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壬申の乱とは、何か。という話を、書きます。壬申の乱のとき、鸕野讚良皇女(のちの持統天皇)は、夫に味方して、弟を倒し、父の都を滅ぼしました。鸕野讚良皇女(のちの持統天皇)にとって、大友皇子(弘文天皇)は腹違いの弟です。この時代、腹違いの兄弟なんてのは、基本的に敵です。鸕野讚良の母は、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の娘である遠智媛(おおちのいらつめ)です。中大兄皇子(天智天皇)たちによる乙巳の変(いっしのへん)と言われるクーデターは、蘇我氏の本宗家(蝦夷、入鹿の親子)と、分家の倉山田石川麻呂た
愛知県岡崎市矢作地区に残る大友皇子の伝説ただいま、大友皇子(おおとものおうじ)について、地元を取材した内容をわかりやすくまとめてパンフレットとして作成中👍そのパンフレットに使用する大友皇子のイメージ画をAIに描いてもらおうと思ったら、どう指示を出しても、私のイメージどおりにならんじゃんΣ('◉⌓◉’)仕方ないので、自力で大友皇子の下書きを描くうーーんやっぱり自分で描いた方が早かった久しぶりにイラスト描いたわっさらにそれをパソコンに取り込み、AIで色をつける大
新興住宅地の中を登っていきます。飛び出し知ったかぶりカイツブリ。鞍掛神社は、JR湖西線:堅田駅から南西へ1.3㎞、新興住宅地の端っこに鎮座されます。鎮座地滋賀県大津市衣川2-28-1右に手水舎。鳥居をくぐった右に手水鉢。土間拝殿越しに眺める本殿。滋賀県神社庁HPの記事を転載します。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー御祭神弘文(こうぶん)天皇御神紋十六
2025-11-29古代火時計いっぺんどんな感じかやってもらいたいなぁさてお仲間さんがまだ少しいるうちにこちらへ入ります近江神宮時計間宝物殿はぃ、気が済みましたもちっと、天智天皇や大友皇子辺りのことが分かる資料とかあるのかなぁ?なんて思いました出まーすこちらからもパチリ大きな鳥居ですどんどん歩きますまだ境内です交差点が見えてきましたすごく対応のいい感じスタッフさんが道を教えてくれましたトコトコ〜この芝生の向こうは琵琶湖です出た〜っ潮の香りはいたしません
2025-11-29あともうちょい円城寺(三井寺)ですすんごい綺麗な紅葉です今日何回『綺麗な紅葉』って言うてるか(笑)出口が見えてきました立派な門を出ましたコースに戻りますトコトコ〜開運蕎麦の文字が気になりますが〜どんどん歩きますあの上が大津市歴史博物館なのかな?案内板がありました車石牛で荷物を運んでいたんだね〜牛車の道かぁ〜大津市歴史博物館にも入リたかったけど、車が行列になってたよなんかあったのかしらん?大津市歴史博物館に入るのは諦めて、コースを進みますトコ
壬申の乱(じんしんのらん)は、672年に天智天皇の死後、皇位を巡って天皇の息子である大友皇子(おおとものおうじ)と、天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)が争った古代史上最大の内乱です。本来の皇位継承の慣例(兄弟優先)に反して天智天皇が息子の大友皇子への継承を望んだことなどが背景にあり、大海人皇子が吉野で挙兵し、近江朝廷の大友皇子軍を破り、勝利した大海人皇子は天武天皇として即位し、律令国家体制の基礎を築きました。争いの経緯背景:天智天皇(中大兄皇子)は、弟の大海人皇子を皇太
11/7(金)は大友皇子祭り(おおとものおうじ)矢作の玉泉寺にて開催されます当日は年に一回ご開帳される貴重な仏像のほか←歴史好きな人には超オススメ・10:20歴史探偵さかもとさんツアー(毎年大人気)・13:00葵武将隊演舞・14:10大友ハープス演奏・各種キッチンカーありお時間合う方はぜひどーぞ♪玉泉寺に伝わる大友皇子の伝承を絵本にした『大友皇子の伝説』1650円玉泉寺にて販売中#岡崎市#玉泉寺#大友皇子
紹介してくれた母に感謝!まず、マイブームの飛鳥時代からの皇極斉明天皇のご家族のお話は実に興味深い。最近発掘された「牽牛子塚古墳」。斉明天皇はそこに、娘である間人皇女と合葬されたと『日本書紀』は伝えている。その陵墓の前には若くして没した孫娘・大田皇女の墓が造られた、というのは、この物語の主人公明日香の皇女かも??とさらに興奮です。この小説は現在、廃盤?となっているみたいで、入手が難しい様ですが。。。。あとがきを読んでみると、著者の言葉で>>>>>あとが
愛知県岡崎市西大友町の大友天神社の例祭日にあたり【岡崎の保守】唐沢ひでしが私的参拝させていただきました。大友皇子の従者・長谷部信次さんが創建したという由緒ある神社とのこと。幸田か岡崎の人で長谷部さんという方がいたと記憶しているのでもしかしてご子孫の方だったのでしょうか?見事な獅子舞の頭が置いてあったので、ぜひ舞を見てみたいと思いました。【岡崎の保守】唐沢ひでし唐沢ひでし【岡崎の保守】愛知県岡崎市を中心とした三河地方から「日本を豊かに強く」政治的に取り戻すことを目指す保守政治家・
はい!奈央です。今回は、奈良市高畑の比賣神社に祀られている飛鳥時代の皇女・十市皇女(とおちのひめみこ)と、彼女へのひたむきな純愛を貫いた高市皇子(たけちのみこ)について紹介したいと思います。高市皇子と十市皇女は、天智天皇から大化の改新事業を引き継ぎ、律令国家としての日本を完成させた天武天皇の異母姉弟でした。JapaaanmagazineHPよりお借りしました。注:この像は、大海人皇子と額田王です。天皇の系図二人が築いた日本の礎天武・持統天皇とその時代HPより
大海人皇子は、美濃に入り、東国からの兵力を集めると、7月2日に軍勢を二手に分けて、大和と近江の二方面に送り出した。一方、近江朝廷の大友皇子は、672年6月26日には、蘇我赤兄・蘇我果安・巨勢人・紀大人の群臣の中の4人の重臣が、諸国に使節を派遣して、農民兵を徴兵したが、地方支配体制が、整っておらず、兵を動員できなかったのである。大友皇子は、東国及び、吉備、筑紫に対して、兵力動員を命じる、使者を派遣したが、東国の使者は、大海人皇子の兵に阻まれ、吉備と筑紫では、現地の総領を動かせなかった。
こんにちは‥(^_-)-☆今の奈良は、雨も降って27℃と少し暖かさを感じる日になりましたね。昨日よりで気温が少し上がりまたエアコンを入れる必要がなさそうです?・・(^_-)-☆クイズで頭の体操でリフレッシュしましょう!奈良まほろばソムリエ奈良通2級の17回目の問題です。2奈良県の歴史に関する事柄について、最も適当なものを選びなさい。(10)「壬申の乱」で大友皇子を倒し、飛鳥浄御原宮で即位した天皇は誰か。ア.孝徳天皇イ.天智天皇ウ.天武
第四十代天武天皇は、古代飛鳥時代の天皇です。天武天皇と鸕野讃良皇女(持統天皇)御父は舒明天皇、御母は斉明天皇(皇極)、また天智天皇は同母兄となります。そして天智天皇の皇女でもあった妃の鸕野讚良が次に即位することとなります(持統天皇)。舒明天皇三年(631年)生。ただし複数の説あり。御名は大海人皇子。和風諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。母は二度天皇(重祚)になり、兄は乙巳の変を起こし、妃も天皇になりました。この飛鳥時代の天皇の中で大海人
昨日のblogタイトル【私達の愛は引き裂かれた??・・w】はクサかったですかね?wwさて本題。私はNHK「歴史探偵」を毎週「ビデオ取り」してます。NHK「ブラタモリ」「知恵泉」もです。皆、歴史や地理についての番組です。年齢と共に「歴史」に興味が湧いて来てます☝️が、残念ながら「集中力欠乏」なんで毎週3本も鑑賞は全然無理です💦タイトル等からよって選別して鑑賞してます☝️で、以前の「歴史探偵」での「大化の改新」は是非鑑賞したかったのです☝️
日本書紀によると、独裁政権を行った38代天智天皇は、息子の大友皇子を溺愛していて、当時の正当な後継者である弟の大海人皇子ではなく大友皇子を後継者にしようとしました。身の危険を感じた大海人皇子は、身を引いて出家して吉野宮に逃れました。そのため大友皇子が39代弘文天皇になりました。しかし、豪族たちが反乱を起こしてうまく統治できない様子を知り、大海人皇子が大友皇子に対して戦いを起こしました。これが672年に起こった壬申の乱です。関ヶ原町松尾に流れている藤古川を挟んで東側が大海人軍、西側が大友軍が
第三十九代弘文(こうぶん)天皇は飛鳥時代の天皇です。大化四年(648年)生。御父は天智天皇、御母は伊賀宅子娘。御名は伊賀皇子、または大友皇子。在位:天智天皇十年(671年)12月~天武天皇元年(672年)8月。大化の改新で有名な天智天皇は子供は多かったのですが、晩年までに成人していた男子は、大友皇子ただ一人でした。当時は十分に成人してないと天皇への即位はなかった時代であり、天智天皇の他の皇子はまだ幼く皇位継承の対象にはならなかったのです。その幼かった皇子の一人、志貴皇子の子である白壁王
今日は朝から家内が更新したマイナンバーカードを受け取りに行くので大津市役所までアッシーをしました。デジタル、デジタルと言う割には手続きが煩雑です。オンラインでそのままスマホ更新できるようにしてほしいです。弘文天皇陵大津市役所の駐車場のすぐ横に神聖な森があります。弘文天皇陵です。弘文天皇は意外に知られていないなの天皇です。大友皇子と言えばピンとくるでしょう。壬申の乱で敗れた天智天皇の皇子です。朝でしたから神官の方が祭祀を行っていました。弘文天皇長等山
⚔️672年・壬申の乱―日本最大の兄弟バトル!👑1.舞台は飛鳥時代。主役はこの2人!大友皇子(天智天皇の息子)…エリート王子、でも経験不足。大海人皇子(天智天皇の弟)…戦も政治も得意、カリスマ性MAX。天智天皇(=大化の改新の人!)は息子に皇位を継がせたい。でも弟は超有能。「この人、王位を取っちゃうのでは…?」と警戒。🏞️2.弟、吉野に「引退」宣言…のはずが大海人皇子は「私、争いません~」と出家して吉野へ。でも豪族たちは「いや、この人こそ次のトップでしょ」と支持。
「人生」安らかに(732)★万博恐れていたことが!地下鉄が止まると逃げ道がなくなる。手段が一つということがヤバイ。バスといっても急に運転手を呼び出すこともムズイだろう。3万人もいればタクシー何台分?30000人÷5人=6000台ピストンも出来ない。バスだとて30000人÷50人=600台こりゃ不可能だ!◆日本書紀○大友皇子が即位したという主張には賛同者が広まり、明治維新後には政府から大友皇子に「弘文天皇」の諡が贈られた。○明治三年(1870年)七月二十四日に太政官から布告され、ここに大
『人生』程々に(730)★広陵高校問題ここには高校野球の中に、学校自体にハラスメント体質がある。それを認識していないのが今回の問題である。カップラーメンを食べたことで暴力が起こった。彼ら未成年を規則という名の下に軍隊的生活を強いている。それに親・校長以下の教員組織も一役買っている。それが問題◆日本書紀ー大友皇子即位の認定○『紀』巻第二十八天武天皇紀上で壬申の乱を描いた。先述したように壬申紀と呼ばれるが、養老四年(720年)から遡ること、50年足らず前の争乱は、各氏族の報告や従軍した下級
<第二章「神武紀」の設計法とその設計図>神武は実在したか否か?この議論は未だ決着していない、というか曖昧なままになっているのが現状。その要因の一つに戦前の皇国史観に対する過度な反発から「記紀」の信憑性までが強く否定された結果がある。特に邪馬台国近畿説の研究者の多くが「大和王朝近畿起源説」であり、そもそも九州の神武が「近畿へ東遷」したという「記紀」の記録自体を否定する考え方が根強い。その意味で、卑弥呼が国都を置いた邪馬台国が何処に在ったのかという問題は、神武の近畿東遷の真
奈良まほろば検定(*^_^*)①の答え:ウの天武天皇壬申の乱672年に天智天皇の死後、皇位継承をめぐって起こった古代史上最大の内乱です。天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのみこ後の天武天皇)と、天皇の子である大友皇子(おおとものみこ弘文天皇)が争い、大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位しました。【背景】天智天皇は、白村江の戦いの後、都を近江に遷し、皇位継承についても息子の大友皇子に託す意向を示していました。しかし、大海人皇子は天皇の弟であり、また当時、
今回、史実に忠実にする事を中心に意識して書くと、面白味に欠けるのと、何か情報に踊らされて、ミスリードしているのではと懸念して、思い込みで書くことにした。生まれについて、多くの説があるが、自分は、天智天皇の兄という説をとる理由は、天智天皇の親百済に対してに、親新羅政策をとったこと、滅亡していれば当然?と思うが、蘇我系の皇族で政権を運営していて、渡来系百済人の排除、藤原鎌足の死後の藤原氏を断罪している。斉明天皇と天智天皇が、百済系の皇族といわれている。これには、日本人のルーツに東北アジアから
春爛漫の三井寺と「兎の宮」金澤成保桜満開を待って、滋賀県大津の三井寺を訪れた。京阪三井寺駅で降りると、桜の花が両岸に咲き誇る「琵琶湖疏水」に出た。桜の開花に溢れんばかりの息吹きを感じ、新たな生命力を授けられたような気分になったのはありがたかった。桜の並木を楽しみながらしばらく歩くと、「兎の宮」・三尾神社の門前に出た。卯年生まれを守護する神様ということで、お参りしてご挨拶することにした。その後、三井寺(園城寺、おんじょうじ)に入った。三井寺は、天台宗三派の一つ「寺門宗」の
今日から新年度4月に入りましたね。今月もよろしくお願いします。さて今日は醍醐寺の桜を観に出かけ遅くなってしまいました。夕刻になって鳥居川の御霊神社に朔日参りしました。一段と高いところに御霊神社の神楽殿拝殿でお詣りしました。ご祭神は壬申の乱で敗れて自刃した大友皇子です。御霊神社の近く瀬田の唐橋を挟んで大海人皇子と激しい戦闘があったと言われています。御霊神社境内には「壬申の乱勢多橋の戦い跡」の碑があります。境内には膳所藩の膳所城から明治になって移築された城
大友皇子、天智天皇の後継者として壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)の争い、壬申の乱の相手としてしか教科書には出てこない。しかし熱いドラマはあったのです。
大宰府政庁跡(2023/10)弘文天皇陵と新羅善神堂の謎については、実は13年前にも別サイトに記事を書いたことがあります。その時はひとつの記事にまとめていたのですが、今回は短い記事に分けてしまいました。そのため自分でも「落としどころ」を見失ったのか、最後には九州王朝説を出してしまいました。聞いたことがない方にとっては、「???」だったかも知れません。しかし唐・新羅連合軍と戦い、白村江で大敗を喫したはずの大和。その中心人物であった天智天皇と弘文天
新羅善神堂弘文天皇陵を見守るような場所に鎮座する、新羅善神堂。しかし弘文天皇(大友皇子)にとって、新羅は「敵」であり脅威の存在。大友皇子にとって新羅の神が守護的存在ではあり得ないことは明白です。作家・井沢元彦氏はかの有名な著書「逆説の日本史」で怨霊である大友皇子を封印するために、敵方の神を利用したと述べていました。その意味では新羅善神堂は強力な封印となりますが、そもそも園城寺は大友皇子の怨霊を封印するための寺ではあり得ません。寺の開基は弘文天皇
弘文天皇陵弘文天皇(大友皇子)と新羅善神堂の関係が、日本古代史的に「あり得ない」というお話をする前に。弘文天皇(大友皇子)が生きた時代の前後を、日本書紀を参考にまとめてみます。大化4年(642)大友皇子生まれる(父・中大兄皇子=天智天皇)斉明6年(660)斉明天皇、百済救援の軍派遣を決める斉明7年(661)一月斉明天皇、中大兄皇子ら、九州へ出帆。七月天皇崩御天智2年(663)百済救援の官軍、唐・新羅連合軍に白村江で大敗天智6年
弘文天皇陵を優しく見守るように立つ鳥居。木々に囲まれているので気付きにくいのですが、かなり柱が高い立派な鳥居です。この立地条件から、この先にあるものが弘文天皇陵と無関係とは考えにくいです。鳥居の先に続く、長くまっすぐな参道らしき道。荒れ果てた感じですが、元々は広く立派なものだったことが想像できます。一面に苔が生えているのは、訪れる人が少ないからでしょうか。参道脇は「並木」と言うよりは、鬱蒼と茂る森。正面は行止まりのように見え