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今日(2/13)の午前中に大阪市内の都島で用事を済まし、マクドで簡単ランチをした後に「天満橋」まで足を伸ばし「大坂城」(大阪市中央区)に訪城しました。天気予報は、快晴で最高気温も15度予想でしたので、この時期としては「大坂城」の写真が綺麗に撮れるだろうと思い、カメラを用意して用事にでかけました。案の定、天満橋に着いた時の天候は、雲一つなく真っ青な空で、太陽がサンサンと照っていたので、「大坂城天守」の金装飾も光輝いて非常に美しい光景でした。私は今日の鑑賞テーマは何にしようかと考え
こんにちは。今日のコチラは、昨日とほぼ同じで、良く晴れて最高気温も11度前後まであがりました。朝晩はまだだいぶ冷えますね。。。。週末に向かって更に気温があがってくるようです。そしてそろそろ花粉症が本格化してくる時期。先日耳鼻科で処方してもらった薬を3日前から寝る前に飲み始めました。今年こそもう治ったんじゃないかと思ったりするのですが、時期がくるとしっかり鼻水とクシャミが。10年ほど前、大阪に単身赴任していましたが、この時も宿舎や職場などを中心に安くて美味しいものをひたすら探し
キホン家にいられないわたくし(コロナ後遺症です在宅ワークも嫌いですたまにしてるけど)大阪一泊二日してきました泊まったのはこちらホテルモントレ大阪楽天トラベル古いですが過剰でも過小でもないサービスで居心地良かったです電車の音が気になりますが耳栓もらえます梅田から地下道でいけます!雨の日も安心!お好み焼きやたこ焼きたべて大坂城みて1日目終了☆大坂城での長男の感想は特になく😂寧ろ外の石垣などに反応してました静岡旅行でも石垣見たもんね2日目は海遊館に
低気圧か…ちょい不調気味…😣✋今夜はカネオくん、良純&眞鍋&マヂラブ村上とお城✨🏯天守は12ヶ所で、跡地も含め90ヶ所もあるんすな。会津若松城や松本城のプロジェクトマッピング、最近アチコチでやってやすな。氷の彫刻、カネオの彫刻展示した頃がコロナの初期くらいだったよね…大坂城や彦根城の隠された仕掛け、落とし橋はスゴいね❗😨首里城の復興と復元、新たに発見された史料からどうやら今回のがオリジナルに近くなる?ブラタモリでも冒頭で鎌倉の年号云々ちらっと見たけど、歴史ってそういうもんだろう
久々に大阪城に行く。やたらと外人が多い。外人に大阪城の素晴らしさがわかるかは微妙。今の大阪城の規模は徳川幕府の規模であり、豊臣家の大坂城はもっと巨大である。南の端は、玉造まであったのだから。大坂城は別に平坦な場所にあるわけではなく、上町台地にあるから、丘の上にあるみたいなもんである。北は川西は海東は沼地攻めるには、南しかないが、南には寺社仏閣が大量にある。ドラマなどでの、大坂の陣みたいな平原で戦争した訳ではない。大阪城の天守閣の土地の所有者は今でも、大日本帝國陸軍のものらし
豊臣秀頼は、徳川家康から難題を持ち掛けられた。実母の淀殿を江戸城に人質に送るか、大坂城を出て大和郡山に行くか、いずれかの選択を迫られた。いずれの要求も受け入れがたい。そうとわかっていて、家康は要求した。秀頼はどちらも従うことはできないと回答した。「大阪冬の陣」が始まった。【ふるさと納税】【訳あり】人気の海鮮返礼品B級銀鮭切り身(打ち身、不揃い、色飛び)約2.8kg【配送不可地域:離島】【1214526】楽天市場${EVENT_LABE
奇怪・細川忠興(第三部)懺悔の値打ちもない於玉を殺したわけ「いろ話」にもってゆくのが、一番説得力ありとするのか・・・・・・。利休殺しは娘の吟に秀吉が惚れたためとし、忠臣蔵の起りも高師直が顔世御前に惚れ振られたためとするが、忠興の跿も同様に、(於玉に惚れていて悋気深かったから)とされている。しかしこれはやはり間違いである。どうも明智光秀の娘である於玉を大坂城へもってゆかれては、甚だまずい事があって、そのために、少斎が彼女を突き殺したのだと見るしかない。が、では何が都合が愿かった
天海(70)「9月1日、秀吉、明ノ柵封日本正使楊邦亨・副使沈惟敬ヲ大坂城ニ引見シ、誥命・勅諭・金印・冠服ヲ受ク、明日、秀吉、柵封使ヲ饗シ、相国寺承兌ヲシテ、誥勅ヲ読マシム、秀吉、明ノ違約ヲ怒リ、柵封使ヲ追還シ、徳川家康ノ諫止ヲ郤ケテ、朝鮮出兵ヲ決ス。」(『史料綜覧』)文禄5年(1596年)9月1日、大坂城で明使は秀吉に拝謁した。明使は誥命・勅諭・金印・冠服を秀吉に渡すと、秀吉は彼らを饗応した。翌日、家康、利家らを招いて歓迎の宴が開かれた。秀吉は明皇帝が贈った王冠
前回に引き続き、正月気分がまだ残る年始のある日、本年最初の「お泊まり関西旅」に出かけた物語を紹介します。旅は2日目の昼下り、美味しいカレーうどんを頂いた後は、大阪府の南東側にある「千早赤阪村」を訪問。大阪府で唯一の村であり、人口が最も少ないこちらの村は、「楠木正成(くすのきまさしげ)公」の出身地として知られています。同村は4年前に訪問して日本100名城「千早城」を登城:『大阪・パワースポット!?千早城を登山』11月下旬に京都・大阪を訪問した様子を紹介。今回が最終回です。前回訪問
奇怪・細川忠興(第ニ部)美女於玉夫人の死『遠碧軒記』を残した黒川静庵は、細川忠興の父幽斎の親は知れがたしと書いている。が、前述のような明智光秀の真筆覚書なるものを収録している、『細川家譜』では、「足利義晴将軍が、その実父で、執権三淵大和守に嬰児の時から預けられ、のち細川藤賢玄有に養われたもの」となっている。しかし実際は、細川藤賢玄有は明応九年に死んでいて、忠興の父幽斎が生れたのは、それから三十五年へた天文三年である。これでは辻褄屈合わなすぎる。世の中の歴史屋は、「記紀」と同じ
慶応元年(1865年)4月、幕府は長州藩に「容易ならざる企て」がある、との名目の下、5月16日をもって将軍家茂が「進発」することを諸藩に布達し、長州再征への出兵を命じた。幕府は、朝廷や一会桑の求める長州処分の内容を議するための「上洛」ではなく、諸藩に対する支配権を行使して叛逆を企てた長州潘を討つ、という姿勢を明確にしたのである。それは第一次長州征伐を無血の内に終了させた西郷の解決策を全面的に否定するものであり、死を賭してこれに合意を取り付けた西郷自身と薩摩藩の猛烈な反撥を呼び起こさずにはおかなか
天海(62)さて、歴史学者の服部英雄九大名誉教授は、その著書『河原ノ者・非人・秀吉』で長男の鶴松はもちろんのこと、次男・秀頼の父親も秀吉ではないと断言している。私もまったく同感である。「最初に確認しておきたいが、秀頼の父親が秀吉である確率は、医学的にいえば限りなくゼロなのである。正確な数はともかくとして、秀吉が常人に比すれば、はるかに多くの女性と愛し合うことができたことは間違いない。けれど、こうした環境にもかかわらず、秀吉は一人の子も授からなかった。この二人の組み合わせ
nagiによるPixabayからの画像※こちらの記事は、平成29年6月13日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は惰性で続いている去年の大人気NHK大河ドラマ『真田丸(さなだまる)』第44回「築城」について、というよりも木村重成についてです笑※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。あらすじ徳川幕府軍(とくがわ・ばくふ・ぐん)が続々と大坂(おおさか)へ向かってきている中、真田幸村(堺雅人)は大坂城の南に出城(でじろ)を作ることを提案。大野治長(今井朋彦)や木村重
江戸幕府が大坂城を再建する際の石垣用に切り出されながら使われなかった「残念石」と呼ばれる巨石が2025年大阪・関西万博の会場のトイレの柱として活用されることになったというニュース。。。どうして、トイレにわざわざこの巨石を使わなければならないのか分からない🙄大坂城再建で使われなかった「残念石」、400年経て大阪・関西万博でトイレの柱に【読売新聞】江戸幕府が大坂城を再建する際の石垣用に切り出されながら、使われなかった「残念石」と呼ばれる巨石が、2025年大阪・関西万博の会場
1/15(月)、朝から難波の行きつけの歯医者へ治療と歯のケアの為に9時に着きました。治療とケアが約1時間弱で終わると、前日に播磨・西播磨の城巡りに同伴した城友から、「大坂城」に来ているとの連絡が入りました。難波でお茶して帰宅しようとしていましたが、やはり「大坂城が私を呼んでいる!」との思いで、「大坂城」へ足が勝手に向いていました。私は地下鉄で「森ノ宮駅」まで乗り、そこから「大坂城三の丸」跡で現在「市民の森」となっている所から登城しました。久しぶりにこの場所からの登城で、階段を上
先日新年会とかあって大阪へついでに散歩してきました大阪城はよく行ってるので今回はスルー大阪城・難波宮跡からちょっと南に歩くと玉造稲荷神社という神社があります。「玉造(たまつくり)」という場所は弥生時代や古墳時代くらいから勾玉などの石の装飾品を作る技術を持った人たちが住んだのが始まりのめっちゃ昔からの「ものづくり」の地域でした。この神社の始まりも紀元前12年と書かれてた・・弥生時代やな時代が飛んで・・豊臣天下の時代に
織田信澄(津田信澄)は1555年織田信勝(信行)の嫡男として生まれました父の信勝は織田信秀と土田御前の間に生まれた子で信長の弟になります。父信秀の死後、信長と信行は家督を争い1558年に信長が清洲城に呼び出して信行を暗殺します。その暗殺された信行の遺児が当時3歳の織田信澄でした。信行の遺児達は助命されて信長の命令で柴田勝家が養育する事になりました。1574年に信長は明智光秀の娘と信澄を結婚させています。これが信澄にとっては災いとなりました。本能寺の変の時、謀反は光秀と
今朝の通勤散歩は、天守閣まで行こう。立派豊臣秀頼淀殿自刃の地。極楽橋。城ってやっぱりえぇなぁ退散します。seeyouagain👋
天海(57)「東照宮江戸に御座しませしに、秀吉の使来りて朝鮮を伐たるる由を申す。斯て一人書院に御座しまして深く思案の體に見えさせ給ひける時、本田正信、御前近く出でたれども御詞も無し。稍有りて正信、殿は朝鮮に渡海有る可きや、と申せども、猶黙然とさせ給うを、斯いふ事三度に及びて後、何事ぞ、喧しきに人に聞くべき。箱根をば誰に守らす可き、と仰有りしかば、正信、さては疾く御思慮定りける、と言ひて退出しけり。」(常山紀談)家康は奥州再仕置を担当したためか、朝鮮に渡河することはな
今年のYURINA🌻お誕生日当日は🎂🎉音楽友達のみきてぃー🦈とデート❤️大坂城のイルミネーション連れてってくれた✨久しぶりの大坂城🏯お正月なのに🎍ずっとクリスマスの曲流れてて🎧違和感が面白かったっ🤣🎶YURINA🌻はクリスマス🎄&クリスマスソング大好きなので、めっちゃhappyでしたっ❣️🥰✨イルミネーションもレトロだったけど、それがまた新鮮で良かったっ😉✨初のメジャーリリースアルバム好評発売中!籾井優里奈🌻「空色日記」4/19全国リリース!YZPA-50012,750
次に向かうは、『重ね岩(かさねいわ)』前回、行けなくてぜひ訪れたいと思っていた場所です。車を停めてここからあるきます。大坂城の石垣のための石を採石していた場所でもあります。ここから入って登っていきます👇きれいに整備された階段を上ります👇階段を上っている時に振り返るともうそこには絶景👇きれいな空と海。海に浮かぶ島々。淡路島にはこの風景はない。小豆島がたくさんの小さい島に囲まれたところにあるの
年明けに小豆島へ。10月に行ってからまだ三ヶ月経っていないですが、前回行けなかった場所に行ってきました。到着してまず向かったのは、宝生院。宝生院は、前回も訪問していた場所前回のブログはこちら👇『淡路島日記80【小豆島編②】特別天然記念物の巨樹。龍と像と亀。宮本武蔵の軌跡。』今日は、小豆島編②です。小豆島編①はこちら👇『淡路島日記79【小豆島編①】フェリーに乗って小豆島上陸』前回のブログで小豆島行きを計画していると書きまし…ameblo.jpそう宝生院と言えば
今朝の出勤途中の散歩。大坂城六番櫓。天守閣、何とか見えた。大手口。大阪城乾櫓。天守閣。天満橋へ移動してきました。八軒家浜から天神橋方面。天神橋。seeyouagain👋
▲ここやなかったんか...実は大坂城ではなく伏見城だったというはなし。なんのことか言うと、豊臣秀吉最期の地である。ず~っと大坂城で死んだとばかり思っていたが、昨年の大河ドラマ「どうする家康」で「伏見城で死んだんか!」と初めて知った(爆恥)今までどの戦国ドラマもそのあたりははっきり語られなかった(聞き逃し??)ので、秀吉横たわるあの城中のシーンは、大阪市中央区大阪城だとばかり思っていた(^^;)そしたら京都市伏見区桃山町だったというニッポンの歴史(^^ゞ
茶々というのが「諱(いみな)」ではないなら、目下の者でも、みんな「茶々様」とか呼んでもいいのか?それはもちろん、事実上の大坂城主である女性に対して、目下の家来が(たとえ諱ではなく通名だろうと)名前で呼ぶはずがありません。家族や、よほど親しい相手なら通名で呼ぶ、普通の関係なら肩書で呼ぶ、貴人であれば居る場所が敬称になる。もっと貴人なら直接声はかけない。関係性で呼び名が変わるのは当然です。「殿」とか「奥様」とか「おかみ」とか「上様」とか「公方」とか、みんな「偉い人の名前を呼ばずに済むように考え
1868年(慶応4年)のこの日(旧暦)、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)が始まった。名称はこの年の干支が「戊辰」であることに由来する。京都の鳥羽・伏見で、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦闘した。装備で劣る旧幕府軍は敗退し、1月6日夜、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は自軍を捨てて、大坂城から海路で江戸へ退却した。一方、新政府軍は慶喜追討令を受けて江戸へ進撃した。同戦争は明治新政府の勝利で幕を閉じた。国内に他の交戦団体
天海㊲実は秀吉は長浜時代に石松丸と言う男子がいたという。伝承では長浜の曳山祭りは石松丸誕生を祝ったのが始まりだというのだ。しかし、私は実子であったかどうか、懐疑的である。この子は「秀勝」と名付けられているからだ。養子にした信長の四男も「秀勝」であり、三好吉房の次男にも「秀勝」の名が与えられている。いわば「秀勝」とは養子の名である。秀吉は「秀勝」と言う名に愛着があったという人もいるが、では何故、「拾」には、「秀頼」と名付けたのであろう。そもそも、「秀勝」は「長秀」と「勝家
皆さん、こんばんは♪大河ドラマ『どうする家康』は最終回を迎えましたがドラマでは登場しなかった豊臣方の武将・木村重成の生き方をこの機会に皆さまに知っていただきたくて今回、番外編を収録させていただきました。まわりの人に馬鹿にされても自分を見失わずに生きること木村重成の生き方から私はいつもこのことを思いだして生きる指針にしています。ご覧いただけたら嬉しいです♪【日本史】NHK大河ドラマ「どうする家康」
[どうする家康感想]大河ドラマ、どうする家康、第48回最終回「神の君へ」の感想の続きです。といっても最終回の最初の場面へ戻って。<大坂夏の陣開戦大坂城>大野修理(治長)が「家康が動いた」と知らせる。真田信繫は何かを決意したようである。秀頼は、「我らがこの戦いに勝つ手立てはただ一つ家康の首を捕ることじゃ!」と叫ぶ!<家康公本陣>神君は「馬印を前へ出せ。敵からみえるようにな。」という。自分首をエサにして、敵を引き付けるようですね
どうする家康第48回は最終回。徳川と豊臣の最終決戦大坂夏の陣。道明寺にて、後藤又兵衛討死。家康の本陣から金扇が前に出された。*敵に居場所を教える真の武士ども我に続け!*真田隊と明石隊で徳川本陣を挟撃する手筈だったが霧で視界不良で別々に突撃真田隊、徳川家康本陣に突撃。金扇が倒された。家康は、死を覚悟した。*我こそは真田信繁と名乗る者が数人、徳川本陣に突撃真田信繁討死家康に、日の本一の兵と言われる大坂城本丸から紅蓮の炎が…覚悟を決めた秀頼千姫を徳川に返す手筈が整って