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天海(155)6月23日、家康は掛川に入った。家康の旗本として随行していた利景は、ふいに家康に呼ばれたのである。「勘右衛門、天海上人に具足を用意しろ。」と家康は言う。「上人は、僧侶でございますぞ。」と利景が言うと、「だからどうした。僧侶が鎧を着てはいかんのか。オレは側室にも鎧を着せるぞ。この度は徳川家が総力を挙げて戦うのだ。この際、天海にも戦場に来てもらう。銭ならオレが出してもいい。立派な当世具足にしろ。」というのだ。利景は「御意。」と言って引き下がったものの、
【常在戦場】文春文庫【著】火坂雅志徳川家康に所縁のある七人の人物を描いた短編集。鳥居元忠、井伊直政を育てた井伊直虎、石川和正、大久保忠隣、阿茶局、角倉了以、牧野忠成。聞いたことがある人もいれば、そうでない人も描かれている本作。短編集のため、それぞれ深堀はされていないが、いすれもその人物に興味がわく内容。それぞれの人物を知る取っ掛かりになるには丁度良い、面白い作品。
近江八幡には安土城があるのに、横目にして「また今度きます」と告げて一路、佐和山城跡に向かいました。暑くなりそうだし山登りなどは危険かな?と思っていたのですけれど、主人と「安土城」は日向が多そうだから、今回はスルーしようと話してならばどこに行くか?を私に委ねられました。「佐和山城」に行きたい。「彦根城じゃなくって?」「はい」「新幹線から見える看板の佐和山城?」「はい」「登るの?」「はい」駐車場もあって、数台置いてありました。これも読み耽ってしまった💦先を急ごう。
2023年7月7日から『北から南へ「天守」シリーズ』をスタートさせ、初回の「プロローグ」では「天守」についてのエピソード等をお話をしました。『<北から南へ「天守」シリーズ>プロローグ』本日から、『北から南へ「天守」シリーズ』をお届けしようと思います。まずは「プロローグ」から。「天守」については、3年ほど前に、現存、復元、復興、模擬をグルー…ameblo.jpそして2回目以降は、具体的に「天守(御三階櫓含む)」があるお城を、北から順次、現存・復元・復興・模擬の「天守(御三階櫓含む)
こんにちは。蒸し暑い日が続いております尾張地区。湿度が高いと仕事をするのが精いっぱいで散策に外出する気も失せますね。今月は掛川城へ行く予定を立てておりましたが残念ながら雨で中止としたので来月出直します。さて、佐和山城址は最終回。城下を歩いていると何やら案内板が。城下町にあった井戸跡だそうです。石積み井戸で、今でも枯れずに湧き出しているのですね。こちらは内堀跡。大手口から続く城下町のメインストリート、本町筋。なんだか清州城下を思い出します。駐
*5月28日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは徳川家康です。本日は、大久保長安一件のおはなし。あんみつ「先生、駿府の大御所になった家康は、大坂の豊臣秀頼との主従関係を明確にすべく、じわじわと包囲網を敷きます。といってあまり露骨だと秀吉恩顧の大名の反発を買い、まだ出来たばかりの徳川幕府を揺るがしますから、いたって慎重に、幕命には従うとの誓詞を諸大名に奉呈させたりして
【問題】大久保忠隣と大久保長安、大久保の姓を与えた側はどちらか?【選択肢】大久保忠隣大久保長安【正解】大久保忠隣【解説】大久保長安は初め武田家に仕え、“大蔵”や“土屋”の姓を名乗っていたとされる。主家滅亡後、徳川家に仕えて大久保忠隣に預けられ、“大久保”の姓を与えられた。
今、『どうする家康』のアピールをツイッターでしている。主演の徳川家康役の松本潤氏、酒井忠次役の大森南朋氏、本多忠勝役の山田裕貴氏、榊原康政役の杉野遥亮氏、井伊直政役の板垣李光人氏、鳥居元忠役の音尾琢真氏、お愛の方役の広瀬アリス氏、服部半蔵正成役の山田孝之氏、石川数正役の松重豊氏がそれぞれ抱負を語ってるのだけれど、一人ひとり、松本潤氏を殿(家康)と読んで支えていくと。どうする松本潤どうする大森南朋どうする山田裕貴どうする杉野遥亮どうする板垣李光人どうする音尾琢真どうする広瀬アリス
【問題】慶長19年、大久保忠隣が改易された際、次のうちどこで蟄居となったか?【選択肢】長門国越中国近江国伊予国【正解】近江国【解説】慶長19年(1614)、徳川家臣・大久保忠隣は突如改易となり、蟄居を言い渡されて近江国に配流となった。近江では、栗太郡内に5,000石の知行を与えられた。
上杉の関東遠征の際に拠点の一つになった羽生城は弘治2年(1556年)に足利公方方の広田直繁と木戸忠朝が築城したと風土紀稿にあるが裏付けられていないらしいその後上杉方・北条方徳川方と支配が変ります。そして最後の城主を大久保忠隣が務め改易と同じに廃城となった。遺構が全く残っていませんね。残念!!その城址に鎮座するのは古城天満宮で元慶3年(879年)に藤原秀郷が創建した菅公廟と伝わる。その後羽生城主木戸忠朝が城中の守護神として祀った。手水舎石燈籠狛犬社殿御祭神:菅原道真大銀杏石碑
正恩寺真宗大谷派阿弥陀如来小田原下記小田原市HPより抜粋浄土真宗大谷派東本願寺の末寺。尾張国海東郡富田庄(現在名古屋市中川区)に創建され後に三河国額田郡土呂に移された。当時、三河国二股城主だった大久保七郎右衛門忠世の長子忠隣の妻、妙賢院が日頃から当寺の住職信賢に帰依していたため忠世が小田原城主となった後1593年に当地に移し妙賢院を中興開基としています。このため正恩寺は「尾三相州転遷の道場」と呼ばれています。この門は木造・入母屋造瓦
大稲荷神社だいなりさん小田原たなかのおおかみうかのみたまのおおかみ1573年-1592年修験者が建てた修験堂に武田家の主家滅亡後元家臣で徳川家の傘下に入った曲淵氏が修験堂に稲荷大明神を祀ったのがはじまり。1590年初代大久保忠世公小田原城主が京都伏見稲荷大社の最北座田中大神を合祀し信仰ことに篤かったが忠隣公の時に幕府の忌諱に触れ改易国替えとなりそれ以来永年に亙り祭祀するものも無く荒廃にまかせた。とのことです大久保忠隣-
【問題】安房の里見忠義が、大久保忠隣の失脚に連座して国替えとなった先は次のうちどこか?【選択肢】淡路国洲本出羽国大館日向国延岡伯耆国倉吉【正解】伯耆国倉吉【解説】慶長19年(1614)、忠義は大久保忠隣の孫娘を妻としていたことから、忠隣の失脚に連座し、所領を失った。伯耆国倉吉へ所領を与えられたが、配流同然であったともいわれる。
こんにちは、「葵徳川三代」26話、「派閥抗争」の私的解説をしたいと思います。まずは、重臣「本多正信(ほんだまさのぶ)」と、同じく重臣「大久保忠隣(おおくぼただちか)」の対立が発端です。本多正信は、長年徳川家康に仕え、家康を崇拝しています。大久保忠隣も家康の家臣であったが、主に3男の徳川秀忠に仕えてきました。家康が隠居して、本多正信も家康に付き従いたかったが、家康の命によって、秀忠の重臣として辣腕を振るう。皆さん、ご存じのとおり、徳川は昔、松平という姓であった
今日の一日一読は「〔75〕大久保忠隣の失敗」でした。今回は大久保忠隣(ただちか)が小田原城を拝領した後に、改易になったことを尊徳が取り上げています。事の次第に異論が尊徳にあるわけではなく、ただその経験から何を学ぶべきかということを尊徳は言いたかったように思えました。忠隣公は、徳川家康に従事して、数々の武勲を挙げた忠厚の人だと言われています。ただ、上には忠義に厚かった一方で、本人自身の性格は剛強だったようで、家臣の意見には耳を傾けなかったようです。歴史的には、本多正信らの讒言(ざんげん)で、流罪
「三河譜代から藩祖となった大名シリーズ」で本日スポットを当てるのは、「徳川家康」の関東入りした時に「小田原城」(神奈川県小田原市)を与えられた「大久保忠世」です。復興天守、付櫓、渡櫓「大久保忠世」から領地を引き継いだのが「大久保忠隣(ただちか)」でしたが、「本多正信」「正純」親子との政争に敗れて改易されます。その後、「忠隣」の子「忠常」は処罰を受けず大名として残ったことと、過去「大久保家」の「家康」に対する貢献度が高かった実績があったことから、「忠常」の息子で「忠隣」の孫である
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日も愛すべき残念な武将です。昨日の続きです。前回、薄田兼助さんが、大坂の陣で博労淵の砦を任されたとこまで紹介いたしました。これから、兼助さんは、どうなってしまうのでしょう?さあ、大坂城にとって重要な砦を任された兼助さん。兼助さんの武勇があってこその任命だったと言われています。博郎淵の砦は木津川のほとりに造られた砦で、船で登って大坂城に攻め
大三川志から掛川城の攻防を紹介するシリーズ4回目です。久能一族の内紛に引き続き、今川方の夜襲22日夜(21日、22日の説もあるとの注記あり)今川軍は天王山の家康本陣を夜襲したが、久能宗能がこの夜襲の計画を注進していたので、徳川方は十分に準備をしていた。また、徳川方は、地元の郷士から人質をとって掛川城に潜入もさせていた。そこからも密使があり夜襲の情報が入っていた。家康は、大須賀康高、大久保忠世、形原の松平家忠、水野忠重、本多康重に命じて伏兵をおかせた。1の伏兵は大久保忠世、2の伏
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」高野山にある石川家のお墓です。人物名墓のある施設住所石川家高野山奥之院和歌山県伊都郡高野町高野山誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(__)mスマホで地図が表示されない場合、一度前の記事に戻ってもらい再度次の記事を読み込みすると表示されるようです。石川家の墓は高野山奥之院にあります。右地図は奥之院の弘法大師御廟をマークしてありますが、墓は一の橋から弘法
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