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最初に無想剣に触れる方は、以下のような説明を受けるかと思います。「お相手を敵と思(想)わない。勝とうと思わない、斬ろうと思わない。もし思ったら有心であり無想ではない。」正しい教えです。では「想う事を無くしてはならない。」と言う真逆の説明はいかがでしょうか?無想剣の無想には「想う事の大切さ」の教えもあります。その回答は、あえて投稿しませんので気になる方は、直接聞いてください。
Youtubeを眺めていると「しくじり先生俺みたいになるな!」と言うチャンネルを見つけました。興味のある方は、探してみてください。夕雲流剣術書ですが、これは夕雲先生・一雲先生の失敗段も含めて書かれているように感じます。大悟する前の夕雲。彼は現代で言えば「ヘビー級格闘家」と言うポジションで確かに喧嘩乱闘は強かった事実はあったようです。しかし「心構えが武士ではない。」事が想像できます。若い頃の夕雲の想いを想像すると「俺は体もデカいし、喧嘩も強いし、もし戦
夕雲流剣術書の最初の方に「古の武士は戦場に行く事に対して運と覚悟で臨んだ。」とあります。この言葉は、当時(1700年前後)の剣術道場の事情を説明しなければ、伝えたいことが伝わりません。この頃は、現代の武道と同じく「やれ奥義だ、ほれ免許だ。俺の先祖は何々だ、我が流派の開祖は誰々だ。」このような物がステータスであり、またこの時代の武士もこれを望んで、それらを得て、“さも一流の武士”と思い込む者が多かったからと言う事情があります。だから夕雲先生や一雲先生は「武士は
そんな織田(仮)さんの質問を受けて、無住心剣術の真理谷円四郎義極先生を思い浮かべた。真理谷円四郎義極夕雲流無住心剣術の三代目で江戸時代の剣豪である。伝書では千度不敗の最強の剣術家として知られている。文献は自分の手元から紛失してうろ覚えであるがそれをふと思い出したので、織田さんね、昔の剣術の名人に真理谷円四郎という人がいて、その人は千度試合して、一度も後れを取らなかった人で、しかもその戦い方が、ただ相手に近づきながら剣を引き上げて感じるところにうち下ろすだけというあり得ないほど
無想剣は何かの流儀ではありません。剣の本質の追求です。また一般的な流派との親和性も高い性質があります。例えば、私が以前に経験をしていた英信流。この英信流の技の手順や形を変えることなく、今まで通りの稽古の手順のままに無想剣に向く稽古方法があります。いや、稽古方法と言うよりは5分くらいの説明を聞くだけです。説明の内容も、小学校高学年くらいなら簡単に理解が出来ます。つまりほとんどの人が理解できます。居合型の手順、柄の持ち方、目線、歩法など今まで通りです。
繰り返し書くと「無想剣とは心の剣の境地」です。さて“当て止めの稽古”を続けていくと寸止めの稽古だけでは気が付かない理が現れます。それは、「出来ていない部分とそれを解消する答え」がセットになって現れます。答えがわかるので、簡単に思えるのですが「心の問題」であるため、肉体行や術の繰り返しでは解決しません。要は「解消が難しい心の因果≠業」をどのように向き合い、それを解消するかです。ありていな言い方をすれば当て止めの稽古は「無刀」と言う言葉で説明が出来ま
居合の流派名は色々知っているつもりでしたが、知らない名前の流派の伝書を入手しました。「山之井流」流儀の名称は、山の井水を汲む心による理から来ているとの事です。山之井流の伝書の1部分ですが(意訳あり)居合とは無心であることが書かれており、「太刀を抜こうと考えると、なんだか変な感じで術が遅れ、居合は技だと思うと、心が留まるために太刀が上手く抜けない。しかしお相手を敵と思わなければ(=無敵の境地)、自然と手は柄にかかり、何も感じることなく、鞘と刀は離れる。」これ
林崎敬居合とよ荒れr居合道や居合術を修行されている方は「林崎甚助公は、神社にこもり神からの啓示によってその術理を得た。」と言う伝承を聞いたことがあるかと思います。しかし、居合道/居合術を真摯に学んでいる方ほど「そんな嘘、大げさな伝承など信じない。」となるのではないでしょうか?私も以前は「よくある伝説の類」くらいにしか思っておりませんでした。しかし、無想剣の理解が進むと「林崎甚助公が行きついたかどうかまでは分からないけれど、神からの啓示によって自然の勝ちが生じる剣
数値で物事を判断する事はよくあります。ここで、陸上と水泳。お互いに最高の選手を出し合い100Mを走る/泳ぐ、で競ったら?陸上の世界記録が9秒。水泳自由形の世界記録が46秒。この結果を見て「水泳は陸上よりも劣っている。」と思う人は、あまり聞きません。数字は大切ではありますが、数値=正しさとならない事もあります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・無想剣武術会-藤沢市支部毎週土曜日15:00-17:00亀井神社(神奈川県藤沢
「心の剣と術の剣では会話が成り立たない(立ちにくい)」こんな話を以下のジョークで解説します。ある小学校に視察に来た教育委員会のタナカさん。タナカさんは一人の児童にこのような質問をしました。「なぜ地球儀は傾いているかわかるかい?」すると児童は「ボクがやったんじゃありません。」驚いたタナカさんは担任にこの事を報告すると「彼の言う事は本当です。最初から傾いていました。」ここまでくるとタナカさんも堪忍袋の何とやら。学校長を捕まえて、さんざんイヤミを言って帰っていった
相抜けは無住心剣(夕雲流)に伝わる心の状態です。伝承では夕雲師が一雲と3回手合わせをし、3回ともに相抜けに至ったとあります。そこには勝敗が無いと伝わっております。戦場の相抜けには勝敗があります。しかし勝敗はあって、勝敗が無いのです。戦場での相抜けとは、1,負けた際に勝ったお相手を恨まず勝者を賞賛しこの世に未練を残さずに去る。2,勝っても、負けたお相手を賞賛する。自分もいずれそちら側に行く事を添えて負けた相手を送る。つまり、心の勝敗が無いと言う事です
「武道とは何か?」武道と言う言葉が定義付けられたのは明治です。5つの定義があります。1,国家を守る忠誠心(=国家のため)2,礼儀3,正々堂々4,信義5,質実剛健少なくとも大戦後には「国家のため」と言う部分が無くなりました。また礼儀の相手も、戦う相手などではなく「国家」であり、国家のために礼を尽くし、国家のために正々堂々と生き、国家のために信義を重んじ、国家のために贅沢をしない(質実剛健)。このような意味を含んでいます。国家とは元首や政府の
250年間続いた徳川幕府の崩壊・・・・と聞いても、正直な話対岸の火事くらいです。あまり心に響くことは有りません。しかし、永遠に続くと思っていたモノが突然無くなる事は良くあります。そのモノが無くなった時、昔を懐かしむことが良く起こります。昔を懐かしむのは、齢を取った証拠でしょうか?いや、違います。その事に感謝をしていなかったからです。「いつでもそこにあって当たり前。」と思っていた慢心による後悔です。当たり前と思う事は悪い事ではありません。しかし、感
とある水族館では生餌が必要な魚がいます。その餌にキンギョを用いていました。しかし「キンギョを餌にするのは残酷だし、教育にも良くない。動物愛護に違反する。」このようなクレームが殺到しました。だからと言って、餌を与えない訳にはいきません。そこでドジョウを生餌に与えたところクレームは無くなりました。この話は「モノの善悪を自己の都合(価値観)で判断する。」と言う事です。クレームを入れた人の心情を想像すると・キンギョは可愛いし、ペッ
まず心経とは何か?仏説にある言葉であり、端折って書くと「空」であり「無住」の事です。江戸時代。読み方が同じならば、使われる漢字が統一されていない場合が多々ありました。中には、洒落やもじって違う漢字を使う事もあったようです。私も少しは触れた事のある心形刀流。この流派の第一は“心の状態が剣の動きに現われる”つまり心形=刀法。さらに突き進めていくと心経(空・無)=刀法。これは五輪書の空や、無住心剣と同じです。シンギョウ=心経であることに触れて解説をしている
度々紹介をしているやなせ先生の正義です。やなせ先生の言う正義には「悪」が存在しません。よくある“誰々は悪い奴だ”という例えは出てきません。善と悪の争いがテーマではなく、ただ「飢えている人に一切れのパンを差し出す行為。」これを正義の例として説明をされています。それは、別の言い方にすれば「人に親切にすること。」であり、それ以上でも以下でもありません。ここに悪は無く、悪とは別の言い方をすれば敵。敵がいない・・・つまり「無敵の境地」これが、やなせ先生の正義
居合道と言う範囲で、敬意を払える相手が1名だけおります。どのような人物か?宗家?免許皆伝?高段者?大会で優勝した人?しいて言えば、居合道の技術は可もなく不可もない。(=普通)段位は初段。私よりは先輩でありますが、居合道の先生ではありません。余計な事を書くと技術的な事については、あまり参考にはならないと思います。では何に対する敬意なのか?その人物は「居合道が好きだから稽古をしている。」私が居合道で唯一得られた「心の在り方」です。そう言った意味では、
初伝は、基本的な刀操法、居合の身体的所作のトレーニングであると想像できます。体や技が仕上がってきた次に「心の話」が続くと考察をしています。以下は私的解説になります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・横雲は、横に尾が長くなびく雲です。この尾の意味は「執着」です。執着から生まれる心は、夕雲流で言う畜生心です。執着から生まれた勢いのある剣撃は虎や雷(虎一足、稲妻)に例えられ、そのような見栄えの良さに心を持って
無想剣は「ただ剣を上げて、ただ下す。」これは奥義でも必殺技でもありません。お相手に刀剣を向ければマイナスの因果が発生します。この時に、どれだけ因果を解消できたかを確認するための“秤”が“ただ剣を上げて、ただ下す”と言う動作です。より因果の大きい方に秤は傾きます。(=負け)無想剣の目的は「心の剣の追求」であり、勝敗を第一と考える事はしません。お相手に勝つため、ポイントを奪うための技術ならば無想剣の外を探した方が確実です。また、メールを含めて何人かの方から
英信流に伝わる「浮雲」について私的見解を載せます。本来の浮雲は型や技ではなく読んで字のごとく「空に浮かぶ雲のごとし」と言う心の教えであったと思われます。敵の攻撃を風とするならば、己の心は雲。雲に風を当てれば、雲は風の強さに応じて移動をします。剣であれば、強者の強い剣気を当てることで、浮雲は場を離れ、結果として剣が届かないと言う現象が起こります。なお、この強い風を例えた言葉が颪(冬季に山や丘から吹き下ろしてくる風)です。また雲には感
結論を先に書きます。「大騒ぎする事では無い。」と思っております。世間の非難に負けずに70歳の先生も、高校生もこれからも居合道に精進してもらいたいと個人的には思います。また70歳の先生の高校生に対する責任とは「その高校生に自分の剣の全てを教え託す。」事では無いかと、私は考えてます。たしかに学校内のクラブ活動中の事故で、未成年者(高校生)へ大怪我を負わせたことは正しい指導とは言えなかったとも言えます。しかし、スポーツも含めて事故は起こってもおかしくはありま
槍を稽古していると中には有名な流派の名前を出して「A流、B流、C流、D流などで槍の正しい技術を学ばないと槍の稽古をするべきではない。」有名な槍の流派は、古くから正しい事が伝えられている。だから“それをやるべきだ”、と。このような人に対し、次のような質問をします。しかし次の質問に答えられた人はいません。「石器時代にも狩猟などで槍を用いていたようだけど、その頃の槍の名人は、何流の何免許を受けていたんだ?」または、「戦場にて槍同士で相対した際、お相手の槍の技を見て“
商標を取得したのに・・・・他の団体(個人)から異議申し立て(≒取り消しの要求)が出された例がいくつかあります。でも心配はいりません。簡単には商標権の取り消しにまでには至りません。ある異議申し立てを読むと「感情論」が中心になっています。もう少しわかりやすく書くと「俺がこう思うから、こうあるべき。」感情論の実例として「ほんの一部を」「広く認識」「膨大な資料類が保存されており」「かなりの知名度を有している。」「多くの研究者たち」これらの
窪田清音は幕末の軍学者、講武所の師範や源清磨のスポンサーを務めた人物です。窪田清音の兵法の中には「火縄銃に対して居合術で破る」と言う物があります。本当に出来るのかな?と言う事ですが、ある条件下では出来たと思います。その条件とは?「空砲(和紙を丸めた弾)を込めた火縄銃」失敗しても火の粉を浴びるだけで、さほど危険はありません。そのため、居合側も落ち着いて対処ができます。問題は実砲に対してです。空砲相手の時は達人と言われた人物が、実砲に変わっただけ
色々な説があり、太刀の柄の使い、短刀術や特殊な形状の獲物など、道具が限定されている解説もあります。私の復元した八寸の延金は、太刀の使いだけではなく、槍、薙刀長巻、居合、小太刀、短刀、無刀のいずれでも使用が可能です。しかし技としては“優れた一面を持つ”とは言えるのですが、無想剣の前には‥‥と言う感想はあります。八寸の延金(復元技)は外の道場の師範、宗家の前でも技を見せております。それに対して、マイナスのご意見がない事からも少なくとも術としては
汚れ芸人の代表格と言えば「江頭2:50」嫌いな芸人No1に輝いたこともあります。次に紹介をする動画。東日本大震災の時、ア〇ムから20万円を借りてまで物資を届けました。(我が身を削って、義を果たす。)リアルアンパンマンです。また、動画を見て気が付いたことですが1度も「俺(江頭2:50)はスゴイ。」と言う発言も態度も出しておりません。普通の人は、大抵は“俺はスゴイ”を先に出します。そして何よりスゴイなぁ~と感じたことは「周りの人に助けられた
心の剣と仏説~眼横鼻直~心の剣に関して刀の持ち方は?“龍ノ口を開く!”必要はありません。龍ノ口を開くのは個人の自由ですが、開かなくても心の剣は理解できます。では心の剣における正しい刀の持ち方は?「柄は手で持ち、刃は握ってはならない。」はぁぁ??当たり前だろ?では反対に「何で刀の持ち方なんて“当たり前の事”を聞くの?」眼横鼻直とは、人の顔には「目は横に付き、鼻は縦についている。」この当たり前の事を説いたお話です。無想剣
赤子に帰れ針ヶ谷夕雲先生の興した無住心剣術の教えです。この赤子とは?その実例を紹介します。故やなせたかし先生(あんぱんまん、その他の作家)。やなせ先生の著書「わたしが正義について語るなら」この本に赤子よりは成長した児童の話が書かれています。あんぱんまん。この絵本は今でこそベストセラーですが、出版当時に評論家や出版社からは「絶対に売れない本=ダメな絵本」と言う評価でした。これは大人(知識、立場や先入観など)の意見です。しかし、図書館で真っ
多数の教えのある中で1つを紹介すると「失う事への恐れを無くす。」心身財物への執着があるから損得勘定が生まれ、結果として剣術から算術の心が完成します。算術の心について、夕雲師は「畜生心」と表現をしております。護身や必勝を求める目的で剣術を学んでも少なくとも無想剣は理解することが出来ません。理解が出来なければ、得る事も不可能です。永遠や無限。少なくとも肉体や財物には存在しません。焚き木であれば火によって、その姿を失います。しかし心であれば、それは存在しま
一刀流をイメージで見ると、諸手上段から、身体・技・気を一致させて一刀のもとに敵を倒す。白井亨先生の残された兵法未知志辺の最初の方に「一刀流を称する者は一刀裁断の義に非ず。」と書かれております。つまり、私が書いたイメージの一刀流の姿は白井亨先生の一刀流では無いようです。では、白井亨先生は一刀流を何と言っているのでしょうか?「阿の字」阿の字は“阿吽の呼吸”の阿です。阿の解説は長いので、簡単にまとめると「真面目、華車」です。華車は同じく心の所作だ