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☆桜井茶臼山古墳大和国城上郡奈良県桜井市外山(アクセス、駐車は下部写真にて)◎2023年9月7日のニュース『◆倭王の墓~桜井茶臼山古墳~(令和五年9/7ニュースより)』◆倭王の墓~桜井茶臼山古墳~(令和五年9/7ニュースより)ビッグニュースが飛び込んできました!せっせと「阿蘇ピンク石」製石棺の記事を作成しているところ…ameblo.jp■形状前方後円墳■全長207m■築造時期3世紀末~4世紀初頭■埋葬施設竪穴式石室(石室全体に水銀朱が塗られている)
ここは倉敷ではありません。天理市萱生(かよう)町の某集落です。そしてこの池は、古墳の周濠です。池の畔の家並みが周濠の水面に映り込んで、独特の景観を作っています。美しいですね。さて、西山塚古墳のことです。「西山塚古墳(にしやまづかこふん)は萱生町(かようちょう)集落西端の緩斜面に位置する、古墳時代後期前葉の前方後円墳です。前期古墳が大半を占める大和古墳群(おおやまとこふんぐん)の中で、後期の大型前方後円墳はこの古墳だけです。…(中略)…手白香(たしらか)皇女は6世紀ごろの人物であり、西
『日本国記』ヤマトトトヒモモソヒメ古墳彼女は198年に薨った限りなく真実に近いアナザーストーリー【39A】ひじかたすいげつつづきA大和古墳群のなかでもc纏向地区にあるヤマトトトヒモモソヒメ古墳はこの地区においても古い古墳であり、一般には箸墓古墳と呼ばれる。この「箸墓」という名称は、後に大物主の話の中で出てくる話からつけられた名称のようで、現地の地名は「箸中」であり、「箸墓古墳」とは書かれてはいない。「ヤマトトトヒモモソヒメ古墳」と書かれている。
『日本国記』天皇陵の移動大和・佐紀・馬見・古市・百舌鳥・明日香限りなく真実に近いアナザーストーリー【38A】ひじかたすいげつつづき10崇神、11垂仁、12景行、13成務、13ヤマトタケル、14仲哀、15応神、16仁徳、17履中、18反正、19允恭、20安康、21雄略、22清寧、23顕宗、24仁賢、25武烈、26継体、27安閑、28宣化、29欽明、30敏達-各天皇の順に古墳を並べると、次のようになる。単純に天皇の代数をつけて比較した。10
この界隈を訪問してると、よく通る三叉路。ここがホックリ塚古墳。果樹園として利用されています。墳丘北東側。天理市萱生町に所在するホックリ塚古墳。大和古墳群萱生支群を構成する径25mの円墳です。墳丘東側。墳丘南東側。墳丘北側。墳丘北西側。最初の三叉路。遥か東の巨大な西殿塚古墳が横たわるのも見えます。
天理市岸田町弁天に所在する弁天塚古墳。大和古墳群を構成する前方後円墳です。とはいえ墳丘の本来の形状は不明。著しい改変により墳丘の多くが損傷しています。特に前方部は鉄道用地もあり原型を留めていません。北東側よりみた墳丘。埋葬施設も不明。古墳時代前期と推定されます。葺石、埴輪は確認されていません。■新池後円部東側。新池の堤上より見た後円部北側。このあたりが後円部東端。堤の下より見
天理市成願寺町矢羽ギに所在する矢矧塚古墳。大和古墳群を構成する前方後方墳です。後円部北側。全長105m。後方部径46m(復元長50m)前方部幅40m(復元幅49m)後円部北側を東より。大規模に削平され果樹園となっています。後円部北側。墳丘北側くびれ部。前方部から後方部への形状がよくわかります。前方部北西角。前方部西辺。再び上ツ道に戻ります・・・・後円部東側が、上ッ道整備により削られています。
天理市成願寺町に所在するマトバ古墳。大和古墳群を構成する円墳です。ミニ開発住宅の先にある農道。平坦な農地の先に見える果樹園。この緩やかであまり高さの無い場所がマトバ古墳です。墳丘東側。墳丘径30-50m。墳丘南東側。墳丘南側。墳丘南西側。墳丘西側。墳丘北西側。墳丘北側。作業簡易建物が所在。墳丘北東側。
天理市成願寺町フサギ塚にあるフサギ塚古墳。大和古墳群萱生支群を構成する前方後方墳です。墳丘南側。後方部南辺西側。4世紀中頃築造。全長110m。後方部一辺60m、高さ9m。前方部高さ3m。水田の地割より、北側、東側には周濠の痕跡が見られます。後方部南西側。墳丘は改変が著しく、特に前方部は当初の形状を留めていません。後方部南側。被葬者は初期大和政権の一族と想定されています。■案内板全文色褪せ消失。後方部南
(134)奈良県天理市大和古墳群(西山塚古墳・西殿塚古墳)大和古墳群は、総数約22基の前方後円墳・前方後方墳・円墳等で構成される古墳時代初期の前期古墳群その中で「山の辺の道」沿いから望めた二つの前方後円墳と珍しい前方後方墳をご紹介。なお前回の波多子塚古墳は写真を撮り損ねており、文章や現地看板のみで大変失礼しました。◎西山塚古墳(前方後円墳)古墳の池から後方部の墳丘を望むことができる。墳丘は果樹園などに利用されている。左が後円部前方後円墳で、全長114m、後円部直径
奈良県天理市萱生町ヒエ塚にある大型の前方後円墳。大和古墳群萱生支群を構成。3世紀後半-4世紀前半(初頭)、古墳時代前期前半築造。後円部南側一部と前方部北西端が削平されています。墳丘には東西1.9m、南北10.6mの「コ」の字形の木造建物跡を検出。旧大和海軍航空隊大和基地(柳本飛行場)の関連施設との指摘もあります。2014、2017年発掘調査により、葺石や盾形周濠、外堤の痕跡など確認。埴輪は見つかっていません。ノムギ古墳と共に奈良県道51号天理環状線
天理市佐保庄町字ノムギ塚に所在するノムギ古墳。国史跡指定。3世紀後半-4世紀初期、古墳時代前期前半築造の出現期古墳。大和古墳群に分布する前方後方墳の中では、築造時期が最も遡る大型の前方後方墳です。奈良県道51号天理環状線建設に伴い調査が行われました・・・・・1996年1次調査、直角に曲がる周濠北東隅部分を検出。4世紀後半頃の円筒埴輪、鰭付円筒埴輪を検出。中央の円形の部分が後円部、下部(西側)に伸びる細長い部分が前方部。2003年2次調
古墳の、多さは知れ渡っているがでかい古墳が思ったより多いなにが隠されているか気になるところだが明治時代西洋人の技術者が全国の主だった古墳・遺跡を廻って何やらいじった(土木工事)と言う噂があるからマッドフラッド同様いろいろ隠蔽捏造されているかもしれないてんぷら家は初期の時代記述上何百年と長生きしたとあるからそれが本当なら巨人ということになる考古学チャンネル大和の古墳ベスト20奈良県の巨大前方後円墳21基を全て紹介
さて、話は前日(5月9日)にさかのぼります。伊丹空港を出るときはまだ雨は降っていなかったのですが、リムジンバスが上本町に着くころにはしとしと降り始め、近鉄桜井に着くや土砂降りに。結局、薬師寺、唐招提寺コースはやめて、当初の計画通り、ヤマト王権発祥の地、纏向に向かうことにしました。タクシーの運転手に「茅原大墓古墳」と言っても通じず(予想通り)、予め調べておいた近くの小学校名を告げて何とか古墳の近くに到着。この古墳、ちょっと異端児なんです。以下、勝手な妄想を交えて。まずはヘビ
首長継承の祭祀の痕跡?3槽の船が描かれた鰭付楕円筒埴輪が出土。萱生町・中山町に所在する前方後円墳。4世紀初頭、古墳時代前期前半築造。西殿塚古墳より後の築造とされます・・・・・1997年(平成9年)発掘調査。周濠と周堤帯、埴輪祭祀の遺構を検出。西殿塚古墳の北より見た東殿塚古墳後円部西側。北西側より見た墳丘全景。後円部北東側。基底部の長方形区画は全長175mもある特異な形態です。墳丘規模は現状で全長139m。後円部径65
今回は新緑の中、墳丘の北~東側狙いで攻めてみました・・・大和古墳群中山支群にある西殿塚古墳。継体天皇皇后手白香皇女[たしらかのひめみこ]衾田陵[ふすまだのみささぎ]に治定されています。2022年1月訪問時はこちら。『継体天皇皇后手白香皇女衾田陵』奈良県天理市中山町にある継体天皇皇后手白香皇女[たしらかのひめみこ]衾田陵[ふすまだのみささぎ]。1876年(明治9年)衾田陵に治定されます。手白香皇…ameblo.jp天理市萱生町、萱生環濠集落の南
天理市中山町にある燈籠山[とうろうやま]古墳。今回は新緑の景色に移り変わった今、主に墳丘北側から東側を扱っています。■天理の郷霊園念仏寺境内墓地。前方部西辺中央。墳丘北西側。墳丘北西側全景。前方部と後円部の間を横切る道。北側。その南側。墳丘北側。後円部北東側。墳丘北東側全景。後円部東側。こちらからも墳頂へと上がれます。中腹にある畑。後円部墳頂から見える西殿塚古墳。ミカンの樹
奈良県天理市中山町にある前方後円墳。燈籠山古墳の外周に影響を与えているとも言われる、火矢塚[ひやつか]古墳です。墳丘規模は全長49m。後円部径30m、前方部幅18-26m。前方部西側。墳丘南西側。
天理市萱生町にある西山塚古墳。萱生環濠集落に隣接しています。手前が後円部、右先に前方部があります。後円部東側。段丘にミカン畑があります。東側の池。周濠の痕跡ともされます。墳丘くびれ部に古くから建物があります。■里山文庫山の辺の道を行く散策者の多くは、ここをスルーします。そもそも有名でもなく、案内も無い古墳なんかに興味ないはずで・・・後円部東側。南東側より墳頂へ登ります。後円部墳頂は平
さて、どこに古墳があるのでしょーか?Googleより。異様に長大な前方部が付く、極めて特異な古墳!!!1998年(平成10年)発掘調査及び電磁探査を実施。前方部は開墾等によりに大幅に削られていることが判明。また墳丘北側には周濠の痕跡。高さ1.5mの墳丘北側外堤上部に小石室を検出。ここまで削るなら、なぜいっそ全て平坦にしなかったのかが逆に気になります・・・・・後方部南側。以前はぐるりと畑で埋め尽くされていました。奈良県天理
奈良県天理市成願寺町クリツカにある前方後円墳。大和古墳群に属します。全長120m、後円部径70m、前方部幅50-60m。築造年代は不明です。墳丘南西に道があります。南側前方部付近より見た、後円部。果樹園、畑として利用されています。墳丘南側全景。墳丘北西側はセブンイレブン駐車場。後円部北側。墳丘東側、西ノ塚古墳より。墳丘東側、西山塚古墳より。墳丘南東側。
奈良県天理市萱生町西ノ塚、下北山古墳のすぐ北にある円墳。大和古墳群に属します。古墳時代中期築造。径35m。葺石、周濠を検出。墳丘南側。ここからが登りやすいでしょう。ミカンの蕾。ミカン畑なので、民間所有地と意識はしましょう。墳丘北側。奥に見えるのは下池山古墳。墳丘東側。墳丘東側俯瞰、西山塚古墳より。墳丘南西側。
前方後方墳、比較的レアな感じが魅力ですね。とはいえ日本列島には200基以上の前方後方墳が確認されています。弥生時代後期末から造られ始めた前方後方形墳丘墓。そして古墳時代前期前半には、東日本で前方後方墳が数多く造られました・・・なぜか100m超の大規模な前方後方墳は、大和に5基もあります。下野に2基、上野・越中・美濃・駿河に各1基存在。墳丘に入るには南東側からが最も良い選択。南東側の溜池の淵を進みます。後方部南東側。天理市成願寺町に
天理市中山町にある燈籠山[とうろうやま]古墳。または燈籠塚古墳。大和古墳群、萱生支群にある前方後円墳。古墳時代前期前半、4世紀前葉築造。墳丘は三段築成の可能性もあるものの不明。全長110m、後円部径55m、後円部高6.4m。前方部幅41m、前方部高6.3m。■念仏寺■天理の郷霊園念仏寺境内墓地。背後に広がるのは奈良盆地と金剛山地、生駒山地。■行基大菩薩碑前方部西辺中央。後円部の背後には巨大な西殿塚古墳が横たわっ
龍王山から延びる丘陵裾、尾根の先端に位置します。奈良県天理市中山町大塚にある中山大塚古墳。国の史跡。墳丘南側。3世紀後半、古墳時代初期、出現期の前方後円墳です。箸墓、西殿塚、弁天塚、中山大塚の4古墳が出現期古墳とされ、吉備地方で造られた特殊器台、特殊壺が検出されています。前方部南東側。大和古墳群の支群、萱生古墳群。全長約130-132m、後円部径67-73m、後円部高11.3m。前方部幅56-68m、前方部高10.5m後円部2段
■五社神社鳥居、社号標。■本殿■境内社「奉供養庚申行良・・」庚申堂でしょうか。
奈良県天理市中山町にある継体天皇皇后手白香皇女[たしらかのひめみこ]衾田陵[ふすまだのみささぎ]。1876年(明治9年)衾田陵に治定されます。手白香皇女(489-?)は、第26代継体天皇(450?-531:在位507-531)の皇后。しかしこの西殿塚の築造年代と合致しないため、実は西山塚古墳が有力視されています。■拝所前方部南端中央に位置します。■見張所■制札繼體天皇天皇皇后手白香皇女衾田陵■一般拝所
大和古墳群、萱生[かよう]支群の構成古墳。大和古墳群に古墳時代前期の古墳が大多数を占めるなか、西山塚古墳は例外的に後期の大型前方後円墳です。西山塚古墳は、第26代継体天皇皇后、手白香皇女の真陵ではないかと考えられています。宮内庁治定の手白香皇女衾田陵、西殿塚古墳は年代的に整合しないとされます。集落内を歩いていると、突然あらわれます!6世紀前半築造。前方後円墳。墳丘長114m。後円部径65m、後円部高13m、三段築成、前方部幅70m、前方部高8m、二
奈良の山の辺の道。何年も前から行ってみたかった場所。大和古墳群の中で最も高い場所にある。西殿塚古墳(にしどのづかこふん)衾田陵(ふすまだのみさぎ)被葬者は継体天皇の皇后、手白香皇女(たしらかのひめみこ)と発表〈宮内庁〉されているが、墓の築造は古墳時代前期(3世紀末から4世紀前半)とみられ、被葬者とされている6世紀と合わない。一説によると、卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳に匹敵する大きさゆえ、その後継者、台与(いよ・壱与)の墓ではないかと言われていたり、崇神天皇陵がこっ
☆ヒエ塚古墳・野麦古墳大和国山邊郡奈良県天理市萱生町(P無し、歩道に乗り上げて停め置きました)県道51号線を挟み、東西両側に築かれている2基の古墳。ヒエ塚古墳は全長129mの前方後円墳。野麦古墳はは全長60mの前方後方墳。概要は案内板を写した下部写真を掲載することで割愛します。築造時期は3世紀後半~4世紀前半頃。古墳時代前期前半に区分。初期大和王権の墳墓で、その規模から有力者のものであろうと思われます。以下写真は野麦古墳のもの。ヒエ塚古墳は消失してしまいました。近いうちに再