ブログ記事30件
鳥羽天皇陛下鳥羽天皇(とばてんのう)旧字体:鳥羽󠄀天皇諱:宗仁(むねひと)1103年2月24日(康和5年1月16日)生まれ、1156年7月20日、53歳崩御。日本の第74代天皇(在位:1107年8月9日〈嘉承2年7月19日〉~1123年2月25日〈保安4年1月28日〉)。堀河天皇の皇子。母は藤原実季の女の苡子(贈皇太后)。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年にわたり院政を敷いた。生後間もなく母の苡子が没し、祖父の白河法皇の下に引き取ら
先日、源氏物語ミュージアムで開催された連続講座に参加してきましたずっと参加してみたかったのですが、全く日程が合わず、今回が初めての参加です。今回のテーマは「女房日記からみた院政期」、講師は神戸女学院大学教授の栗山圭子さん。「讃岐典侍日記(さぬきのすけにっき)」から初期白河院政期をみていこう…というものでした。講座が始まる前に「今回ドロドロです」との言葉に沸く会場(笑)実際にめちゃくちゃドロドロでした(笑)(写真は講座のあとに展示を観たときに撮ったもの)まずは、女房日記の特徴について
◆◆◆くじょうみやび日録第二期◆◆◆「帝王学としての楽器演奏の実態に迫る!」吉川弘文館の歴史ライブラリーの一冊。2017年刊行、豊永聡美著。和楽器への興味から拝読。詳細不明だがコトを演奏していたと思しき古墳時代の大王(埴輪ありますよね!)、聴く側だった奈良時代までの天皇。そういえば、飛鳥・奈良の天皇の楽器エピソードは聞かないかも……比して、もっと古代の仲哀天皇や神功皇后の話は印象的です。本書では、そのあとの桓武から室町時代の後花園天皇までが詳細に検討されています。後花園天
第七十三代堀河天皇は平安時代後期の天皇で、末代の賢王と讃えられた帝です。御父は白河天皇、御母は関白藤原師実の養女、皇后賢子。(実父は右大臣源顕房)御名は、善仁(たるひと)。承歴三年(1079年)生。在位、応徳三年(1086年)から嘉承二年(1107年)。堀河天皇の父白河天皇は、幼少時代その父(後三条天皇)が藤原家の権勢の中冷遇されているのを見、自身も冷遇の中育っています。その父、後三条天皇の御希望が白河天皇の異母弟達の即位であり、白河天皇の即位は中継ぎとしてのものでした。しかし異
8月9日が命日・忌日の有名人・著名人1107年(嘉承2年7月19日)29歳崩御(?)堀河天皇陛下第73代天皇白河天皇の第二皇子1932年69歳没(?)ジョン・チャールズ・フィールズさん数学者フィールズ賞の提唱者1962年満85歳没(脳内出血)ヘルマン・ヘッセさん作家ノーベル文学賞『車輪の下』⇒『ヘルマン・ヘッセ(1877年7月2日生~1962年8月9日没、小説家)』1969年65歳没(?)セシル・パウエルさん物理学者ノーベル物理学賞湯川秀樹が予
朱山にある後円教寺陵です。円丘。平安時代、一帯は仁和寺の境内であり、円融天皇が仁和寺塔頭・円融寺、一条天皇が仁和寺塔頭・円教寺、後朱雀天皇が仁和寺塔頭・円乗寺、後三条天皇が仁和寺塔頭・円宗寺を創建。いずれも円の文字が付くことから四円寺と呼ばれます。嘉祥4年(1107年)に崩じた堀河天皇の骨壺は当初、香隆寺に安置され、永久元年(1113年)、円融寺に移されます。「本朝世紀」は堀河天皇陵を後円教寺陵としており、円教寺に置かれた可能性もあるとのことです。平安時代末期、四円寺は衰退、廃絶。
「3歴代ノ天皇(その73)」今日は、ペリー来航みなさん、おはようございます恵みの雨です感謝して今日も一日過ごしましょう見極める水無月、六月雨の日は人間関係(笑)楽しく國史を学び家族のためご自身のためにお役に立てれば幸いですコメントお待ちしています!6月3日は浦賀にペリーが開国要求にやって来ました吉田松陰は小舟で近づき荻で謹慎処分になりました教えた塾が松下村塾です歴代ノ天皇(その73)~孫のマー君と神様のカー君の美しい日本~
藤原師通の長男、藤原忠実は、1078年(承暦二年)に生まれ、母は、藤原全子である。前述の通り、藤原師通は、全子と離縁し、藤原信子と再婚したため、忠実は、母の藤原全子を尊重して義母の信子の扶養を拒んだ。そのため、藤原信子は、「乞食」と揶揄される程の経済的困窮に陥ったと言われる。なお、信子の実父は、藤原隆家の次男、経輔である。1099年(承徳三年)、父の藤原師通が、急逝した際、22歳で、権大納言の藤原忠実は、年齢的には、最年少で、摂政となった、曽祖父の藤原頼通の26歳を大きく、
藤原師実の長男、藤原師通は、1062年(康平六年)に産まれ、1076年(承保三年)に、権大納言、藤原俊家の娘、全子を正室に迎える。藤原俊家は、藤原道長の次男の藤原頼宗の次男である。1078年(承暦二年)、藤原師通と全子の間には、長男の藤原忠実が生まれるが、その後、全子とは疎遠となり、前述の通り、藤原教通の息子、信長の養女、信子と再婚した。藤原師通と藤原信子の結婚は、摂家の主導権を巡って、長年対立していた、藤原頼通流と藤原教通流の確執に終止符を打つためであったが、実質的に離婚された、
当時の太政大臣は、既に摂政・関白にその権限を吸収されていただけでなく、左大臣以下の大臣の様に、実務に関わることは、完全になくなった、名誉職だった。表向きは、信長の昇進であるが、事実上の棚上げ人事であった。更に首席の権大納言、藤原俊家が、右大臣に、次席の藤原能長が内大臣に進み、停滞していた、人事は、玉突き状に一掃された。首席の権中納言、藤原祐家は、権中納言から中納言に進んだが、権大納言にはなれずに、席次が下の藤原実季(白河天皇の外伯父)、藤原師通(師実の息子)が、藤原祐家を超えて、権
昨日は旧暦1月16日でしたが、康和五年一月十六日(1103年2月24日)は、堀河天皇の第一皇子宗仁(むねひと)親王が誕生された日です。※明治に新暦になる前の出来事は、旧暦のほうが日本を理解しやすいと思いますので旧暦を参照しています。ただし当時の西暦がわかるものについては併記するようにもしています。なお、改暦は何度もされていますので単純に旧暦にあてはめています。堀河天皇はその父君白河上皇が後に長く院政を敷かれたこともあり、後の世では白河上皇の影に隠れてしまっていますが、当時人望厚く「末代の賢王
《新古今和歌集・巻第十二・恋歌二》1092題知らず神祇伯顕仲(じんぎはくあきなか)もの思ふといはぬばかりは忍ぶともいかがはすべき袖の雫(しづく)を☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆題知らず神祇伯顕仲もの思いをしていると、口に出して言わないというまでは秘めるとしても、どうしたらよいのであろうか、袖の涙の雫を。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
京都市内をカーナビで検索して走っていたら左側にこれは「陵」ではないですか。白河天皇の陵でした。最近は主人も協力してくれて速やかに駐車できるところで下ろしてくれています。第72代白河天皇成菩提院陵は、大きな道路沿いにあって通りすぎてみて、「御陵」?と不思議に思い、止めてもらってお参りしてきました。「院政」を開始した天皇「光る君へ」では現在第66代一条天皇ですが、一条天皇→三条天皇→後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇→→後三条天皇そして白河天皇に系譜は繋がっていま
《新古今和歌集・巻第十・羈旅歌》945題知らず前中納言匡房(まさふさ)風寒(さむ)み伊勢の浜荻(はまをぎ)分(わ)けゆけば衣(ころも)かりがね波に鳴くなり☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆題知らず前中納言匡房風が寒くて、伊勢の浜荻を分けていくと、衣を借りるという雁が、波の上で鳴くのが聞こえる。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆✴︎✴︎✴
「75第七十三代堀河天皇」今日は、大正天皇と軍神・橘周太中佐みなさん、おはようございます8月31日は大正天皇が御生誕されますまた大正天皇の教育係だった軍神・橘周太中佐が戦死されました橘中佐の誠心を打ち明けて接した教育により大正天皇は成長されていかれたのです第七十三代堀河天皇白河天皇(七十二代)の皇子母は藤原師実の養女七歳で即位します白河院(上皇)による院政です熊野御幸熊野詣によく行かれました天皇を辞めて自由になり女性と旅行に行かれたようです関
《新古今和歌集・巻第十・羈旅歌》925堀河院百首歌に大納言師頼(もろより)草枕(くさまくら)旅寝(たびね)の人は心せよ有明(ありあけ)の月もかたぶきにけり☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆堀河院の百首の歌に大納言師頼旅寝の人は、出立の時に遅れないように用心せよ。有明の月も西の空に傾いてしまったことだ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第十・羈旅歌》924堀河院百首歌に権中納言国信(くにざね)山路(やまぢ)にてそぼちにけりな白露(しらつゆ)の暁(あかつき)おきの木々(きぎ)の雫(しづく)に☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆堀河院の百首の歌に権中納言国信山路で濡れてしまったことだ。暁に起きて立ち出て、白露の暁に置いた木々の雫で。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
8月8日出来事1588年-スペイン無敵艦隊がアルマダの海戦でイングランド艦隊に敗北。1940年-戦艦大和が呉海軍工廠にて進水1946年-戦略爆撃機B-36が初飛行。誕生日1079年(承暦3年7月3日)-堀河天皇、第73代天皇(+1107年)1953年-ナイジェル・マンセル、F1ドライバー忌日1962年-柳田國男、民俗学者(*1875年)その他誕生日C.E.54年-イザーク・ジュール、アニメ『機動戦士ガンダムSEED』シリーズに登場するキャラ
鹽竈百人一首の100番です。朝に晩に、いかにも本当に塩竈桜を愛でましょう。その花の下には、海女の隠れ家もあるでしょうから。塩竈このシリーズはこれで終了となります。長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。
堀川通二条下るにある堀河院跡碑です。平安京左京三条二坊九町と十町にあった邸宅。堀河殿は、堀川小路に面していたことからの名。東隣に閑院がありました。関白藤原基経が閑院とともに所有。その後、関白藤原兼通が入手、天禄2年(971年)、建物を新造。兼通の長女で円融天皇中宮の藤原媓子の里第となり、媓子は堀河中宮と呼ばれました。貞元元年(976年)、内裏が焼失すると再建までの間、兼通は媓子とともに娘婿の円融天皇を自邸の堀河殿に住まわせ、初の里内裏となりました。円融天皇は退位後の一年間、堀河殿を院
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》847堀河院かくれ給ひて後(のち)よめる権中納言国信(くにざね)君なくてよる方(かた)もなき青柳(あをやぎ)のいとど憂(う)き世(よ)ぞ思ひ乱るる☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆堀河院が亡くなられてのち詠んだ歌権中納言国信院様が亡くなられて、お頼り申し上げるお方もいられない今、いよいよつらい世を思って、心が乱れることだ。☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》827禎子(ていし)内親王かくれ侍りて後(のち)、悰子(そうし)内親王かはりゐ侍りぬと聞きて、まかりて見ければ、何事(なにごと)も変わらぬように侍りけるも、いとど昔思ひ出でられて、女房に申し侍りける中院右大臣(なかのゐんのうだいじん)有栖河(ありすがは)おなじ流れは変らねど見しや昔の影ぞ忘れぬ☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆禎子内親王
さてさて…………………【後朱雀天皇圓乗寺陵】【後冷泉天皇圓乗寺陵】【後三条天皇圓乗寺陵】の参拝を済ませたココロ。再び【後朱雀天皇皇后禎子(ていし)内親王圓乗寺東陵】に戻ると、その奥に次なる目的地である「天皇陵」への入口があるきちんと整備された石段の参道があるあれっ以外と参道が長いなあ『宮』宮内庁の意味かなあれっまだまだ登ります………………ハアハアちなみに誰一人として、人は居ない。薄く見える目的地の石標やっと見えてきたぞーーーーーーっもう少しださすがに
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》797堀河院かくれ給ひて後(のち)、神無月(かみなづき)、風の音(おと)あはれに聞えければ久我(こが)太政大臣もの思へば色なき風もなかりけり身にしむ秋の心ならひに☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆堀河院がお亡くなりになってのち、十月に、風の音が哀れに聞こえたので久我太政大臣物思いをしていると、色のない風もないことだ。すべてが身に沁みる秋の心
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》777白河院御時、中宮おはしまさで後、その御方(おんかた)は草のみ茂りて侍りけるに、七月七日(ふづきなぬか)、童(わらは)べの露取り侍りけるを見て周防内侍(すはうのないし)浅茅原(あさぢはら)はかなく置きし草の上の露を形見(かたみ)と思ひかけきや☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆白河院の御代、中宮が亡くなられてのち、その御殿は草ばかりが茂って
本日は旧暦1月16日ですが、康和五年一月十六日(1103年2月24日)、堀河天皇の第一皇子宗仁(むねひと)親王が誕生されました。※明治に新暦になる前の出来事は、旧暦のほうが日本を理解しやすいと思いますので旧暦を参照しています。ただし当時の西暦がわかるものについては併記するようにもしています。なお、改暦は何度もされていますので単純に旧暦にあてはめています。堀河天皇はその父君白河上皇が後に長く院政を敷かれたこともあり、後の世では白河上皇の影に隠れてしまっていますが、当時人望厚く「末代の賢王」とい
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》750寛治(くわんぢ)二年、大嘗会屏風に、鷹(たか)の尾山(をやま)をよめる前中納言匡房(まさふさ)とやかへる鷹の尾山の玉椿(たまつばき)霜をば経(ふ)とも色は変らじ☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆寛治二年、大嘗会の屏風に、「鷹の尾山」を詠んだ歌前中納言匡房鷹尾山の玉椿よ。幾度の霜を経ても、色は変わらないであろう。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》726寛治(くわんぢ)八年、関白前太政大臣高陽院(かやのゐん)歌合に、祝(いはひ)の心を康資王母(やすすけわうのはは)万代(よろづよ)をまつの尾山(をやま)の陰茂(かげしげ)み君をぞ祈るときはかきはに☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆寛治八年、関白前太政大臣の高陽院の歌合に、「祝い」の趣を康資王母万代の年を待っている、松の尾山の木陰がしげく栄
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》724堀河院大嘗会御禊(ほりかはのゐんのだいじやうゑごけい)、日ごろ雨降りて、その日になりて空晴れて侍りければ、紀伊典侍(きいのないしのすけ)に申しける六条右大臣君が代の千年(ちとせ)の数も隠れなく曇らぬ空の光にぞ見る☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆堀河院の大嘗会御禊の時、幾日も続いて雨が降っていて、その日になって空が晴れましたので、紀伊の典