ブログ記事47件
【問題】≪難問≫宇喜多氏の家臣・遠藤河内守が城代を務めたとされるのは、次のうちどの城か?【選択肢】庭瀬城乙子城常山城徳倉城【正解】徳倉城【解説】徳倉城(岡山県岡山市)は、松田氏の城であったが宇喜多氏に攻め落とされると、同氏の家臣である遠藤河内守秀清(浮田河内)が城代として入れられたという。
合戦イベントが終わって10日ほど経ったこともあり、ちょうど昨日あたりで物見効果がなくなり、城主争いの順位が3位表示に戻った人も多いのではないかと思います。そんな中、7月1日を迎えました。今日7月1日は、「城主争い」に特定順位の就任祝い制度が導入されてから、最初の貫高贈呈タイミングとなります(制度の詳細はこちらをご覧下さい)。見事、特定順位に該当したみなさん、おめでとうございます(≧∀≦)!!事前にあんまり想定していなかったんですが、一人で複数の城の特定順位を射止めた人
4月6日の重大ニュースで告知した、“「城主争い」に特定順位の就任祝い制度を導入”の件について、本日はその詳細をお届けしたいと思います(´▽`)ノまず最初に、現在の「城主争い」の仕組みを改めておさらいします。「城主争い」は、3,000城の各城の攻略範囲内で[城攻め]ボタンを押した回数を競うものです。月間1位になると「城主」、2位は「城代」、3位は「城番」の称号が得られ、自身のプロフィールに表示されます。また、「城主」になった方は、各城郭詳細画面の【歴代城主】にその名が刻まれます。
中川但見家老屋敷跡振り返りますと何段にもの石垣にもっとひきますと👇中川覚左衛門屋敷跡👆賄方跡に新設されているトイレの屋根作業小屋もありますね除草の道具やら保管するためですかね除草も長期間かかりそうですが車が上がってこれるのにはびっくりです城代屋敷跡への石段でしょう
【問題】元亀元年、武田家臣・内藤昌秀(昌豊)が城代に任じられたのは、次のうちどの城か?【選択肢】明知城野田城箕輪城鮫ヶ尾城【正解】箕輪城【解説】内藤昌秀は武田氏の重臣で、元亀元年(1570)に上野国箕輪城代に任じられた。箕輪城では、同国の国衆の取次や、後北条氏との交渉役を務めている。
おまえ!うごきわるいぞ!!さてはカロウだな!?過労がたたった家老だが何か?おらおらおらおらーうわ~ん狩られる~💦早く狩ろう💛殿中でござるー!電柱だが何か?また明日ねぇ~人気ブログランキングへお仕事のご依頼はこちらから
明智光秀は、織田信長の命をうけ丹波国征討戦を開始、これに敵対したのは赤井直正・波多野秀治連合軍で、塩見信房は赤井・波多野連合軍に加担していた。当初は赤井・波多野連合軍は「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれる戦術で明智光秀軍を撃退したが、赤井直正が天正6年(1578年)3月9日に病死、波多野秀治の居城八上城が翌天正7年(1579年)6月1日に落城、赤井直正の居城であった黒井城も同年8月9日に落城した。これより前に明智光秀は丹波国征討戦に際して金山城を築き、矢島刑部、朽木久兵衛、加上弥右衛門らが城代とな
〖コロナ終息祈願!!〗⚫もう少しで終息するハズ!!もう少しみんなで頑張りましょう!⚫*ブログリニューアル*お待たせしました!やっとリニューアルメンテナンス完了し今ここに復活出来た事を自己満足に感動しております!これからも楽しいブログ作りに励み、世の中を明るく(大袈裟)していきながら、城めぐりを楽しみながら、寺社仏閣を参拝しながらその楽しみを皆さんと共に共有して行きたいと思います!第六傾奇王紋次郎《日焼け止め》〘楽天市場売上No.1〙楽天1位!累計販売3万本日焼け
ここまでコメディやったとわね。トホホ🎦わしはチャンバラ好きで赤穂浪士の討ち入りは神聖な出来事やからコメディじゃいかんのよ🎦こんな吉本ムービーが好きなヤツもおるんやろうけどな🎦最後に大石内蔵助は「御家老」じゃなくて「御城代」の方が良くないか?🎦以上🎦決算!忠臣蔵Amazon(アマゾン)2,500円・・・・・・・・・・・・わしのバンド風鈴(デフレパード・トリビュートバンド)もよろしくお願いします!Facebookグループはコチラ↓https:/
寺の言い伝えによれば、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで総大将義元を失った今川軍は潰走、拠点の大高城で織田方の水野信元の使者からの義元討死の報を聞いた松平元康(徳川家康)は、追手を逃れて手勢18名とともに当寺に逃げ込んだ。しかしついに寺を囲んだ追撃の前に絶望した元康は、先祖の松平八代墓前で自害して果てる決意を固め、第13代住職登誉天室に告げた。しかし登誉は問答の末「厭離穢土欣求浄土」の教えを説いて諭した。これによって元康は、生き延びて天下を平定し、平和な世を築く決意を固めたという。元康は奮
【問題】天正3年、武田家臣・穴山信君がその城代に任じられたのは、次のうちどの城か?【選択肢】海津城箕輪城江尻城高遠城【正解】江尻城【解説】穴山信君(のぶただ、梅雪)は、もとは甲斐国河内地方を領していたが、天正3年(1575)に山県昌景の後任として、駿河国江尻城の城代に任じられている。
「城代に伝えて。あの役人裏で悪事を働いてる」町娘は高空から降りてきたカラスに言いつけた。飼い慣らし方は三歳のころ鷹匠から教った。鳥ならなんでも飼い慣らす人だ。誰も相手にせず、友達は鳥だけ。そんな男は悪事を暴くにも蛇骨が露出すれば煮えきらないということを教えられなかった。#twnovel高宮聡(@satalonade)さんをチェックしようhttps://twitter.com/satalonade?s=09高宮聡@satalonade「城代に伝えて。あの役人裏で悪事を働いてる」町娘は
間部詮勝寓居跡京都府京都市中京区榎木町江戸時代に活躍した大名で越前鯖江藩第7代藩主、老中首座。1804年、江戸・鯖江藩邸で生まれ。鯖江藩主となり、11代将軍・徳川家斉の側近として奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代などを歴任。南紀派の大老井伊直弼の下で再び老中となり、財政を担当する勝手御入用掛と外交を担当する外国御用取扱を兼務。朝廷から日米修好通商条約調印の勅許を得、京都所司代酒井忠義とともに一橋派や尊皇攘夷派を弾圧する安政の大獄に奔走。幕政の主導権を握ろうとして井伊直弼と対立し、
こんばんは。岡城址は、1185年築城とされ、その後多くの変遷を経て、近世の城郭として整えられてきました。明治になって城主は東京に移住し、岡城は大分県によって入札・払い下げが行われ、すべてが取り壊されたという。瀧廉太郎は、少年時代竹田市に住み、この岡城址に一人佇んでいたそうだ。荒城の月のモデルになったと云われる所以でしょう。城構入り口に来ました。そして大手門跡。石垣だけが残っています。この辺りは、家老や城代の屋敷があったところか。本丸跡に向かいます。本丸跡に着きま
映画「のぼうの城」で有名になった「忍城」です。埼玉県民ですので、気軽に行けるお城!!駐車場が少々狭いですが・・・周りにはたくさんあります!!この城は映画でやってしまうような、無謀な戦現場なんですよ~時は豊臣秀吉が小田原征伐作戦の真っただ中!!天正18年(1590年この城はたいして重要な城ではなく・・・成田氏が住んでいましたの!!城主は小田原城の戦のお手伝いで籠城中!!お留守番の城代「成田長親」さんがこのお城を守っていたんですが、そんな時!!これもまた
昨日の続きです。今回は最終回で本丸です。下図⑪から⑨に行く道です。休憩所にあった地図です。途中に倒木があり⑨の所に行けませんでした。去年の台風のために倒れたのでしょう。なので、八王子神社横の石段を上り本丸に行きました。下図⑥の辺りです。左側は八王子神社です。石段を上ります。山上部分拡大図です。上図⑨の辺りです。ここが本丸です。ここで記念写真を撮影しました。そんなに広くない平坦地です。奥の方に解説板がありました。下図⑩の辺りです
本日は鯖江市内の松阜神社で執り行われた「間部詮勝公顕彰祭」に参列しました。間部詮勝公は鯖江藩第7代藩主。歴代の鯖江藩主の中でも名君として知られています。1814年にわずか11歳で鯖江藩主となり、嚮陽渓(現在の西山公園)を拓き、また幕末に大阪城代や京都所司代、井伊直弼大老時代の老中など江戸幕府の要職を務めたことでも有名。そして、ペリーが率いる黒船が来航の時代の有名な狂歌に「泰平のねむりをさますじょうきせんたった四はいで夜も寝られず」がありますが、これは詮勝公が詠んだと
大阪城は悲劇の城・・豊臣家滅亡後、徳川宗家は、「大乱の原因」になるとして城主を置かず、幕府直轄とする。代々、大阪城代の預かりとした。幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かった。他に大坂城代を補佐する定番2名(京橋口定番・玉造口定番)も譜代大名から選ばれ、旗本で編制された幕府の常備軍である大番2組(東大番・西大番)に加勢する加番4名(山里加番・中小屋加番・青屋口加番・雁木坂加番)が大名から選ばれた。なお、大番と加番は1年交代制
6月8日(土)天正18年(1590年)石田三成率いる豊臣軍が行った水攻めでお馴染みの埼玉県は行田市にあります忍城頼りないながらも総大将とし忍城成田軍や領民をまとめあげた成田長親が忍城城代に就任して今年で429年を記念して開かれた「大将祭り」に行ってきたよ🎵ちょん髷作りコーナーではご当地ヒーローの埼玉戦士さいたぁマン「サイセーバー」のヒーローと一緒にちょん髷作りました(笑)大将祭りは沢山の方々が参加ちょん髷を付けたら・・・埼玉戦士さいたぁマンが「家臣にして下さい」とお
4/6(土)芦北にやって来た。佐敷城跡に行ってみると、桜が満開である。桜はいささか見飽きた感があり、むしろ咲き始めたつつじが珍しい。ローカルな話題ばかりであるにもかかわらず、「しらぬいのがね」を見ていただいてありがたく思う。佐敷城跡について少しばかり説明を加えておこう。佐敷城跡加藤清正の重臣加藤与左衛門重次がここの城代を務めた。築城は天正17年(1588)ごろであろう。文禄元年(1592)豊臣秀吉の命令で朝鮮半島に出陣(文禄の役)したすきをつかれ、薩摩の梅北
・・・・・・・っということで、4日目は結構盛り沢山で、広島城→福山城→岡山城→そして、岡山後楽園を見てしまいました。岡山駅の桃太郎です。↓駅から北に向かってひたすら歩くと城にたどり着けます。↓形の良い垂れ桜。黒い外板で別名「鵜城」と呼ばれています。↓いくつも城を見ていると、城が持つ個性を感じられるようになるものです。何て言うんでしょうね、岡山城からは「ゆとり」が感じられるのです。コセコセしたところがない、実にゆとりたっぷりってな雰囲気。宇喜多氏→小早川氏→池田氏と城代は変遷してい
・・・・・・・っということで、4日目は広島に来ています。お目当ては広島城。広島駅の観光案内で、城への行き方を聞きます。歩きでも25分くらい。観光客向けの循環バス「メープルバス」なら北口2番バス停から出ていて200円。1DayPassなら400円です。ただし9時が始発です。乗ってみて分かったんですが、完全にガイジン用でした。日本人はぼくだけという有り様。(^^ゞ城以外に原爆ドームとか、原爆資料館も行けますからお勧めです。しかもバス内はFreeWi-Fiが使えます。広島城で
・・・・・・・っということで、福島駅前のホテルに泊まりました。フロントでオススメの居酒屋を紹介してもらいましたが、ハズレ。まるで学生食堂並みで、刺身が発泡スチロールの皿で出てきたので、ビールを一本飲んで出ました。明けて今日は何処へ行こうかと散々迷いましたが、二本松城址へ行くことに。↓この裏が本丸だと思うでしょ?↓ところが、城門を通りすぎると何もない。広場があって、池のある庭園になります。犬を散歩していたおっさんに本丸を聞くと、山の頂上を指してあっちだと教えてくれました。歩いて20
来年の大河の出演者が発表されたね。高橋信秀、尾美頼芸、本木道山、伊藤義龍・・・勿体ないね。前半だけか。備中国・下津井城のつづきです。左から右へ進んでいます。二の丸下の段より、これより二の丸上の段へ討ち入ります。この石垣の上が二の丸上の段。高さは3mくらいかな。下にもう1、2段石垣が埋もれてそう。石垣の左の犬走り?を通り上の段へ。二の丸上の段(実際はそう呼んでたかどうかは知らん)。更に奥の石段を登れば本丸。先程の石垣の上部。下
所在地兵庫県洲本市炬口1特徴幕末に徳島藩筆頭家老で淡路洲本城代の稲田氏が築いた砲台。弓形の土塁が残り、外側には石垣も見られる。感想住宅街の中にあって場所は分かりにくいし案内もない。
【問題】≪難問≫二階堂旧臣で、後に佐竹氏に仕えた須田盛秀は、主家の秋田転封後の慶長8年、次のうちどの城の城代となったか?【選択肢】檜山城十狐城横手城染川城小野城唐松城【正解】横手城【解説】須田盛秀は元二階堂氏家臣で、伊達政宗に攻められて主家が滅ぶと、佐竹氏を頼った。佐竹氏が秋田へ転封となるとこれに従い、慶長8年(1603)に横手城代となった。
⚫連休明けの仕事も疲れますね(˟꒳˟)今週はボチボチペースでいきましょうε=(~Д~;)⚫年明け早々、公私共に大忙し(˟꒳˟)ブログ更新も一生懸命にやります!信用を失うのは早いが、取り戻すのはその数倍かかるぞ!と昔聞いた事がありますしね!たまに穴開けちゃっても温かい眼で見守ってやって下さい(ºΔº)〣↓♪こちらからどうぞ♪↓今年もやります!!大バーゲン♪リニューアルしました♪☆紋次郎SHOP☆入口↑こちらをクリック↑入口★1月のおすすめ商品★《!新春初売
女の子らしいです…母子共に元気ならば良いです…私の先祖は武士…城代家老の子孫…子供頃それこそ爺様が偉くて怖かったご飯の時も正座箸は当主がつけてから…「頂きます」当たり前厳しく叱られました…男子を産まないと肩身の狭い時代跡目は男子が継ぐ事になってました…ばっちゃんは身体弱くても…父親の兄弟は5人私の父親が長男ですから…当然厳しくてそんな子供の頃の感情も…しっかり胸の中にありました…私は三男ですから…有る意味どうでもよいポジションの時代ばっちゃんが亡くなってとて
【問題】北条家臣・笠原信為が城代を務めたのは、次のうちどの城郭か?【選択肢】松井田城小机城深大寺城御坂城【正解】小机城【解説】笠原信為は北条早雲(伊勢宗瑞)以来の重臣で、武蔵小机城代を務めた。弘治3年(1557)に没するまで小机衆をまとめて主家の版図拡大に貢献した。
阿波国は、蜂須賀家筆頭家老の「稲田家」が、由良の城代として入っていましたが、その後「洲本城」(兵庫県洲本市)を築いて引越しを行いました。「稲田家」は、大坂夏の陣での働きが顕著であったので、徳川家康から感謝状を貰い、幕命によって淡路城代として任じられました。その後は、徳島藩内でかなりの力を持つようになったことから、10代藩主の「蜂須賀重喜(しげよし)」による藩政改革の中で力が削がれますが、幕末まで淡路国を統治します。大天守台に建つ「模擬天守閣」(昭和3年築)「洲本城」は、三熊山に