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夏~チャイナ神話(11)夏(紀元前1900年頃-紀元前1600年頃)は、史書に記された中国最古の王朝。夏后ともいう。夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』などの史書には、初代の禹から末代の桀まで14世17代、471年間続き殷に滅ぼされたと記録されている。従来、伝...nyabecch.blogspot.com夏~チャイナ神話(11)-チャイナ神話nyabecch.blog47.fc2.com
夏后《かごう》は、瑞高《ずいこう》を迎えるに当って、神業の如くに俊敏《しゅんびん》であった。ところが戦闘態勢《せんとうたいせい》に入ると、自分の野望の先を、余りにも背伸びし、爪先立って見ていた。足元がぐらついていることに気が付いていなかった。まず夏后《かごう》は、初対面の瑞高《ずいこう》を、いつになく信じ切っている。会った時から、味方であると思い込んでいる。それに、渤海《ぼっかい》での魁朝廷軍《かいちょうていぐん》の戦いぶりを訪ねるのがまずは第一であったろうに、それもなかった。
翌日の朝議《ちょうぎ》は、始まる前から、様々な憶測《おくそく》が飛び交ってザワついていた。渭水《いすい》からの報告は、冀将軍《きしょうぐん》のぎこちない話よりは、「帝みまかられる。」という風の噂に勝るものはなかった。今にも、渭水《いすい》に集まった部族たちは、桃林渓谷《とうりんけいこく》に向かうのではないかと持ちきりである。北狄《ほくてき》の金姒老愠《きむじろうおん》は、一旦、砂漠に逃れたので、姫鮮喗《きせんぐん》の評価が高まったとはいえ、朝廷内では全く二分している。さ
渭水平原《いすいへいげん》では、冀将軍《きしょうぐん》と大沈司令官《たいちんしれいかん》が対立していた。冀将軍《きしょうぐん》は、冀鮮副官《きせんふくかん》を通じて、翟阿恵《てきあえ》と和睦《わぼく》を結ぶ準備をしていた。これを嫌った大沈《たいちん》は、司令部を骸隠《がいいん》のいる羌王城《きょうわんじょう》に移して、そちらで指揮を執るようになった。外見上は、冀将軍《きしょうぐん》がいる場所が司令本部で、大沈《たいちん》の羌王城《きょうわんじょう》は前線司令部《ぜんせんしれいぶ
だが、易《い》の卜筮《ぼくぜい》に現れた帝の病は、日ごとに帝武丁《ていぶてい》の身体を虫食んでいった。熱にうなされる日々が続いたかと思うと、翌日は元気になるが、今度は手足がしびれて動けなくなる。常に、額に痛みが走り、吐き気が治まらない。このような状況が、繰り返し襲ってくるので、何事にも集中できない。食が進まないので、頬の肉は落ちて、やつれ顔である。婦好妃《ふこうひ》は付き添って、看病《かんびょう》しているが、薬師《やくし》以外は誰も、その姿を見るものはいないので、帝《てい》
帝にしてみれば、冀将軍《きしょうぐん》を夏后《かごう》の盾として頼りにしてて来ただけに、西戎《せいじゅう》、北狄《ほくてき》の襲撃以上に、夏后《かごう》の心の動きには敏感であった。帝は、冀将軍《きしょうぐん》を呼びつけて、将軍の本心を聞いた。「司馬冀《しばき》よ、日に日に迫る異敵の脅威に、大邑商は、如何《いかん》ともしがたき。雲中城の金一族はなんとか切り抜けたものの、いつまた、襲ってくるやもしれない。それに、渭水の大沈《たいちん》は、西戎の部族を競わせ、よからぬことを企んでいる
辛巌門《しんがんもん》の策は的中した。金拆玄《きんさくげん》は、雲中《うんちゅう》に着くと、城門は開いたままであった。生活の臭いを残したままの城内に、誰も居ないことを確認すると、狂気して喜んだ。拆玄《さくげん》は、直ちに張家口《ちょうかこう》に居座る金一族《きむいちぞく》に早馬を出した。早馬なら日に何度か行き来できる距離である。数日の間は、早馬の往来で騒がしくなったが、いよいよ、北狄《ほくてき》の部族群団が動き始めた。動き出すと止まらない。川を渡って峠に向かう道は、蟻《あり
冀将軍《きしょうぐん》と夏后《かごう》との睨《にら》み合いはしばらく続いていたが、その均衡を破ったのは、北からの攻撃であった。姫鮮喗《きせんぐん》の北狄防衛軍《ほくてきぼうえいぐん》は、山西地域の最北部の城、張家口《ちょうかこう》に前線基地をおいた。秋口から南下する狄族の兵士とよく出くわすようになったのだが、その背後には、寒さをしのぐため、北の砂漠を渡って移動する大量の遊牧民がいた。移動民がどこから現れて、どこに向かっているのかを確かめるため、大規模な探索隊が派遣された
一方、渭水平原《いすいへいげん》にいる大沈《たいちん》は、この所、この親にしてこの子ありと言わんばかりに、性格や物の言い様が似てきた。翟人《てきじん》が大挙して平原に押し寄せてきた時である。「大沈司令官殿《たいちんしれいかんどの》からの、伝令に御座います。」渭水平原《いすいへいげん》から三日ほどかけてやってきた兵士は、馬から飛び降りると、そのまま慌てて城内の夏后のもとへと駆け込んだ。「喪中《もちゅう》の翟族《てきぞく》が、衍馬《えんま》の骸《むくろ》と共に、平原に侵
城内には、黥王《げいわん》が集めた兵士でいっぱいであった。徐娃応《じょあいおう》は、黥王《げいわん》に代って、各地からの援軍の整理を行っている。最初に入城した部隊から声が響いた。「わが頭《かしら》、山東の宇林扁兜《うりんへんとう》から黥王殿《げいわんどの》への伝言で御座います。「黥王殿《げいわんどの》に船五十、兵五百を送ります。女残城《にょざんじょう》の奪還《だっかん》を祈る。婦玲殿《ふれいどの》、徐伸殿《じょしんどの》をお守りください」とのことで御座います。」さらに次の部
臨《りん》は、意気揚々として、夏后《かごう》のいる陽城《ようじょう》へ向かった。よほどの達成感があったのであろう。城門に着くと、衛兵に向かって、居丈高《いたけだか》に見下した物言いをした。「女残《にょざん》の臨《りん》が報告に参った。夏后殿《かごうどの》にお目通りを戴きたい。」ところが、衛兵には、日頃から、「その様な物言いをする者は、日頃、夏后《かごう》をそのように見下していると思え。決して通してはならぬ。」と訓練されている。「はて、夏后殿《かごうどの》とはまた、ど
この男は、陽炎《かげろう》の如くに、ただ、ゆらゆらとして存在感がなかった。子鄭昊《していこう》の命令を聞く以外は、ほぼ、ほかの者の前には現れない。恐ろしき裏家業の者である。骸隠《がいいん》は、西戎《せいじゅう》の輩《やから》に内部分裂を起こし、生き方も考え方も違う戎族《えびすぞく》を恐怖のどん底に貶《おとし》めようと考えていた。羌族《きょうぞく》は、渭水平原《いすいへいげん》の最も中心地帯を占拠し、城郭《じょうかく》を構えていた。東の渭南は、同じ羌族《きょうぞく》の羌盤《き
副官、子鄭昊《していこう》を朝歌《ちょうか》に差し向けたのは、もちろん、大沈《たいちん》の考えではなかった。これまでにも、捕虜を捕らえて、戎《えびす》の性癖を分析したり、逸《はや》る気持ちを抑えて、敵の戦術をじっくりと観察させたりしたのは、骸隠《がいいん》の指図であった。骸隠《がいいん》は、二歳の時に戦場で宣陶《せんとう》に拾われ、以来、夏后《かごう》の影武者の如くに立ちまわり、参謀《さんぼう》にまで上り詰めた男である。夏后《かごう》は、大沈《たいちん》が西戎討伐軍《せいじ
大沈《たいちん》はすぐさま、冀将軍《きしょうぐん》に対して「衛司令官《えいしれいかん》、戎《えびす》の暴漢に襲われて死す。」との伝令を送り、その直後に副隊長の子鄭昊《していこう》を使者として朝歌《ちょうか》に送った。子鄭昊《していこう》は、すでに、報告を受けていた冀将軍《きしょうぐん》の前に出た。「夏大沈《かたいちん》隊長《たいちょう》からの伝言をお伝えに参りました。冀将軍《きしょうぐん》には、嫡男、衛司令官殿《えいしれいかんどの》を失われたばかりで心が痛みます。」と、深々と頭
夏越祭祀《なごしさいし》で、朝廷役人との賄賂《わいろ》を暴かれた甲家《こうけ》の夏宣陶《かせんとう》と乙家《おつけ》の子文趙《しぶんちょう》は、その夜、夏越祭祀《なごしさいし》がまだ終わらないうちに、かつて夏王朝の都とされた陽城《ようじょう》での謹慎を命じられ、身動きが取れなくなった。だが夏宣陶《かせんとう》は、その位で諦めるような男ではなかった。すでに、渭水平原では、西戎が方々から朝廷軍に襲い掛かって、西の護りは崩れかかっていた。夏宣陶《かせんとう》は、朝廷軍、衛《えい》司