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私事ですが、1月14日が誕生日でした。この日は月例参拝に向けての移動日で、ビジネスホテルに泊まりました。ビジネスホテルなので夕食はつきませんから、スーパーで買ってきたものをいただきます。体調が良くないので、一缶だけ。常用している薬も忘れずに飲みました。いつも来てくれるのは、新潟出身と、山形出身なんですが、二人とも「那須は寒い」と言います。風が吹き荒ぶ関東平野の寒さは、雪国の人たちからすると格別なようです。落葉の時期が終わって、いくぶん楽になりました。ただし、常緑広葉
長らく『墓所公開』と称してきた月例の行事について、以後は非公開とし、参拝を予約した個人もしくはグループにのみ、入場を許可します。大山巌墓所は、個人所有の私有地です。予約の無い、無断での立入を禁じます。予約せずに敷地へ侵入した場合、すみやかに退去してください。退去しない場合は警察に通報します。墓は見世物ではありません。見物目的での立入を固く禁じます。参拝予約申し込みは毎月の第三土曜日のみ無償で受け付けます。2021年12月は、18日が月例参拝日です。それ以外の日に参拝したい場合
外国船に対しては「措置平穏」で。幕府、江戸湾警備の方針を見直し。——幕末維新クロニクル1847年4月|和樂web日本文化の入り口マガジン日本が大きく変わった幕末。その時一体何が起きたのかを時系列で探る「幕末維新クロニクル」シリーズ。「とにかく、事を荒立てないように」。幕府のこのスタンスは吉と出るか凶と出るか——。前回までのクロニクルはこちらからどうぞ。安藤整1.オランダ国書を見た黄門さま2.琉球にイギリス船、フランス艦、あいついで来る3.戦列艦、突如として浦賀にあらわる…in
さる11月9日から、病室に戻っています。10日に手術を受けました。心臓本体にチョコッと触る手術でした。とはいえ、鎖骨の下を切って筋肉をずらして肋骨の隙間からなので、胸骨を切るような大手術ではありません。麻酔で眠っていた3時間で手術は完了でした。胸の奥に手を突っ込むくらいの切り口を入れられたわけですから、麻酔が切れると痛いです。左腕を固縛されているので何かと不自由です。食欲が減退して量が少なめの入院食さえ残すほどですが、まずまず元気に過ごしています。腹が減るほど動けないし、たぶん栄養は足
遠山の金さん、実は、この時代にいた人です。今回の新記事でチラッと登場します。謹慎中の徳川斉昭登場!「戦艦製造は急務」…いや、そんなこといわれてもなぁ。——幕末維新クロニクル1846年10月|和樂web日本文化の入り口マガジン日本が大きく変わった幕末。その時一体何が起きたのかを時系列で探る「幕末維新クロニクル」シリーズ。今回はついに幕府が「戦艦」の必要性に言及。けれどもそこには重大な問題が——。前回までのクロニクルはこちらからどうぞ。安藤整オランダ国書を見た黄門さま——1846
先日公開された新記事です。度重なる外国船来航、孝明天皇の耳に達す。その時下した「勅」とは——幕末維新クロニクル1846年8月|和樂web日本文化の入り口マガジン日本が大きく変わった幕末。その時一体何が起きたのかを時系列で探る「幕末維新クロニクル」シリーズ。今回は度重なる外国船来航がついに孝明天皇の耳に入ります。時の天皇はどのような勅(みことのり)を下したのでしょうか——。前回までのクロニクルはこちらからどうぞ。安藤整オランダ国書を見た黄門さま——1846年3月琉球にイギリス
戦列艦、突如として浦賀にあらわる!そして琉球に居座り続けるフランス艦隊——幕末維新クロニクル1846年6月|和樂web日本文化の入り口マガジン戦列艦、突如として浦賀にあらわる!そして琉球に居座り続けるフランス艦隊。幕末維新クロニクル(1846年6月)琉球に居座ったフランス艦隊への対処だけでも大わらわなのに、どてっ腹に大砲をズラリと並べた、遊園地の海賊船みたいなのがあらわれました。江戸とは目と鼻の先の浦賀にです。さあ、どうなることやら。サムネイル画像は谷文晁「黒船之圖」(国立国
鎖国と言っても、外国は遠慮しません。たとえ憲法に「台風は来るな」と定めたとしても、台風は遠慮してはくれないでしょう?それと同じで、幕府の祖法だといっても遠慮はしてくれません。琉球ならばまだしも日本本土のうちに入らないから……と、いっていられるでしょうか?琉球にイギリス船、フランス艦、あいついで来る。——幕末維新クロニクル1846年4月|和樂web日本文化の入り口マガジン謹慎処分を受けながら、活溌に活動する黄門さま=水戸家の御隠居・徳川斉昭は、今回また登場します。ちなみに「黄門
先月同様、今月も緊急事態宣言で非公開です。まだまだ序の口、もっと降りそうな気配がしていました。刈るべき草はあるけれど、雨の中で手の出しようがありませんでした。雨の風情は嫌いじゃないが、半日ずっと雨に打たれるのはイヤです。キンモクセイです。けっこうな大木になってますが、石塀のなかで目立たない位置にあって、なかなか御覧いただく機会はないかと思います。レアですよ。墓所は定期的に警察官が巡回しています。大山巌墓所修復事業に対する御寄付は、参拝当
疑うことを覚えて日本が生きていくなら不意に、大攘夷の意味を知る世界の注目を集めた大冒険「シベリア単騎行」と日英同盟の関係について。名が知れすぎた情報将校が最後に視察した国は?|和樂web日本文化の入り口マガジンはじめに「シベリア単騎行」って、名前くらいは聞いたことがあるかと思います。「それって、何?」と、訊かれると困っちゃうくらいの人が多いでしょうね。人家も疎らな未開発だった頃のシベリアを馬で横断した、というと簡単そうに聞こえちゃうかもしれませんが、当時(19世紀末)世
素早い動きで相手を翻弄しつつ、ガンガン弾を当ててるんですが、それでも沈む様子がない。これは日清戦争における黄海海戦の様子です。けっして宇宙世紀の出来事ではありません。「日清戦争」性能の違いが戦力の決定的差ではない?20年揉め続けた結果、何が起きなかったか|和樂web日本文化の入り口マガジンはじめに明治時代には、米欧列強のアジア進出のことを「西力東漸」(セイリキトウゼン)と呼びました。インドのムガール帝国がイギリスの侵すところとなり、その東にあるビルマもまた独立の実態を失い、インド
だいたい30分強で読み終わると思います。血と涙を流し歩んだ20余年。「明治憲法制定」と「統帥権独立」で何が起きなかったか|和樂web日本文化の入り口マガジンはじめに明治元年3月、まだ江戸開城交渉が妥結していなかったとき、明治天皇は「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と、天地神明に誓いました。このとき撒いた種が芽生え、育ち、花開き、実を結ぶまで20年以上をかけて数々の段階を踏んできました。それが現実のものとなったのが、明治憲法の制定と国会の開設です。多くの血と涙を流しなが
先日、公開された新記事です。近代はここから始まった?日本史上最後の内戦「西南戦争」で何が起きなかったか|和樂web日本文化の入り口マガジンはじめに西南戦争が勃発したのは、明治6年政変に敗れた西郷隆盛が鹿児島に帰郷して4年目のことで、日本史の時代区分では近代の始まりを西南戦争以後と規定する研究者もいるくらい、重大な転換期です。明治政府の事実上の首班だった大久保利通は、生まれ故郷の鹿児島県を敵として戦いました。鹿児島の士族もまた、政府残留組の肉親や知己を相手に戦いました。そうしたツラ
月例の第3土曜日の墓所公開は、コロナウイルス蔓延の状況を鑑みて中止、管理作業のみ実施いたしました。例年8月には草に埋もれる参道が、今年はスッキリしています。こうまで除草作業の効果が高いとは、まったくありがたいことです。先日来の雨続きで、大げさに言うと内水氾濫が一時的に起きたようで、その痕跡が砂利の上に残っています。水が運んで来た木くずなどが滞留しているのがわかりますよね?今回は墓所に人を入れないので、枝落としなど、参拝者がいたら出来ない作業をします。枝が灯籠の上
かたじけなくも天皇陛下が暴風雨のなかで幕営あそばされる、というだけでも畏れ多いことなのに、あまつさえ夜襲を仕掛けたとあっては、驚くほかないのであります。明治天皇と西郷隆盛。暴風雨の野外演習で「起きなかったもの」と「起こさなかったもの」とは|和樂web日本文化の入り口マガジンはじめに――惜しい人を死なせた。逆賊の汚名を蒙った西郷隆盛について、明治天皇はそう思ったけれど、ハッキリいうわけにはいきません。隆盛が率いた薩軍を討ち破ったことを功績とする人々もいましたからね。天皇の発言とも
大山巌墓所が所在する栃木県から、「お盆を含む夏休みの過ごし方についての知事メッセージ」(8月12日)が出ています。それによると、(栃木県内の)全療養者数が1,400名を超えて過去最大となり、そのうち自宅療養者や入院調整中の方が1,000名を超えるとのことで、医療逼迫の状況にあります。この状態ですと、災害や事故などで緊急に治療を必要とする場合に、医療資源が払底して充分な治療が受けられないおそれがあります。まことに遺憾ながら、本年8月度の大山巌墓所公開は参拝を受け付けません
いまの自衛隊は「軍」じゃない。だとすると、わが国は一度も「国民軍」を持ったことがない、ということになります。国民に銃を向ける軍隊はなぜ必要だった?「徴兵令」で何が起きなかったか|和樂web日本文化の入り口マガジンはじめにかつて日本は強大な軍事力を保有していました。日本が強国であることは東洋の安定に繋がり、ひいては世界平和にも貢献できると、日本人が本気で信じていた時期もありました。明治新政府が徴兵令を施行して「皇軍」を創始してから第二次大戦に敗れるまで、旧日本軍が存在したのは僅
きのう公開の新記事です。悪評も厭わず!天皇毒殺の疑いをかけられた岩倉具視。波乱の生涯で「何が起きなかったか」|和樂web日本文化の入り口マガジンはじめに幕末から明治時代前期にかけて活躍した岩倉具視は、文政8年9月15日(1825年10月26日)、前権中納言・堀河康親の第二子として生まれました。幼名は周丸(かねまる)、雅号は華竜、のちに対岳と改めました。天保9年(1838)、岩倉具慶の養子となり、具視と名乗ります。岩倉家は村上源氏久我家の支流で、江戸時代初期に岩倉を称した具起が初代
今朝、ワクチン2回目打ちました。副反応、軽いといいなぁ。本日公開の新記事は、とても軽く読めますよ。一橋、一つ橋、一ツ橋?諸説入り乱れる、地名の由来|和樂web日本文化の入り口マガジンはじめに徳川慶喜の旧姓は「一橋」、橋の名前はかつて「一つ橋」だったと伝えられ、地名としての表記は東京都千代田区「一ツ橋」です。いったいどれが元祖なのかをキッチリ調べてみました。現在の千代田区一ツ橋いまの住居表示で「千代田区一ツ橋」というと、皇居東御苑と堀を挟んだ向かい側の、川の上を首都高速道
昨日公開の新記事です。マシュー・C・ペリーの日本遠征。下田・箱館を開いたことで、なにが起きなかったか|和樂web日本文化の入り口マガジンごぞんじ黒船来航の一幕ときに嘉永6年6月3日(1853年7月8日)申の刻(15時~17時くらい)、米国使節として軍艦4隻を率いたペリー提督が、浦賀湾頭に錨を投じました。江戸湾を通航する船舶を監視する幕府の浦賀奉行所から、与力の中島三郎助が通詞の堀達之助を随え、旗艦サスケハナ号に向かい、退去命令書を示そうとしましたが、登艦を拒まれました。達之助は米
きのう公開された新記事です。誰がいつ着想したのか。「廃藩置県」までの流れを辿る|和樂web日本文化の入り口マガジン2021年は廃藩置県150周年にあたります。大名が地域を支配する「藩」という仕組みを廃止して、代わりに県を設置したのが廃藩置県でした。廃藩置県は、お役所の看板を架け替えただけのことではありません。それまで各藩が握っていた土地・人民からの税収を、国庫に納めさせるようになったのです。各藩の領有権を召し上げてしまおう。そのように考えついたのは誰で、いつ頃のこ…intoj
新記事の御案内です。リアリズムで読み解く東北・北越戦争。列藩同盟は誰のために何を目指して戦ったのか|和樂web日本文化の入り口マガジンはじめに戊辰戦争は戦国乱世の支配地域の奪い合いとは異なり、次代を担う政権のあり方を巡る戦争ですから、政治思想をぬきには語れません。戊辰戦争の第二幕にあたる東北・北越戦争を、学界は軍事をさておいてイデオロギー面から論じてきました。たとえば石井孝(故人・東北大教授)は先進的な西国諸藩が天皇を核とする絶対主義政権を築こうとしたのに対し、おくれた東北諸藩
本日公開の新記事です。明治天皇が天地神明に誓った五箇条の御誓文。近代史に輝く名文が「起こせなかった」真の目的とは?|和樂web日本文化の入り口マガジン明治天皇が天地神明に誓った五箇条は、新政権の理念を高らかにうたいあげ、現行の日本国憲法にも影響を及ぼした不朽の名文です。それが、どのように起草され、修正されていったかを追うとともに、五箇条を練った真の目的とすることが「起きなかった」事情を探ります。天皇とはなにか幕末には、一君万民という考え方がありました。日本のなかで、天皇だけ
西郷隆盛よりも、勝海舟よりも、川村恵十郎のほうが、まだしも活躍する江戸開城の記事です。失敗したもう一つの「江戸開城」。和平交渉でなにが起きなかったか|和樂web日本文化の入り口マガジン戊辰戦争の江戸開城といえば、歴史に残る美談ですよね。その立役者は勝海舟と西郷隆盛、どちらも人気の高いキャラクターです。江戸開城にまつわる歴史的事実として知られていることは、ドラマや小説でも概ね踏襲されています。ただし、本来なら主役は別な人たちがつとめるはずでしたし、もっとスンナリ決着がついて、上野戦
今回の新記事は大坂都構想についてです。(坂の字にご注目)さあ、騙されたと思って読んでみよう。あらためて「騙された」と思うから。大久保利通は何を起こせなかったか?潰えた首都大坂と「開かれた皇室」|和樂web日本文化の入り口マガジンはじめに大久保利通の人物評は、毀誉褒貶の両極端を見ることが多いです。国立国会図書館ウェブサイトの『中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典』のなかの人物編「大久保利通」のパートは、感情を排し、理性的に評価した人物像を描いていて非常に優れた人物紹介です。
こんなこともあろうかとけして御都合主義じゃないんです。もともと、そういうプランが用意されていたのですよ。えっ?なんのこと?そう思ったら、リンク先へ飛びましょう。閲覧無料。実は両者ミスだらけ?本当はこうだった「鳥羽伏見の戦い」勝利の影に隠れた意外な真相とは|和樂web日本文化の入り口マガジンはじめに一般に流布されている通説と現実との乖離が大きい幕末維新史のなかでも、戊辰戦争の発端に関することは、最も誤解が多いと思います。戊辰戦争の「戊辰」とは、慶応4年=明治元年の干
採算度外視して執筆しました。幕末のいちばん長い日。「王政復古のクーデター」で何が起きなかったか|和樂web日本文化の入り口マガジン幻の徳川新政権大政奉還のあと、幕府にかわる新政権を築く構想が練られ始めました。幕府の洋学教育研究機関である開成所の教授、西周は、『議題草案』と題して、議会を基にした政権構想を示しています。「議題草案」は、幕府開成所教授職を務めた西周が、徳川慶喜の側近であった平山敬忠に提出した意見書である。公議政体の樹立が求められる中、大政奉還(慶応3(1867)年1
昨日公開の新記事です。坂本龍馬暗殺の鍵?民衆が踊り狂う「ええじゃないか」によって何が起きなかったか|和樂web日本文化の入り口マガジンお札がくだって乱舞する慶応3年夏、民衆が踊り狂う騒ぎが東海地方から始まり、秋には関西方面に伝わって、当時の政局の中心であった京都でも同様の騒ぎが頻りに起きました。伊勢神宮の大麻(タイマもしくはオオヌサ。御札のこと)が空から降ったことを吉祥(なにか良いことが起きる)として、大勢の民衆が「ええじゃないか」と囃しながら、踊り狂うのでした。富裕な家では