間(1532~1553)に築かれたと伝えられる高清水城の外濠を埋め公園化したものである。高清水城は約5万平米の広大な敷地に内濠、外濠を巡らせた要害で、城主は大崎氏から亘理氏へ、そして石母田氏へ変わり、明治維新の時まで約300年の歴史刻んでいる。明治6
※2022年1月14日訪問※遺構が少ない高清水要害(高清水城)跡で、唯一の遺構と言っても良いのがこちらの【土塁】です現在見られる土塁は、二ノ丸北部の堀に面した土塁で、奇跡的に残されている貴重な遺構土塁上には【史跡お濠遺跡】という石碑も建てられていますね高清水要害(高清水城)跡は、高清水中学校や住宅地に変貌しているので、本当に貴重な遺構です◆陸奥国・高清水要害(高清水城・高泉城・鬼ヶ城)二ノ丸北側外堀跡(高清水城外濠公園)◆に続く
※2022年1月14日訪問※下中屋敷跡の【東側の堀跡】ですこちらも堀跡がコンクリートで整備されていますかつての堀の幅通り、長方形の広場のようになっていますが、お城に興味の無い方にとってみてはただの空き地ですよね(笑)◆陸奥国・高清水要害(高清水城・高泉城・鬼ヶ城)土塁◆に続く
※2022年1月14日訪問※下中屋敷跡の【北側の堀跡】を散策して行きますかつての堀跡は、現在はコンクリートで固められており、細長い広場のように整備されています訪問時は雪が降っており、一面真っ白の銀世界でした❄️かつての堀の名残か、水路のような物が見えていますが、雪に覆われてしまっていて、詳細は不明案内板などは見つけられませんでしたが、かつての堀の幅が、分かりやすく整備されいるのはありがたいですね◆陸奥国・高清水要害(高清水城・高泉城・鬼ヶ城)下中屋敷東側外堀跡◆に続く
※2022年1月14日訪問※大手門の北西部分には、東・北・西を堀に囲まれた曲輪のような部分を確認する事が出来ます絵図によると【下中屋敷】という記載が有りますが、周囲を堀に囲まれた、出丸のような独立した曲輪という印象ですよね現在では住宅地となっています◆陸奥国・高清水要害(高清水城・高泉城・鬼ヶ城)下中屋敷西側外堀跡◆に続く
※2022年1月14日訪問※本丸を囲んでいた【内堀跡】を散策し、最初に訪れた大手門跡のである旧高清水中学校の正門まで戻って来ました絵図を見ると、大手門跡の西側には、南北に一直線に走る【外堀】を確認する事が出来ます旧高清水中学校の正門前に建つ、《社会福祉法人栗原市社会福祉協議会高清水支所》さんの建物とお隣の民家の境目辺りが、かつての一直線の外堀跡と思われますが、遺構などは確認出来ませんでした◆陸奥国・高清水要害(高清水城・高泉城・鬼ヶ城)下中屋敷跡◆に続く
※2022年1月14日訪問※旧高清水中学校の敷地の東端までやって来ました旧高清水中学校の敷地の東端には用水路が残っており、かつて本丸を囲んでいた【内堀】の東側部分と推測されます現在の堀跡は民家や畑などに変貌していましたが、周囲より少し土地の高さが低くなっている部分も見られました◆陸奥国・高清水要害(高清水城・高泉城・鬼ヶ城)大手門西南部外堀跡◆に続く
※2022年1月14日訪問※かつては旧高清水中学校のグランドの中心部を貫くように本丸を囲む【内堀】が設けられていました旧高清水中学校から南側に通る細い道路にやって来ました下の画像は、右側は旧高清水中学校の敷地、左側が住宅となっていますが、丁度この画像の左右を横切るように、かつては本丸西側の内堀が伸びていたようです◆陸奥国・高清水要害(高清水城)本丸東側内堀跡◆に続く
※2022年1月14日訪問※大手門跡の両脇には【土塁】が残されています土塁上には【高清水城跡】の案内板も設置されており、かつての高清水要害(高清水城)の絵図も記載されているので、散策の参考にさせて頂きました土塁はかなり低くなってしまっていますが、旧高清水中学校の西側部分を囲うように残されています◆陸奥国・高清水要害(高清水城・高泉城・鬼ヶ城)本丸西側内堀跡◆に続く
※2022年1月14日訪問※では、高清水要害(高清水城)跡を訪れます高清水要害(高清水城)跡の中心部には、2019年まで《高清水中学校》が建てられていました城跡の西側には、楼造り八脚門と伝えられる【大手門】が設けられており、旧高清水中学校の校門の辺りに門が建てられていたようです旧高清水中学校の校門を入った場所には【高清水城跡】と彫られた石碑が建てられており、この石碑と上記の案内板が、ここに高清水要害(高清水城)が有った事を示してくれています石碑の土台部分にも高清水要害(高清水城)の説明
※2022年1月14日訪問※宮城県栗原市高清水の【高清水要害(高清水城跡】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼高清水城は陸前丘陵を構成する築館丘陵の末端部に位置し、沖積地に面した標高20メートル程の緩やかで平坦な微高地に造られている。延文元年(1356年)に大崎(高泉)持家が築城したとする伝えと、天文年間(1532年-1554年)に大崎直堅が築いたとする伝えがあるという。豊臣秀吉の奥州仕置によって大崎氏が改易されると、木村吉清が新領主となる。伊達政宗の煽動によ