ブログ記事700件
5月7日の歴史真田信繁(真田幸村)大阪夏の陣で戦死5月7日は真田信繁公のご命日信繁(幸村)真田隊は家康本陣へ数度の突撃家康をあと一歩のとこまで追い詰めたが徳川軍の兵力には及ばず最後は徳川勢に追い詰められ四天王寺近くの安居神社の境内で身体を休ませていたところを発見され討ち取られた享年49大坂夏の陣ゆかりの地巡り久しぶりにしたいな真田は熱いね【送料無料】真田丸完全版全巻(第一集〜第四集)DVDセット楽天市場
大河の「豊臣兄弟」を観ていると、今更ながら当時はとにかく権力争いばかりしていて、力づくで物事を解決していくことしか頭にない、野蛮人そのものという感じです。「話し合い」「合意形成」という言葉はないのか?まあ、今の時代でもトランプ氏や周りで旗を振っている人たちのやり方は、さほど進歩しているようにはみえませんが。でもその中で、豊臣家の天下統一の立役者で、戦う味方の兵たちを食でまとめあげ、敵方の調整役にも一役買っていた包丁人(料理人)がいたことを今回改めて知りました
4月17日は家康忌事実上の戦国の覇者徳川幕府初代征夷大将軍鳴かぬなら泣くまで待とうホトトギスこの言葉のように最後にいいとこ持って行った家康織田信長が天下の道を切り開き豊臣秀吉が天下を組み立て徳川家康が天下を手に入れる1616年(慶長21年)4月17日徳川家康が駿府城で没す享年75歳【辞世の句】1、嬉しやと二度さめて一眠りうき世の夢は暁の空2、先に行くあとに残るも同じこと連れて行けぬをわかれぞと思う死因は鯛の天ぷらによる食中毒説最近では胃癌説が有
長年のブロ友さんから、先日秋田の地酒「福小町」の「号外編」、並びに広島の海苔専門店「三國屋」の海苔を送って頂きました。この福小町を送って頂くと、私はよく大坂の陣同窓会を開催します。豊臣家譜代の青年武将木村重成の子孫が興した木村酒造の福小町号外編に、大阪五人衆と呼ばれた明石掃部の子孫が移り住んだ秋田県比内地方の比内地鶏、同じく大阪五人衆真田信繫の子孫と伝わる私での酒席です。さて、今回は広島の三國屋の海苔があります。どう組み立てるか。大阪の陣
関東地方に、前田家の(前田利家の子孫の)領地があります。これ、以前にチラッと聞いたことがあったんですが。江戸の藩邸とかのことではありません。駒場の旧前田邸とか有名ですけど、それとは全然違う話です。前田利家の五男、利孝が、上野国七日市で、一万石の領地を貰って、立藩しているんです。現在でいえば、群馬県富岡市の一部です。利孝は、徳川秀忠の小姓として仕え、旗本として大坂夏の陣で戦い手柄を立てて、幕府から一万石を貰いました。加賀前田家からの分知ではなく、独立した大名ということで、譜代に分類される
3/4~6まで大阪出張に行ってきました。ちょうど歩いていたところから近かったので、四天王寺さんへ。なぜか四天王寺はさん付けになる。婆さんの影響かもしれない。四天王寺東大門です。こうして見るとやっぱりアジアの影響受けてますよね!東大門ってなんだか韓国っぽい。入ってすぐのところに四天王寺四石のひとつ、伊勢神宮遥排石があります。ここに詣でると伊勢神宮にお参りしたことになったらしい。この石がそうなのか。六時礼賛堂らしい。あまり時間が無くなってきてたのと、歩き疲れたのであまり
この週末は、大阪・奈良に旅行に行ってきました。初日は、大阪城。今まで出張で横は通ってましたが、現地は初めてです。谷町四丁目駅から徒歩です。天気も良くて暑かったです。8階の展望台から大阪城ホール。見晴らしは最高です。豊臣時代の石垣も見てきました。お堀から歩いて天守閣まで、遠いですが、見るとこたくさん。8階の展望台まで順番に見てきました。
道明寺と言えば、大坂夏の陣、後藤基次(又兵衛)や真田信繁(幸村)が徳川軍相手に激戦を繰り広げた道明寺の戦いを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか(多くはないかも)。後藤又兵衛が戦った前半戦、真田幸村や他の有名人が戦った後半戦。古戦場は川をはさんだ地域に広がっています。川の東側は現在の柏原市。川の西側に道明寺があり、現在の藤井寺市になっています。小松山の戦いこぼればなし(1)|大阪府柏原市蓮土山道明寺|DomyojiTemple前年の冬の陣で
安曇野、いまだアルプス颪の寒風きびし!しかし…やっと!我が家の庭先に福寿草が。春近し!なれど、レポはまだ冬の候楠木正行公碑から中之島の木村重成の巨碑へ。初めて見て感動したのは8年も前。小楠公碑から近かった。あぁ、懐かしや、久しぶり!しかし前来た時とおんなじ、だれも碑なんぞ見ていない、通り過ぎるのみ(寂笑)。碑には「木邨(村)長門守重成表忠碑」と刻まれている。これは8年前↓、石碑の亀裂が修復されていた↑。木村長門守重成は、豊臣秀頼に仕えた側近の武将。大坂冬の陣・夏
今日の朝は真冬なみの冷たい風です。「道との遭遇」は玉手山遊園地の滑り台と観覧車の跡地が目的でした。ところが管理人の説明で過去の歴史がわかりました。大坂五人衆の後藤又兵衛が亡くなったのがここの高台でした。この高台、1700年前の古墳だそうです。この古墳の上に陣取り大坂夏の陣のはじまりだったそうです。後藤又兵衛は敵の玉に腰を討たれ動けず戦死。後藤又兵衛の碑があります。それとは別に大坂夏の陣の戦死者の碑もあります。「道との遭遇」はたまに古い歴史を紹介してくれます。地元の人しか知ら
みなさんおはようございます~(*^^*)水曜日です、もう週の中日です…八尾市久宝寺にある史蹟です長曾我部盛親物見の松です…大坂夏の陣、藤堂高虎と対峙した長曾我部軍がここの松の木に登り様子を見たそうです本当かな~?ちなみに八尾まで1.5㎞はありますこれ違いますよね?植え替えたなら教えてほしいな~八尾市は地蔵尊がかなりたくさんある…ここにもある樋之上地蔵尊と弘法大師何?鐘馗じゃないよね、寿老人?あとは水仙しか出てきません…寺院の水仙だか
昨日(11/26)の「大坂城天守」の続きです。今回最も訪ねたかったのが今春オープンした「豊臣石垣館」です。「天守」5階から一気にエレベーターで下りて、「豊臣石垣館」へ向かいました。こちらは、やはりインバウンド顧客には人気がなく、お客さんは日本人が殆どです。「豊臣石垣館」の外観↓パンフ↓パンフ↓入口に掲出されていた「大坂夏の陣屏風絵」の複製↓立派な建物の1階では「豊臣石垣や徳川石垣」の説明のビデオが流れていて、発掘された「豊臣大坂城」の「石垣」の実物は地下に
幸村は首をまわして、後ろに目を向けた。先ほど、幸村が見つめていた内堀を埋めているさま。そう、政宗も見つめていた内堀を埋めているさま。その思い、徳川方のやりように対する、やり場のない怒りともつかぬ感情。その思いが、もしやこの男、真田幸村も同じ気持ちではないのか、と思ったからだ。つい、この古い知己である幸村に、かつて信繁と呼ばれていた頃の幸村を重ねてしまったのかもしれない。「真田殿、このいくさ、このまま終わるであろうか」幸村は埋められていく内堀を見ている。「終わらぬでし
長年のブロ友さんから、秋田木村酒造の銘酒福小町の黒号外編を送って頂きました。毎年春に福小町号外編を送って頂き、今年も3月に送って頂いているのですが、春の号外編でもレアな一本なところ、秋の黒号外編はさらにレアな一本、それを送って頂きました。(こちらは春の号外編)福小町の生酒である号外編、それを一回火入れした深みを増した一本です。さて、秋田の木村酒造と言えば、歴史ファンの胸を熱くする酒造メーカーです。豊臣家が滅んだ1614年、1615年の大阪の陣
独眼竜政宗(44)「大坂夏の陣」家康は秀頼に伊勢への転封を命じると、秀頼と淀君が拒否したため再び戦の様相を呈します。徳川勢は堺を掌握し、大坂への武器弾薬の補給路を断ちます。大坂城内では淀君が大軍を率いる徳川勢に動揺しますが、秀頼は覚悟を決めます。元和元年(1615)4月、大坂夏の陣が始まり、大坂方は真田幸村らが抵抗を続けますが、5月には城内に追い詰められて秀頼と淀君が自害し、関ヶ原の合戦から15年で豊臣家は滅亡します。出演渡辺謙、三浦友和、津川雅彦、樋口可南子、真田広之、石
私の住む街は長野県上田市。六文銭の真田一族で有名。ドラマの「真田丸」を借りてきて観ている。真田は武田に仕えていた。それが、勝頼が滅んで、織田に仕えた。そのあとが豊臣、次から次へと仕える親分を替えた。上杉や北条、徳川のように、一国の主にはならなかった。なぜ信濃の主で腰を据えなかったのだろう。最後は大坂夏の陣で、真田は徳川に滅ぼされる。真田は地元のヒーロー。もう少し調べてみよう。
銭ゲバ大名・加藤孫六奴隷で儲けた孫六(本稿も長文である。戦国大名の一人加藤孫六の裏の姿を面白く書いたが、他の歴史書とは大きく異なる。しかし真実とは哀しく残酷で苦いものである。そして歴史にロマンなどは無く、ただどす黒い人間の欲望のみ。読んでカタルシスを感じていたただければ幸いである)この加藤孫六嘉明が、淡路島に集結した人間たちを、奴隷としてヨーロッパへ船積みし、硝石に交換して当時としては莫大な利益を上げていた史実は、<フロイス日本史>の「カトウより進物多し」の一文でも窺える。儲け屋の彼が
先日、大阪城に行った後数年ぶりに、木村重成公の霊廟所であり位牌堂の在る『蓮城寺』へ近くの公園内に「木村重成公の墓」がある事を知って!お参りして来ましたお墓が在る事を以前は、知らなかった(首塚は、滋賀県にあってお参り済。)大坂夏の陣。若江の戦いで最期まで奮闘し散った若き武将大坂城を出陣し🏇🏽若江に布陣。相対した藤堂軍を破るも次に押し寄せた井伊軍との激闘の末、討死した。(玉串川の西側、公園のある辺りで激戦が行われ討死したそうです。)「元の墓の場所はここから東50メートルの地点(玉串川側)
◆西日本各地で火球目撃される夜空に火球、各地で流れ星(8/20)19日夜遅く、西日本各地で火球とみられる明るい光が目撃され、関西でもその様子が確認されました。(※大阪城と火球)夜空に突如として現れた光は、緑色からオレンジ色に変わりながら下に向かって流れていきます。火球は、隕石として海に落ちた可能性があるということです。(引用終了)北海道住みの拙者は目撃できませんでしたが、昨夜、西日本の各地で火球(隕石落下)が目撃されました。隕石は海に落下したために大事には至りませ
お盆休みもいよいよ終盤ですね。今日は、森町新調だんじりレポシリーズ、その⑤「腰回り・平右」をご紹介します。欅かおる新調だんじりを網無しで拝見。特に土呂幕平の彫刻は梯子を外しての貴重な機会でした♪彫刻単体はもちろん、だんじり全体を大きなキャンパスとして眺めた時のバランス感覚も重要になってきます。腰回り(平右)の縁葛・大連子・小連子・土呂幕は、「木村長門守重成」に纏わる物語で統一されています。続きはこちらから↓貝塚森町新調だんじりその⑤:腰回り(平右)
え?上乗せ?(。´・ω・)?日本時間の7日午後…相互関税の新たな税率が適用され…通常の関税に加えて、15%が上乗せされました(o´・ω・`o)ノシ自動車関係は、本来の税率2.5%に15%が乗って、17.5%(*´з`)(27.5%よりは良かったけど)で?相変わらず赤沢大臣がアメリカへ行って?(9回目の訪米でしたっけ?)修正を依頼?
文化活動してきました。土日祝は事前の日時予約が必要です。予約時間より早めに着いたので、となりの慶沢園へ入りました。市立美術館の半券か相当するものがあれば100円引きになります。この辺りは元は江戸時代から続く豪商住友の所有でした。市立美術館になっている本館とこの庭園は大正時代に大阪市に寄贈されました。時々涼しい風が吹いてきます。サルスベリの薄赤い花があるだけの雄々しい公園です。力強く剪定された松と植栽、石橋と石灯篭。灰色のサギがかなりいました。姿は絵になるんですけ
浜辺美波ちゃんに勤めて頂きたい役。『大坂夏の陣』舞台新版千姫役この記事は管理人の夢・夢想です。1937年4月1日映画『大坂夏の陣』が公開されました。衣笠貞之助が監督を担当しました。坂崎成正は林長二郎こと長谷川一夫、千姫は山田五十鈴が勤めました。以下現存資料を基に粗筋を記します。大坂夏の陣。徳川家康は大坂城攻撃で孫千姫だけは救いたいと望みます。「お千を救い出した者にお千を添わせる」と家康は固く約束します。坂崎出羽守成正は猛火の中大坂城に突入し千姫を救
【真田大助(真田幸昌)】1615年の大坂夏の陣では父真田信繁(真田幸村)と共に出陣。豊臣秀頼を守るようにと父から命じられ大坂城に戻った。しかし5月8日大坂城は落城。淀殿や秀頼は自刃。大助は自軍速水守久らから脱出を勧められたが拒否「我は真田左衛門佐信繁の倅なり」と叫び大坂城の山王曲輪にて切腹殉死。享年は諸説あるが13歳とも言われる。【楠木正行(まさつら)】父楠木正成は死を覚悟しながら湊川の戦場に。その途中、桜井駅にて正成は長男正行を呼び寄せ「お
木村権右衛門邸跡の神木生野区桃谷3丁目21番19号木村重成(大坂夏の陣で討死。享年23歳)の姉婿猪飼野左馬助の子孫である木村権右衛門邸宅の跡地にある。現在は駐車場となっているが、樹齢約400年の椎の木の神木と立派な石灯籠、庭石が残されている。神木は重成のお手植えといわれている。
こんばんは。歴史アロマ香水®を作っています桃龍風林佳保利です。このブログを読んでいただきありがとうございます🙇毎日蒸し暑いですね。関東では、梅雨を通り越して蒸し暑くなりました。あの梅雨は、何だったのだろうか?と思います。また、あの猛暑か😱となると想像がつきません😱さて、7月からの香水講座の案内を掲載致します。【歴史アロマ香水®&歴史講座】7月9日(水)13時30分〜歴史講座「伊達の先鋒鬼小十郎」14時〜16時30分歴史アロマ香水®づくり大坂夏の陣編8月
南光坊天海(195)禁中幷並公家諸法度「十七条」一天子諸藝能之事、第一御學問也。不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也。寛平遺誡、雖不窮經史、可誦習群書治要云々。和歌自光孝天皇未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄御習學専要候事。(天皇が修めるべきものの第一は学問である云々。)一三公之下親王。其故者右大臣不比等着舎人親王之上、殊舎人親王、仲野親王、贈太政大臣穂積親王准右大臣、是皆一品親王以後、被贈大臣時者、三公之下、可為勿
南光坊天海(191)「閏六月朔日諸大名両城に参賀す。南光坊天海衆座の中にて、ひとり天台僧の外紫衣をゆるされ、また僧正にのぼる事あるべからずといふ。多聞院、末座より聲を放て、我が宗祖弘法既に紫衣を賜ひ、其上高野、東寺、醍醐の諸僧等、僧正に任ずる者古今其例少からず、何ぞ天台一宗にかぎらんやといふ。天海黙然たり。」(「台徳院殿御實紀」)二条城には、多くの人が参賀のため集まっていた。このような中で、天海は唐突に「天台宗以外は、紫衣や僧正に成ることを禁じればよいのだ。」と
南光坊天海(190)天正10年(1582年)、織部は利休と出会う。その後、織部が茶会記に初めて記録されたのは、天正11年(1583年)のことであった。つまり茶人としての活動を始めるのは、40歳以降のことなのである。あるいは武人なのに、茶の湯に明け暮れる実父・勘阿弥に反発していたのかも知れない。織部は、天正6年(1578年)荒木村重謀反の時に、茨木城に赴き、義兄の中川清秀を織田方に寝返らせた。信長は「摂津を鎮定できたのは、ひとえに重然の判断のおかげだ」と激賞したという