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4月1日、またまた栃木県宇都宮市へ行ってきました。最初に訪れたのは住宅地にある「塚」です。↑御上人塚、南東側より一辺約20メートル、高さ約1.5メートルの方形。江戸時代後期~末期の塚。場所はこちら:36.573721,139.905198↑フェンスで囲まれているので「塚」に、これ以上近寄れません。↑塚の上に「御上人塚」と刻まれた石碑がありますね。↑北東側から
お昼休み、お昼ご飯を食べる前に大原稲荷神社参拝にあがりました御祭神ウカノミタマノミコトお向かいに警察署や日本初の市街地小公園(坂本公園・明治22年開設)があり、人通りはとても多いので参拝しているとちょっと目立ちますそして、滅多に参拝客と遭遇しません拝殿裏の富士塚のような塚と御神木の銀杏さらに裏の川からドブ臭い臭いがして微妙な雰囲気に・・・気を取り直して、坂本公園でお昼休憩をとりました坂本公園の桜そろそろ満開を迎えそうです
1月8日に訪れた千葉県芝山町にある古墳、続きです。↑谷津古墳群は前方後円墳1基、円墳1基からなる古墳群です。↑赤い〇の中、台地の縁辺部上にあるのが谷津1号墳墳長30メートル、後円部径18メートル、後円部高さ2.3メートル、前方部幅20メートル、前方部高さ1.7メートルの前方後円墳。場所はこちら:35.700161,140.422052↑西から近づいてみましたが、藪がきつくて、これ以上進めず。全く写ってませんが、手前に前方部、奥が後円部。↑
以前、木下街道沿いに建つ「徳本名号塔」又は「徳本念佛供養塔」と称される和歌山県出身で江戸時代後期に活躍した徳本上人と関連する石塔について紹介しました。この石塔のある場所と木下街道を挟んだ反対側に白井第一小学校がありますが、その敷地内に「上人塚」という塚があります。「上人」の文字が示すとおり、徳本上人に関連する塚とされています。塚の裾には白井市教育委員会が建てた説明看板があり、それによると平面は29m×25mの長方形、高さは最大で3.55mとなり、白井市内では最大級の規模(推定規模34m四方
★イラスト・伝説シリーズ《城内の塚あれこれ・茶枳尼天》伝説シリーズ第3段です。どこの地域にも昔からの伝説・物語があるものですが、私の住む地域にもいくつかの伝説があります。あるとき、そんな伝説を地域のお年寄りから作文してもらい、イラストで紹介するという企画がありました。そして、私がイラストを描くことになり、しばらくの間描いていたことがあります。今回は、その時のイラストを紹介するとともに、伝説も掲載します。★伝説シリーズ《城内の塚あれこれ・茶枳尼天》紙にサインペン・水墨(19
先日、久々に茅場町駅近くの大原稲荷神社に参拝にあがりました御祭神はウカノミタマノミコト警察署のお向かい建物と建物の間の小さな神社御神木の銀杏の木も窮屈そうですでも、です裏に通じる小道があって、そこを通れば・・・不思議な空間富士塚なのでしょうか岩山と呼ぶ人もいますただ江戸後期の絵図には、大原稲荷神社の記載があったそうなので、富士塚じゃないかな、とわたしは思っています富士登山は江戸庶民の夢でしたから・・・
どーも、castom98です。今回ご紹介いたしますのは、島根ツーリング中に発見した史跡、美人塚です。訪問したのは2023年10月ですので、現在では状況が異なっている場合がある点をご了承ください。何も無い田園の中に突然現れた美人塚。実は最初は古墳だと思ってました・・・(汗美人塚自体は直径5mほどの塚。五輪塔?が建ってます。言い伝えによると、大江美人は夫と二人暮らしていたが夫は畑仕事の間も妻を想い、妻の絵姿を掲げて作業をしていた。ある日大風が吹いて妻の絵が飛
1月2日に訪れた千葉県市原市の古墳をアップします(この日は江子田古墳群31号墳を訪れてます)まずは「米沢の森第1駐車場」を目指したのですが、その直前・・・・↑古墳のようなものを発見場所はこちら:35.401102,140.150570「ちば情報マップ」によると細見塚(さいみつか)とありました。時代は「近世」とのこと。あらためて「米沢の森第1駐車場」に車を停めて境部田岱(さかいべただい)古墳群を目指します。↑こんな山道を歩くこと数分↑
神祠(万葉歌「櫻兒伝説」、娘子塚)大和国高市郡奈良県橿原市大久保町405-3(住所は隣接する「大久保町公民館」のもの)(周辺に停め置き可)■祭神娘子万葉歌にある「櫻兒伝説」、その櫻兒の墓と伝わる小さな「娘子塚(をとめづか)」の頂に鎮座する神祠。◎万葉歌は二首あります。まず一首目。━━春さらば挿頭(かざし)にせむと我が思(も)ひし桜の花は散り行けるかも━━(巻16-3786作者不詳)意訳/「春になったら挿頭(妻)にしようと思っていた桜の花は散ってしまった」◎二首
☆伝物部守屋墓河内国渋川郡大阪府八尾市東太子2-9-9(P無し)蘇我氏との宗教戦争に敗れた物部守屋を葬ったところと伝えられている地。この辺りには「弓矢塚」「弓代塚」「守屋首洗池」「聖徳太子古戦場」「稲城跡」など、生々しい痕跡が半径100m足らずの中に集中しており、また守屋所縁の地も多く存在します。ここで本当に最期を迎えたのであろうかと。物部氏は崇仏派の蘇我氏との争いに敗れたとされています。この宗教戦争は「丁未の乱」と呼ばれ、用明天皇二年(587年)のこと。おおよその経緯は以下の通り
八戸市内の古墳、塚、遺跡などを浄霊したときに369アートを使っていました。その時、外出したらジェット型UFOが突然姿を現しました。ジェット型は上に上にと移動して突然姿と音が消えるのが特徴です。●●型UFOが出現したら、浄霊やってるよーとか終了のお知らせ。369アートは369の世で使っている科学技術のアートです。123、456の世界(次元)をひと飛び~そんなケタ外れのアートだからできるのです。ちなみにマグネトロンアートやその他のアートも同じ理由で369
☆太安万侶墓伝承地(田原本町多)大和国十市郡奈良県磯城郡田原本町多古事記編纂に携わったとして知られる太安万侶。その伝承墓が田原本町「多」にあります。5m程度の小円墳。田の中にあり、耕作者が代々大切に守ってきたようです。ところが奈良市此瀬町より、銅製墓誌、遺骨とともに太安万侶墓が発見され、そちらが確実なものとなりました。太安万侶は多氏の末裔で、壬申の乱で活躍した多品治(オホノホムジ)の子。多氏の総氏神は多坐弥志理都比古神社(多神社)であり、かつての神域内に太安万侶を祀るという小杜
こんにちは。今日の朝は地震もあったためかそのあと二度寝をしてしまい寝坊をしてしまいました(>_<)だんだんと日の出も早くなってきているのとお日様も東南から東の方にうつってきて顔を出すようになってきてどんどん日の光「陽」のパワーが強くなってくるのを感じる今日このごろです。もうそろそろ東京の梅の花もおしまいに近いですが、こんなところに行ってきました。ここはどこでしょう?ここは「東伏見稲荷神社」です。関東地方の稲荷信仰の人たちが東京にも京都の伏見稲荷大神の
紙兎ロペ背景撮影場所ロケ地現場訪問5190令和4年12月30日。拝島駅からの旅その3。前回。#けやき#樹#棒#街の鳥居#赤い壁#塚#鉢#ビニールハウス#家#松ぼけました。#街影#野辺町#町内会#梱包#梱包#いぬくそ看板構いませんが。#交通安全#きらら@kilarla_yohaku#野辺#ちょっと#福生警察署#一瞥?#一声?つづく。
過去に誰かを祀った場所等で、言い伝え等が途絶えた場所等に家や会社を作る場合、特別な祈祷等をせずに作り、霊障や障りが生じる事例が起こっているとの事です。例えば人柱があった川や池を埋め立てて使ったりする場所、海を埋め立て使う場所等には、特別な祈祷が必要な場合があるとの事です。その際、伝統的な宗教団体に依頼をする様にと伝わります。何故、伝統的な宗教団体に頼まなければいけないか?昔は天皇家に許可を貰い、特定の土地を治めていました。日本の国の在り方が、現在と違います。
そういえば京都に行った時、明智光秀の塚に行ったので写真を貼ろう。柳がそよそよして雰囲気のいい川カモ場所はこの辺。結構入り組んだ普通すぎる住宅地の片隅にポツンとあった。明智光秀がアレやってなかったら今の日本はどうだったんだろう。歴史に「もしも」はない、と言われるけどつい思っちゃうな
今日アップするのは昨年10月24日に訪れた古墳です。↑下古山北原古墳直径20メートルちょっとある円墳。場所はこちら:36.465716,139.870057古墳なう下野市「下古山北原古墳」gogohiderin.blog.fc2.com↑ご~ご~ひでりんさんの記事を参考に訪れました↑南東側よりかなり立派な墳丘で、大切にされている印象を受けました・・・・↑「古墳」ではなく「塚」っぽい印象もありましたが・・・・↑墳頂には真新しい祠
今回、結縁寺に行ったとき途中コスモスの畑の中に前回見落としていた、大日塚を発見つい、サンダルで駆け上がってしまった塚の上にあるのは、大体出羽三山の碑だが、中に一つだけ、大日如来の真言が刻まれている石仏があり明和2年(1765)結縁寺村同行28名により造立されたもので、近隣に類例をみない貴重なものであると案内板にはある。何故塚が造られたのか等は、特に書いていない。以前にブログに上げたのだが、近くに頼政塚と言う塚があり、頼政講と言うのがいまでも行われており、大日塚に11/8に梵天建てと言う行
牛の宮(大和郡山市池之内町)大和国添下郡奈良県大和郡山市池之内町野神326(社前道路はかなり広く短時間なら停め置きできると思います)■祭神牛ともに南北に流れる「佐保川」と「富雄川」との間に挟まれた低湿地帯、かつての添下郡「池之内村」(現在の大和郡山市池之内町)の集落外れに鎮座する社。◎当社は稲作の守護神を祀るいわゆる「野神」の一社。詳細については案内板を写した下部写真にて割愛します。◎現在は「しんこ(団子)」は各自集会所に取りに来るようになっているとか。16歳になる男児がいなく
もぐら退治。春先から新規のもぐらさんがいなくなって、そこから怒涛の仕事量アップ‼️で、久々にもぐらの塚を発見。仕事をサクッと終らせもぐらトラップを仕掛けました。今回は、塚が1つだけだけどここはもぐらの通り道になってます。この通路で何匹のもぐらを捕まえたことか。もぐらを1匹捕まえるともう1匹捕まることがあります。ツガイですね。夫婦かな?塚は、新しい塚にトラップを仕掛ける事。雨の跡があったり古いよりは真新しい塚に仕掛けましょう。あとは、どうもぐらが動くのかを想像するしかありません
神奈川県平塚市の由来→2つの説があり‼️。①・この地で亡くなった高見王の娘の政子を悼み人々が築いた塚がいつしか平らになり「平塚」となる。②・この政子が桓武平氏の租とされる高望王の妹にあたることから平家にちなんで「平塚」となる🤔。
冒頭に取り留めのないことダラダラ書いてたんですが、長くなってきそうで更新間に合わなそうなので、後日にします。早速、高槻の神社巡りの続きいきますね。ちっこいとこやと思ってたのですが、そこそこの大きさです。鳥居稲荷神社ですが、地名を冠して、歩人山稲荷神社と呼ばれているのてしょう。末社の塚群が気になります。社額社業がアジャリの森と呼ばれてるのかな。詳しく読んでませんけど。鳥居をくぐっていきます。手水舎井戸かと思ったら、どんど用のものっぽいです。拝殿格子から失礼します。覆殿そ
最近全く時間がなくてブログも書けず、見にも行けません。まだ夕飯食べてなくてお腹が空きましたが、このままではいつまでたっても書けないので思い切って今書きます。柏のむかしばなし~念仏塚~から始まった柏の塚を巡る企画…2回目は藤ヶ谷十三塚。国道16号から近いです。大きなゴルフボールがあるゴルフ場の裏。自分はなんと自宅から歩いて行きました。1日26000歩も歩きました。徒歩で到着、入り口です。三差路の交差点にあります。ここから畑の横の道を入っていきます。秘境的でワクワクします!森に入っていき
八幡神社(大和郡山市本庄町)大和国添下郡奈良県大和郡山市本庄町10(社前道路はかなり広くなっています)■祭神誉田別命大和郡山市の郊外、「本庄町」に鎮座する社。扁額には「八幡宮/熊野神社」と2社記されますが、登記は「八幡神社」。◎創建由緒に関する資料は見当たらず不明。八幡神を祀る所以はよく分かりません。認められる最古のものは寛政八年(1796年)銘の石灯籠。杉町の八幡神社は当社から分霊されたとのこと。そちらは洪水で村ごと流され、現在地に移住。その時に創建されたようです。◎境内隅の
昨日書いた「塩どっけ」のすぐ裏なので連続して書きます。今年は花粉が飛び始めるのが遅いような?毎年2月後半には症状が出始めていたような気がする。先に薬はもらってきたので準備は万端です(^ω^)柏のむかしばなし詳しくは投稿をご覧ください。kankou.kashiwa-cci.or.jp南部のお話むかし、藤心村におともの者をつれた、お坊さんが通りかかりました。とてもりっぱなお坊さんでしたが、顔は悲しそうに沈んでいました。それは、はやり病いがおこっていて、村の人々がたいそう苦しんでいた
瀬織津姫は「縄文の姫神」!『秀真伝』ではアマテルの后神。秀真伝の前半は、大物主櫛甕玉命の作で後半は三輪臣→大直根子命の作だというそして、大直根子によって景行天皇に献上された(『エミシの国の女神』より)大物主櫛甕玉命、大直根子命は三輪氏であり大物主こそアマテルと主張した鈴鹿市に石大神なる堂々たる大岩がありその遥拝する場所を祓塚という天保年間、この場所に椎の老樹が生い繁り里民が誤って切ったところ忽然、叫んで倒れた→祝応仁の頃、この塚を開こうと掘
2022年1月28日。浪江町大字権現堂について研究中の西村慎太郎です😊ここのところ権現堂村絵図の分析を進めていますが、YouTube版「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」第11回目を配信しました😄第11回目は「まぼろしの「新谷塚・半谷塚」」です。「新谷塚・半谷塚」についてはこのブログでも触れていますし、拙著『「大字誌浪江町権現堂」のススメ」(いりの舎、2021年)にも掲載されています。調査日誌(勉強中)52日目-新谷塚・半谷塚-調査日誌226日目-『東奥標葉
歴史上の旧跡の一つに塚があります。一里塚、男塚等たくさんあります。下記の写真で大崎市内に有る塚が1つあります。ヒントは市内でも南の地域にあります。近郊ではこれにまつわる旧跡がたくさんありますね。なおアルバムや映像等は「大崎バックグランド」内の【大崎検定問307(初級編)大崎市内の旧跡の塚はどれ?】を参照願います。