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先週月曜から昨日日曜までグッタリ死んでたしかしもう、今までの自分に別れを脱け出せないこの蜘蛛の巣を払おう生まれ変わった新たな世界へ…今日もポケスト探し遠くに見えたお地蔵さんを探そうちなみに今日は塚口にいる途中見かけた祠塚口城東門跡何故高いところにあるのかというと、かつて塚口城の周囲を巡らせていた土塁の名残の一部塚口城は、信長に謀反を起こした伊丹の有岡城城主荒木村重の城でもある堀の跡など一部だけ名残をとどめているこの謎の石も当時を伝える何かなのだろうか?阪急塚口の周囲は区
現存しているものとしては塚口城の門跡と祠、最後のひとつです。また背後から来てしまった。祠の背後に木という巳さんぽい感じ。覗いて確認したかったのですがら門が閉じられてました。ズーム注連縄以外確認できん。手前の石造物の残骸は檻の中。すぐ近くにもお地蔵さんコーナー。一応、尼津彦眼でスキャンしますが、これといって無さそうです。もひとつ地蔵堂これにて塚口城の門を守護する祠巡りは終了です。闇雲にエリアや沿線で小社巡るよりも、こういった意図のあるものを巡るほうが、計画立てやすいし、数
お次は東町門跡に向かいます。見えてきたのは、清水町門跡のと同じように小山のようなとこに鎮座しているお社でした。お城の周りですから濠とかあって、これは土塁の名残だそうです。お城興味ないので土塁とかってピンと来ませんし、これらの祠の裏とかに濠跡とかあったらしいのですが、全く気づきませんでした。そもそも塚口城なんてあったって、最近知りましたからね。ていうか、尼崎市民で塚口に城があったなんて知ってる人ほとんどおらんのちゃうかって知名度ですよ。東町門跡の祠ちゃんと土塁
塚口城跡の北東方向を護る祠に向かいます。先に言っておきますと、現存する祠は、北、東、南、北東です。西側にもあったと思うのですが、情報もないので定かではありません。あったと仮定して、東西南北ともうひとつ北東ってことは鬼門守護でしょうね。現在の位置関係だと鬼門から少し外れてますけどね。裏から。古墳とか首塚とかそんな感じ雰囲気ですね。え!?卍あるよ。ここもお地蔵さんかと、正直がっかりしました。お地蔵さんが悪いわけではなくて、僕が期待しすぎていただけなんですけどね。一応中覗い
昨日の記事で、なんで城跡なん?って思われた方もおられると思います。そりゃそうですよね。僕、お城そんなに興味ないですからね。そう。城が目的じゃないんです。目的は城を守護する祠。塚口城の城門にはそれぞれ祠があって、現在も存在してるという情報をキャッチし、参上したというわけ。お城は無くなっても、祠は今も無き城を護っているということ。これ犬とかだったら、悲しい忠犬の話になっているところです。さて、まず最初は塚口城の北門守護から行ってみましょう。こちら。田舎のバス停の待合室みた
地元尼崎での散策の始まりです。すっとチェックしてたのですが、空堀界隈があまりにも手強くて後回しになってましたが、短時間しか空きのなかった休日に、行ってきました。まずは正玄寺から。真宗興正派の寺院で、興正寺塚口別院とも呼ばれています。本堂かつては塚口城があり。後に塚口御坊と呼ばれ一向一揆の拠点となったそうです。ちなみに塚口は環濠集落でした。そんなことが書かれてるのかな?読んでないけど。和式トイレ形の石造物船形の石造物鐘楼ずっと街中小社
いや、まだ終わりませんよ?もう少しお付き合い下さい。二つ目は、有岡城から南に行った所にある尼崎市の塚口城です。有岡城は阪急ではなくJRの伊丹駅が最寄りですが、こちらはJRではなく阪急の塚口駅が最寄りです。電車でこの二城を行き来する場合はお気を付けを。それはさて置き、塚口城とは。元々は真宗興正寺派の塚口御坊の寺内町でした。但し、元々この地は寺内町として建設されたのではなく、天文一向一揆を契機に寺内町になったようです。時は流れ、遅くとも前述の有岡城合戦(討伐戦)の際には確実に、ここは城郭
名前も分からず、調べようとも思わなかった葉昨年の暮れにふとそこに咲いていた花を思い出した。曼珠沙華彼岸花彼岸花はまず花が咲いて、それが枯れてから葉が育つ。狐の剃刀は4~7月に葉が育ち、それが枯れてから花が咲く、といわれる。しかし彼岸花も葉が出、葉が育ちそれが夏前に姿を消してから秋に花が咲くと言えなくもない。学年末試験準備中故、一人だけで散歩。冬桜通りは塚口郷の南の端沿いの道と言える。現在は車が余り通らない(東から西へ抜けづらい)が、広い道路に変身している。変身と
昨日は尼崎市にお出掛けしました昨日の記事では先に上坂部西公園の記事をアップしていましたが、今日は朝一番に訪れたところの模様を記事にいたします。昨日朝一番で向かったのはJR塚口駅から阪急塚口駅に向かう途中にある、塚口城跡です。塚口城跡は室町時代から戦国時代にかけて文献に登場する、中世城郭だそう。この地は最初寺内町として発展し、応仁の乱の時に塚口御坊を中心に一揆衆が立て籠もり、寺内の周囲に土塁と環濠を巡らせ、一つの防衛施設を形成させたそうで、これが城としての機能を有するようになった始まり