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「3歴代ノ天皇(その126」今日は、大久保一翁みなさん、おはようございます津波の影響はいかがでしょうか被害の無いことをお祈りいたします文月7月も最終日今日は笑って過ごしましょうワッハッハーワッハッハーワッハッハー声に出すと脳を刺激しますふるさとを護る文月、七月アリガトウ文月七月(笑)楽しく國史を学びご家族のためご自身のためにお役に立てれば幸いですコメントお待ちしています!7月31日は幕末の官僚大久保一翁が亡くな
■静寛院宮(和宮様)逝去・東京メトロ日比谷線の神谷町駅から、「麻布市兵衛町」あたりを散策。このあたりは、霊南坂教会、スペイン大使館、スウェーデン大使館などがある。・一番の目的は、静寛院宮(和宮)の住居跡を見つけることだった。住所は「麻布市兵衛町1丁目11番地」だ。古い地図を便りに歩いてみたものの、街並みはすっかり変わっており、残念ながら住居跡を特定することは困難だった。石碑なども見当たらない。・静寛院宮は、明治10年9月2日に、脚気の療養先であった箱根塔ノ沢の中田暢平旅館(環翠楼)で
「大久保一翁」高恩と世の益みなさん、おはようございます7月も今日で終わりです7月に感謝して過ごしましょうさあ、今日「7月31日」の國史を学びましょう「大久保一翁(いちおう)、没」明治21年(1888年)幕末から維新にかけての官僚です幕府の中枢にありながら私心を捨てて深く洞察大政奉還を前提とした諸大名による合議制政治体制を公言します当然、幕府有志の反発を受けました軍艦奉行・勝海舟に影響を与え勝の紹介で訪れた坂本龍馬は天下之人物と称えました老中
「らんまん」12日の放送で、今野浩喜さん演じる、大窪昭三郎が東京府知事の三男坊であること、就職先である東大植物教室の口利きを、勝海舟がしてくれたとありました。幕末好きの私、ウキウキ~。調べてみました。↓左端が大窪さん。5代東京府知事の大久保一翁(忠寛)↓最後の将軍、徳川慶喜の超側近でした。さの三男坊が、大窪昭三郎のモデルとなった大久保三郎です。噂でありますが、この大久保一翁さんが、龍馬さん暗殺の黒幕じゃないか?と言われてます。あくまでも噂。
「らんまん」をいつも楽しく拝見している。先週は、東京大学助教授大窪昭三郎が自らの立場を明らかにし、今後の新しい展開が予想される場面があった。昭三郎のモデルの大久保三郎は、元東京府知事・大久保一翁の三男になるが、東京大学の助手になるにあたっては勝海舟の世話にもなった。三郎の斡旋を依頼された海舟にとって、一翁は幕末時に海舟を抜擢した恩人であり、上司でもある。「らんまん」に登場する大久保家は僕的には、三吉慎蔵と河島由路との二人の高祖父と若干関わりもある。三吉慎蔵は、薩長和解の見届け、京都政
徳川家の存続慶喜の助命江戸総攻撃の中止海舟ひとりが負わされた使命はあまりに重い。海舟は、さっそく嘆願書を四方に発信した。必死であったろう。自分の命のことではない。歴史の分岐点にいることを海舟は実感していたはずだ。日本の安危が自分にかかっている。海舟は、慶喜名義や徳川家名義で朝廷に嘆願書を送っているし、自分の名前でも越前松平家を通じて朝廷に働きかけている。海舟は海舟で、徳川家には至上の愛着があったはずだ。しかし、歴史の表舞台からは消えるしかない。愛する者の葬式の喪主のつもりだ
幕末から明治期に活躍した政治家、大久保一翁の三男、大久保立(たつ)は、兄大久保業の事故死により、明治23年(1890)に家督を相続し子爵を襲爵。明治31年(1898)にイギリスのグラスゴー大学造船課へ留学し翌年帰国後すると、海軍造船少技士に任官し呉造船廠造船科主幹に就任する。その後、海軍造船大監に昇進し舞鶴工廠造船部長、佐世保海軍工廠造船部長を務め、大正7年(1918)には海軍造船総監(海軍造船少将)に昇進し横須賀工廠造船部長に就任。大正11年(1922)海軍造船中将に昇進と同
幕末から明治期に活躍した政治家、大久保一翁の嗣子、大久保業(なり-諱は世広)は、明治10年(1878)に欧米へ留学。クリストルパレスコンパニースクールに入り鋳冶円学測量鉄道学を修める。明治19年(1887)に帰国し鉄道局五等技手下に任じら、明治21年(1888)父の逝去にともない子爵となる。明治23年(1891)7月、盛岡地方線路架設の実測中に豪雨に遭遇し、川を渡る際に尾流され亡くなっている。享年29歳。家督は弟の立が相続している。東京都府中市多磨町4丁目628多磨霊園4区1
大久保一翁大久保家墓所大久保一翁の墓大久保一翁の名で知られる幕末・明治期の政治家、大久保忠寛は、文化14年11月29日(1818.1.5)旗本の大久保忠尚の子として生まれ、天保13年(1842)に家督を相続。老中の阿部正弘に早くから見出され安政元年(1854)に目付・海防掛に任じられる。この頃、海防に関する意見書を提出した勝海舟は大久保の知遇を得て阿部正弘に推挙され幕府役人に登用されている。駿河町奉行を経て,京都町奉行に就任した大久保は、老中に井伊直弼が就任し安政
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【出陣中止表明の余波】前回の続きです。慶応二年8月に入り、小倉城陥落の報せが届くと一橋慶喜は前日まで「長州大討込」と自ら称していた出陣を突然中止しました。幕府側の重要拠点が失われたことで勝算の見込みが立たなくなったからです。突然の中止命令に周囲で大混乱が生じました。幕府内は無論のこと、とりわけ会津藩では慶
「大久保一翁」官僚こそ気概を持て7月も最終日歴史の転換点のように感じた7月でした最終日なので笑って過ごしましょうワッハッハー!明るい未来を引き寄せます時間のスピードが速まっている気がしますさあ、今日の國史を学びましょう「大久保一翁(いちおう)、没」明治21年(1888)幕府から維新の「官僚」です幕府の「中枢」にありながら私心を捨てて深く洞察「大政奉還」を前提とした諸大名による「合議制政治体制」を公言します当然、幕府
今回は、幕末の幕臣で江戸城無血開城に尽力した人物です。大久保一翁とは幕臣。安政元年(1854)老中阿部正弘に登用され、目付兼海防掛となる。以後、蕃書調所総裁、駿府町奉行、京都町奉行などをつとめる。安政の大獄で井伊直弼により罷免されるが、文久元年(1861)再び登用され、蕃書調所頭取、外国奉行などを経て、明治元年(1868)会計総裁、若年寄となる。江戸城の無血開城実現に寄与。のち静岡県知事、東京府知事、元老院議官等を歴任した。
○小笠原長生1867-1958海軍中将(左)○東郷平八郎海軍大将・元帥(右)○小笠原は海軍退役後、東郷平八郎のスポークスマンとなり、政治的な動きにも加わりました。没年が昭和33年ですからついこのあいだまで生きていたという感覚を私は持ちます。この頃まで日本海海戦参加の士官が生き残っていたということです。○昭和4年実業の日本社刊○川村清雄1852-1934○初代新潟奉行旗本川村修就の孫、江戸城明け渡しの時、徳川宗家、徳川亀之助(後の家正)に従い小姓役を勤める。のち徳
まずオープニングでタブレットを扱う家康公に驚き、そしてタイトルコール後、いつもの大波のシーンに徳川慶喜と草彅剛さんの名前の替わりに五代さんとデイーン・フジオカさんの名前をみて、びっくり。そうか、今回はつよぽんは出演なしなのね・・・(ノД`)でも大好きなおディーン様が物語の重要な場面に登場するのも嬉しいし複雑は気持ちになりました。明治新政府で奮闘する、栄一と改正掛。自己保身や面目に拘り、一つにまとまらない新政府の現状に焦る岩倉具視は直々に西
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。当ブログでは最近、二人の大久保が盛んに登場します。同姓の人物が同じ時期に活躍するため判別が紛らわしくなることがあります。そこで無用の混乱を避けるため、今後はこのような表記といたします。すなわち大久保一翁(幕府)を「一翁」、大久保一蔵(後の利通)(薩摩)を「大久保」とそれぞれ呼ぶことにします。ご承知おき願います。
徳川宗家の静岡転封で駿府藩中老(執政グループ)となった大久保一翁(忠寛-ただひろ-)☝️文久二(1862)年、大政奉還がなされる五年前、すでに混迷する幕末政局の中、「諸藩の衆議により開国を決定し、もし朝廷が認めない場合は、政権を朝廷に奉還し、徳川家は、旧領駿河一国の大名に後退すべし」という『大開国論』を唱えていた幕閣がいた。当時46歳、御側御用取次として十四代将軍徳川家茂の側近であった大久保忠寛である。時の政事総裁松平慶永(春嶽/越前福井藩主)に意見を求められて応えたという。その先見の明に
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【勝・一翁の登用を画策する松平春嶽】まず登場する主要人物が、この時期(慶応元年12月から翌二年1月にかけて)、どこにいたのかを整理しておきましょう。勝は江戸の自邸で閑職の身にあり、隠居中であった大久保一翁は急な召出しにより大坂に。二人の同志松平春嶽は国許の越前福井に。長州再征のため江戸を発した将軍家茂と幕
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【長州問題に苦慮する幕府】前回の続きです。大久保一翁の許に三度目の出仕命令が届いたのは、12月1日(慶応元年-1865年)でした。最初の呼び出しから三か月も経った同月12日、一翁は江戸を発ちました。大坂到着は22日。呼び出しと見合わせを二度も食らった一翁が大坂から呼ばれたのは、この時期の政局と大いに
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【江戸で閑居中の勝】前回まで慶応元年秋における京・大坂での動きを中心にお話しました。今回は勝がいる江戸に目を向けることにしましょう。勝は前年(元治元年)秋に軍艦奉行の職を解かれ、自邸を構える江戸の赤坂氷川で困窮と閑居の日々を過ごしていました。勝邸を訪ねた越前福井藩士からの報告により勝の苦境を知った松平
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【勝小吉が戻ってきた❣】2年前、好評を博した「小吉の女房」のパート2の放映が4月から始まりました。NHKBSPで毎週金曜日の夜8時から。勝の父である小吉を中心に妻のお信、息子の麟太郎(後の海舟)、妹のお順の家族と勝家と関係の深い人たちとの市井での暮らしを描いたドラマです。小吉には古田新太さん、お信に沢
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。お久しぶりです。前週まで日本営業大学での講義と準備があり、「海舟ブログ」の投稿を休ませていただきました。どうかご容赦ください。さて大河ドラマが、『麒麟が来る』から『青天を衝く』に変わりました。描かれる時代が戦国から幕末維新に移りました。今回の主役は、渋沢栄一という農民出身で幕臣となり、明治政府に仕えた後、実業家に転じ
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。ドラマ『半沢直樹』がついに終わってしまいました。日曜日の夜の楽しみが一つなくなったと感じておられる方も多いのではないでしょうか。私もその一人です。熱いドラマでした。語り始めると長くなるのでここではやめておきます(笑)【禁門の変後の京での風評と政情不安】さて前回は禁門の変が起きたところまでお話しました。
○談話者の川村清雄(1852-1934)明治初期の洋画家。福沢諭吉翁の肖像を描いて名を残しています。初代新潟奉行川村修就の孫に当たります。○明治三十九年春陽堂から出された「唾玉集」という各界の著名人の談話集があります。その中に川村清雄の珍しい談話がありますので書き出していくことにします。「唾玉集」は平凡社から復刻され、東洋文庫に入っています。●学科について日本を立つときから皆が気を揉みまして、学科の名前をたくさん書いてどれにしようかと騒ぎましたが、一翁がいうには「迷わなくても何でも一
7月19日、台東区谷中の全生庵にて山岡鉄舟忌がおこなわれた。全生庵での法要、食事を済ますと、私は静岡山岡鉄舟会の会員といっしょに、勝海舟ゆかりの両国公園、山岡鉄舟が生まれたとされる安田庭園周辺、そして江戸東京博物館を見学した。その後、友人と日暮里駅近くのそば屋で食事をした。お酒🍶は「江戸開城」を選んだ。暑い一日だった。鉄舟筆「木村家」のあんパンがお土産。法要後の食事風景(全生庵にて)山岡鉄舟座像。高村光雲の最後の作品だといわれる。山岡鉄舟の墓(台東区谷中の全生庵)明治21年7月20