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用事がありまして遙か彼方の故郷新発田へ新発田駅なんぞ結婚前以来だぞ車なんて乗ってたら駅を利用することなんてなかったからねぇ切符の買い方もホームへの行き方も全くと言っていいほど知らなかったのに今では余裕なのさ初めてのところはまだドキドキだけどさと脱線そういえばホームの移動って階段のぼってが多いじゃない?じゃなきゃホームが2階にあってとか新発田は地下道の移動戸惑っちゃったわよ駅を出て目的地まで歩きだったんだけど悲しいよね駅通りはほとんどシャッター塾か保険会社がち
『血煙高田の馬場』映画無声白黒六分版が現存昭和三年(1928年)三月十五日公開制作日活太秦原作・脚色伊藤大輔撮影唐沢弘光出演大河内傳次郎(中山安兵衛)実川延一郎(菅野六郎左衛門)市川春衛(お勘)尾上華丈(左平次)尾上桃華(半次)嵐玨松郎(村上庄左衛門)本田繁一郎(武林唯七)浅見勝太郎(岩切半三郎)尾上卯多五郎(堀部弥兵衛)木村千代子(幸)沢村春子(お加代)東木寛(八さん)監督伊藤大輔
身代わり忠臣蔵世の中が平和になった江戸時代の1701年、江戸城内で赤穂事件が勃発。この赤穂事件を歌舞伎などで描く際に忠臣蔵と呼ばれる。1701年、第五代将軍・徳川綱吉の時代。江戸城内での旗本・吉良上野介(きらこうずけのすけ)が赤穂藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)に対してパワハラ行為。怒った浅野内匠頭は江戸城・松之廊下で吉良上野介を切りつけて重症を負わせる。徳川綱吉は浅野内匠頭に切腹を命じ、赤穂藩はとりつぶしに。赤穂藩に残された大石内蔵助(おおいしくらのすけ)らは、
今日は、あの「忠臣蔵」をベースにコミカルに製作された「身代わり忠臣蔵」を観てきました。なんと、同名小説をムロツヨシ主演での映画化したものなのですよそれと後半は、歴史探訪してきた本物の大石内蔵助、浅野内匠頭が眠る「泉岳寺」のことを綴っているので、興味のある方は覗いて行ってください・・・(笑)これは映画のポスターMOVIX川口久々に行ったらスナック関係はタッチパネル注文方式に変っておりましたよ。人手不足が、ここにも感じられますね・・・確かにスタッフの人数が減っていました映画が上映さ
毎年12月になると、テレビ等でよく放映されるのが忠臣蔵。そこに登場する四十七士の中で、大石内蔵助に次いで名が知られているのはたけつね堀部安兵衛武庸でしょうか。その大きな理由といえる有名な〝高田馬場の決闘〟があったのが、今からちょうど330年前の今日・1694(元禄7)年2月11日のこと。菅野六郎左衛門と村上庄左衛門の両者が、ふとした諍いから斬り合いとなったわけですが、ここで助太刀として登場したの
昨年末から泉岳寺駅にご縁があって、何度か行くことがありましたですが、駅には用事があるものの、なかなか泉岳寺にお参りする機会がなくてそれが先週、約束の時間に少し早く着いたので、念願の赤穂義士の方々のお墓参りをすることができましたドラマや物語としてはよく知っているものの、こうして直接ご墓前に立つと、ほとんどの方が二十〜三十代、中には十代の方もいらっしゃいます筆頭家老の大石内蔵助さんでさえ44歳という若さに胸が締め付けられます実は、フロックが入っているビルの一階には、小倉屋さんという
2023年12月9日都営浅草線の中延駅から4番目の駅が泉岳寺駅です。この駅で下車して、泉岳寺を訪ねてみました。泉岳寺駅から徒歩3分程で中門に着きます。泉岳寺の山号は中門の扁額にさらに山門があります。大石内蔵助の像この寺には赤穂藩主だった浅野内匠頭の墓と赤穂浪士四十七士の墓があります。赤穂浪士討ち入りの日は12月14日です。今日は12月9日ですから14日は間もなくです。14日には義士祭が開催されます。境内図山門横の通用門から参内します。本堂
先日、赤穂義士討入り後の引揚げのルートを歩いてみました。尤も泉岳寺まで歩き切る自信はなく、しかし虎ノ門の仙石藩上屋敷跡までには到達したいと思い出掛けた。ブログをアップするにあたり文学博士•渡辺世裕著『正史赤穂義士』を参考にさせていただきました。•浪士の集合一同は思い思いに最寄りのところに集会し、夜半までの時を過ごし申合わせに従って十四日夜半までに…内々定めておいた堀部安兵衛宅及び杉野十平次宅に集まり、支度を整えて、前原•神崎の宅に集合、そこから出発することになるので
赤穂事件(演劇群忠臣蔵)で知られる赤穂浪士が、江戸の吉良邸(東京都墨田区両国)に討ち入りした日(1720年(元禄15年))とされる今日、新潟県新発田市(越後国新発田藩)では堀部安兵衛(中山武庸)を偲ぶ『義士祭』が行われました。堀部安兵衛(中山武庸)の縁の地・長徳寺では、地元の剣道教室に通う47人の子供たちが討ち入り装束に身を包んで集まり、太鼓に合わせて勝ち鬨を挙げている様子がニュースで放映されていました。なお、新潟県新発田市議会では、7日(木)には市長や議員などが討ち入り装束を模したハッピを
『はんぺいたまる』です。新発田市の「長徳寺」で、「義士祭」をやっていました。「堀部安兵衛」の生家、中山家の菩提寺です。「義士堂」も見学です。赤穂浪士の木像が、収められています。「討ち入りそば」がいただけました。歯ブラシも、もらえました。温かくて、美味しかったです。その後、余っていたそばを勧められ、2杯目です。消毒ボトルも、いただけました。美味しかったけど、2杯目はキツかった。【過去の関連記事】・「長徳寺」で「義士祭」を見ました
明星院広島駅の北、二葉の里は散歩するのによいところです。七福神巡り(7社寺巡り)もできます。その一つ、明星院は広島藩主3家(毛利輝元、福島正則、浅野歴代)の祈願寺でした。「臥龍鳳雛(がりょうほうすう)松」刻まれている石は伊予から運ばれた青石。境内には沢山の青石がある。「赤穂義士香盤」赤穂義士木像表門隊この寺には明治時代に彫られた赤穂義士像が保管されている。像の高さは70cmと大きなもの。原爆の焼失から逃れています。見学させてもらいました。本堂脇陣の右側
赤穂浪士の討ち入りが近いのか今夜はBS朝日で忠臣蔵をやっています。やはり見てしまいます。私は祖父の影響なのか、時代劇が大好きです。特に忠臣蔵と新選組がとても好きです。忠臣蔵はたくさんの作品がありますが、どれもとても好きです。私の今年亡くなった父と祖父は同じ誕生日で、忠臣蔵の討ち入りとほぼ同じ日の誕生日でした。そういうこともあって、雪が降る12月の中旬には、よくテレビで忠臣蔵が放送されていました。小さい頃から忠臣蔵は夢中になって見たものです。確かに
「派閥パーティーは当面自粛」岸田総理指示(12/7)自民党の派閥の政治資金パーティーをめぐる問題を受け、岸田首相は自民党幹部に対して、派閥の政治資金パーティーや忘年会・新年会の開催を自粛するよう求めました。【裏金疑惑】の捜査は、これから山場を迎えます。現在、東京地検特捜部は裏金疑いのある安倍派所属議員の『秘書』に対する任意の事情聴取をしていますが、12月13日の臨時国会閉会後にも、【議員本人】に対して聴取を始め、全容解明を進めるものとみられています。(参考)「派
2023年秋日本海側からちょこ〜っと函館へ渡り太平洋側の東北地方をぐる〜っと巡ります新潟県新発田城からstart新発田城は平地につくられた平城かつて本丸二の丸三の丸からなり11棟の櫓と5棟の門が並んでいたらしい天守閣の代わりを果たしていた三階櫓3匹の鯱を配した独
新潟まで来ましたので少し足を伸ばして日本100名城である新発田城を見学したく新発田市を訪問しました。新潟駅から白新線で約37分、JR新発田駅の外観です。白い海鼠壁が印象的な駅舎です。新発田市は初めての訪問ですので観光地図で位置を確認していきます。人口は9万人と少しです。新発田城の駐車場に車を停めて進むと表門が見えてきました。なかなか雰囲気がありますね。正面から橋を渡って表門から入城します。後で見学しますがこの表門は国の重要文化財です。迎えてくれるのは新発田藩初代藩主の溝口秀勝です。新発
今、篠綾子さんの江戸時代を題材にした木挽町芝居茶屋事件帖の第二弾、雛あられを読んでいますが、戯作者のお芝居の題材に、赤穂浪士の四十七士で有名な、後の堀部安兵衛こと、中山安兵衛のお話が出てきます。高田馬場での決闘は、助太刀で、本当は三人を切り伏せたのに、いつの間にか、瓦版には、十八人を次々と切っていったことになって、江戸では大評判の剣豪に名を上げました。事実にあった話ですが、今回は、その人気に妬みなのか、闇討ちの予告が来たりしています。私は幼いころから祖父の時代劇と大相撲を見て過ごした
現在、親しい友人が二人とも長期入院、療養中だったりするのだが、これとも両名共難病でございまして……歴史論争や史料探しならまだしも、医学が相手では……。でまぁ、できることといえば”困ったときの神頼み”というヤツで……。↑新橋にある鳥森神社↑神社由緒新橋にある鳥森神社に出かけて、病気平癒を願って参りしてきました。神社の由緒は平将門討伐の際に、藤原秀郷(俵藤太)が武州の稲荷社に戦勝祈願したことに由来し、後に藤原秀郷がこの地に鳥森(稲荷)神社を創建したということです。室町時代には古河公方足
この旅最後の城は新発田城。これで新潟県の日本100名城、続日本100名城の城は全て訪問できました新潟県は本当に“縦に長い”とあらためて思いました。新発田藩の初代藩主は溝口秀勝。慶長3年(1598年)に豊臣秀吉の命により6万石を与えられ新発田に入封しました。秀勝は上杉景勝と戦って滅びた新発田氏の館跡に築城を開始しました。入封から56年後の承応3年(1654年)3代宣直のときに完成しています初代藩主溝口秀勝侯像現在本丸と二ノ丸の約半分に陸上自衛隊が駐
新発田市(しばたし)は、北に位置し山形に近いところです。ここが一番暑がったな~。毎日、新潟など日本海は暑い日が続いているようですが、水不足も心配ですね。アップしてなかったものも合わせて紹介します。新発田城新発田城に行ってみました。表門と旧二の丸隅櫓は、江戸時代から現存する。国の重要文化財。暑いので~、人が数人いたくらい。石垣がきれいでした。1669年に大地震がおき、石垣の大半が損壊。復興の時には、「算木積み」という隙間なく整形
暇でゴロゴロしてたので積み上げてあったアルバムを開いてみた07年の写真凄いピンボケなのにB4サイズに引き伸ばしている🤣❕。橘劇団名古屋鈴蘭南座浅草公会堂若衆祭りあの頃は大衆演劇と出会って凄く刺激的でした。また時間の有るときに画像アップしましょうかね。
寄り道をしなければ、新発田駅からは徒歩で20分程でしょうか日本100名城のひとつ新発田城へ到着新発田城は全国でも非常に珍しく…それは後程、説明をすることにしてまずはお堀沿いを歩いていると、辰巳櫓が姿を現します。ここは桜の名所でもあって、その季節は満開の桜が彩り、訪れる人々の目を楽しませてくれるとのことですが…今回、私が訪れたのは新緑の季節でしたが、お堀に映る緑や表門が美しいったらありゃしない因みに、表門前には安兵衛茶屋があり、こちらで「御城印」を購入することが出来ます堀部安兵衛の
内蔵助が祇園の有名な「一力茶屋」に通っていたというものの、山科から近い伏見の花街橦木(しゅもく)町でならともかく、いくら“お坊っちゃん”の元家老と言っても、祇園で有名な茶屋で放蕩三昧できるほどの遊興費を持ち合わせているはずがありません。おそらく、「内蔵助が仇討ちの本意を隠すために遊興を繰り返した」というのも後世の作り話でしょう。このころ、内蔵助は義絶を求める手紙を親戚筋に出しており、そのあたりから内蔵助の放蕩という逸話が生まれたのではないでしょうか。その後、内蔵助は11
新発田城表門から入城します。現存建造物。1668の大火の後、1732に再建されたそうです。橋上からの堀の眺め東側には辰巳櫓が城内も終盤の桜が美しく三階櫓を望む。表門櫓に登ります。木造の雰囲気がgood表門一階の内部から窓からは桜の階段風流です。往時の城内をわかりやすく説明していました。手前が辰巳櫓と表門。
3月14日、村上城訪問の後は新発田駅へ降り立つ。目指すは新発田城(新潟県新発田市)新発田駅タクシーで新発田城跡の東端あたりへ。辰巳櫓が見えます。辰巳櫓の裏手には陸上自衛隊の車両がズラリ。そう、新発田城は二の丸一帯が自衛隊の駐屯地となっているのです。つまり現代では最強の城ということ。タクシー運転手さんとの会話で、新発田城へ行く理由を聞かれたので「最強だから」と言ったら、運転手さん大笑い。元の新発田城はこの範囲現在残っているのはこの部分。しかも本丸
おはよーございますさて新潟市までで後は自宅に戻ろうと思っていた今回の桜行脚ですがもう少し北のの桜も見ごろとの情報を得てこれは見逃せないと訪れました新発田城址公園chaoが6シーズンを暮らした地の桜の名所です去年の引っ越し時はまだだった桜が異常に早い今年はほぼ満開でした三階櫓全国で唯一、丁字型の屋根に3匹の鯱を配した三階櫓自衛隊敷地内のため内部には入れませんがその特徴ある外観は必見です今回の旅では色々と名所を回りましたが桜とお城の距離が遠いところが多かったんですがここは
前回の続きです。今回は再建された本丸辰巳櫓です。看板設置場所にある絵図です。表門の右側に辰巳櫓があります。登城のときに紹介しましたが、土橋門と帯曲輪での防御上での工夫についてからです。鉄砲櫓は表門方向に30度傾いていて、帯曲輪への攻撃はし易くなっています。辰巳櫓の出窓横(側面)にも狭間があり、表門方向が見えます。土橋門が破られても、帯曲輪にいる敵を攻撃出来る仕組みになっています。石落とし出窓横(側面)の狭間から見た表門前の土橋です。帯曲輪の解説
兵庫県赤穂市赤穂大石神社堀部安兵衛江戸時代の武士江戸急進派のリーダー的な存在で、天性の剣術の才の持ち主。育ちは波瀾万丈。浪士も討ち入りに対する考えはひとりひとり少しずつ違っていて、その中でもこの人は仇討ちを武士の一分と捉えて推し進めた。もし松の廊下事件がなかったら、剣術の面で後世に名を残す人になってたのかなと。歴史に「もし」はないけれど、考えちゃうよね。この人に限らず。堀部安兵衛(上)(新潮文庫新潮文庫)[池波正太郎]楽天市場880円堀部安兵衛(下巻)(新潮文庫)
新目白通りからやや太い道へ左折環状四号線と言うらしい、初めて聞きました甘泉園公園脇を上り水稲荷神社へ境内もしくは参道の石段を上ると「堀部安兵衛の碑」元禄7年(1694年)2月11日の「高田馬場の決闘」(菅野六郎左衛門らと村上庄左衛門らによる決闘)で菅野六郎左衛門に助太刀をした堀部安兵衛を顕彰したものだそうです現在の新宿区西早稲田3丁目あたりで決闘は行なわれたそうで明治43年(1910年)にかつて仇討ちが行なわれた高田馬場跡に立てられたものを昭和46年(1971年)に
お城巡りから21時頃に帰りました。遅れましたが更新します。前回の続きです。今回は本丸前帯曲輪から本丸です。本丸前帯曲輪の土橋門跡から本丸表門を見ると土橋門跡から本丸表門方向です。この反対側は土橋門跡から土橋方向です。表門の方に進むと本丸表門が見えます。表門は1668年の大火焼失の後、1732年(享保17年)に再建されています。表門と旧二の丸隅櫓が内部公開されています。冬は雪が積るので、公開は3月下旬から11月30日までで、公開時間は午
前回の登城の続きです。今回は三の丸から二の丸です。⑦付近から⑦付近から看板(案内板)方向です。案内板の向こう側が掘で、その向こう側に、下図中の門がありました。中の門付近の古写真は三ノ丸から見た中の門古写真です。中の門付近だけは石垣があります。内枡形になっていました。官軍と戦わすに済んだので、城の建物が残ったのは、長岡城と大違いですね。(明治初期の写真です)二の丸内側から見た中の門です。右端の木は下図の家老の速水邸のものです。看板の案