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真野地区吉岡にあった吉岡城跡を探訪しました。中世吉岡城は吉岡本間氏が居城した一の城と、防備用の二の城に分かれました。妙宣寺・国分寺線の入口であるこの場所から撮った左側の郭がどうやら吉岡一の城跡のようです。郭や空堀の跡など残っているようですが、人の土地っぽいし鬱蒼としていてマムシでも踏んだりスズメバチに襲われたりしたら元も子もないので郭全体像を撮るに止めておきますちなみに上杉軍による第二次佐渡征伐において藤田能登守がこの城を攻めた時は、非道な手段を使って吉岡城を落として
所在地〒851-3211長崎県長崎市琴海戸根原町(琴海中央公園)特徴形上湾の奥に築かれた城で、歴史は分からないが、水軍の城なのかもしれない。公園の一角に階段状の郭が遺り、古い石垣も観られるが、城郭遺構なのかは不明。感想公園の案内板に記載があるだけで、史跡としては整備されていない。公園全体が城だったはずだが、地形は大きく改変されている。
昨日28日、熊本県で最大震度7の地震が発生しました。まずは被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。どうしてまた…という思いで言葉もありません。やり場のない悔しい思いでいっぱいです。現時点で発生から1日程度しか経過していないため、まだまだその被害の全貌は明らかではありません。次々と更新されるニュースを見て本当に心が痛いです。既に報道されている通り、まさに現在復興中の熊本城の石垣などに被害がありました。熊本城総合事務所によると、現時点で少なくとも28箇所で崩落、監物櫓など4つの建造
所在地〒857-2222長崎県西海市西海町中浦北郷特徴平家の落人とされる長岡氏の山城で、二ノ丸(駐車場)の先の主郭にはベンチやブランコがある。感想展望台や遊園地としてならお薦めできるが、城郭としては「低」になる。
和歌山市に一泊して、朝に『和歌山城』に向かいました。有料駐車場に止めて、9時の入場に合わせて新裏坂から和歌山城に向かいました。天守閣は、姫路城や松山城と並ぶ日本三大連立式天守です。戦災で消失し、現在の天守閣は昭和33年に江戸時代後期の天守外観を忠実に再建されています。大天守山頂を利用した要塞。別名を虎伏城標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)山頂に建造1585年に豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。主な奉行として城造りを任されたのは、藤堂高虎。秀長は、その後大和郡山を本
歴史は面白い。日本の城にまつわる疑問を、豊富なイラストでわかりやすく解説してくれる一冊だった。これを読めば、歴史番組を見ているときも、実際に城を訪れたときも、構造や意味がすっと腑に落ちて、城への親しみがぐっと増してくる。日本の城と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、城郭考古学者の千田嘉博さんだ。テレビ番組でも城の魅力を丁寧に語り、竪堀や堀切などを説明するときの眼差しの強さ、目の輝きが印象的で、こちらまで楽しくなる。城跡を歩きながら段差のようにしか見えない場所に歴史的な意味を見いだす姿は、見
안녕하세요〜ご訪問いただきありがとうございます2026年6月ソウル旅2泊3日3日目、早朝超朝活組からのレポートです5:30出発【漢陽都城】ハニャントソンそして【駱山公園】ナクサンコンウォン東大門から続く城郭に登ってみたいと言っていたTちゃんの願いが叶ってよかったです素敵な写真もたくさんありがとうございます(photosbyT-chan)結構な登り坂ですよね💦景色はさすが素晴らしい👏朝ごはんのロビー集合7時前に戻ってきてましたお読みいただき、ありがとうございます
懐中温泉です、歴史シミュレーションその27謙信は、一揆側の男たちを見渡した。「織田に焼かれた恨みを、ただ焼き返しで晴らすのでは、何も変わらぬ。上杉の旗の下で戦うからには、『この地を、織田の前より良くする』という約束を、そなたらにも背負ってもらう」一揆の代表たちは、しばし沈黙した。やがて、僧が深く頭を下げる。「承知致した。越前・加賀の一揆勢、上杉殿の『義』に従い、刃の向け先と、刃を収めるべきところを、ここにて心得申す
【問題】国史跡「八代城跡群」を構成する3つの城郭とは、次のうちどれか?【選択肢】棚底城・久玉城・八代城岩尾城・御船城・八代城古麓城・麦島城・八代城隈府城・菊之城・八代城【正解】古麓城・麦島城・八代城【解説】「八代城跡群」は、名和氏らの居城であった古麓城、その廃城後に小西行長が築いた麦島城、麦島城が地震で倒壊したため加藤忠広が新たに築いた八代城から構成される。
NHKスペシャル取材班著「新・戦国史」(NHK出版新書)を読みました。表紙(カバー裏にある本書の紹介)(目次)(感想など)読み終わったら、城郭(お城)に対するイメージが変わったエキサイティングな本です。最新の科学的知見を用いて、建物の構造や石垣の積み方などを明らかにし、特に信長の城郭革命ともいうべき「見せる城」づくりに関する記述が面白い。さらに、時代の変遷により、防御拠点としての城から、街づくりの拠点としての城に至る変遷をとらえています。城下
[完成品]長島城(桑名市長島町西外面)日本の城お城のジオラマ模型プラモデル城郭模型楽天市場39,500円${EVENT_LABEL_01_TEXT}信長を撃て:長島一揆水の砦Amazon(アマゾン)100〜1,728円織田信長文書の世界:永青文庫珠玉の六〇通Amazon(アマゾン)3,080〜6,702円織田信長Amazon(アマゾン)1,000円角川まんが学習シリーズまんが人物伝織田信長Amazon(アマゾ
大和郡山城🏯柳澤神社と柳澤文庫大和郡山城に行きました。大河ドラマ『豊臣兄弟』で盛り上がっていた【大和郡山城】🏯です。残念ながら大和郡山城に天守閣は有りません。本丸跡地に神社が在りましたので、拝んできました。大和郡山城ですが・・・戦国時代に筒井順慶が造ったお城です。豊臣時代に秀吉の弟の大納言豊臣秀長が治めます。豊臣政権の没後に一度廃城に成ります。江戸時代に復帰して、水野氏、本多氏、柳澤氏など
大和郡山城🏯今年の大河ドラマ『豊臣兄弟』の弟の豊臣秀長の居城の大和郡山城です。🏯近くに『大河ドラマ館』が有りましたが、凄い混雑をしていました!たぶん一刻ぐらい待ちそうです。時間は限られているので、早速に登城しました。・・・写真①大和郡山城の櫓石垣は、しっかり残っていましたが・・・天守閣は、無かったです。お掘りの横に電車が走っていました。お城の櫓と電車が重なりあ
称念寺越前国長崎城(福井県坂井市丸岡町長崎)長崎城となっていますが、地名を取って「長崎道場」とも呼ばれていたようです。城郭で平城ともなっていますが、実際には「称念寺」というお寺でした。称念寺と明智光秀斎藤義龍との戦いに敗れた明智光秀は、弘治2年(1556年)妻の煕子らとともに美濃からこの地に逃れてきました。それから10年間に渡って称念寺の近辺に住んでいた、という記録が残っています。光秀は称念寺の門前に寺子屋を開いて学問を教えつつ、称念寺に往来する僧らと交流を持っ
懐中温泉です、歴史シミュレーションその22加賀はまだ、完全な分国とは言えなかった。一揆の力が強く、土豪と寺と村の関係が複雑に絡み合っている。「加賀は、『一揆の国』と呼ばれて久しい」別の家臣が言う。「ここでは、土豪も、農民も、寺も、皆が集団として動き、『誰が上に立つか』が曖昧なまま、信長の前に立ちはだかってきました。上杉殿が加賀を『分国』としたく思し召すなら、この『集団の力』を、どこまで『公権力』へと整えるかが鍵となりましょう」謙信は少
乱世には四民は居場所がなくなる。それは上に立つ人の他、下の者達にはその指示が行き届かず、平和な時期ではその身分に従って深く慎みがなければならない。昔から開国した君主であっても、乱れから慎むのは簡単であるが、治まっているところから慎むのはかなり難しい。その乱れたときは朝から晩まで実が危険であり、何事も思い通りにいかないから、自然と慎むようになる。平和なときは朝夕安泰なうえに楽しみが数多くあるので、高貴な人たちは飽きてしまい身を慎まなくなる。乱世には君臣の上下関係なく、場合によっては君臣がいましめる
涌谷城(わくやじょう)は、宮城県涌谷町にある平山城で、別名「涌谷要害」とも呼ばれています。城が築かれたのは、江合川が丘陵にぶつかり流れを変える地点。自然の地形を巧みに利用した舌状台地の上だ。標高約20mほどの小高い丘は、川に囲まれた天然の要害であり、戦国から江戸初期にかけて重要な拠点として機能したというそうです。現在、城跡は「城山公園」として整備されていて、桜の名所として知られているんです。園内には、宮城県内で唯一現存する城郭遺
念彼観音力心願成就#南円堂#浄化#好転
徳川家康の生母緒川城址傳通院於大出生地令和8年7月11日(土)かつての緒川城は、尾張国知多郡小河(現在の東浦町緒川)に位置していました。場所・愛知県知多郡東浦町緒川古城
江戸時代には福知山藩の居城であった福知山城はもとは小笠原長清1162–1242の末裔とされる塩見頼勝が、室町時代後期に同地に築城した横山城という掻上城小笠原長清清和源氏の流れ甲斐源氏1180年、源頼朝の挙兵に従って鎌倉幕府の成立に尽力1221年の承久の乱で幕府方として戦い、幕府の勝利に貢献塩見頼勝丹波国の有力な地方武士明智光秀による丹波攻略で姿を消1579年明智光秀が丹波国を平定した時に福智山城と改名、大修築。そして江戸時代の城主、朽木氏により「福知山
懐中温泉です、歴史シミュレーションその6小田原を閉ざす関東各地で、上杉の旗が静かに増えていきます。沼田厩橋鉢形松山宇都宮結城里見佐竹甲斐武田その動きを見ながら、北条氏政は決断を迫られていました。「小田原から出て決戦するか。籠城するか」兵力は二万。かつて十一万の上杉軍と戦った経験はあるが、今度の上杉は、一国だけの軍ではない。甲斐下野上総常陸関東四方から、上杉とその同盟者が押し寄せつつある。「ここで野戦に出れば、
㊤淀城の五間堀跡(東から撮影)。左から南斜面、底、北斜面を経て外高嶋㊦調査前の復元図(京都市文化財保護課提供)。五間堀は17区から出土しています江戸時代初期の17世紀前半、京都防衛の拠点として交通の要衝に築かれた淀城の跡から、当時描かれた絵図で「五間堀(ごけんぼり)」と呼ばれた巨大な水路跡が出土しました。周囲の景観も含め、ほぼ絵図通りの位置でしたが、護岸が当初は想定されていた急斜面の法面を石垣で保護したものではなく、緩やかな勾配面にゴツゴツした石を張り付ける工法を採っていたことが確認さ
日本人は船に「○○丸」と「丸」を付ける。また城郭にも、「三の丸」「二の丸」「本丸」と「丸」を付ける。〈日本人は船名には「丸」と付けることが多い〉〈現在の大阪城を上から見た写真。秀吉が造らせた巨大な大坂城は大坂の陣で消失し、現在の大阪城は徳川氏が諸大名に造らせたが秀吉の大坂城よりはるかに小さい〉なぜだろうか?調べてみた。いくつか説があるようだ。まず、古代は自分の名前に「麿(まろ)」と付けることが多かったが、それが転じて「丸」になったという。「麿」は飼い犬や刀など大切なものへ
韮山城、伊勢宗瑞(後北条氏の初代・後の北条早雲)が、数年前に訪問した興国寺城から拠点を移した、終の居城。韮山と言えば、世界文化遺産への登録に含まれる韮山反射炉が知られていますが、城巡りの視点では反射炉より城郭です。本城は南北に連なるで連郭式平山城で、西側山麓に御屋敷が配置されていたとの事。御屋敷跡は、韮山高校等が設置されており、城址の面影は見当たりませんでした。その脇から本城を臨んだワンショットです。本城の東側山麓には城池と呼ばれる池となっており、水堀の役割を果たしていた模様です。
ゲームの中に神社を作った。ゲームの世界で、自分だけのお城を建てた。これらの精を尽くした創作物は、その所有者の死と共にどうなるのか。ゲームのデータバンク、サーバーの中の無数のID群の中に埋もれ、誰からも抽出されることもなく眠る化石になる。それは、もうこの世にあって無いようなもの。そういうものに、いずれなってゆく。死んだあとに懐かしむのだろうか。あぁ、あのとき夢中になって作ったな。われながら良い出来だ。その死後に見るデータの描写は、わたしたちが記憶を思い出しているような
◆◇-----------------◇◆2026年6月22日紛争死史観と災害死史観From岡田磨左英(中小企業診断士)◆◇-----------------◇◆三橋TVで面白いことを学びましたので、情報提供したいと思います。ユーラシア大陸の人たちは国境が海で遮られておらず、常に他国の侵略の危機にさらされているので、「紛争死史観」をもっている。しかし、日本は国境が海で遮られているので、他国からの侵略の危機というよりも、災害で死ぬことが多い。ゆえに「災害死史観」を持っているとのことで
愛媛県松山市のある松山城城山と呼ばれる四国最大の城郭には21棟にも及ぶ現存建築があります松山城天守は標高132mの勝山山頂にあり登山道の他ロープウェイを使って山頂まで行くことができますロープウェイの他にリフトがありますが今回は天候が悪く乗ることができませんでしたロープウェイが着く長者ヶ平からは本丸広場を通り天守へ向かいます天守を囲む本壇には一ノ門をはじめとした多くの門があり厳重な防備を肌で感じることができます天守では
現在、城郭フォトギャラリーにおいては、ひとつの城郭(またはリア攻めスポット)あたり1人30枚まで、という投稿枚数に関する制限があります。無制限で何枚でもどうぞ!と度量の大きいところをお見せしたいところではありますが、いかんせん物理的にサーバーの容量というものがありまして、ある程度制限させてもらっている状況です。同じく写真が投稿できるコーナーとしては、エリ限の中のスタンプラリースポットで3,000城に含まれないスポット(例:豊国神社)については、同制限が現在1人10枚までとな
竹井英文「特論1城郭研究を揺るがした「杉山城」問題とは」渡邊大門『戦国史の俗説を覆す』所収埼玉県にある杉山城。縄張り(城の間取りみたいなもの)から16世紀後半に後北条氏が築いたとされてきたが、発掘してみたら15世紀末から16世紀前半に山内上杉氏が築いたものだという事になった。ところが従来の16世紀後半築城説を唱える研究者らが発掘成果に納得せず、論争となっている問題。まあ遺物が出てしまった以上、15世紀末~16世紀説を覆すのは難しいと思うのだが・・・。いった
久米島で最も高いところにあるグスク、宇江城城跡(うえぐすくじょうあと)。このような高所にあっても、基壇や御庭があり、社殿があったと考えられているそうです。軍事的な拠点であると同時に、人々が集まり、儀礼を行う場でもあったのですね。そう想像すると、なかなかワクワクします。石積みの迫力、そして周囲を見渡す景観の素晴らしさ。まさしく城郭の風格。名残惜しいけれど、さて、降りて次へと向かいます。