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ゲームジャーナル№71幸村外伝EPISODE-0八尾若江合戦シナリオの若江部分のみをソロプレイしました。ゲーム概略ゲームのテーマ:慶長20年5月6日(1615年6月2日)に起きた大坂夏の陣における若江合戦。ゲームマップの大きさ:42×59センチ。ゲームターン:全12ターン。1ターンは実際の1時間。1ヘクスの距離:公式発表なし。幸村外伝のマップと比して約138メートルと思われる。1ユニットの規模:公式発表なし。旧参謀本部編「日本の戦史7」によれば200~356人(木村隊356人、井
ゲームジャーナル№71幸村外伝EPISODE-0八尾若江合戦シナリオの八尾部分のみをソロプレイしました。ゲーム概略ゲームのテーマ:慶長20年5月6日(1615年6月2日)に起きた大坂夏の陣における八尾合戦。ゲームマップの大きさ:42×59センチ。ゲームターン:全12ターン。1ターンは実際の1時間。1ヘクスの距離:公式発表なし。幸村外伝のマップと比して約138メートルと思われる。1ユニットの規模:公式発表なし。旧参謀本部編「日本の戦史7」によれば294~500人(長曽我部隊500人
大坂夏の陣における緒戦の一つで、大坂から和歌山方面に突出した、塙直之、淡輪重政らと、それを迎え撃った紀州浅野勢とが和泉国樫井で激戦となったが、功を焦り統制の乱れた大坂勢が大敗し、塙と淡輪は戦死した。泉佐野市南中樫井の明治大橋北側に石碑が建てられている。
※こちらの記事は、令和3年11月3日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「実生活に活かす戦国合戦術」第52弾として、「大坂夏の陣(おおさかなつのじん)」について、実用的視点で学んでいこうと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【合戦シリーズの過去記事(抜粋)】江古田原沼袋合戦権現山の戦い第一次国府台の合戦川越城の合戦志賀城の合戦郡山城の合戦厳島の合戦四万十川の合戦今山の合戦耳川の合戦金ヶ崎城の合戦一言坂の合戦三方ヶ原の合戦叡
ゲームジャーナル№71幸村外伝EPISODE-0八尾若江合戦シナリオをソロプレイしました。プレイの実際:注釈:文中の1→1、1⇒1はそれぞれ射撃戦、白兵戦があったことを表す。左の数字が攻撃側ユニット数、右の数字が防御側ユニット数。例:1→1、後退2。攻撃側1ユニットが防御側1ユニットに射撃し2へクス後退させた。5ターン(10:00)若江:関東方移動:戦線穴埋め、守りを固める。大坂方防御射撃:1→1、後退2。1→1、効果なし。1→1、効果なし。1→1、効果なし。関東方攻撃:3→1、除
ゲームジャーナル№71幸村外伝EPISODE-0八尾若江合戦シナリオをソロプレイしました。ゲーム概略ゲームのテーマ:慶長20年5月6日(1615年6月2日)に起きた大坂夏の陣における八尾若江合戦。ゲームマップの大きさ:42×59センチ。ゲームターン:全12ターン。1ターンは実際の1時間。1ヘクスの距離:公式発表なし。幸村外伝のマップと比して約138メートルと思われる。1ユニットの規模:公式発表なし。旧参謀本部編「日本の戦史7」によれば200~500人(木村隊356人、長曽我部隊5
4月17日は家康忌事実上の戦国の覇者徳川幕府初代征夷大将軍鳴かぬなら泣くまで待とうホトトギスこの言葉のように最後にいいとこ持って行った家康織田信長が天下の道を切り開き豊臣秀吉が天下を組み立て徳川家康が天下を手に入れる1616年(慶長21年)4月17日徳川家康が駿府城で没す享年75歳【辞世の句】1、嬉しやと二度さめて一眠りうき世の夢は暁の空2、先に行くあとに残るも同じこと連れて行けぬをわかれぞと思う死因は鯛の天ぷらによる食中毒説最近では胃癌説が有
ゲームジャーナル№71幸村外伝EPISODE-0八尾若江合戦シナリオを試しにソロプレイしました。ゲーム概略ゲームのテーマ:慶長20年5月6日(1615年6月2日)に起きた大坂夏の陣における八尾若江合戦。ゲームマップの大きさ:42×59センチ。ゲームターン:全12ターン。1ターンは実際の1時間。1ヘクスの距離:公式発表なし。幸村外伝のマップと比して約138メートルと思われる。1ユニットの規模:公式発表なし。旧参謀本部編「日本の戦史7」によれば200~500人(木村隊356人、長曽我
ゲームジャーナル別冊7号「幸村外伝」のヒストリカルシナリオを試しにソロプレイしました。プレイの実際8ターン(13:24)関東方:左翼より一柳隊現る。大坂方防御射撃で伊木が諏訪忠澄討ち取り、3ユニット除去、5ユニット後退、関東方攻撃藤堂が木村残兵1ユニット除去、諏訪が真田1ユニット除去、徳川が毛利勝永討ち取り。早くも毛利勝永が討ち取られてしまった。6ユニット後退。大坂方:関東方防御射撃で4ユニット後退。大坂方攻撃で8ユニット除去、11ユニット後退、真田2へクス突進。終了時の損害:関東方の
2022年5月下旬の大阪・天王寺界隈散策の続き。「通天閣」を見学した後は、「天王寺公園」に向かいました。通天閣(その2)のレポ『通天閣(その2)~大阪市浪速区のタワー・観光名所』2022年5月下旬の大阪・天王寺界隈散策の続き。「通天閣」の続き。動物園前一番街・二番街・飛田遊廓大門跡・あいりん地区・新世界・通天閣(その1)のレポ…ameblo.jp通天閣の東側、高速道路の高架がある大通りを渡ると、「天王寺動物園」があります。こちらは、「天王寺動物園新
ゲームジャーナル別冊7号「幸村外伝」のヒストリカルシナリオを試しにソロプレイしました。ゲーム概略ゲームのテーマ:慶長20年5月7日(1615年6月3日)に起きた大坂夏の陣における天王寺合戦。ゲームマップの大きさ:84×59センチ。ゲームターン:全15ターン。1ターンは実際の12分と思われる。1ヘクスの距離:約92メートル。1ユニットの規模:150~300人(公式)、真田隊250、毛利隊333、幕府軍200、松平忠直隊362、家康隊534など。特徴的なルール:スタックなし、ファイヤー
1615年5月6日道明寺の戦い5月5日徳川軍は、二条城から河内、大和ルートの二つに分けて道明寺に集まる。今の藤井寺市のあたり大和ルートは、豊臣の後藤又兵衛が敗戦。そのあとに遅れて真田信繫がくる。伊達政宗と戦う。河内ルートは、別の場所で八尾若江の戦いがあったが、豊臣は敗戦。真田は孤立して、大坂城へと引き上げる。豊臣軍、全勢力を城の南側に展開天王寺、岡山の戦い茶臼山に真田が陣取る。真田の赤備えが出てくる。赤備えといえば最強の武田軍武田軍をそのまま引き継いだ井伊直政だ
次に二段目。【伊達家文書二段目の陣立】但御一家御一族加リ伊達安房馬上百騎鉄砲五百挺鑓百丁但御一家御一族加リ伊達右近大輔馬上百騎鉄砲五百挺鑓百丁【本資料二段目の陣立】鉄炮五百丁伊達安房馬上百騎鑓百挺鑓百丁馬上百騎伊達右近鉄砲五百挺伊達右近には、伊達氏本では諱の大輔が付いています。兵力は伊達家本、本資料いずれも同じです。また、伊達家本には伊達
次に、片倉小十郎の左側。【伊達家文書一段目左側の陣立】鉄炮百挺関勘兵衛荒井左京鑓五拾挺平図書森下作蔵【本資料一段目左側の陣立】鉄炮百挺関勘兵衛荒井左京鑓五拾挺平図書森下平蔵こちら側は武将名、武器数共に同じです。ただし、森下氏の名前が、伊達氏本が「作蔵」、本資料が「平像」
次に、片倉小十郎の右側。【伊達家文書一段目右側の陣立】鉄炮百挺前田沢兵部伊藤肥後鑓五拾挺黒澤久七茂庭利兵へ【本資料一段目右側の陣立】鉄炮百挺前田沢兵部伊藤肥前
伊達家文書には、大坂夏の陣における陣立書が二種類残されています。一つは端裏書に『小田邊権右衛門上」と記されたもの、もう一つは「片倉小一郎上ル」と書かれたものです。いずれも同じ内容です。一度、伊達家から家臣たちへ渡した陣立書が、再び伊達家に返却されたものでしょうか?普通は、陣立書は伊達家から家臣に「この陣形でいくぞ!」と指令したものなので、家臣の手に残ります。しかしこれらの陣立書は、小田邊・片倉に一旦渡されたものが、何らかの理由で後日に伊達家に渡されたものなのでしょうか?「上ル」とはそういう意味
「短歌でダンス?💃」(203)大坂の落城までの水面にて揺れる季節は冬から夏よ※みなも
荒井左京(?~?)荒井万五郎盛次。会津の戦国大名葦名氏の家臣でしたが、天正十七年(一五八九)の摺上原の戦いで伊達氏に敗れた蘆名氏は滅亡。荒井盛次は伊達政宗の家臣となりました。慶長十九年(一六一四)の大坂冬の陣の後、伊達政宗のの子、伊達秀宗が伊予宇和島藩の初代藩主となった折には、関勘兵衛と共に護衛としてついたと言います。『北会津村誌』によりますと「上荒井村館跡」(現、福島県大沼郡会津美里町荒井)は、荒井万五郎某、或いは荒井左京助の館跡だと伝えます。「伊達政宗大坂夏の陣陣立書」荒井左京部
関勘兵衛重頼(?~一六四四)元は南部家の家臣でしたが、いつの頃からか旗本衆として伊達家家臣となりました。【伊達政宗大坂夏の陣陣立書】関勘兵衛部分本資料では、通称の「勘兵衛」として登場し、後藤肥後の家臣の荒井左京盛次と共に片倉隊の左に、鉄炮百挺を装備して参戦しています。慶長十九年(一六一四)の大坂冬の陣の後、伊達政宗の子、伊達秀宗が伊予宇和島藩の初代藩主となった折には、荒井盛次と共に護衛としてついたと言います。大坂夏の陣の際には、伊達政宗が片倉小十郎付きにしたため、片倉の指揮下に入りまし
片倉小十郎重綱(のち重長と改名・一五八五~一六五九)父は「伊達の三傑」と評される片倉小十郎景綱。伊達氏の数々の合戦に参戦し、時には伊達氏の危機を救っています。関ケ原の戦いの後は、白石城一万三千石の城主になりましたが、大坂の陣では病に伏せていたため、嫡子の重綱が伊達政宗勢として参戦しました。したがって、本資料の先鋒中央の「片倉小十郎」は、重綱です。重綱は、慶長一九年(一六一四)の大坂冬の陣では、五百八十人以上の家臣を率いたと言います。さらに翌年五月の大坂夏の陣では道明寺合戦に参戦。六日には
伊藤肥前守重綱伊達政宗の家臣。重綱の父重長は、天正十三年(一五八五)十一月の「人取橋の戦い」において、佐竹・蘆名ら反伊達勢力が前田沢の地に本陣を配置した際、高倉近江、桑折摂津守宗長、富塚近江らと共に鉄砲隊を擁し、伊達軍の援軍として高倉城入りし戦功を挙げました。しかしその後、天正一六年(一五八八)の「郡山合戦」で、伊達政宗の身代わりとなり討ち死。伊東重信の長男の重綱も政宗のもとで活躍していました。本資料では、重綱は、伊東家の一門衆である前田沢兵部と共に鉄砲隊を擁して参戦しています。
前田沢兵部少輔前田沢城(現、福島県郡山市喜久田町前田沢に城跡が所在)の城主前田沢兵部少輔と推定できます。前田沢の土豪の前田沢兵部は、元、二本松氏の家臣でしたが、畠山義継の死後は、伊達氏家臣になっていました。天正十三年(一五八六)十一月の「人取橋の戦い」において、佐竹・蘆名ら伊達氏に対抗する連合軍は前田沢の地に本陣を配置します。その際は三万の兵を有する反伊達軍が優勢とみて、身を持ち替え、佐竹・蘆名の一味になります。伊達政宗は、前田沢兵部を以下のように評価しています。「前田沢兵部は変わり
片倉小十郎重綱(のち重長と改名・一五八五~一六五九)父は「伊達の三傑」と評される片倉小十郎景綱。伊達氏の数々の合戦に参戦し、時には伊達氏の危機を救っています。関ケ原の戦いの後は、白石城一万三千石の城主になりましたが、大坂の陣では病に伏せていたため、嫡子の重綱が旗本衆として伊達政宗勢として参戦しました。したがって、本資料の先鋒中央の「片倉小十郎」は、重綱です。大坂夏の陣、慶長二十年(一六一五)五月五日、伊達政宗勢は道明寺に着陣。六日には豊臣秀頼の大坂城籠城勢が茶臼山に登り、未明に出て政宗の陣
「伊達政宗大坂夏の陣陣立書」を入手しました。細かいことは抜きにして大雑把に言いますと、合戦時にそれぞれの武将たちをどのように配置するのか、そしてその兵力(兵士の人数と、武器の種類や数)はどれだけなのかを、当該武将たちに指示する、作戦指令書が陣立書です。例えば、この資料では、先鋒の中央に、騎馬兵士六十騎、鉄砲三百挺、弓百挺、鑓百挺を擁したに伊達政宗の重臣、片倉小一郎を配しています。詳しくは、追々このブログで番外編としてアップしていきます。えー。まじで江戸時代初期のものなの?って思っていませんか?
(旧)睦月十二日幸村が身罷りし地ぞ松ヶ枝を背に影落とす安居天神雲端一心寺から逢坂(国道25号線)を挟んだ正面に安居天満宮というのがある。この場所が大坂の陣において徳川軍を苦しめ続けた真田信繁(幸村)終焉の地なのである。ちなみに、お骨佛の寺一心寺は、当時の徳川軍の陣営が置かれた場所。拝殿に参拝し、ふと横を見れば松の木に寄りかかるように幸村像がある。風情のある西側の鳥居(松屋町筋沿い)
奈良の宇陀市にある又兵衛桜。圧巻です。樹齢300年ともいわれるしだれ桜ですが、大坂夏の陣で活躍した戦国武将後藤又兵衛の屋敷跡にあると伝わることから、又兵衛桜と呼ばれてます。近鉄榛原駅からバスで約20分(奈良交通バス「大宇陀」行き)「大宇陀」終点下車から徒歩で約20分(もうすこしかかるかも)ソメイヨシノも好きですが、枝垂桜も好きになりました。
奈良の宇陀市にある又兵衛桜。圧巻です。見ていると時を忘れて、ひとときが去った後は、日ごろのごちゃごちゃっとした思いはどこかに行っている気がします。樹齢300年ともいわれるしだれ桜ですが、大坂夏の陣で活躍した戦国武将・後藤又兵衛の屋敷跡にあると伝わることから、又兵衛桜と呼ばれてます。300年の間、多くの人がこの景色を眺めてきたんでしょうね。最寄り駅は近鉄榛原駅。
※こちらの記事は、平成29年9月5日に書かれたものです。皆さんこんばんは。惰性で続いている平成28年の大人気NHK大河ドラマ『真田丸(さなだまる)』の感想シリーズですが、ついに49回です!※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。あらすじとしてはどうしても真田幸村(堺雅人)に死んでほしくない兄の信之(大泉洋)ですが、名を隠して本人に会いに行くも、幸村の決意は固く説得はできず。幸村は妻子を伊達(だて)家に託し、ついに大坂(おおさか)夏の陣が開戦となり、後藤又兵衛(哀川翔)を