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3月最終日の今日は朝から風が強く、桜流しの雨模様の一日でしたというわけで先日29日の日曜日近所の@よっぱらい厳選桜の名所めぐりをしてきましたまずはおさる(Z50J)の散歩もかねて近所の都立霊園内をうろうろ例年、この霊園の中央を通るバス通りの桜並木が見事だったのですが昨年中に大掛かりな枝払いをされたようです最近、枝折れや倒木での事故のニュースも多いので致し方ないのでしょう園内の方はこのような桜のトンネルが四方八方に続いています上空から見たら見事だろうなぁ
詳細は、下記のホームページをご覧ください。【報告】梨本宮桐華記念財団の月例行事(3月10日)「一般財団法人梨本宮桐華記念財団」が進めている日韓・日朝・日台・日中の和解と友好のための取り組みを支援します…peacefestival.jp【一般財団法人梨本宮桐華記念財団の月例行事への参加】2026年3月10日に「梨本宮桐華記念財団」が主催する新年最初の月例行事に代表理事・梨本勇氏、筆頭理事・安志榮氏、理事・渡邊和見氏が参加いたしました。また、梨本勇代表理事を日頃よりご支援くださっ
今年も桜の季節が巡ってまいりました。多磨霊園の墓参を兼ねて花見としゃれこみました。多磨霊園の近く、味の素スタジオ脇の調布飛行場に沿って立派な桜並木が続きます。金曜日の前後は雨でしたが、墓参りに合わせて太陽が顔を覗かせてくれました。まだ満開ではなく、5~6分咲き?味の素スタジオに隣接する京王アリーナの屋根が見えます。多磨霊園の墓2か所にお参り、今回は充電式の高圧洗浄機を持参し、墓石の水洗いをしてみましたが、石の水垢は思ったほどきれいになりませんでした。(ちょっと期待外れ)
3月28日(土)am3:50外に出て確認すると雨は止んでいたがヘヴィーウエットよってお山行きは中止路面がドライになるのを待ち近場をちょろっとだけ走る桜が咲いてどこも道が混んでいるからそんな時は多磨霊園🤣近場なのでテールバッグ無しのスッキリエリミ峠を走れなかった代わりにフルロック8の字の練習簡単そうに見えて8の字や定常円旋回って100%ライダーがバランス取らなくちゃなのでこれが結構難しい毎周同じラインを通す事の難しさよまだまだ練習は欠かせない白
昨日のことなんだが、彼岸の最終日であり、家族総出でのお墓参りのはしごとなりました。光が丘周辺でのマラソン大会があったようで、実家組と妹家族組がそれぞれ朝の9時に出発しての、護国寺にある父のお墓に集合となった。実家組がいつも停める駐車場が満車でとりあえずお墓近くの参道中にある駐車場に留めました。お墓に到着すると妹家族が墓掃除をしてくれており、滞在時間20分くらいで父の墓を出て、そこで隣の車が妹の車だということに気がついたのです。(私は薄々気がついては居たんだけどね)妹の車を買
3/19の模様である。曇り空だが、気温は高かった。府中市内をサイクリング。シダレザクラ、見頃。モクレン。アンズ。ボケ。ソメイヨシノ、少し咲き始めた。うむ、春うらら気分になった。
日本海軍において元帥海軍大将となった、東郷平八郎さん、山本五十六さん、古賀峯一さん。そしてお三方ともに日本海軍連合艦隊司令長官。お三方とも、お墓が多磨霊園にありますので、先日お墓参りしてきました。東郷平八郎さんのお墓東郷平八郎さんといったら、日本海海戦。連合艦隊司令長官としてロシアのバルチック艦隊を破ったことで有名。「東洋のネルソン」と讃えられ、そのファンは日本だけでなく世界中にいた。晩年の海軍への口出し介入にはいろいろと批判されるところもありますが。すごい海軍大将であったことは間違い
石崎家墓所法学者の石崎政一郎は1895年、小山銀行(現足利銀行)の頭取を務めた石崎丈太郎の長男として生まれる。父は「湯島将軍」と異名をとった米相場師で、小山銀行創業者・石崎政蔵の養子である。東京帝国大学法学部卒業。大正10年(1921)に渡欧。パリ大学、リヨン大学で法学を学び、博士号の学位を修得する。昭和15年(1940)に家督を相続。戦時中は東北帝国大学報国隊第4大隊に所属し、学徒勤労動員に関わった。昭和27年(1952)から二年間、東北大学法学部長を務め、昭和34年(1959
詳細は、下記のホームページをご覧ください。【報告】梨本宮桐華記念財団の月例行事(2月15日)「一般財団法人梨本宮桐華記念財団」が進めている日韓・日朝・日台・日中の和解と友好のための取り組みを支援します…peacefestival.jp【一般財団法人梨本宮桐華記念財団の月例行事への参加】2026年2月15日に「梨本宮桐華記念財団」が主催する新年最初の月例行事に同財団筆頭理事・安志榮氏、理事・渡邊和見氏が参加いたしました。また、梨本勇代表理事を日頃よりご支援くださ
森本家墓所墓誌碑国文学者の森本元子は、大正元年(1912)、東京市下谷区に出まれる。東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)卒業後、長崎県女子師範学校、神奈川県女子師範の教師を経て、昭和23年(1948)より母校の附属高等女学校の教師に就任。昭和45年(1970)には相模女子大学教授となる。専攻は中古中世和歌。昭和55年(1980)、「私家集と新古今集」で日本大学より文学博士の学位を取得。戦後、日本古典文学の女性研究者の先駆的存在として活躍し、「私家集の研究」(明治書院・
藤原咲平日本の気象学の先駆者で、「お天気博士」の愛称で親しまれた藤原咲平は、明治17年(1884)、長野県諏訪市に生まれる。「藤原」は本来、「ふじはら」と読むそうだが、本人のこだわりにより「Fujiwhara」と表記していたという。明治42年(1909)に東京帝国大学(東京大学)理論物理学科を卒業。中央気象台(現在の気象庁)に入り、統計課で「雷雨報告」や「雨量年報」の編集に携わるとともに、風向観測法の研究を行う。なお、明治44年(1911)、千里眼・念写といった超能力を持つという
田北兄弟のお墓参り加藤隼戦闘隊の加藤健夫中佐のお墓参りに多磨霊園を訪れた時、加藤さんのお墓の近くに気になるお墓がありました。田北次郎・田北惟夫兄弟のお墓です。二人とも陸軍航空兵中尉。墓石の裏には、田北兄弟の戦死の状況が刻まれていました。田北次郎(田北家の次男)昭和18年1月15日戦死。享年24歳。大東亜戦争印度カルカッタ第一次特別攻撃隊に志願し爆撃に赴き自爆す。田北惟夫(田北家の三男)昭和19年2月10日戦死。享年23歳。大東亜戦争支那南昌付近に於て偵察機編隊に長として
福林家の墓墓誌出版実業家で作家の福林正之は、明治34年(1901)、北海道小樽市に生まれ、昭和2年に東京帝国大学社会学科を卒業。報知新聞特輯主任、日本工学倶楽部調査主任を経て、昭和18年(1943)に戦時下における出版物の事前審査や印刷用紙の割り当てなど、統制を行う目的で日本出版文化協会を改組して設立された「日本出版会」の総務部次長、および機関誌「日本読書新聞」の編集室長に就任した。しかし、同紙は終戦間際に資材不足や編集部員の徴兵などで休刊となり、福林は出版用紙を一括確保するために
2/24・南武線でたっぷり撮った後は、京王線に撮影に向かう予定でしたが…。百草園~高幡不動間の踏切内交通事故が発生し、その影響で府中~高幡不動間が運転見合わせ。折角出掛けたし…府中本町から府中競馬正門前まで歩いて乗り継ぎ。いつもの、武台1曲へ向かいます。****7421F府中競馬正門前のんびりした時間を味わいたい時は、ここもイイですね~。外国人女子が楽しそうに、閑散とした駅構内で撮影をしていました。東府中乗り換えで、多磨霊園まで。****7701+7807F武蔵野台~
金田家の墓側面金田平一郎(かなだへいいちろう)は、日本の法学者であり、特に日本法制史の分野で不朽の業績を残した人物である。明治33年(1900)、茨城県に生まれ、大正15年に東京帝国大学法学部法律学科(独逸法選修)を卒業。同大学院を経て、昭和5年(1930)に九州帝国大学(現・九州大学)に助教授として赴任し、法文学部で日本法制史の講座を担当した。以降、生涯の多くを九州の地で教育と研究に捧げ、江戸幕府における債権法制度など民事責任の体系的研究を行うなど、日本法制史研究の第一人者
三好十郎の墓三好十郎は、昭和初期から終戦後の復興期にかけて活動した、詩人・小説家で、一言で言えば、「人間とは何か」という問いを、自分自身の魂を削りながら追い求め続けた表現者であった。明治35年(1902)、佐賀県に生まれた三好は、早稲田大学在学中から詩を書き始めている。当初はプロレタリア文学運動(労働者の権利や社会変革を訴える運動)に身を投じ、昭和3年(1928)に戯曲『首を切るのは誰だ』で劇作家としてデビュー。社会の不条理を鋭く突く作品を次々と発表し、左翼演劇界の旗手として注目を浴
加藤隼戦闘隊加藤隼戦闘隊。日本陸軍が誇る一式戦闘機、隼(はやぶさ)。そして隼といえば加藤建夫(たてお)中佐(戦死後、少将)。加藤隼戦闘隊は、隼を駆って蘭印、ビルマ方面で大奮闘した陸軍飛行第64戦隊の愛称です。↑隼(写真はWikiからお借りしています)太平洋戦争中に映画『加藤隼戦闘隊』が公開され大ヒット。陸軍戦闘機といえば隼、隼といえば加藤中佐、そして第64戦隊。加藤中佐は「軍神」として当時国民に慕われていました。(ちなみに『加藤隼戦闘隊』はアマゾンプライムで見れます)(写真は
佐藤家の墓佐藤繫信建立佐藤繁信は、昭和初期に帝国競馬協会で活躍し、「近代競馬の創設者」と言われた人物である。福島県出身。大正14年、東京帝国大学法学部卒。帝国競馬協会に入り、主事補佐であった昭和七年に、調査研究のため渡欧し二年間欧州に留学。ニューマーケットルール(英国競馬施行規程)を学んで日本に持ち帰り、これが現在の「日本中央競馬会競馬施行規程」の基礎となった。帰国後は、調査結果を「ヨーロッパにおける競馬事業序説」(全二巻)にまとめ、各地で講演するなどしている。昭和11年、
丸山家の墓(多磨霊園)墓誌評論家の丸山邦男は、大正9年(1920)に兵庫県芦屋市で生まれる。ジャーナリスト丸山幹治の三男で、兄に芸能プロデューサー・音楽評論家の丸山鉄雄と、政治学者・思想史家の丸山真男がいる。昭和21年(1946)、早稲田大学文学部仏文科中退。全日本炭鉱労働組合書記を務めた後、雑誌編集者を経て、昭和32年(1957)に「ジャーナリストと戦争責任」で論壇に登場。同年に大宅壮一が創設した「ノンフィクションクラブ」に参加し、「天皇観の戦後史」など、天皇制批判を中心に、
丸山家の墓墓誌戦後日本を代表する政治学者であり、思想史家でもある丸山眞男。彼の生涯は、日本の民主主義を深化させようとする格闘の歴史そのものであった。丸山は大正3年(1914)、ジャーナリストの父・丸山幹治の次男として大阪府東成郡天王寺村(現・大阪市阿倍野区)に生まれる。兄は芸能プロデューサーの丸山鉄雄、弟には評論家の丸山邦男がいる。大正10年(1921)、「読売新聞」経済部長となった父と共に家族は東京四谷へ転居。昭和9年(1934)に東京帝国大学法学部政治学科へ入学し、マル
丸山家の墓(多磨霊園)墓誌丸山鐵雄は、今も続くNHKの長寿番組『のど自慢』を企画するなど、現在の娯楽番組の基礎を創ったといわれる芸能プロデューサーである。明治43年(1910)、ジャーナリスト丸山幹治の長男として兵庫県芦屋市に生まれる。弟には、戦後を代表する政治思想家の丸山真男、評論家の丸山邦男がいる。昭和9年(1934)、京都帝大経済学部を卒業後、日本放送協会(NHK)に入局。編成部、音楽部、芸能部、企画部を歴任し、戦後の昭和22年(1947)には、三木鶏郎らの痛快な社会
丸山家の墓(多磨霊園)墓誌丸山幹治は明治から昭和にかけて活躍したジャーナリストである。号は侃堂。息子には、長男に芸能プロデューサーの丸山鉄雄。次男に政治学者の丸山眞男。三男に社会評論家の丸山邦男がいる。明治13年(1880)、長野県埴科郡清野村(長野市)の農家に生まれ、徳富蘇峰の『将来之日本』(1886)や『新日本之青年』(1887)を読み、その影響で、家業を継がず、家を出て横浜で牛乳・新聞配達をしながら東京専門学校(早稲田大学)を受験し、邦語科行政科へ入学。明治34年(
関屋家の墓(多磨霊園)関屋延之助は戦前の官僚で、官選県知事等を歴任した人物である。明治21年(1888)、石川県鹿島郡に生まれ、第四高等学校を経て、大正3年(1914)に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。内務省に入り和歌山県地方課に勤務する。その後、和歌山県警視、和歌山県郡長、滋賀県理事官、京都府理事官、岐阜県警察部長を歴任し、昭和6年(1931)には北海道庁拓殖部長、続いて新潟県内務部長に就任している。昭和7年(1932)、山梨県知事に就任。次いで、昭和10年(1935)、熊
海軍陸戦隊の皇族再び、多磨霊園を訪れて参りました。今回は割とスムーズにお目当ての方々のお墓を見つけることができました。その一人が、音羽正彦海軍大尉。墓番号は7-1-1。角にある大きい敷地なのでわかりやすいと思います。鳥居があって特徴的です。音羽正彦(おとわただひこ)大尉(戦死後少佐)は、朝香宮家の宮様、朝香宮鳩彦王の第2王子で、皇族の一人でした。侯爵様です。(↑写真はWikiからお借りしています)戦前の皇族の男性は軍人にならなくてはいけないという明治天皇の定めたルールがあった
小泉家の墓墓誌小泉四郎は工学博士で早稲田大学名誉教授。長野県北佐久郡出身で、昭和2年(1927)に、早稲田大学理工学部電気工学科を卒業し、逓信省電気試験所において真空管の研究に従事する。昭和4年(1929)からは早稲田大学に移り、基礎工学実験室で教育と研究に専念。専攻は回路理論、応用数学であり、当時注目された「マトリクス」をいち早く導入するなど、電気回路論で新境地を拓いていく。昭和5年(1930)より早稲田大学理工学研究所に所属。昭和18年(1943)、早稲田大学理学部教授
菊川夫妻の墓菊川君子は、昭和29年(1954)9月26日、日本海難史上最悪の惨事といわれる「洞爺丸事故」により亡くなった、日本社会党所属の衆議院議員・菊川忠雄の妻である。洞爺丸事故遺族会の会長に就任し、衆議院議員を1期務めている。君子は、明治38年(1905)、北海道亀田郡戸井村汐首(現函館市)に生まれ、函館大谷女学校卒業後、上京して、看護婦見習いなど多くの職業に従事する。やがて、社会運動に関わるようになり、全国婦人同盟、無産婦人同盟の結成に参加。無産婦人同盟常任委員、同財務部長を務
菊川忠雄菊川忠雄は、大正から昭和期にかけて活躍した日本の労働運動家、政治家、そして社会運動史家である。戦前の学生運動の黎明期から活動し、戦後は日本社会党の中堅幹部として将来を嘱望されていたが、洞爺丸事故により悲劇的な最期を遂げた人物として知られている。明治34年(1901)、愛媛県に生まれ、東京帝国大学(現・東京大学)経済学部に進学。社会変革を目指す学生たちの団体「新人会」に加入し、学生運動のリーダーとして頭角を現していく。大学卒業後は、日本労働総同盟(総同盟)に身を投じ、実務能
仲原家の墓墓石側面に刻まれた俗名仲原善忠(なかはらぜんちゅう)は、沖縄県久米島出身の沖縄研究者。特に琉球王国時代に編纂された歌謡集「おもろさうし」の研究で知られる。明治23年(1890)、久米島仲里間切真謝村で生まれ、明治45年(1912)に沖縄県師範学校を卒業、大正2年(1913)に広島高等師範学校に入学し、大正6年(1917)に卒業した。静岡県立静岡師範学校、中国の青島中学校、鹿児島県立第一師範学校の教諭を経て、大正13年(1924)に東京の成城学園(現・成城大学)の
内藤家之墓墓誌生活困窮者を救済する法律は明治憲法下でもあったが、現行の生活保護法は、昭和21年(1946)施行の(旧)生活保護法を、連合軍総司令部の指導で全面改正したもので、昭和25年(1950)から施行されている。昭和22年刊行の「生活保護法の解釈」は、旧法が施行された後に出された解説本であるが、著者の厚生事務官・内藤誠夫は、旧生活保護法の制定において、実務的な面で中心的役割を果たした人物である。この本の中で、当時の厚生省社会局長は「内藤誠夫君は新進気鋭の士であり、本法立
詳細は、下記のホームページをご覧ください。【報告】梨本宮桐華記念財団の月例行事(1月15日)「一般財団法人梨本宮桐華記念財団」が進めている日韓・日朝・日台・日中の和解と友好のための取り組みを支援します…peacefestival.jp【一般財団法人梨本宮桐華記念財団の月例行事への参加】2026年の新しい年が明けた2026年1月15日に「梨本宮桐華記念財団」が主催する新年最初の月例行事に同財団代表理事・梨本勇氏、筆頭理事・安志榮氏、理事・渡邊和見氏が参加いたしました。ま