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後に書かれたホリプロ創業者の堀威夫さんの記事は読まれたと思いますが、今回はデビュー当時の1963年のインタビュー記事です。舟木さんの性格を良く捕らえた記事になっています。律義で真面目で、その上向上心の塊のような舟木さんの事が伺えます。「新人時代の下積みがない」と良く仰っている舟木さんですが、どうしてどうして、短い期間にスターに上り詰めても、謙虚に先輩方とのお付き合いをされている事も判ります。18歳の若者には思えない。と言う話をよく聞きますが、10代で身に着いた芸能界のしきたり、持
「ホリプロ」と言えば、誰もが知る大手の芸能プロダクションです。舟木さんが、堀社長に見い出されて、デビュー当時はホリプロに所属していた事は、ファンの方ならご存知でしょうが、一般の方には余り知られていない事のようです。舟木さん側から書かれたものは沢山記事にもなっていますが、堀社長側から書かれたものは少ないと思います。日本経済新聞には「私の履歴書」と言う連載がありますが、その中でホリプロ創業者の掘威夫が書かれたものです。最後に水の江瀧子さんのお名前が出て来ます。松竹歌劇団の前身
暑い日が続きます。気象状況の異常さは、ここ数年災害まで起こす様なものになっています。50年前の東京の8月の最高気温は31℃でした。2020年でも36℃でしたが、それが今年などは6月から、更に更新するような高温が、毎日の様に続いています。子供の頃は、エアコンなどはなく、扇風機か団扇で、夏の夜は窓を開け放しにして、蚊帳を吊って寝たものです。今では窓を閉め、エアコンを点けたままでないと寝られない状態です。この時期になると「暑中見舞い」のハガキが届いたものです。年賀はがきと同じ様に
まだ「オードリー」には登場していない佐川満男さんだが、佐川さんの訃報を聞いて先に登場させることにしました。佐川さんの歌手としての大きな一歩を踏み出させたのは、当時ロカビリーバンド「ザ・スィングウエスト」のリーダーだった堀威夫(ホリプロ創業者)さんに誘われて上京した事にあります。佐川ミツオの名前で「無情の夢」や「ゴンドラの歌」を独特の歌声でヒットを飛ばしたのは、子供心に覚えています。伊東ゆかりさんと結婚した時は、なぜかビックリしたのを覚えています。そして佐川満男に名前を替えて
よい運に恵まれるためには自分の顔には責任を持たなければならないお通夜の晩のような顔をした人間には勝利の女神は微笑むはずがないのである―堀威夫―
皆さまは、「ケサラ」というカンツォーネをご存知だろうか?1971年のサンレモ音楽祭で2位になってヒットした。日本では、岩谷時子の日本語詞で越路吹雪などがカヴァーしている。1972年、阿久悠はホリプロの堀威夫社長から、「アッコ(和田アキ子)にもそろそろ賞を取らせたい。ついては、それに見合う大きな歌、たとえば『ケサラ』のような人生を歌うものを作って欲しい。」と言われた。その頃は、浅間山荘事件などが起こる暗い時代で、希望の存在を人々に知らせようとのメッセージが思い付いた。それで書いた
にゃんたブログに皆さんようこそ~(,,・ω・,,)今日で12月。もうビックリ加減が止まらないあ…ベスト3を考えておかないと。アマゾン…この5年、いやもっと?全然買わなくなったナァ。---------------------------------【一番好きな映画は?】なんだろうか~?おいら数だけは多く観ているからなぁ、、、やはり無難だけどアレになるかなぁ、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」。シリーズが全部だよねぇ。▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう
舟木一夫と共に⑪自作のカラオケテープ昭和30年代には全ての家庭に電話が設置されていたわけではない。近所で電話がある家庭で拝借することもあった。かかってきた時はわざわざ呼びに来てくれた。舟木一夫もテレビの番組で子供の頃にそういう体験をしたことがあると話していた。堀プロダクション社長・堀威夫から成幸の父・栄吉にかかってきた電話もそうだったかもしれない。隣人のことに無関心な人が多い今と比べれば、やはり“古き良き時代”だったとしか言いようがない。堀からの電話には不信感を抱いていた栄吉だっ
舟木一夫と共に⑩「偶然」と「運」舟木一夫を語る時、4つのキーワードがあると思う。一つのカテゴリーは「時代」と「青春」、もう一つのカテゴリーは「偶然」と「運」。今回は後者の「運」と「偶然」について書く。上田成幸(舟木の本名)は高校2年の3学期が終わろうとしていた1962年3月のある日、同級生の一人が「今度の土曜日の午後、名古屋のジャズ喫茶で彼女と初めてデートをする約束をしていたんだけど、彼女から急に部活の予定が入って行けなくなったと言われた」。彼はふてくされながら「おい上田、切
ひとつ前の当ブログの続きです。元々、有楽町の「ヴィデオ・ホール」で1954年から開催していた「ウエスタン・カーニバル」ですが、エルヴィス・プレスリーさんの登場などもあり、「ロカビリー」ブームが過熱。もっと大きな会場で開催しようと堀威夫さんは渡辺晋さんに相談を持ち掛けます。学生時代に中村八大さん、松本英彦さん、南廣さんらと「渡辺晋とシックス・ジョーズ」を結成するなどジャズ畑の渡辺さんは「ジャズ人気にとって代わるロカビリー」に手を貸すことは道義上、仲間に悪いと思ったのか、奥さんの美佐さんにこの件
今日、2月8日というのは「ロカビリーの日」なのだそうです。「○○の日」というと、語呂合わせ(11月22日が「いい夫婦の日」とかね)なのかと思いますが違います。由来は『第1回日劇ウエスタン・カーニバル』が開催された日だからであります。1958年2月8日に初日で幕を開けたことを記念して「ロカビリーの日」となったのです。なぜ2月に開催されたかというと、当初この企画は無謀と思われていて「日劇」側もお客が集まらないニッパチ(2月&8月)ならと承諾。それで2月に開催となったのです。それが初日にいきなり9
舟木一夫を語る堀威夫さんは、現在のホリプロの創業者。舟木さんが、名古屋のジャズ喫茶で「湖愁」を松島アキラさんと歌わなければ、舟木さんが堀プロに入り「高校三年生」でデビューする事も出来なかった。堀プロでお世話になったのデビュー前から2年少しだから、舟木さんを語るものは、その当時のものだ。その後の舟木さんの活躍と共に、堀プロも沢山のタレントを輩出し、巨大な芸能事務所になって行く。
カラオケテープ昭和30年代には全ての家庭に電話が設置されていたわけではない。近所で電話がある家庭で拝借することもあった。かかってきた時はわざわざ呼びに来てくれた。舟木一夫もテレビの番組で子供の頃にそういう体験をしたことがあると話していた。堀プロダクション社長・堀威夫から成幸の父・栄吉にかかってきた電話もそうだったかもしれない。隣人のことに無関心な人が多い今と比べれば、やはり“古き良き時代”だったとしか言いようがない。堀からの電話には不信感を抱いていた栄吉だったが、学校から帰ってきた成
偶然と運舟木一夫を語る時、4つのキーワードがあると思う。一つのカテゴリーは「時代」と「青春」、もう一つのカテゴリーは「偶然」と「運」。これらについては改めて詳しく述べる機会を設けたい。きょうは前回までの流れを引き継ぎ、後者のカテゴリーのうち「偶然」について綴っていくことにする。上田成幸は高校2年の3学期が終わろうとしていた1962(昭和37)年3月のある日、同級生の一人が「今度の土曜日の午後、名古屋のジャズ喫茶で彼女と初めてデートをする約束をしていたんだけど、彼女から急に部活
ホリプロ堀社長と最終章天翔ける翼その8どうでしょう?この頃はロカビリーも下火だし、どっかに良いタレントいませんかね?」成幸が「ジャズコーナー」で「湖愁」を歌って一ケ月ばかり経ったある日、かつては楽団「スィング・ウェスト」のバンドマスターで、いまは芸能プロダクションの主宰者に収まっている堀威夫が「明星」の記者に世間話の末に、こんな話題を持ち出したのも、偶然と言えば偶然であろう。「タレントと言えるかどうか知りませんが、この前、名古屋で変わった少年を見つけましてね」記者がその時のありさま
ひとつ前の当ブログの続きです。堀威夫さんが結成した「スウィング・ウエスト」の系譜に連なる「キャノンボール」というバンドに誘われ入った加瀬邦彦さんですが、ジャズ喫茶での集客が低下で解散、ホリプロの指示で加瀬さんはやはり「キャノンボール」にいたかまやつひろしさんと共に「スパイダース」に加わります。ところが、同時期に「寺内タケシとブルー・ジーンズ」からも誘いがかかります。その頃、加瀬さんはベンチャーズを聴き「こういうのをやりたい」と思っていたので「ブルー・ジーンズ」に加入しようとしますが、スパイダ
ひとつ前の当ブログで、大阪のジャズ喫茶に出ていた「サリーとプレイボーイズ」がそれまでのインストからヴォーカルを入れたスタイルに変わったことで「ファニーズ」という名前を変えた話を書きました。「ファニーズ」は、「ナンバ一番」に観に来た内田裕也さんに誘われ上京し渡辺プロに入り、すぎやまこういちさんの命名で「タイガース」となります。(このことについては、当ブログ2021年7月2日に詳しく書いていますので、お読みください)森本太郎さんの回想によると、それより先にスパイダースの田辺昭知さん(スパイダクシ
年に1度の季節が巡ってきたカントリーシンガーとしてすい星のように登場した10代の小坂一也さん1997年11月1日に亡くなられた今年も墓参に出向くあたたき日差しが墓所を包む、、、何度目だろう…小坂さんのバックを務めていたMusicianに知らぬ間に連れてこられて初めてここが墓所だと…今日は暖かいですね~~~小坂さん子どものころ聴いていた「デビークロケットの歌」のお兄さんだった一度でいいから、お会いしたかったでも、その代わりに今もバックのミュージシャンたちと
澤田事務所管理人が更新します。ホリプロ創業者の堀威夫さんのテレホンカードを掲載します。※こちらの商品は販売・お譲りは一切しておりませんよろしくお願いします。ホリプロオフィシャルサイトホリプロは、昭和35年(1960年)の創業以降、「文化をプロモートする人間産業」という企業理念のもと、タレントの発掘・育成を強みとするマネージメント事業を中心として、番組やCMを制作する映像事業、ミュージカルなどの演劇をプロデュースする公演事業など、さまざまな事業を複合的に
澤田事務所管理人が更新します。本日は「ホリプロダクション」のテレホンカードを掲載します。※こちらの商品は販売・お譲りは一切しておりません。よろしくお願いします。笑って健康笑って長生き笑売繁盛澤田事務所管理人
今月の日本経済新聞朝刊私の履歴書は、ホリプロ創業者の掘威夫氏です。戦後の芸能史や芸能ビジネスについて、まさに生き証人の声として、わかりやすく紹介されており、楽しく拝読しています。当コラムでも紹介されていた通り、ホリプロは、1989年から2012年まで上場しており、わたしも家族で株主になっていました。株主として、特に良かったのが、所属タレントも参加する豪華な株主総会&懇親会でした。こどもが初めて株主総会に参加したのが2002年、当時2歳でした。参加していた株主の方から、株主カード下げたこど
今月、日経新聞朝刊の「私の履歴書」は、ホリプロ創業者の堀威夫(たけお)が連載している。昨日は、「カンドレ・マンドレ」という変わった名前の曲が九州のRKB毎日放送で受けていたことを話題にしていた。堀が実際に会ってみると、歯科医を継ぐために受験勉強中だった。その青年を口説いてデビューさせた。この青年が後の井上陽水になる。そんな出会いがあったとは知らなかった。今日は、舟木一夫の「高校三年生」で当てて10年ほどたった頃に、中学生で「学園シリーズ」を堀は考えていた。女の子でもいいのではないかと思い
今日も…朝早くに…お友達が…日経の記事…送ってくださってました…でも…私の中では…いろんな葛藤があり…「私の履歴書」(17)の続きは…少し辛い内容だと予測がついてました…それはやはり…心の痛くなる書き出しでした…〜舟木一夫が売れると、父親が口を出し始めた。看板の序列を上にしてくれ、などと言ってくる。〜堀プロダクションからホリプロダクション(その後ホリプロ)へと社名もカタカナに変え、舟木ブームで軌道に乗ってきたところだ。契約書をもつ私は怒りを抑えきれず〜そして…記事を載せることによ
堀威夫ホリプロ創業者・堀威夫さんはバンドマン出身で、ホリプロを起業してからは歌手の守屋浩、舟木一夫を世に送り出し、グループ・サウンズのブームをしかけ、ザ・スパイダースを一躍人気者にします。和田アキ子、森昌子、山口百恵らをスターとして育て上げ、榊原郁恵主演のミュージカル「ピーターパン」をきっかけに演劇界にも進出します。東京の芸能プロダクションとしては初めてとなる株式公開も果たし(東証1部上場後、上場廃止)、芸能ビジネスの企業化に尽力しました。「若気の至り」が原動力だという堀さんの人生は戦後の
朝早くに…お友達に教えていただいたのに…今日はちょっと特別な日…そして仕事も少しハードだったので…今になってしまいましたもう…販売の時間も過ぎたので…掲載させていただきます…私の履歴書…堀威夫さん(17)舟木一夫几帳面な歌声に心動く〜「高校三年生」映画も空前ブーム紙面は…こんな感じだそうです…私の行ったコンビニでは販売してなくて…お友達が送ってくださいました…私の履歴書は…日本経済新聞朝刊最終面に掲載されている連載読み物…1956年3月1日にスタートしたのだそうです…
にほんブログ村こんにちは夢を実現させるために常にあなたと向き合っていくコーチングTêteàtête(テタテットゥ)です。ブログ訪問ありがとうございます朝はスッキリと目覚めたい。前日に嫌なことがあっても翌日に持ち越さない。朝から嫌な気持ちでいると、その日1日が憂鬱。憂鬱を連れて歩くことはしたくない。今日という日が良い日でありますように、、、。■堀威夫の言葉■どんなに嫌なことがあっても、一晩寝たら、次の日にはいい顔を作って、会社に出る。お通
どこぞの政治家に教えてやりたい。