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寒すぎてどこにも出たくなくて今年の2月の写真です手抜きするな白鷺(しらさぎ)がいました寺院を悠々とお散歩(••。)-8。。。テクテク鯉の池に近づいたと思ったら…飛んで行った🕊どこの銅像、キャラクター像もそうだろうけどコロナ以降、みんなマスク付けられてる無理矢理耳に付けてるから風邪用マスクというより、覆面レスラー感が否めない昨日、風雨に晒されながらも新しい電気毛布を買えたのでだいぶ元気になったやっぱり睡眠時の冷えが一番怖いちなみに大内が滅びたお寺大内義隆名
一昨日は、YUKIMURAチャンネルの最新作「折敷畑の戦いー防芸引分ー」がアップされました。陶隆房が大内義隆を討ち取り、大内氏を実質牛耳るなか。毛利は陶に従属したまま、安芸の国を平定して力をつけていく。そんな毛利の強大化を危惧しつつ、自国の合戦の援軍に使ってやろうとする陶。一方尼子は毛利に手痛い敗北をして備後や備中攻略を諦める状況。そんな中、いよいよ陶から独立を決意する毛利。この折敷畑の戦いは、有名な厳島の戦いの前哨戦です。今回も目が離せませんね。
昨日は、YUKIMURAチャンネルの最新作「槌山城ー大寧寺の変」がアップされていました。尼子氏に敗れてから合戦や政治に興味を無くしてしまった大内義隆。何度もそれを諫言する陶隆房であったが、大内義隆は聞き入れようとはしない。そして、陶はついに謀反を起こすことを決意する・・・・。さあ、今回は1時間35分の長丁場ですが、見始めればあっという間です。最近は面白い時代劇は無いので、こちらのほうが楽しみです。
本日は龍福寺②です!龍福寺は、建永元年(1206)に大内満盛が創建した臨済宗の寺で、もともと宝珠山瑞雲寺と称し白石の地にありました毛利氏の防長平定の後、弘治3年(1557)に毛利隆元が後奈良天皇の綸旨を賜り、大内氏の館跡である現在の地に龍福寺を再建、大内義隆の菩提寺としました本堂の建立は、その様式などから室町時代後期といわれ、桁行5間、梁間5間で、入母屋造り、内部の大虹梁、板蟇股、ケヤキ材の胴回り約150cmの太い丸柱など、当時の大内氏の財力をうかがうことができます
深川川の河口に標高43mの妙見山がある。別名「小指月」、湊浦では「小山」の愛称でおなじみである。深川川は山の東側から深川湾に注ぎ、河口が船溜まりになっていた。しかし、水害で港が浅くなるなどの被害が続き、昭和19年に河口を山の西側に移した。妙見山の頂上近くに妙現社(みょうけんしゃ)がある。祭神は天之御中主神(あめのなかぬしのかみ)。漁民の信仰が厚い。妙現社をこの地に迎えたのは、永享四年(1432)に長門守護代となった鷲頭弘忠といわれている。伝説によると、大
本日は龍福寺です!龍福寺は、建永元年(1206)に大内満盛が創建した臨済宗の寺で、もともと宝珠山瑞雲寺と称し白石の地にありました延元元年(1336)、大内弘直が再建し弘直の菩提寺となりました大内菱紋とは、周囲に凹凸を持つ『菱紋』の中に、剣状に尖らせた『中陰花菱』を描く。山口の戦国大名大内氏の家紋ということで『大内菱』と呼ばれる享徳3年(1454)に大内教弘が曹洞宗に、寺号も瑞雲山龍福寺と改めました大内氏は、朝鮮王朝の求めに応じて倭寇禁圧のための軍勢を
霜降山は一名「厚東城山」ともいわれ、かつては長門きっての豪族厚東氏の城砦のあったところである。この城にまつわる伝説物語(「腰のまがった観音」)がいうところの「城山くずれ」で、厚東判官盛俊が中山観音像を蹴飛ばした罰からか家運は次第に衰え、間もなく敵の大内氏に攻められて霜降城砦は落城し、一家一門は滅んでしまったというのであるが、判官は死の直前に、集めておいた数多くの宝物を城内に埋めたといわれている。その埋めた場所とは、「朝日さし夕日かがやく木の下に黄金千枚瓦万枚」という歌によってさとれ
こんんばんは、うっきーです。大内殿様シリーズもいよいよクライマックスです!大内義長(1532~1557)大内義隆のお姉さんが豊後の大友氏に嫁いで生んだ男子で大内家の養子になる筈でした。大内義隆に実の息子が誕生し一旦養子キャンセルになったのですが陶晴賢が謀反を起こした際に大内義長を新当主として迎えました。義長さまは大内家32代当主となりやる気満々だったのですが、晴賢が毛利氏に討たれた後義長さまは長府まで追い詰められて功山寺で自刃することにな
今日は、続日本100名城の大内氏館跡に行きました(^o^)大内氏遺跡築山館跡大内氏遺跡館跡西門が復元されています龍福寺資料館前の大内義興像大内氏館跡は、龍福寺になっています龍福寺山門池泉歴史的には、価値があるのかもしれませんが、見るべきものがない続日本100名城でした(^_^;)byXperia1Ⅵ
亀山公園の山頂から高嶺城跡が見えますここも大内氏関係の城跡なんですが、さすがに暑くて登れません(*_*)山口市歴史民俗資料館に到着続日本100名城スタンプを押しますせっかくなので、中も見学しました(^o^)byXperia1Ⅵ
周防(山口県)の大内氏は華僑の中国人の血筋で室町時代に中国との貿易を独占して莫大な利益を生み出していた。大内氏の所有する「大内船」と幕府の所有する「御朱印船」の日明貿易の利権をめぐって対立しいじむな(1467年)「応仁の乱」が起きたのである。-つづく-
瑠璃光寺(るりこうじ)の大内氏と五重塔がわかる時代絵巻です。
瑠璃光寺(るりこうじ)に到着しました。香山公園五重塔の前に居合道の神様と呼ばれた武道家紙本栄一の銅像が建っていました。室町時代、この地域を治めていた守護大名大内氏は、雅な京の都に憧れ、ここ山口で京に模した街造りを始めたそうです。
門司城を調べるシリーズ!小倉チャチャタウンにて、BOOKOFFの新店舗がオープンしたというので行ってきました。カードゲームを取り扱う店舗は別にあり、本やオモチャの店舗も面積は広い。品揃えはなかなか。そして、チャチャタウンなんて子供を対象にしたステージショーなんかもやってるファミリー向けの商業施設なのに、18禁コーナーも設けられている。なかなか凄い店舗である。まあ、BOOKOFFの話はここまでにしまして…。戦利品。ネットで調べても、あまり詳しい情報の手に入らない三氏鼎立時代についてま
2024.5.16~19山口旅行(湯田温泉1泊+車中泊2泊)「ニッポン城めぐり」というアプリに登録されている3000ものお城を攻略するのを、第一目的としての旅行です。今回は、山口県の未攻略城を中心に、行った事の無い観光地を巡る旅。(近くまで行けば、攻略出来た事になるシステムなのでお城そのものに行っていない事も多々あります)5月16日14:40自宅発16:15三木SA19:30福山SA夕食21:35宮島SA23:10佐波川SA
昨日は、YUKIMURAチャンネルの最新作「布野の戦い」がアップされました。第一次月山富田城の戦いで大敗した大内軍。多くの兵と家臣を失いながら居城に帰った毛利元就。反転攻勢に出る尼子にどう対応していくのか・・・。さて、今回も1時間超えですがドラマとして感じればあっという間です。歴史好き、毛利氏好きの方は是非どうぞ。
京都国立博物館で開催されていた『雪舟伝説』展にギリギリ滑りこみで観に行きました。重文の『四季花鳥図屏風』。雪舟らしい力強い筆致ではあるけど、後世の名だたる画家たちが、神格化する感じは受けない。個人的には、国宝『秋冬山水図』が好きです。どうも、「画聖」とまで呼ばれるのが、合点がいかず、『画聖雪舟の素顔』という本を読んでみました。雪舟が拙宗と名乗ってた頃、無骨さとパワフルが持ち味の彼の画は、京都では受け入れられず、山口に移り住み、雪舟と名乗るようになったようです。当時禅僧は、宗教者で
旅行二日目の午前中は錦帯橋と岩国城、そして午後は瑠璃光寺と計画していました。なんといっても西の京・山口市が誇る大内文化の最高傑作、国宝瑠璃光寺五重塔を見たい!と、ワクワクしながらやってきました。曹洞宗保寧山瑠璃光寺山口県山口市香山町7-1ところが!駐車場に着いた途端、ご、五重塔が無いっ😨な、な、なんと。70年ぶりの大改修の真っ只中!令和4年から始まってた〜😱見るのが楽しみだった檜皮葺の屋根、その葺き替え工事中。事前の下調べでは、瑠璃光寺の概要とか駐車場の有無とか
門司城を調べるシリーズ下総前司親房の平家残党制圧の次は、時代が下って毛利VS大友の門司城争奪戦となります。関門海峡ミュージアムの説明文より。毛利元就と大友宗麟による門司城争奪戦が行われたことが分かる。しかしながら、この戦いをネットで調べてみると、山陰・四国・北九州・田川・苅田・博多くらいまでを巻き込む大きな戦いのようです。門司城争奪戦はその戦いの序章で行われたものにすぎません。さらに、毛利と対峙する山陽の尼子氏、大友氏と対峙する佐賀の龍造寺氏も関わってくるので、歴史好きの方のように本気
列島の戦国史シリーズダイ3段は、周防介を歴任した在庁官人をルーツに持つ大内氏を中心に、16世紀前半の西国の戦国時代にスポットを当てています。周知のとおり大内氏は応仁・文明の乱の際西軍の主力として政弘が活躍し、その縁もあって政弘の子・義興は西軍の将軍に擬せられた足利義視の子・義植を再び将軍に擁立するべくことになります。奇特な人ですね。義興とその子・義隆は足利将軍をもしのぐ位階に就き、貴族趣味に奔ったとするのが通説でそれに対する反発もあり陶隆房らによって義隆は滅ぼされてしまう、と
阿東町生雲の畑ヶ谷の千人塚は、弘治2年(1556)、吉見正頼と陶晴賢が吉部地方で激戦の際、その戦死者を葬ったところといわれている。教育委員会が立てた標柱があります。奥に続く道をたどると塚があります。大内氏と吉見氏で激しい戦があったんですね。(2024.04.28撮影)
十朋亭の杉私塾に飾られたひな人形(20243.18撮影)龍福寺大内氏館跡寒緋桜など少し桜が咲いていた。栄華を極めた大内氏も衰退していく。館が存在したおよそ150年間、山口は栄華を極め、大内文化が花開いた。大内氏館跡周辺の遺構の復元作業が現在も継続されている。十朋亭維新館醤油醸造業を営んでいた萬代家藩の中心が萩から山口に移るにつれ、多くの志士が出入りしたそうだ。3月だったの
だいぶ前になりますが、3月末に息子の引っ越しを手伝いに山口に行った時、寄りました。常栄寺は、雪舟庭園で有名です。門を入っていくと、桜の木。3月末桜が咲いていてもいいのだけれど、今年は、予想に反して遅かった!外に出て、池を周遊してみる。毘沙門堂にはこの山道を15分ほど上って行くようだ。サギがいた。悠々と歩いていた。山口観光のシンボル的存在の瑠璃光寺五重塔しかし、
正観さんによると…。(旅じょうず入門…昭和57年)●この方法は賭けこの方法は〝賭け”である。当日になっても、キャンセルがないかもしれない。泊まる宿がない可能性もある。ひたすら〝信じて”辛抱強く待つ人生と、そんな危ない賭けはできないと安全な手を二重、三重に用意する人生と、この方法は「人生」そのものといって過言ではない。まれに、むこうから電話をくれる宿もあるが、それは民宿がほとんどである。(イラストはネット画像です)💛最近の私のありがとう💛その13月のお
皆さんこんにちは、珠下なぎです。今日も来て下さってありがとうございます!初めての方は初めまして。心療内科医でゆるく作家活動をしております、珠下なぎと申します。ちなみにチェリ家🍒です。文学・歴史・最近はサブカルチャーなど様々な面から、現代社会を論じております。(いや、最近はドラマ駄感想ブログ…いやチェリまほブログと化しているかも……)たまなぎブログ更新しました!戦国時代前期・山口県で隆盛を誇った大内氏は、数々の優れた京風文化を残しました。そのうちの瑠璃光寺五重塔は、国宝にも指定さ
長府地区シャーランド夫人の墓名刹長府功山寺は史跡の宝庫といってもいいほど、余りにも見る所が多くて戸惑うくらいである。特に参道から仏殿裏にかけての広大な墓地には、大内義長や長府毛利家藩主および家族、そして家老、勤皇の志士、学者、教授、医者、僧侶、文人、画家、書家、市長、外人など、数多くの有名人が眠っており、ちょっと数えるだけでも、百人近くの著名な人名録をつくることができる。墓地のいちばん奥まった左の高台に、高さ六〇センチ、幅五四センチほどの外人の墓碑があり、御影石の表に「シャーランド夫人之
昨日はYouTubeのYUKIMURAチャンネルの最新作「第二次銀山城の戦い」がアップされました。今回は、前回の吉田郡山城の戦いの少し前から話が始まり、吉田郡山城の戦いのときに安芸武田家がどうなっていたかが描かれています。尼子を後ろ盾に大内に対抗していた安芸武田家。しかし、その尼子が毛利に敗れて一気に劣勢なっていきます。今回の動画は75分ほど。今回も楽しませていただきました。そういえば、再来年の大河ドラマは羽柴秀長が主役だそうです。秀吉の弟というちょっとメインから離
【悪名残すとも】呼んでみました。陶晴賢を主人公としたこれまでありそうでなかった主人公とした歴史小説ですね。私にとって陶晴賢と言えば大内氏に反旗を翻したことと厳島で討ち死にすることくらいしか漠然としか知らなかったのですが・・・・前半の郡山城の毛利救援から出雲の尼子攻めの敗戦。この辺の陶晴賢についてあまり知識がなかったんでストーリーは最初から一気に引き込まれました。陶晴賢が譜代の侍大将にもかかわらず、文知派の家臣団との衝突。主君に対する謀反を考える苦悩とか、その後の統治とかどうするかの葛