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ドラマ「マテウス神父」の世界に浸ってしまったのであとは特に何をしたいということもない観光案内所があったので行ってみた地図をもらって、おススメのものは何かときいたら色々教えてくれた最初に教えてくれたOpatowskaGateに行ってみることにしたその通りは観光客が多いらしくお土産物やなどがたくさん並んでいたそして、そこそこ観光客がいたOpatowskaGateはかつての城門でポーランドで最も保存状態のよい城門の一つなのだそうですそして、サンドミエシュ旧市街の正面玄
日本100名城で国宝天守の犬山城は明治に廃城となった時、いくつかの城門が民間に払い下げられました。そのうちのひとつ矢来門は扶桑町専修院に移築されています。矢来門この場所には、本丸(天守)へつづく大手道の門のうち、城郭部分の入口にあたる中門の次のある2番目の『矢来門』といわれる高麗門形式の門がありました。この次にあった黒門との間で敵を囲める工夫がなされていました。明治7年(1874)、当時の価格で20円で専修院(丹羽郡扶桑町)に移築されています。現地説明看板を見ると明治時代に20円で移築
江戸城には今でもたくさんの城門が残っていて、どれもとても立派な美しい門です。そしてそのほとんどが桝形門です。先日江戸城に行ったときにいくつか回ってみました。桜田門(外桜田門)1860年3月3日、水戸・薩摩藩浪士が登城途中の井伊直弼を襲撃した「桜田門外の変」の舞台となった門です。外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造で、間に大きな桝形があります。現存している江戸城の城門の中では最大規模の桝形門です。1961年に国の重要文化財に指定されています。門を出ると警視庁の庁舎が目の前です。
土岐市の下街道高山宿の通りを歩いたあと、小高い山の上に高山城跡があるので行ってみました。城跡の間近まで車で行けるようでしたが、それでは味気ないので山道を歩いて行ってみました。高山城跡の略図まず麓にある名刹慈徳院に行く。逆光でまるで後光が射してきたみたい。門の中へ入ったがどこが本堂か分からない。うろうろしただけで引き返す。城跡への山道。結構な急坂だが10分ほどで到着。城跡前の説明書き城址の石碑。「城跡」と「城址」をどう使い分
10月3日(火)~6日(金)の伊勢詣での旅、旅程2日目(10/4)の旅の模様その3です。ガイドブックは『ちゃんと歩ける伊勢参宮道善光寺街道』。Day2の歩行ルートは↓。今回は街道遺構が多いので、ポイントの記載は殆どしていません。必要に応じて記事を書きながら書き足していきます。その2では、本陣や脇本陣跡地のある寂しい感じの商店街が実は津観音の門前のアーケード商店街だったことを偶然発見したことに気をよくして、いそいそと先に進んだところまでをご紹介しました(↓再掲)。フェニックス
やっぽ~(^O^)/きょうな☆です今日もさっさとお出かけネタの続きを!大手門から駅方面へ歩き、駅前公園入口に来ました。奥に小諸駅舎と東西自由通路が見えます。この日は公園内に灯籠を置いてライトアップされていてとても良い雰囲気♪あずま屋のベンチに座って(^^)♪園内を散策し・・・旧小諸本陣母屋に到着この母屋はこの場所に移築されましたからね。本陣だけあって立派な玄関以前は資料館として使われていたのですけど、現在は料亭になっ
最近撮った写真は、今夜の松本城🏯。まずは、「国宝松本城」と書かれた提灯🏮と、足元に照らされた灯り。城内へ入る門(夜は閉まってます)。別角度から見た同じ城門。ライトアップされたお城と内堀。烏城とも呼ばれ、黒の印象が強い松本城ですが、灯りに照らされると、闇夜に白壁が鮮やかに浮き上がって見えて、意外な程白さが目立つのも良い雰囲気でした。電気代0円灯籠型ソーラーLEDライト8点セットガーデンライト光センサモード防水夜間自動点灯ライト太陽光パネル充電防犯対策配線不要
✳︎ウサギの旅行記✳︎-in兵庫県-お城巡りを再開姫路城に行ってきましたよ〜ぅ♡マニアックなウサギの姫路城の楽しみ方解説付き記録です真っ白なお城で有名な姫路城姫路城といえば"千姫物語"徳川家康の孫娘の千姫は7歳で大阪城の豊臣秀頼に嫁ぎ大阪夏の陣で秀頼が自害し豊臣家は滅亡...燃え盛る炎の中から助け出された千姫は江戸城に帰る道中警護にあたっていた本多忠刻(ほんだただとき)と再婚します千姫20歳、忠刻21歳忠刻は31歳で亡くなってしまいますが後に「夫忠刻と姫路
城を観る今回は...(撮影2021/04/09)神岡城(東町城)〜城門〜この中ッかなッ。。。ヽ(´o`;なんちてにほんブログ村
マフディアの城門を正面からその近くに、オスマン要塞の番人が教えてくれたレストラン、客は地元民。白身魚のスープ煮みたいな、やや辛めの味。他にニシンの焼き物もあったが、骨が多そうで。スース方面の電車で約1時間戻って、モナスティールで下車。ここのポイントは海辺のリバット(聖戦の兵士の砦)。リバットは海岸線に沿う街々に防衛システムとして造られた。モナスティールのものは、この地域では大きな造り。スースのリバットはモナスティールよりも小ぶり。高い塔を備えている。ここもファティマ朝の10世紀頃から、
この3日間、プチ修行で籠り、ご訪問やコメントを頂いた方々には失礼をいたしました。また再開いたします。よろしくお願いいたします。下城戸跡の巨石垣政治家の記事でブログを濁しましたが、越前道中記を再開します。一乗谷朝倉氏遺跡の最後は、城戸跡や関連遺跡です。瓜割清水朝倉義景館跡の北方にある村落の中に、瓜割清水という池がある。湧水池「瓜割清水」夏は冷たく冬は温かな清水が湧き出ており、400年経った現在も
さて、先日、庭瀬城を見に行ったのですが、この庭瀬城の「城門」が、福寿山立成寺に移築され、現存していると教えてもらったので、見に行って来ました。これが、福寿山立成寺です。南から見上げたところ。この門が、庭瀬城から移築をされた「城門」ということになるのでしょう。左側に、説明版があります。説明版、拡大。この庭瀬城の城門は、明治に入り、廃藩置県があった時に、移築をされたということのよう。実は、明治に入った時、江戸時代まで、藩主が住んでいた「城」は、もはや「価値の無いもの」と
8月26日(土)は日本城郭史学会の2023年度第2回城郭史セミナーがありました。テーマは「古代山城の城壁構造版築・石築・城門」です。今回は古代山城研究会代表の向井一雄氏を講師に招きました。鬼ノ城復元門最初に古代山城の基礎知識の確認として古代山城の規模や占地を簡単に説明しました。規模の大きい日本の古代山城は規模の小さい百済山城と違い、高句麗山城に近いとの事でした。今回の講師向井一雄氏その後は今回のテーマである城壁についてのお話しになりました。日本の古代山城は土造り
慶州回想の記2019年1987年4慶州(2)慶州の朝、近くのコンビニエンスストアに朝食を買いに行く。宿の兄さんはセブンイレブンを教えてくれたが、もっと近くに韓国系のe-martがあった。こちらの方がペットボトル飲料なども少し安い。お粥のパックを買って帰って、電子レンジに入れる。さっき外出した時の様子では、早朝の空気は清々しいとはいえ、周囲の山はもやっている。展望もきかなさそうなので南山に登るのはやめにして、市内を見て回ることにする。宿を出て、駅に近い城東市場へ行
鶴の丸広場本丸・東ノ丸の真下にある郭のことで、東ノ丸にいた芳春院(利家夫人)が、ここに白い鶴が舞い下りているのを見て、これは前田家が長く栄えていく瑞祥(めでたい事の兆し、吉兆)であるとして、この郭を鶴ノ丸と名付けたという。初め、二代藩主利長がここに便殿(休息用の御殿)を建てて住み、政治を見ていた。また、ここに人質を置く建物があり、慶長19年(1614)及び翌元和元年の大坂の役の時、出兵中に領民による騒乱を防ぐために加能越三国の一向宗の坊主や百姓・町人の主だったものを人質として
【問題】令和2年に鼠多門と呼ばれる城門が復元された城郭は、次のうちどれか?【選択肢】鹿児島城金沢城福井城水戸城【正解】金沢城【解説】金沢城(石川県金沢市)では、令和2年(2020)に金谷出丸(現在の尾山神社)から玉泉院丸への出入口にあたる場所に、鼠多門と鼠多門橋が復元された。
金沢城公園整備(河北門)工事金沢城の「歴史的文化遺産の保護と新たな文化資産の創造」を図るため、調査研究の進展と蓄積を計りながら、金沢城全体の活用方向も踏まえた上で、現在ある遺産を良好に「保存」「修築」するとともに、一部「復元」を含めた総合的な取り組みを進めた。↑河北門↓事業経緯平成17年金沢城公園河北門等復元基礎調査業務今回、三御門の一つであり、金沢城の正門にあたる河北門を整備するなかで、復元にあたり、埋蔵文化財、古絵図や古写真等の調査・検証と学識者の意見を踏まえて、
石川橋兼六園と金沢城公園をつなぐ「百間堀・石川橋」金沢へ観光へくると必ず目にすることになると思います。なぜなら金沢観光に来たら必ず訪れる「兼六園の真横」に有り繋がっているからです。橋は、川など通行の障害となるところに架けるものである。だが、石川橋の場合、ちょっと特殊である。石川橋は、もともとは金沢城の百間堀にかかる土橋であった。↑石川橋と石川櫓↓金沢城の搦め手、兼六園方向にある石川門に出入りするためのものである。土橋は、百間堀にかかっているので橋のよ
ヤブヤブ蜘蛛の巣地獄ながらごんぼ積みが素晴しかった山城・黄峰城跡から移動すること9.5kmくらい。香川県高松市玉藻町讃岐・高松城(たかまつじょう)別名:玉藻城高松城は豊臣秀吉の四国征伐の後、生駒親正(信長さまの美濃攻めから臣下になり、秀吉の属将になる)によって築かれた城です。現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって近世城郭の海城として改修されたものです。海城としては最初にして最大の城であり、日本三大海城の筆頭である。また、
3ヶ月ぶりの昼飲みは、三浦海岸駅で待ち合わせして、11時オープンの漁火亭。土日は予約が出来ないそう。オープンに合わせて並びました並んだから1番に入れました。昼飲み🍺のお供にシコイワシの唐揚げ・刺身盛り合わせサラダ仲間が食べたい言ってた、金目鯛の煮付け。お喋りしながら、美味しいモノをいただきました。席は、常にほぼ満席状態でした2時間ほどで、こちらを出て三浦海岸をブラブラ。天気も良かったから海岸には、人がかなりいました海開きしたら、もっと混むでしょうね〜。近くにある城門で、シ
当信寺当信寺の山門です。解説板によると、山門は白石城二の丸大手二ノ門とのことです。本堂でおまいりをした後、お寺にある、真田信繁(幸村)の子の阿梅と大八の墓へ向かいました。墓にも、おまいりをしました。墓の側に立つ説明板阿梅らは大坂冬の陣の際、真田信繁から片倉氏へ託されたそうですが、説明板によると他の説もあります。2つ目の説を少し考え想像すると、表向きは大坂の陣での乱取りとし、真田信繁からその子を託されていれば、周囲からの片倉氏への疑いも少なかったか、と感じました。大坂から白
城門をくぐっても、すぐには見えない二の郭兵舎と櫓があります。当時、この高さまで、資材を運ぶのも、相当苦労したことだろうと思えます。
この間までの暑さは何処へやら。。。また肌寒い気候に逆戻りで、服選びが大変です💦💦まぁ本来は、これが正しい4月の気候やと思いますが。。。😅さて、しばらく放置してましたが、4月18日(火曜)、伊勢方面へツーリングに行った時にお参りしたお寺さんの紹介😉ナビを頼りに訪れたのは、教王山世義寺(きょうおうざんせぎでら)山門実はこの山門、玉城町にあった田丸城🏯の城門を移築したもの⤴️明治維新後に城は解体されましたが、城門だけでも現存してるのは、城好きに取っては嬉しい限りです😆そして、門の
続き・・・左は経山城跡になりますとりあえず後にして鬼ノ城を攻略します鬼ノ城に到着しました年末でしたが車がけっこう駐まっています鬼城山ビジターセンター月曜日はお休みです。ここまで来てスタンプを押せずに帰るのはきついので、事前に調べることを忘れずにトイレ先ずはスタンプを押します湯浅城と同じで二つの名所がスタンプの図柄になっています御城印はありませんなぜと聞いたところ、これを始めると狭い道が非常に混雑し、事故
今日の暦西暦2023年・令和5年・平成35年・昭和98年・大正112年・明治156年新暦令和5年2月7日(如月)旧暦1月17日(月齢16.3)誕生日の花タンポポ(蒲公英)花ことば愛の信託撮影日令和5年1月27日金沢城城門
画像はナンシー市のクラフ門です。実は写真を見ても、これが何だったか思い出せなかったのですが、画像検索のおかげで正体が判明しました。このような門を残してくれているおかげで、過去、不安定だった時代に、街がいかにして外敵から身を守ろうとしたか実感することができます。LorraineMagazineというサイトで説明されていましたので、いつものように自動翻訳してもらい、それを修正した文章(自分の能力では修正しきれていませんが)を載せておきます。LAPORTEDELACRAFFEクラフ
「なにわバードマン」の「スワン号」が琵琶湖に飛び立つ!ロケ場所は彦根城の近くやな。舞ちゃんは必死に漕ぐが記録は更新できずに着水。舞ちゃんの元へ皆が駆け寄る予想通り涙腺崩壊あっ、朝ドラの話でした。香川県高松市屋島東町讃岐・屋嶋城(やしまのき/やしまじょう)※古代日本では「城」を「き」と読む。屋嶋城は高松市の屋島に築かれた古代山城である。白村江の戦い(天智2年8月(663)で唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷は、日本の防衛のために、対馬~畿内に至る要衝に様々な防御施設を築
想い出の一人旅30日の日曜日は3人の孫達のサッカーにバレーの試合で試合会場がバラバラ私は小6の悠人のサッカーの応援に行く事にした。昨年と同じグランドだ。ちょうど一年前サッカーの応援の合間を利用して向かった先が末廣神社場所・大分県玖珠郡玖珠町大字森864番地江戸時代後期、8代藩主久留島道嘉が神社改装を口実に城門に見立てたこの清水御門をはじめ、石垣や庭園、天守閣に見立てた二階建ての茶屋など大規模な造営を行ったその神社
※2022年9月21日訪問※宮城県角田市の【旧氏丈邸(角田市郷土資料館)】を訪れました角田市郷土資料館として使用されている旧氏丈邸ですが、こちらの表門はかつて角田要害(角田城)から移築された物と伝わっています門の前には【旧氏家邸】の石碑が建てられていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼旧地主氏家氏の旧邸で、明治から大正期の豪華な造りは、角田を代表する角田歴史的文化遺産である。表門は、薬医門の形式で角田城から移築したものと伝えられる。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲この