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お米食べずに何日くらい過ごせる?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう楽勝ですよ平気平気何日でもOK米汁をダメっと言われたら麦汁がある芋汁もあるぞ米はなくても生きていけます欧米かっではなくノンベイかっ\(^-^)/日替わりランチです豚肉のピカタしそこんぶのピーマン炒めあんかけシュウマイきゅうりの和え物昨日はお好みパーティーでした広島焼きですなんやかんやと毎日お祭りです(笑)今日の日めくりカレンダー「敵
朝9時からのドゥーラの講習会にでるために宿泊していた名古屋でピンと降りてきたひらめきそういえば夫の家系に浜松(かなり豊橋より)があって。。江戸時代そこで塩商人が集まっていた塩町というところでかなり発展していた家だった塩町で調べると松尾神社のサイトに塩町塩商人たちが町に住んでいたため「塩町」と呼ばれました。江戸時代この町しか「塩市」が出来ませんでした。この町に住む商人しか売買ができなかったのは、徳川家康の
日本海側は大雪のようですね。寒いです。「敵に塩を送る」逸話のウラ話に迫ってみたいと思います永禄10(1567)年、信玄は当時同盟していた駿河の今川氏真との関係を悪化させていました。そのことにより、氏真は信玄の甲斐国への塩の供給を止めてしまったのです。甲斐といえば内陸の国で海がないため、当然、塩が採れません。そのため、塩はすべて駿河湾で採れたものを今川氏を通して買っていました。塩は人間の生命維持に必要不可欠なもの。食料の長期保存にも役立ちますから、これがなくては本当に死ねと
鎌倉七口あさひな切り通しあさひな側から鎌倉に向けて出発久し振りの山越にワクワク入ってすぐお出迎えの方々あり切り通しは岩肌も荒々しくまず熊野神社にご挨拶10月だというのに紫陽花が咲き蝉が鳴くどこまでも続く悠久の歴史の道掘られた石仏の足元には石がつみあげられている祈りの場だこれは塩舐め地蔵金沢から鎌倉に行く塩商人無事を祈り行きに塩をあげる帰りには無くなっているだから塩舐め地蔵湧き水も豊富で峠の茶屋では牡丹餅が名物だった約一時間の旅で鎌倉
前回まではこちら⬇️目次世は群雄割拠の戦国時代。わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。綱成(つなしげ)は塩商人の一行に紛れ、甲斐国の武田信玄(たけだしんげん)の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に入りました。綱成さんは忍びの美咲(みさき)さんと一緒に商人に変装したんだよ。綱成「これが信玄のいる館か…。」綱成は商人らと一緒に塩を勝手口に運びました。ふと見ると館の敷地内に稲が育った田畑があったのです。綱成は勝手口にいる武田の侍女に尋ねました。綱成「敷地内に田畑があるとは…いかが
つい見ちゃうテレビ番組ってなに?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようテレビ番組?気がついたときはテレビショッピングしかやってませんよ暇があるときはブログ見てるか寝る朝のニュース番組は見ます世の中の動きと話題作りのためにこれは見ないとね天気予報もチェックですよお休みの時以外はテレビつけっぱなしですドヒャ~休みないけどね_(^^;)ゞ今の時期だとフィギュアスケート羽生くんは見ちゃいますか~彼は必ず演技の前に気を入れるんですが入るときと入らないときが
☆鏡開き☆塩の日☆樽酒の日1569(永禄11)年、武田信玄と交戦中の上杉謙信が、武田方の領民が今川氏によって塩を絶たれていることを知り、この日、越後の塩を送ったとされている。とありますが、史実では上杉謙信が武田方に越後の塩商人を送り、高値で塩を売りつけたという話が、気がつけば美談になっていたそうですわ。今川方というか駿河の塩商人からしたら、販路も買い手も潰されたんですから、ごっつい迷惑ですよね。商売を政治の道具にするのはどうかと思うんですが、そこはなあなあで繋がってますか
「皮包水」の蟹黄汤包を食べ、「水包皮」の温泉にも浸かり、今回の目的は達成。帰りには、痩西湖と並ぶ楊州の世界遺産「个园(個園)」を見学した。蘇州の庭に似てますね。「个园」は、裕福な塩商人の大邸宅である。楊州は、古くは西安や洛陽と並ぶ3大都市だった時代もあるくらい、栄えに栄えた土地で、それは中国の「塩商人」たちの本拠地だったからだ。塩の生産は、近くの盐城(塩城)で行われ、それを売りさばく商人たちは、みんなここ楊州に結集していた。(ちなみに、塩城での塩生産の歴史は古く、春秋戦