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「心の剣の稽古は“デュエルバトル”ではない。」身近にある剣術の代表と言えば剣道です。剣道には多くの目的があることは理解しております。ただ中学/高校の剣道部では、「試合で勝つこと(≠スポーツ)」が求められているように感じます。そのイメージから心の剣術も「1vs1の戦いにおける優劣の決定」を求めてしまう方も少なからず存在します。また「ただ剣を上げて、ただ下すだけ」と言う単純な動作であることから「対心の剣」が模索されやすく、心の剣が未熟な場合には「対“対心の剣”
アルマーニのスーツに、ジバンシーのネクタイ・・・これらで着飾るだけでは無住心の理解はできません。このようなお話をしましょう。ホームレス。決して身ぎれいとは言えませんし、むしろ汚いとすら感じる事があります。あるホームレスが1枚の食パンを貰いました。すぐ近くに別のホームレスが居り、そのホームレスも空腹に耐えていました。それを見て、食パンを半分に千切り、その半分をそのホームレスに与えました。そう、自身が飢えているにも関わらずです。彼の外見は汚いと言っても過言
思うところもあり、武好会としての活動を再開いたします。武好会の想いは読んで字のごとく武道を「好き」になること、「好きである事」が第一となります。稽古としては夕雲流を意識した心の剣の追求になります。基本ルールは①「無理をしない事」②「相手に自分の価値観の押しつけをしない事」武好会https://bukokai.jimdofree.com/
夕雲流剣術書の最初の方に「古の武士は戦場に行く事に対して運と覚悟で臨んだ。」とあります。この言葉は、当時(1700年前後)の剣術道場の事情を説明しなければ、伝えたいことが伝わりません。この頃は、現代の武道と同じく「やれ奥義だ、ほれ免許だ。俺の先祖は何々だ、我が流派の開祖は誰々だ。」このような物がステータスであり、またこの時代の武士もこれを望んで、それらを得て、“さも一流の武士”と思い込む者が多かったからと言う事情があります。だから夕雲先生や一雲先生は「武士は
そんな織田(仮)さんの質問を受けて、無住心剣術の真理谷円四郎義極先生を思い浮かべた。真理谷円四郎義極夕雲流無住心剣術の三代目で江戸時代の剣豪である。伝書では千度不敗の最強の剣術家として知られている。文献は自分の手元から紛失してうろ覚えであるがそれをふと思い出したので、織田さんね、昔の剣術の名人に真理谷円四郎という人がいて、その人は千度試合して、一度も後れを取らなかった人で、しかもその戦い方が、ただ相手に近づきながら剣を引き上げて感じるところにうち下ろすだけというあり得ないほど
無想剣は何かの流儀ではありません。剣の本質の追求です。また一般的な流派との親和性も高い性質があります。例えば、私が以前に経験をしていた英信流。この英信流の技の手順や形を変えることなく、今まで通りの稽古の手順のままに無想剣に向く稽古方法があります。いや、稽古方法と言うよりは5分くらいの説明を聞くだけです。説明の内容も、小学校高学年くらいなら簡単に理解が出来ます。つまりほとんどの人が理解できます。居合型の手順、柄の持ち方、目線、歩法など今まで通りです。
居合の流派名は色々知っているつもりでしたが、知らない名前の流派の伝書を入手しました。「山之井流」流儀の名称は、山の井水を汲む心による理から来ているとの事です。山之井流の伝書の1部分ですが(意訳あり)居合とは無心であることが書かれており、「太刀を抜こうと考えると、なんだか変な感じで術が遅れ、居合は技だと思うと、心が留まるために太刀が上手く抜けない。しかしお相手を敵と思わなければ(=無敵の境地)、自然と手は柄にかかり、何も感じることなく、鞘と刀は離れる。」これ
林崎敬居合とよ荒れr居合道や居合術を修行されている方は「林崎甚助公は、神社にこもり神からの啓示によってその術理を得た。」と言う伝承を聞いたことがあるかと思います。しかし、居合道/居合術を真摯に学んでいる方ほど「そんな嘘、大げさな伝承など信じない。」となるのではないでしょうか?私も以前は「よくある伝説の類」くらいにしか思っておりませんでした。しかし、無想剣の理解が進むと「林崎甚助公が行きついたかどうかまでは分からないけれど、神からの啓示によって自然の勝ちが生じる剣
数値で物事を判断する事はよくあります。ここで、陸上と水泳。お互いに最高の選手を出し合い100Mを走る/泳ぐ、で競ったら?陸上の世界記録が9秒。水泳自由形の世界記録が46秒。この結果を見て「水泳は陸上よりも劣っている。」と思う人は、あまり聞きません。数字は大切ではありますが、数値=正しさとならない事もあります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・武好会毎週土曜日15:00-17:00亀井神社(神奈川県藤沢市亀井野554)
相抜けは無住心剣(夕雲流)に伝わる心の状態です。伝承では夕雲師が一雲と3回手合わせをし、3回ともに相抜けに至ったとあります。そこには勝敗が無いと伝わっております。戦場の相抜けには勝敗があります。しかし勝敗はあって、勝敗が無いのです。戦場での相抜けとは、1,負けた際に勝ったお相手を恨まず勝者を賞賛しこの世に未練を残さずに去る。2,勝っても、負けたお相手を賞賛する。自分もいずれそちら側に行く事を添えて負けた相手を送る。つまり、心の勝敗が無いと言う事です
「武道とは何か?」武道と言う言葉が定義付けられたのは明治です。5つの定義があります。1,国家を守る忠誠心(=国家のため)2,礼儀3,正々堂々4,信義5,質実剛健少なくとも大戦後には「国家のため」と言う部分が無くなりました。また礼儀の相手も、戦う相手などではなく「国家」であり、国家のために礼を尽くし、国家のために正々堂々と生き、国家のために信義を重んじ、国家のために贅沢をしない(質実剛健)。このような意味を含んでいます。国家とは元首や政府の
250年間続いた徳川幕府の崩壊・・・・と聞いても、正直な話対岸の火事くらいです。あまり心に響くことは有りません。しかし、永遠に続くと思っていたモノが突然無くなる事は良くあります。そのモノが無くなった時、昔を懐かしむことが良く起こります。昔を懐かしむのは、齢を取った証拠でしょうか?いや、違います。その事に感謝をしていなかったからです。「いつでもそこにあって当たり前。」と思っていた慢心による後悔です。当たり前と思う事は悪い事ではありません。しかし、感
とある水族館では生餌が必要な魚がいます。その餌にキンギョを用いていました。しかし「キンギョを餌にするのは残酷だし、教育にも良くない。動物愛護に違反する。」このようなクレームが殺到しました。だからと言って、餌を与えない訳にはいきません。そこでドジョウを生餌に与えたところクレームは無くなりました。この話は「モノの善悪を自己の都合(価値観)で判断する。」と言う事です。クレームを入れた人の心情を想像すると・キンギョは可愛いし、ペッ
度々紹介をしているやなせ先生の正義です。やなせ先生の言う正義には「悪」が存在しません。よくある“誰々は悪い奴だ”という例えは出てきません。善と悪の争いがテーマではなく、ただ「飢えている人に一切れのパンを差し出す行為。」これを正義の例として説明をされています。それは、別の言い方にすれば「人に親切にすること。」であり、それ以上でも以下でもありません。ここに悪は無く、悪とは別の言い方をすれば敵。敵がいない・・・つまり「無敵の境地」これが、やなせ先生の正義
初伝は、基本的な刀操法、居合の身体的所作のトレーニングであると想像できます。体や技が仕上がってきた次に「心の話」が続くと考察をしています。以下は私的解説になります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・横雲は、横に尾が長くなびく雲です。この尾の意味は「執着」です。執着から生まれる心は、夕雲流で言う畜生心です。執着から生まれた勢いのある剣撃は虎や雷(虎一足、稲妻)に例えられ、そのような見栄えの良さに心を持って
英信流に伝わる「浮雲」について私的見解を載せます。本来の浮雲は型や技ではなく読んで字のごとく「空に浮かぶ雲のごとし」と言う心の教えであったと思われます。敵の攻撃を風とするならば、己の心は雲。雲に風を当てれば、雲は風の強さに応じて移動をします。剣であれば、強者の強い剣気を当てることで、浮雲は場を離れ、結果として剣が届かないと言う現象が起こります。なお、この強い風を例えた言葉が颪(冬季に山や丘から吹き下ろしてくる風)です。また雲には感
結論を先に書きます。「大騒ぎする事では無い。」と思っております。世間の非難に負けずに70歳の先生も、高校生もこれからも居合道に精進してもらいたいと個人的には思います。また70歳の先生の高校生に対する責任とは「その高校生に自分の剣の全てを教え託す。」事では無いかと、私は考えてます。たしかに学校内のクラブ活動中の事故で、未成年者(高校生)へ大怪我を負わせたことは正しい指導とは言えなかったとも言えます。しかし、スポーツも含めて事故は起こってもおかしくはありま
槍を稽古していると中には有名な流派の名前を出して「A流、B流、C流、D流などで槍の正しい技術を学ばないと槍の稽古をするべきではない。」有名な槍の流派は、古くから正しい事が伝えられている。だから“それをやるべきだ”、と。このような人に対し、次のような質問をします。しかし次の質問に答えられた人はいません。「石器時代にも狩猟などで槍を用いていたようだけど、その頃の槍の名人は、何流の何免許を受けていたんだ?」または、「戦場にて槍同士で相対した際、お相手の槍の技を見て“
窪田清音は幕末の軍学者、講武所の師範や源清磨のスポンサーを務めた人物です。窪田清音の兵法の中には「火縄銃に対して居合術で破る」と言う物があります。本当に出来るのかな?と言う事ですが、ある条件下では出来たと思います。その条件とは?「空砲(和紙を丸めた弾)を込めた火縄銃」失敗しても火の粉を浴びるだけで、さほど危険はありません。そのため、居合側も落ち着いて対処ができます。問題は実砲に対してです。空砲相手の時は達人と言われた人物が、実砲に変わっただけ
心の剣と仏説~眼横鼻直~心の剣に関して刀の持ち方は?“龍ノ口を開く!”必要はありません。龍ノ口を開くのは個人の自由ですが、開かなくても心の剣は理解できます。では心の剣における正しい刀の持ち方は?「柄は手で持ち、刃は握ってはならない。」はぁぁ??当たり前だろ?では反対に「何で刀の持ち方なんて“当たり前の事”を聞くの?」眼横鼻直とは、人の顔には「目は横に付き、鼻は縦についている。」この当たり前の事を説いたお話です。無想剣
赤子に帰れ針ヶ谷夕雲先生の興した無住心剣術の教えです。この赤子とは?その実例を紹介します。故やなせたかし先生(あんぱんまん、その他の作家)。やなせ先生の著書「わたしが正義について語るなら」この本に赤子よりは成長した児童の話が書かれています。あんぱんまん。この絵本は今でこそベストセラーですが、出版当時に評論家や出版社からは「絶対に売れない本=ダメな絵本」と言う評価でした。これは大人(知識、立場や先入観など)の意見です。しかし、図書館で真っ
一刀流をイメージで見ると、諸手上段から、身体・技・気を一致させて一刀のもとに敵を倒す。白井亨先生の残された兵法未知志辺の最初の方に「一刀流を称する者は一刀裁断の義に非ず。」と書かれております。つまり、私が書いたイメージの一刀流の姿は白井亨先生の一刀流では無いようです。では、白井亨先生は一刀流を何と言っているのでしょうか?「阿の字」阿の字は“阿吽の呼吸”の阿です。阿の解説は長いので、簡単にまとめると「真面目、華車」です。華車は同じく心の所作だ
アマゾンからやっと「今日、誰のために生きる?」その本が届いた対比のために「心の回復力」も同時撮影私は挫折もしないし、前も向いていない(笑)今、身に着けたい事柄や心構えも無い今日、誰のために生きる?という鮮烈な問いを自らに発し、余分なことに血道を上げたい年寄りだ(笑)その人たるべき根底に迫る問いに私は立ち尽くす勝ちました、儲かりましたなどという話はこの本の前には全く無力でガラッパチすぎて恥ずかしい。対比して申し訳ないが、回復するべきは、おためごかしの「心の回復力」
猫の妙術にはモブキャラの白猫。ネズミを捉えた老猫。その老猫から話を聞く3匹の猫が登場します。・術技(動作)の猫・気の猫・意図した和をもつ猫この5匹の内、4匹はいわゆる武道家です。しかし、いずれも真の無想剣の猫ではありません。ネズミを捉えた猫も、無想剣ではありますが、夕雲流で言う「真面目」ではありません。しかし、この本の中には「真面目」に行きついた6匹目の猫も登場します。答えは?CMの後で。
無想剣は勝ち負けを追求する武術ではないと言っても負けてばかり良いと言う事でもありません。では心の剣に現れる勝敗とは何か?その根源たるものとは何か?その答えは「勝敗は常に顔で決まる。」わけではありません。すでに解説をした通り「因果の解消」そして小さなことにも感謝をする。間違っても自分が与えたことに執着をしたり、ましてや、無関係の人間から”奪う”ような事をしない。この事が心の剣の自然の勝利につながります。この勝利とは、別の言い方をすると「運を引き寄せる
これは私の宗教観によるものです。ここ数年、私は戦争で亡くなった方々の追悼をやめました。その理由を書きます。まずは神道の考え方です。人は死ぬと「神」なると言われております。神とは?全てを理解する存在とも言えます。戦中に亡くなった方は、もれなく神になっています。仏教的には仏になります。言葉は違いますが、神と仏は同じ意味で良いと思います。人は死ぬと全てを思い出すと言われ、別の表現では、人は死ぬことで因果が解消されると聞きます。つまり、死ぬと怒り、憎しみ、悲しみ
武道の1つは「ありがとう」です。武道は狭い世界です。旧知の方と久方ぶりにお会いをしました。順調に稽古も進んで、順調に段位も上がって行っているようです。しかし、どうしても不満と言うものはあるようです。他所の道場の事に触れるのはあまり良くないのですが、どうして「初心者」に対しても「絶対」を求めてしまう部分が強い様です。最初から、物差しで測ったような結果を求めてしまうわけなんです。気持ちはわかります、指導者側の。「なぜ俺の言う事が聞けないんだ?」イライラするん
最初に居合道の1本目の型の説明をします。1、抜刀後の初手は”敵の胸を割く”。2、振りかぶって上段から”敵の頭を斬り割る=死”。この型は人を殺すことの説明がなされています。この時に生じた疑問です。「人が死ぬという事は、どのような意味があるのか?」意味を回答できる指導者は少ないのではないでしょうか?もちろん、心臓が停止をした、脳波がない、瞳孔が開く・・・・これも間違いではありません。では人が死ぬ、と言う意味を心の剣の立場から回答をしたいと思います
海老名市には江戸時代に、瑞寿館(ずいじゅかん)と言う医学研究塾がありました。古武道道場のようなイメージがありますが、御典医である半井驢庵(ナカノイロアン)の医学研究のための私塾です。現在の住所で言うと、神奈川県海老名市本郷3881になります。参考(タウンニュウース)https://www.townnews.co.jp/0402/2015/01/30/269752.html検索は「半井驢庵の旧跡(有馬のハルニレ)」で出てきます。この半井驢庵は、一雲の
無想剣は心の剣、と言われています。では具体的に何を言いたいのでしょうか?心は「何か1点だけを以て説明をする。」事は出来ません。多面的な見方で、心を見極める事が稽古です。今回は、その多面的な中から1つを紹介します。孫左衛門は1000人の門弟を抱える剣術道場の跡目候補です。ある時に師匠から刀を渡され、目の前で震えている幼子を斬れ、と命じられました。非情になれる者が跡目を継げる。剣は凶器。狂気になれる者が強者であると。その幼子を斬った時に、免許皆伝